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2021年11月08日

弐 【第三章 第六節 天孫の日向降臨に關する疑問に就いて 忍穂耳尊天降の説】まで 

          第三章 天孫降臨
           第四節 高天原の所在に關する諸説 
            私按、 天孫渡來説は國體を傷つくといふことに就きて からの續き


第三章 天孫降臨
 第五節 天孫降臨の經路
高天原の在所既に之を地表上に求むべく、而して天孫降臨の地が、假りに日、肥、豊三國の境上附近にありとすれば、果して如何なる徑路を取りて、天孫の此の地に來り給ひきと信ぜられたりしか。
是當然次に起るべき問題なりとす。

東亞民族南下の情勢
つらつら亞細亞東部に於ける民族南下の情勢を考ふるに、孔子の所謂未開勇猛なる北方の強者が、南方温暖なる好地を求め、黄河の流域なる中原地方に向って其の歩を進むるの事は、志那歴代の史の常に繰り返す所なり。
而して朝鮮半島に於ける民族の遷移、亦實に同一の經過を取れるもの多きを見る。
有史以前の事は考古學の撥達を俟って後決すべく、暫く架空の忖度を避く。
されど其の今日迄に世に知られたる石器時代遺物分布の系統を案ずるに、我が本州の西半、並びに四國、九州等の地方の遺蹟より發見せらるる所の或る種類の遺物は、南は臺灣より、北は朝鮮、滿洲にまでも連絡を有するものの如く解せらるるなり。
是れ蓋し嘗ては同一系統の民族によりて、是等の諸地方が時を同じうして、又は時を異にして、棲息せられたりしことあるを示せるものなるべし。
降りて志那に於ては、殷末に當り、箕子殷の遺民を率ゐて東の方朝鮮に來り、ここに古朝鮮國を建てたりと傳へらるる。
其の事必ずしも信ずべきにあらざらんも、亦以て朝鮮歴史の始原とすべからんか。
後久しくして燕人衞滿東に遷りて、箕氏を逐ひ、箕氏乃ち更に南に遷りて、韓國を建てたりといふ。
是れ今の全羅南北道の地方にして、所謂馬韓の地なりと稱するなり。
然らば朝鮮は、當初漢族によりて建てられたりとなすものの如し。
然れどもこは韓人が志那の文明に憧憬して、祖先を其の賢哲の名に附會せしものか、然らずば漢人が古賢哲箕子の末路を粉飾し、若くは己が民族の勢力を誇張して、唱へ出せし附會説にてもあるべく、韓族は蓋し、古書にて知り得る朝鮮半島最古の住民なるべし。
志那の古代に之を干夷といふ。
彼等もと廣く北部地方にまで蔓延せしが、西北より侵入せる漢族其の地の壓迫によりて、先づ南下するに至りしものなるべし。
かくて衞氏代りて朝鮮に王となりしが、後久しからずして漢の武帝の遠征に遇ひ、其の地遂に漢の郡縣となる。
馬韓の東に秦韓あり、弁辰と雜居す。
今の慶尚南北道の地方なり。
其の國人もと秦の亂を避けて流移し、馬韓王其の東界の地を割いて是に與ふ。
故に秦韓と名づくと稱せらる。
秦韓人漢の樂浪人を稱して阿殘といふ。
我等黨與の遺留者の義なり。
亦以て秦韓人が、自ら漢族たることを覺知せし證とすべし。
蓋し秦人韓の地に入りて、其の土人と混じ、而も自ら漢族を以て任ぜしものならん。
弁辰一に弁韓と稱す。
辰韓と雜居し、習俗頗る相類す。
其の之を分つは、蓋し土着韓人の要素多きに居りしものならんか。
叉別に扶餘族あり、遼東より南下して半島の中部以北に繁延す。
高句麗、沃沮、濊、貊等の族、皆之に屬するなり。
中にも高句麗の族最も勢力あり、遼東の地方より半島の北部に渉りて國を建つ。
其の族の南に遷りて馬韓の地に興れるもの、之れを百濟となす。
是れ實に朝鮮史の語れる古代民族遷移の大要なり。
固より事古代に屬し、載籍不備にして其の委曲を知るを得ざれども、大體に於て朝鮮半島に民族南下の事の屢々行はれたりし事は、到底之を否定すべからず。
而して其の南下して朝鮮半島に在りしもの、他の壓迫により、若くは自ら好地を求めて、更に是れより南下せんには、必ず我が群島國に來らざるべからず。


