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2021年09月22日

第一編 第三章 第二節 私按一、天孫降臨の意義

宮崎には多くの傳説がある。
古事記、日本書紀の宮崎を舞台にした天皇家の先祖に関する記述を裏付ける状況証拠が多くある。
伝説の中にはどう好意的に考えても後世の作り話と判断すべきものもあるのだが。
以前、宮崎をテーマにしたウェブサイトを運営していた。
その時に集めた書籍の中に「日向國史」がある。
文學博士の喜田貞吉が著した。


日向國史が喜田君によりて公表せらるるに方り、自分は最初より之に関係を有するを以て、同君の嘱に応じ、一言を寄せて其の来歴を叙べ、併せて序に代ふる所あらんとす。
回顧すれば、明治四十四年の三月と覚ゆ、自分が宮崎県知事を拝命せる際、赴任に先立ち、参内して 天機並 御機嫌を奏伺したりしが、退出の際香川皇后宮太夫にも新任の挨拶をなせるに、同太夫は、其の時容を正して、「宮崎県知事とあらば是非御聞き申したい事があります。
それは霊峯と知られた高千穂の峯は高い山でありますか、低い山でありますか。」と、いとも熱心に問はれたり。もとより突然のことなれば、其の場は、「赴任の後委曲を調査して何づれ申上げん。」とて、此の対話は簡単に打切りたるが、自分の心琴には一種の高鳴を覚えざるを得ざりき。
実は、皇祖発祥の聖地たる宮崎県は、自分も一度任官したき希望を有せし處にして、曾って一木内務次官にまで其の旨を申出でたることありしに、このたび宿望を達し、將に任に赴かんとして心躁の新なるに際し、場所は宮中、しかも純情その儘なる香川老太夫より、靈境に就いて話しかけられては、遠く神代に心の馳するを禁ぜざりしなり。 後略

出版された当時の製紙技術は現在より相当に劣るのものであっただろうし、また印刷技術もインクの質も同じ事情があっただろう。
今その本の状態は相当に「朽ちている」状態である。
なので、文字が消えていたり霞んでいたりして所々読めない部分もあり、読むには中々苦労がある。
文章は極めて格調が高い。
漢字は現代の画数を減らした簡略漢字ではない。
それをそのままにネット媒体に乗せたいと以前から考えていた。


日向國史 上
  第一編 太古史
第一章 國土の發生に關する古傳説
日向の國名
日向は九州島の東南隅にありて、西と北とに山を負ひ、東と南とは海に臨み、直ちに日の出づる方に向ふ。故に日向の名ありと稱せらるる。
筑紫島の産成
傳へ言ふ。太古伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神、此の漂へる國を修理固(つくりかため)成(な)せとの天神(あまつかみ)の命を奉じて、高天原より降り、我が大八洲(おおやしま)の諸島を生み給ふ。
中に筑紫島(つくしのしま)あり。
筑紫島は即ち九州島なり。
此の島身一つにして面四つあり。
筑紫國を白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊國(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を速日別(はやひわけ)と謂ひ、日向國を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)と謂ひ、熊襲國を建日別(たけひわけ)と謂ふと。
或は言ふ。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)と謂ひ、熊曾國を建日別と謂ふと。是れ我が日向の名の古書に見ゆる初なり。

