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2016年04月25日

第118回 義母






文●ツルシカズヒコ

 野枝は『新日本』一九一八(大正七)年十月号に「惑い」を寄稿している。

 創作のスタイルで書いているので仮名を使用しているが、「谷」は辻、「逸子」は野枝、「母親」は辻美津(ミツ)、乳飲み子である「子供」は一(まこと)である。

「谷が失職してからもう二年になる」とあるので、時の設定は一九一四(大正三)年である。

 辻一家はこの年(一九一四年)の夏に北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越したが、「逸子はつい二三ケ月前までゐた郊外の、殊更に澄み切つた秋の空気が、忘れられないのであつた」とあるので、季節は十月〜十一月ごろと推測できる。

「惑い」には家計のやりくりに苦しむ逸子に金銭援助をしてくれる「龍一」という人物が登場するが、堀切利高『野枝さんをさがして』は、この「龍一」のモデルは野枝の上野高女時代の恩師である西原和治だと推測している。

 以下、「惑い」に従って話を進めてみたい。

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 野枝は窓から真っ青な秋空を見上げながら、この日の朝に交わされた辻と義母・美津とのやりとりを思い浮かべた。

「本当にどうかしてもらわないじゃ困るよ、明日はぜひ神田の方に出かけなきゃならないんだからね」

 美津はそう言って、辻の生返事にしきりに念を押していた。

 といって、彼女が決して辻を当てにしているのではないことは、次の間で聞いている野枝にはよくわかっていた。

 そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思うと、野枝はなんとも言えない嫌な気持ちになった。

 月々の決まった入用の金にもこと欠いて苦しみ通しているのに、たとえわずか五円ばかりの金でも、きっと出来るという当ては、いつも馳け込む女学校時代の恩師である西原和治のところをおいて、他にはまるでなかった。

「なにも明日にかぎったことじゃないんだろう? 神田なら――」
 




 辻はいつものように、気のりのしない調子で相手になっていた。

「そんな呑気なこと言っちゃ困りますよ。もうこの間から行かなきゃならないはずのが、延び延びになってるんじゃないか。明日はどうしても行くはずにしてあるんですよ」

「金がないと行けないのかい?」

「あたり前ですよ、そんなこと」

「俺だって別に当てがあるわけじゃないんだから、きっと出来るかどうかわからないよ」

「それじゃ困るじゃないか。たまに頼むんだもの、なんとかしてくれたってよさそうなもんだね」

「だけどなにもそう、神田に行くのに大騒ぎすることはないじゃないか、たいした用があるんじゃなし、遊びに行くのに――」

「誰がわざわざ肩身の狭い思いをして、遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくら落ちぶれても、長いつき合いの人たちに義理を欠くようなことをするのは御免ですよ。第一、お前の恥になるじゃないか」

「俺は恥になろうと何しようと、ちっともかまわないよ。お母さんももういい加減に、あんな下らない交際は止めてしまっちゃどうだい?」

「余計なお世話だよ、そんなことまでお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分のことでも考えてみるがいいや。なんだい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たった一人の親を楽にさすことも知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめることばかりが能じゃないよ。いつまでもいつまでもブラブラしていて、世間の手前も恥ずかしい。私しゃお前のおかげでどこに行っても、肩身を狭めなきゃあならない。全体どんな了見でいるのか知らないが、親のことなんかどうなってもいいのかい。お母さんが行く先々で、お前のことをなんて言ってるか知ってるかい。そのうちにゃあ、少しはどうにかなると思うから口惜しい思いをしながらも耐えているものの――いつまでも呑気にしていられたんじゃあ、私の立つ瀬はありゃしない。よく考えて御覧、下らない奴からなんとかかんとか言われて、お前だってそれで済ましちゃいられまい。ワタシャそんな意気地なしには生みつけやしないよ」





「お母さんは生みつけない気でも、俺はこういう人間なんだよ。下らない奴の言うことなら、なにもいちいちと気にする必要はないじゃないか」

「下らない奴に言われないでも済むことを、いろいろ言われるから口惜しいんじゃないか。お前はかまわないだろうけれど、お母さんは嫌だよ」

「お母さんも随分わからないなあ。下らない、何も知らない奴に言われなくてもいいことを言われるのだから、何言われたってかまわないじゃないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきゃあいいじゃないか、すましておいでよ。だから下らない奴とのつき合いなんか、よせってんだよ」

「お前さんと私とは違うって言ってるじゃないか。お前さんはいくらでもすましておいでよ、ワタシャ嫌だよ」

「じゃ勝手にするさ」

「ああ、するとも。だからどうとも、もっと私の肩身の広いようにしておくれ」

「俺がそんなこと知るもんか」

「知らないとは言わさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前じゃないか」





「冗談言っちゃ困るよ。お母さんさえ馬鹿な真似をしなきゃあ、何ひとつ不自由しないでも済むんじゃないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふったんだって、お母さんが無茶をやったせいじゃないか!お母さんはもう若いときから、散々勝手な真似をして来たんじゃないか。俺だってたまにゃ、自由な体にでもならなくっちゃ、やり切れるもんか。世間の奴らが何を言いやがったって、俺は嫌な奴に頭を下げて少しばかりの金をもらうよりは、少々食うに困ったって、こうやってる方がいいんだから、そのつもりでいてくれ。楽をしよと思うなら、俺のことなんか当てにしないでいてもらいたい」

「まあ、本当に呆れた了見だね、お前はそれで済ます気でも、世間がそれじゃ通しませんよ。俺を当てにするなって、それじゃ誰を当てにすればいいんだい? 私ばかりじゃないよ。お前には子供もいるんですよ、子供はどうして育つんですよ、親や子供の面倒も見られないでどうするつもりなんだい。金もないくせに、一生懐手で通すなんてことができると思うのかねえ。そんな了見じゃ、これから先だってどんなひどい目に遇わされるか知れたもんじゃない。本当になんて言い草だい!年老(としと)った私がこれから先、幾年生き延びると思うの。明日にもどうかわからないものを捕へて、俺を当てにするななんてよく言えた。それじゃ、まるで死んでしまえって言うようなもんじゃないか。死ねならワタシャいつでも死んで見せるけれど、今までなんのために苦労して来たと思うのだい! まあそんなことを言っていいものかどうか、ようく考えてみるがいい」





 もう相手にはしないというように、辻は黙ってしまった。

 勢いこんだ美津の言葉もだんだんに愚痴っぽい調子になり、いつか震えるような涙声になって聞こえなくなった。

 野枝は黙って聞いていた。

 こうした機会に繰り返される義母の愚痴はいつも同じだった。

 野枝はそれを聞くのが堪らなく嫌だった。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:17| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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