東亞民族の渡來
應~天皇の十四年秦始皇帝の後と稱する弓月君が、百二十縣の民を率ゐて百濟より我に歸化せりと傳ふる如きは、其の一例なり。
是れ所謂秦人(はたびと)にして、其の部族甚だ多く本邦各地に蕃延す。
彼等は其の自ら謂ふ如く、果して志那秦朝の遺民なりや否やは固より之を確知するに由なきも、ともかく一旦南下して朝鮮半島に居住せしものが、更に大擧して我が皇の徳を慕ひ、好地を求めて我に移民せりと傳ふるものなることは、毫も疑を容れざるなり。
ついで同天皇の二十年には、後漢の靈帝の後と稱する阿知使主(あちのおみ)及び都加使主(つかのおみ)の父子、十七縣の黨類を率いて帯方より來歸す。
帯方は半島に於ける漢人設置の郡なり。
蓋し彼等もと志那より來りて一旦此の地方に居を定め、後更に我に大擧移民せしものと解すべく、之を我が國に於て新漢人(いまきのあやびと)と稱す。
「新(いまき)」は「今來(いまきた)る」にして、新に海外より渡來せる漢族の義なり。
彼等多く大和高市郡に住し、奈良朝末に於てなほ郡民十の八九は此の族なりきといはる。
而して此の郡に嘗て今木(いまき)郡の名あり。
新漢人(いまきのあやびと)の郡の義なり。
其の今來の漢人の名稱に對しては、必ず舊く來れる漢人ありしことを認めざるべからず。
たとへその事古史に見る所なくとも、其の今來の語よく之を證す。
蓋し嘗て其の以前に於て別に漢族の渡來ありし事は、考古學の研究上よりも之を想像し得べきものあるなり。


銅鐸の發見と漢族の渡來
之を遺物遺蹟に徴するに、本邦往々にして銅鐸と稱する一種の銅器を土中より發見する事あり。
其の埋藏の範圍は、近畿を中心として殆ど其の左右數國の域に限られ、其の器は志那三代文化の影響を受けたるものと解すべく、其の製作意匠等、本邦に於て發見せらるる他の古代遺物と殆ど何等の關係を認むるを得ざるものなり。
蓋し太古志那の文化を享得せし一種の民族が、恐らく朝鮮半島より南下して、近畿を中心とせる四近の地方に蕃延し、此の銅器を造りて之を遺留せしものなりと解せざるべからず。
而して其の民族の蕃延の頗る盛なりし事は、銅鐸の發見數の意外に多きによりて察することを得べし。
之を我が古記に徴するに、新羅王子天日槍渡來の傳説あり。
事恐らく~代に屬し、當時未だ新羅國あるなし。
蓋し秦韓人の渡來を意味するものなるべし。
日槍の傳説亦近畿を中心として、其の四邊の地方に存す。
是れ或は古く渡來せる漢族の事蹟を傳ふる片鱗の遺れるものにして、先秦文明の影響を有すると認めらるる銅鐸の如きも、亦是等秦韓渡來の民族によりて、製作せられたるものなりと解せらるるなり。
或は素戔鳴尊の御子~等が、韓ク(からくに)の島より我が大八洲國に渡來し給ひきと傳へ、延喜式に韓國(からくに)の~を祭れる古社の少からず見ゆるが如きも、太古朝鮮より我に來りし民族の、各地に其の蹟を止めし事蹟を反映するものと解すべし。
ともかくも我が古代に於て、朝鮮半島より、又は朝鮮半島を經由して我に來れる民族の、其の數頗る多かりしことは、到底之を認めざるべからず。
而して天孫民族の渡來、亦實に是等と類似の經路を取りしものにはあらざるか。
これ啻に傍例を以て類推すべしと謂ふのみにあらず。
既に言へる如く、我が國語の系統が、朝鮮半島を經て滿洲方面の諸民族と同系の關係を有するが上に、更に其の祖先に關する傳説に於て、又風俗、習慣等に於て、相互の間に少からざる類似の點あるを認め得るによりてなり。

