2016年05月05日

第138回 谷中村(三)






文●ツルシカズヒコ



 今まで十年もの間、苦しみながらしがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう。

 村民の突きつめた気持ちに同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。

 といって、手を束(つか)ねてどうして見ていられよう?

 けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。

 しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。

 この自分の気持ちを少しでも慰めたい。

 せめて、その人たちとしばらくの間でもその惨めな生活をともにして、その人たちの苦しみを自分の苦しみとして、もし幾分でも慰められるものなら慰めたいというようなことを、渡辺はセンティメンタルな調子で語った。

noe000_banner01.jpg


 野枝もいつしか引き込まれて暗い気持ちに襲われ出した。

 しかし、野枝にはどうしても「手の出しようがない」ということが腑に落ちなかった。

 とにかく、幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。

 なぜに犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人たちの良心は、平気でそれを見逃せるのであろうか。

 手を出した結果がどうあろうと、伸ばせるだけは伸ばすべきものではあるまいか。

 その人たちの心持ちは「手の出しようがない」のではなく「手を出したってつまらない」というのであろう。

「ではもう、どうにも手の出しようはないというのですね。本当に採ってみるなんの手段もないのでしょうか?」

「まあそうですね、もうこの場合になっては、ちょっとどうすることもできませんね」

 しかし、結果はどうとしても、なんとかみんなの注意を引くことくらいできそうなものだ、と野枝は思った。

 こういうことを、いくら古い問題だからといって、知らぬ顔をしているのはひどい。

 野枝は渡辺の話に感ずるあきたらなさを考え詰めるほど、だんだんにある憤激と焦慮が身内に湧き上がってくるのを感じた。





「嶋田という人は、木下さんや逸見さんのところに、そのことで何か相談に来たんですか?」

 今まで黙っていた辻が突然に口を出した。

「ええ、まあそうなんです。しかし、村民もいまさら他からの救いをあてにしてるわけではないので、相談というのも、ほんの知らせかたがたの話に来たくらいのものなんですけれど、どうも話を聞いてみると実に惨めなもんです。実際どうにかなるもんなら――」

 渡辺政太郎 (まさたろう)はそう言って、どうにも手出しのできないことをもう一度述べてから、木下のろくに相手にもならない心持ちは、たぶん今、当局に他からいくら村民たちの決心を呑み込ませようとしても無駄だから、やはりどこまでも本人たちによって示されなければ、手応えはあるまいということ、そうした場合になれば、ひとりでに世間の問題にもなるだろうという考えだろうと説明した。

「僕もそう思いますね。実際もうなんとも仕方のない場合になってきているのですからねえ」
 
 辻は冷淡な調子で、もうそんな話は片づけようとするように言った。

 辻は渡辺の谷中村の話から話題を変えたいようだったが、その話に興奮させられた野枝は可哀想な村民たちの生活を知ろうとして、渡辺に根掘り葉掘り聞き始めた。





 彼らの生活は、野枝の想像も及ばない惨めさであった。

 わずかに小高くなった堤防のまわりの空地、自分たちの小屋のまわりなどを畑にして耕したり、川魚を獲って近くの町に売りに出たりしてようやくに暮らしていた。

 そればかりか、とてもそのくらいのことではどうすることもできないので、貯水池の工事の日傭いになって働いて、ようやく暮らしている人さえいた。

 その上にマッチひとつ買うにも、二里近くの道を行かなければならないような、人里離れたとこで、彼らの小屋の中は、真っ直ぐに立って歩くこともできないような窮屈な不完全なものであった。

「よくまあ、そんな暮らしを十年も続けてきたものですねえ。で、その他の、買収に応じて他へ立ち退いた人たちはどうなっているんです?」

 野枝の頭の中では渡辺が語る事実と、彼女の感情が、いくつもいくつもこんぐらがっていっぱいになった。

 しかし、そのもつれから起こってくる焦慮に追っかけられながらも、なお聞くだけのことは聞いてしまおうとして尋ねた。

「ええ、その人たちがまたやはり、お話にならないような難儀をしているのです。みんなが苦しみながら、でもまだ、谷中に残っているのは、ひとつはそのためでもあるんです。今いる人たちの間にもいったんは他へ行って、また戻って来た人などもあるんだそうです」