日向の名に關する故事
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。

筑紫四面の疑問
筑紫四面の事は古事記及び舊事本紀に見ゆ。
古事記諸本異同あり。
所謂筑紫等の四面を解して、前記の如く、或は筑紫、豊、肥、日向、熊襲の五國となすものあり。
未だ其の是非を詳にせず。
而も四面にして五國ありと謂ふは、其の孰れかに於て誤謬あるを承認せざるべからず。
ここに於てか本居宣長は、古訓古事記を著はして四國説を採用し、平田篤胤は五國説に従ひて、古史成文に「面五つ」と改めたり。
古訓本の四國説によれば、日向の北部半國ばかりは、もとは肥の國の中なりしを、やや後に分れて一國となれるなりと解し、其の南半を以て大隅及び薩摩と共に、もと熊襲の一部を成したりとするものの如し。
然れども、肥前、肥後と共に、日向の北部を通じて筑紫島の一面とせんは、もとより地理の實際に副はざるなり。
又古史成文の五國説に従ふも、日向の南半と薩、隅二國とを以て熊襲國となし、後の日向の北半のみを以て、日向の一國なりきと解するなり。
而も日向を二分することの、地理自然の状態に副はざるは前説と同一なるのみならず、古へ熊襲族居住の地と傳へられたりし境域が、必ずしも後の日向南部以南に限られざることに於て、此の兩説ともに妥當なりと謂ふべからず。
固より國土産成の事如きは、其の説幽玄にして、強ひて人事を以て論ずるを要せず。
ただ古事記が成りし奈良朝初に於て、我等の先祖が語部(かたりべ)の傳へによりて、なほ斯くの如きの説を有したりしを信ずるを以て満足せんのみ。

隼人族と熊襲國                           
今奈良朝初期の形勢を按ずるに、大隅、薩摩の両國地方には、當時異族として認められたりし隼人族ここに占據したるの事實あり。
養老年中に薩摩、大隅二國の隼人亂を為し、皇軍の大征討を要するに至れるなり。
後人或は此の際の叛亂を以て、日向、大隅二國の隼人の所為なりきと云ひ、當時なほ我が日向にも、隼人族として認められたりし民族の住居せしことを傳へたり。
更に遡りては景行天皇及び日本武尊の熊襲御征討が、主として日向の域内に於て行はれたりしが如く傳へらるるあり。
されば其の日向の域を以て、大隅、薩摩と共に嘗って異民族占據の堺なりとし、隼人即ち熊襲なりとの見解のもとに、之を以て熊襲國と稱したりとなさんは、頗る其の理由あるに似たり。

日向は筑紫の四面の一
而も又一方より之を觀れば、日向は其の域山によりて他の地方と隔離し、殊に古く神祖發祥、天孫降臨の傳説を有する地方なれば、之を以て異族熊襲の國なりと謂はんは、妥當ならざるの感なき能わず。
況や日向國の名は古くより存し、歴史時代に於て現實に隼人族の占據せし薩、隅二國は、却って行政上漠然と其の域内に含まれたりしの事實すらあるをや。
筑紫島内の諸國の一として、日向の名は到底之を逸すべからざるなり。
而も我が古傳説は、明かに我が南陬に於て太古異族占據の國ありし事を傳ふるなり。
ここに於て奈良朝初の人士、所謂大八洲國(おおやしまぐに)の島々を數ふるに當り、九州島に於て熟知の筑紫、豊、肥、日向の四國ありとし、其の四國以外に、別に漠然と古傳説によりて、此の異族の國の存在を認めんは、亦其の理由なきにあらず。

大八洲の説
元來大八洲國とは群島國の義にして、必ずしも八個の大島ありとのみ、狭義に解釋すべきにあらず。
「や」は數の多きを謂ふなり。
然るに奈良朝初の人士此の義に暗く、「や」の假字として用ひられたる「八」なる文字の意義に泥みて、強ひて著名なる八島を數へんとせしが為に、遂には日本紀の本文及び其の引用せる多數の一書に見るが如く、種々雜多の異りたる説を生ずるに至りしなり。
古事記には、淡路、四國、隠岐、九州、壹岐,對馬、佐渡及び本州の八大島を、大八洲と數へて、吉備兒島(きびのこじま)、小豆島(あづきのしま)、大島、女島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、及び兩兒島(ふたごじま)を、其の以外に置き、又日本紀本文には、本州、四國、九州、隠岐、佐渡、越洲(こしのしま)、大洲(おほしま)及び吉備子洲(きびのこじま)を以て大八洲と數へ、淡路を別に置き、其の以外の對馬、壹岐、並びに諸々の小島は、諾冉二尊の生み給へるにはあらずして、潮沫(しほのあわ)の自然に凝りて成れるものなりとなせるが如き、皆此の思想に基づけるなり。
其の他、日本紀引用の多數の一書、又それぞれに大八洲の島々に就きて、異なりたる數へ方を爲せるなり。
斯くの如きは畢竟數多の島嶼の中より、特に八個の大島を擇ばんとせし結果にして、固より是れ古意にあらず。
本來の古傳説には、必ずしも八個の大島とのみは限らず、我が群島悉く大八洲の中なりしものなるべし。
されば蝦夷の國を之に數ふるも可なり。