東亞民族の祖先に關する古傳説の類似
高句麗、百濟は共に扶餘族の國なり。
其の高句麗の英主好太王の碑に曰く、「惟昔鄒牟王之創基也、出自北夫餘。
天帝之子、母河伯女郎」と。
我が桓武天皇の御生母高野氏は百濟王家の出なり。
而して續日本紀に之を傳して曰く、「其遠祖都慕王者河伯之女感日精而所生」と。
ここに都慕(つも)王とは、好太王碑に所謂鄒牟王なり。
かくて其の鄒牟王の父が天帝なりといひ、日精なりといふもの、實に我が皇室が日~卽ち天照大~を以て御先祖なりと仰ぎ奉るに類し、彼に其の母を河伯の女なりといふは、我に海~の女なりといふと極めてよく相類せり。
ただ彼は大陸國なるが故に河伯となし、我は海洋國なるが故に海~と爲すの差あるのみ。
而して斯くの如きの傳説は、ひとり高句麗と百濟とのみならず、廣く傍近の諸國の諸民族間にも行はれたりしものの如し。


降臨地名の類似
天孫の降臨給ひし高千穂峯は、一に之を槵觸(くしふる)峯と稱す。
是が類似を朝鮮の開闢説に求むるに、六伽耶國祖の降れる地之を龜旨(きし)峯といふ。
龜旨は卽ちクシにして、フルは韓語村落の義なれば、龜旨(くしぶる)村卽ち加羅國祖降臨の傳説を有する地は、我が槵觸と類似の地名なりとすべし。
高千穂峯又一に添峯(そほりのたけ)ともいふ。
これ亦類似を朝鮮に於て見るを得るなり。
古事記に、素戔鳴尊の御子~なる大年~の子に韓~(からのかみ)、曾富理~(そほりのかみ)あるを云ふ。
百濟の國都泗沘を、亦一に所夫里(そほり)といふ。
共に「そほり」の名に縁あるが如し。
又新羅の都之を徐羅伐(そらぶる)とも、蘇伐(そぶる)ともいふ。
蘇伐は發音ソホリといふに近く、後世訛りて京城をソールといふ。
其の義蓋し王都を意味するなり。
果して然らば我が「そほり」の峯、亦王都の義にてもあるべし。
而して其の斯くの如きは、必ずしも我が古傳説の朝鮮半島に存すといふにあらざるべきも、彼に於て傳ふる所が、我が太古の傳説と相因縁する所あることは、之を認むるに難からざるなり。


風俗習俗の類似
又馬韓の俗、「瓔珠を以て財寶となし、或は以て衣を綴りて飾となし、或は以て首に懸け、耳に垂れ、金銀錦繍を以て珍となさず、五月種を下し訖るを以て鬼~を祭り、群聚歌舞飲酒して晝夜休むなく、其の舞は數十人俱に起ち、相隨ひて地を踏み、手足を低ミして、節奏に相應す。
鐸舞に似たるあり。
十月農功畢らば亦復かくの如し。
鬼~を信じ、國邑各一人を立てて主として天~を祭る。
之を天君と名づく。
又諸國各々別邑あり、之を名づけて蘇塗となす。
大木を立てて鈴皷を懸け、鬼~に事ふ」とあり。
是れ魏志に見ゆるところにして、亦頗る我が古代の俗に類するものあるを覺ゆ。
而して斯くの如きもの、必ずしも悉く暗合とのみ見るべからず。
是れ蓋し我が古俗に類するものが彼の地にも存して、朧氣ながら彼是相因縁するところあるを示すに似たり。
蓋し我が天孫民族と比較的關係深き民族が、古く朝鮮、滿洲等にも存在して、斯くも類似の言語、傳説、土俗等を傳へたるものなるべし。