 買収に応じた人たちも、残った人たちに劣らぬ貧困と迫害の中に暮らさなければならなかった。

 最初はいいかげんな甘言に乗せられて、それぞれ移住して、ある者は広い未開の地をあてがわれて、そこを開墾し始めた。

 長い間、朝も晩も耕し、高い肥料をやっても、思うような耕地にはならなかった。

 収穫はなくわずかばかりの金はなくなる。

 人里遠い荒涼とした知らない土地に、彼らは寒さと飢えにひしひし迫られた。

 ある者は、たまたま住みよさそうなところに行っても、そこでは土着の人々から厳しい迫害を受けなければならなかった。

 彼らの頼りは、わずかな金であった。

 その金がなくなれば、どうすることもできなかった。

 土を耕すことより他には、なんの仕事も彼らは知らないのだ。

 耕そうにも土地はないし、金がなくなれば、彼らはその日からでも路頭に迷わねばならなかった。

 そうしたハメになって、ある者は再び惨めな村へ帰った。

 ある者はなんの当てもない漂浪者になって離散した。





 渡辺によって話される悲惨な事実は、いつまでも尽きなかった。

 ことに、貯水池についての利害の撞着や、買収を行うにあたっての多くの醜い事実、家屋の強制破壊の際の凄惨な幾多の悲劇、それらが渡辺の興奮した口調で話されるのを聞いているうちに、野枝もいつかその興奮の渦の中に巻き込まれていった。

 そして、それらの事実の中になんの罪もない、ただ善良な無知な百姓たちを惨苦に導く不条理がひとつひとつ、はっきりと見出されるのであった。

 ああ! ここにもこの不条理が無知と善良を虐げているのか。

 事実はよそごとでも、その不条理の横暴はよそごとではない。

 これをどう見逃せるのであろう?

 かつてその問題のために一身を捧げてもと、人々を熱中せしめたのも、ただその不条理の暴虐に対する憤激があればこそではあるまいか。

 それらの人はどういう気持ちで、その成り行きを見ているのであろう?

 渡辺は日が暮れてからも、長いこと話していた。


渡辺政太郎




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:28| 本文
ファン
検索
<< 2017年02月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
index(1)
本文(432)
プロフィール
さんの画像

1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
プロフィール

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:04時点)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,058から
(2017/3/4 02:09時点)

美は乱調にあり (英文版) ― Beauty in Disarray (タトルクラシックス )

中古価格
¥3,487から
(2017/3/4 02:14時点)

飾らず、偽らず、欺かず――管野須賀子と伊藤野枝

新品価格
¥2,268から
(2017/2/16 10:43時点)

自由それは私自身―評伝・伊藤野枝

中古価格
¥1,081から
(2017/2/9 02:00時点)

野枝さんをさがして―定本伊藤野枝全集 補遺・資料・解説

中古価格
¥3,913から
(2016/3/13 18:23時点)

定本 伊藤野枝全集〈第3巻〉評論・随筆・書簡2―『文明批評』以後

中古価格
¥18,616から
(2017/2/9 00:18時点)

伊藤野枝と代準介

新品価格
¥2,268から
(2016/3/13 20:05時点)

日録・大杉栄伝

新品価格
¥4,536から
(2016/3/13 20:13時点)

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,620から
(2016/3/13 20:24時点)

地震・憲兵・火事・巡査 (岩波文庫)

新品価格
¥821から
(2016/11/5 01:11時点)

海の歌う日―大杉栄・伊藤野枝へ--ルイズより

中古価格
¥1,619から
(2016/11/5 01:26時点)

大杉榮 自由への疾走 (岩波現代文庫)

中古価格
¥2から
(2017/2/9 00:00時点)

日本的風土をはみだした男―パリの大杉栄

中古価格
¥700から
(2017/2/9 00:12時点)

動揺 [CY大正浪漫コミックス1]

新品価格
¥1,080から
(2016/3/13 18:18時点)

裁縫女子 (サイホウジョシ)

新品価格
¥1,132から
(2017/2/9 18:20時点)

「週刊SPA!」黄金伝説 1988~1995 おたくの時代を作った男

新品価格
¥1,296から
(2016/3/13 20:26時点)