ひとり言語、傳説、土俗の類似あるのみならず、我が古代の文献の上に於ても、朝鮮地方との關係を説けるもの亦少からざりしが如し。
素戔鳴尊及び其の御子~達の、彼の地に往來し給ひしことを云へるが如きは、蓋し其の傳説の一部分の、たまたま存するものなり。
而も中頃我と朝鮮と、政治上の關係中斷せしより、邦人其の關係を言ふを好まず、隨って記、紀亦多く之に及ばず、桓武天皇の御代に至りて、悉く是等の書類を焼かしめたりと傳へらる。
従って今其の徴證を古書の上に求むべきものは多からずとするも、太古彼此の間に深き因縁のありしことは、到底之を蔽ふべからざるものなるべし。
されば今暫く天孫降臨に關する古傳説を以て、古代の人士が我が天孫民族渡來の事實を語れるものなりと假定して、所謂高千穂の古傳説地の所在に基づき、其の我に來りし經路を地理上に考察せんに、ほぼ古人の思考せし所を推測するに足るものあるが如し。

朝鮮交通の兩路
按ずるに太古朝鮮半島より我に往來するに當りて、普通に經由せし道筋に、凡そ東西兩路ありしものの如し。
東路は則ち鬱陵島、隠岐島等を經るものにして、山陰、北陸方面に到り、西路は則ち對馬島、壹岐島、若しくは越前沖の島等を經るものにして、九州北部に達すべし。

海北道中
朝鮮半島古へ我に於て之を海北と稱す。
日本紀引く所の一書に、天照大~其の生み給へる市杵島姫(いちきしまひめ)命、田心姫(たごりひめ)命の湍津姫(たぎつひめ)命の三女~を以て、筑紫洲(つくしのくに)に天降らしめ、「汝三~道中に降り居まして、天孫を助け奉り、天孫の爲に祭られよ」と教へたまひきとあり。
或は曰く、「三女~を以て葦原ノ中ツ國の宇佐島に降り居(す)ましむ、今海北道中に在り、號して道主貴(みちぬしのむち)といふ」と。
海北道中とは卽ち朝鮮への交通の航路にして、前説に道中とあるもの亦是に同じ。
蓋し是等の三女~は、其の海北との航路を守り給ふが故に、道主貴(みちぬしのむち)の名はあるなり。


東路
而して其の宇佐島とは、古へに所謂于山國(うさんこく)にして、今の鬱陵島なるべく、卽ち東路の船懸りの島なり。
隠岐に知夫里島あり。
道觸の義にして、海路を守る道觸(ちぶり)~を祭れるより此の名を得たり。
此の隠岐より鬱陵島に航する、舟人の難事とせざるところ。
隠岐の島人は今も扁舟によりて、容易に此の島に往復するなり。
以て古代航海の狀を察すべし。
而も又一方に於て、其の市寸島姫命は筑前沖の島なる奥津宮(おきつみや)に鎭座し、田心姫命は大島なる中津宮に鎭座し、湍津姫命は海濱なる邊津宮に鎭座し、通じて宗像の~と呼ばれて、西路の道中を守護するの~として崇祭せらる。
(以上日本紀一書に依る。古事記には多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)は胸形の奥津宮に座し、市寸(いちき)島比賣命は胸形の中津宮に座し、田寸津比賣命は胸形の邊津宮に座しますとあり。何れか是なるを知らず。)
蓋し東路、西路、共に道中の~として此の三女~を祭りしものなるべし。
日本紀に素戔鳴尊が出雲より韓國に入り給へりといひ、又其の御子五十猛(いたける)~等の諸~が韓國より我に渡り給へりといふは、其の東路により給へりと傳へらるるものなり。


西路
又崇~天皇の末年に任那王子蘇那曷叱智(そなかしち)の我に來るや、始め穴門國(あなどのくに)に到りしに、國人伊都比古(いとつひこ)之を欺きて抑留せんとせしかば、去りて北海より出雲を經て、越前敦賀に着せりといふ。
ここに穴門とは海峡の義にして、其の國人を伊都都比古(いとつひこ)と稱するによれば、蓋し漢史に見ゆる伊都國、卽ち古へ云ふ伊覩縣(いとのあがた)にして、筑前怡土(いと)郡なるべし、此の地志摩郡との間にもと海峽を通じ、所謂穴門の國をなす。
後に兩者連續して、今日糸島郡と稱するなり。
然らば則ち蘇那曷叱智の來れる、其の西路によりしものなるべし。
~功皇后の征韓亦實に此の路に由り給ふ。
魏志に朝鮮なる帯方郡より、我が九州なる倭人國に通ずる順路を記するを見るに、狗邪韓(くやかん)國卽ち加羅國より、對馬に渡り、更に壹岐を經て、末廬(まつら)國卽ち肥前松浦に着し、それより伊都國、卽ち筑前怡土郡、奴國、卽ち古へに所謂儺縣(なのあがた)等に到るとなす。
亦西路なり。
天孫の群~を率ゐて大擧渡來し給ひしもの、其の如何なる路に由り給ひしか、固より今にして忖度すべき限りにあらねど、恐らくは亦西路によりて、肥前又は筑前の北岸に着し給ひきと信ぜられたりしものか。


高千穂への徑路
かくて更に南行筑後川の流域に出で、上流に向って豊後に入り、更に阿蘇より五箇瀬川(ごかせがわ)上流なる、今の高千穂地方に着き給ひしものと解すべきが如し。
ここに於て三代~都の地たりきと稱せらるる日向の海岸地方より之を觀れば、天孫は實に五箇瀬川上流の山地より、東南に向って平地に降り給ひしものとなる。
其の西北隅なる高千穂の山地に降臨の傳説を止むる、洵に故なきにあらざるなり。
而して其の經由する所、九住山あり、祖母山あり。
ここに於て天孫既に天より降り給へりとの傳説を口にするに於ては、各自其の地に於て最も天に近き高峯を求め、豊後方面の人々は其の山を九住卽ち槵觸(くしふる)の峯なりと傳へ、日向方面にありては之を祖母卽ち添(そほり)の山なりと唱ふるに至りしものならんか。
更に又之を霧島山なりとする説に就いて見れば、筑後より南下して球磨川の流域に出で、内地に進みて我が日向に入り給ひしものと解する、亦以て通ずべきなり。


第三章 天孫降臨
 第六節 天孫の日向降臨に關する疑問に就いて
天孫の日向降臨に關する疑問
天孫瓊瓊杵尊日向の高千穂峯に降臨し給ふ。
是れ邦人の古來堅く信じて子孫に語り傳へしところなし。
然らば天孫は、何が故に曩に大國主~をして避け奉らしめたる出雲地方、又は大國主~の一族が、御魂を鎭めて皇孫尊の近き護りたらしむべく契り置きしと傳へらるる、大和の地方に降り給はずして、遠く此の僻陬の地に~蹟を止め給ひしかの疑問を生ずべし。


之を説明せる諸説
是れ實に古來史家の説明に苦しみし所なり。
随って從來學者の之に關して下したる解説を見るに、孰れも不徹底の憾あるを免れず。
鴨祐之大八洲記に邊要を論じて曰く、「火瓊瓊杵尊日向の高千穂峯に天降り給ふ、これ邊要を守り給はんが爲なり。
運鴻荒に屬し、時草昧に鐘(あた)れり。
故に蒙以て正を養ひ、此の西偏に治すとは、正に此れを言へり。
古事記に曰く、邇邇藝(ににき)命竺紫ノ日向に天降り坐し、詔してのたまはく、此の地は韓國に向へりと、是を以て上世大宰府を置いて、以て邊寇を戌る所なり」と。
又長谷士清は日本書紀通證に於て此の説を補ひ、蓋し伊弉諾尊禊祓の蹤を追ひ、三女~降居の基に依り給へりとなす。
又久米邦武博士は、「神武帝以前の都は日向なり。
日本を統治するには甚西に偏したり。
又朝鮮を兼治するに筑紫の香椎港、又は出雲の杵築港等こそ相應の地なるべし。
何の故に日向には都せられしや、是を究明するも亦緊要の疑問なり。
古事記に瓊瓊杵尊の奠都を記して、『於是詔之、此地向韓國、眞來通笠沙之御前而、朝日之直刺國(たださすくに)、夕日之日照國也。故此地甚吉』とあれば、日向奠都の假初ならぬを知るべし。
『向韓國』は朝鮮渡海に便なるなり。
『夕日之日照』は常世國へ渡海に便なるなり。
三土聯合の説を得れば、史の文は自然に氷解する此の如し」とも言はれたり。
而も是等の諸説は、天孫が筑紫に降り給ひしことに就きてのみ、一往の説明となるべきものにして、大國主~をして國を避け奉しめたる事蹟の説明に關しては、之を没却せるものならざるべからず。
天孫西偏の地を重しとして、跡をここに垂れ給ひしは則ち可なり。
之が爲に一旦譲り奉らしめたる六合の中心の地を以て、之を蠻夷に委し、其の跳躍に任ずるの可ならざるを如何せん。
何事も古傳のままに説明せんとする本居宣長は、「皇孫命の此の山にしも降り着きませりし事は、書紀に、猿田彦命に、天鈿女復問曰、汝何處到耶、皇孫何處到耶。
對曰、天~之子則當到筑紫日向高千穂槵觸之峯云云。
果如先期皇孫則到筑紫日向高千穂槵觸之峯」とあれば、もとより然るべき所ありしことなるべし」と云ひて、何等の忖度をも之に加へんと試みざるなり。
洵に古書のままを信ぜんには、すべての事窺ひ知り難き~業なりとして、猥りに推測を加へざるを可とすべし。
然れども假に人事を以て之を解せんには、到底矛盾を免れざる古傳説其のものに就きて、先づ之が由來を一考するの要あるべし。
既に言へる如く、記紀載する所の古傳説は、主として帝國の起原を説き、皇室の由來を明かにすべく、統一せられ、整理せられたるものにして、語部(かたりべ)及び諸家の傳へしあらゆるものを、其のままに網羅せるにあらず。
古事記の序にも、「諸家賚らす所の帝紀及本辭既に正實に違ひ、多く虛僞を加ふ」と云ひ、「舊辭を討覈して、僞を削り實を定む」ともいへり。
以て古傳説の區々なりしを知るべし。
又日本紀は、材料の取捨に關して頗る愼重の態度を取り、其の~代巻には、本文以外多くの一書の記事を並存して、輕々しく其の異説を捨てず。
而もなほ其の採録せるものの外に、異聞舊辭の後に存するもの少なからず。
嘗て世に傳へられたりし所の、甚だ多かりしを疑はざるなり。
されば古への國史編纂者が、區々たりし古傳説を統一整理するに當り、捨てて取らざりしものの甚だ多かるべきは勿論、其の採録せるものの中にも、時に首尾一貫を缺き、彼是矛盾するが如き説の並存するものあるは、洵に已む能はざりしなり。
随って是が研究に從事するもの、徒らに其の章句の末に拘泥する事なく、其の大體に就いて之を世界の傍例に徴し、更に我が遺物、遺跡の上に考へて、是が大要を求めんには、ほぼ太古の事情を髣髴すべきものなきにあらず。
蓋し我が天孫民族の渡來は、ひとり我が日向に於てのみ傳へたりしにはあらず、叉前後ただ一囘のみにてもあらざりしなり。
今之を僅に存する記、紀の古傳説のみに就いて見るも、天孫民族の渡來が前後數囘に行はれたりけんことは、之を想像するに難からず。
而して我が高千穂降臨の事蹟は、實に其の中の一に居るものならざるべからず。
ただ我が天孫瓊瓊杵尊は、天ツ~の正しき御裔(みすゑ)として、其の依ざしによりて、大八洲國を安國と治ろしめすべき使命を帯び給へりと傳へらるるを特異とするのみ。


饒速日命の天降
日本紀を案ずるに、~武天皇の東征に先だちて既に大和に降り、土人長髓彦等を從へ給へる饒速日命あり。
是れ實に亦天ツ~の御子にてますと稱せらるる。
舊事本紀には之を以て、瓊瓊杵尊の御兄なりとし、降臨の狀を記すること頗る詳なり。
天皇の大和に入り給ふや。
長髓彦人をして天皇に奏せして曰く、「嘗て天ツ~の子あり、天の磐船に乗りて天より降り止まる。
號して櫛玉饒速日命と曰ふ。
是が我が妹三炊屋媛(みかしやひめ)を娶りて遂に兒息あり、名を可美眞手命(うましまでのみこと)と曰ふ。
故に吾れ饒速日命を君となして仕へまつる。
夫れ天ツ~の子豈に兩種あらん。
いかんぞ更に天ツ~の子と稱して、以て人の地を奪はんや。
吾が心に之を推すに、未だ必ずしも信と爲さず」と。
天皇答へてのたまはく、「天ツ~の子亦多し。
汝が君と爲す所是れ實に天ツ~の子ならば、必ず表物(しるしもの)あらん、相示すべし」と。
長髓彦卽ち饒速日命の天蹄猪(あめのはばや)一隻、及び歩靭(かちゆき)を取りて天皇に示し奉る。
天皇覧てのたまはく、「事虛ならず」と。
ここに饒速日命は、實に~武天皇より、同じく天ツ~の御子にますと認められたることを謂へるなり。
然らば則ち天ツ~の裔の我が國土に降れる、必ずしも高千穂降臨の瓊瓊杵尊のみにてましきと謂ふべからず。
而して其の大和は、後に其の瓊瓊杵尊の御會孫とます~武天皇の奠都し給ふところなり。
嘗て大國主~が一族の御魂を鎭めて、皇孫尊の近き護りたらしむべく定め給ひし幽契は、ここに實現を見るに至れるなり。

天穂日命の天降
大國主~の國を避け奉りし出雲地方には、夙に忍穂耳尊の御弟~とます天穂日命の天降あり。
大國主~を和(なご)め給ひて、其の後裔は出雲國造家となり、一族遠く東國地方にまで繁延せりと傳へらる。
されば其の勢威頗る盛にして、一時は大和朝廷と對立する程の狀態となり、古事記に出雲建(いずもたける)の名を以て呼ばるるまでに至りき。
而も終には大和朝廷の武勇者たる日本建(やまとたける)の威武に服して、其の國は長しへに皇孫尊の統治の下に歸し、武甕槌、經津主二~の使命は、ここに完全に實現せられたり。

天津彦根命の後裔
天穂日命と同時に生れ出でませる天津彦根命は、古事記に、河内國造、山代國造等の祖なりとありて、亦何時の頃にか天降り給ひ、畿内地方に迹を垂れ給ひたるものの如し。

天火明命の天降
又瓊瓊杵尊の御兄~にてますと傳へらるる天火明命は、日本紀一書に尾張連等の遠祖なりと注せらるる。
蓋し瓊瓊杵尊のとは異りたる經路によりて、夙に我が國土に降り給へりとするものなるべし。
而して舊事本紀は實に饒速日命を以て、此の~と同~なりと傳ふるなり。
而も日本紀本文の説によれば、火明命は瓊瓊杵尊の御子にして、彦火火出見尊の御同胞にますといふ。
蓋し古事記に隼人の祖なりとある火照命(ほでりのみこと)と混同せるものか。
或は火明命卽ち火照命にして、一方には火照命の名を以て隼人の祖と傳へらるると共に、他方には火明命として、尾張連等の祖として信ぜられたるものにてもあるべし。
火照命は海幸彦なりと稱せられ、火明命の後裔に海部(あまべ)氏あるも縁なきにあらざるなり。


天照大~の天降
尚更に言はば、日本紀垂仁天皇の條には、伊勢~宮の地を以て、天照大~の始めて天より降りますの處なりとも傳ふるなり。
天照大~天降の御事、他に傳ふる所なし。
伊勢の~宮は、云ふまでもなく垂仁天皇の御代に於て、皇女倭姫命が八咫鏡を奉じて、天照大~を祭り奉れる所なりと傳へらるる。
而してここに大~が始めて天より降ります所なりとの記事あるは、古へ別にさる傳へもありしものならずやと解せらる。

忍穂耳尊天降の説
忍穂耳尊は初め此の國に降り給ふべく、天ツ~の定め給ひし御子にてまししを、其の未だ降り給はざる中に御子瓊瓊杵尊生れ給ひたれば、代りて此の~を降し給ひ、御身づからは高天原に留り給ひきと傳へらる。
而も豊前の香春嶽には、古く此の~を祭り奉れる社ありて、古風土記には、其の香原の~を以て、新羅より渡り給へる~にてますことを傳ふるなり。
ここに於て學説或は、此の~亦嘗て新羅より我が國土に降臨し給ひしことの古傳の存在を信ぜんとす。
ともかくも天ツ~の裔の我が國土に降臨する、必ずや前後數囘に行われたりしは疑を容れざるなり。
同じく漢人の文明を享得せる民族が、史前史後に於て、數囘に我に移民せることある、亦以て類推の料たるべし。


弐 【第三章 第六節 天孫の日向降臨に關する疑問に就いて 忍穂耳尊天降の説】まで 



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