熊襲の國
熊襲の國を之に數ふるも亦不可なきなり。
論者或は謂はん、熊襲國は筑紫島以外別に島を成すにあらず、之を一島と數ふべきにあらずと。
復謂はん、熊襲は古事記之を特に國といひ、島とはいはざるを如何にと、然れども古代都人士の僻遠の地理に暗き、必ずしも其の實地を踏査せしにあらねば、深く是が言辭の末に拘泥すべきにあらず。
彼の越洲(こしのしま)の如き、名義は越(こし)人即ちアイヌ族占據の地の謂にして、漠然と今の北陸兩羽地方を指せしものなるべく、固より本州の一部にして、別に一島を成すにあらずと雖、而も其の地がもと越人(こしびと)占據の地方として、自ら別個の國の如く考へられたりしかば、之を特に越ノ洲として、日本紀には大八洲の一にしも數ふるなり。
而して熊襲の場合亦之を以て類推すべからずや。
尚言はば、當時薩南海中にも島嶼の存在することは、之を熟知したるべければ、之を以て熊襲占據の島と想像し、之を別個に數ふること、亦これなしと謂ふべからず。
其の之を國と云ひて島と謂はざるは、上に筑紫四國の名を擧げたるによりて紛れたるものか、或は熊襲征討の古傳説によりて、熊襲國の名人口に膾炙せしより生ぜし誤りならんも知るべからず。

舊事本紀の筑紫四面に關する記事
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
筑紫島身一つにして面四つあり、面毎に名あり。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を速日別と謂ひ、日向國を豊久士比泥別と謂ふ。
次に熊襲国を建日別と謂ふ一に謂ふ佐渡島と
とあり。
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。

舊事本紀の價値
元來舊事本記は僞書として、従來多くの學者の排斥する所なれども、そは本書を以て聖徳太子御撰の書なりと稱するが為にして、其の記事の内容、必ずしも悉く捨つべきもののみにあらず。
本書はもと日本紀、古事記、其の他の古書の章句を抄録して、編を成せるものなれば、中には重複もあり、矛盾もあり、一編の著書として整備せるものにはあらず。
随って其の記事が抄録せられたる原書以上に、史料としての價値なきは勿論なれども、而も編次は少なくも平安朝當時にして、恐らくは延喜以前にありきと認めらるるほどの古書なれば、中には其の抄録せられたる原本の、全く後世に失はれてもはや見るべからざるもの少なからず。
又其の存するものと雖、本書によりて後に傳冩の失より生じたる魯魚焉馬の誤謬を訂正すべきものなきにあらず。
而して此の熊襲國の記事の如き、亦實に其の一例とすべきに似たり。
即ち當初の古事記は、舊事本紀之を轉載するが如く、漠然九州東南部の地方を日向の域とし、筑紫筑前筑後、豊豊前豊後、肥肥前肥後、の三國とともに之を筑紫四國と數へ、別に熊襲島を其の次に置きしものにして、所謂大八洲中にはもと佐渡を脱せしものにてはあらざりしか。
されど日本紀編纂せられて、此の書世間に流布し、景行天皇西征の際の熊襲の位置が、日向の南部に當るが如く世人に解せらるるに至りてより、後には日向を以て熊襲國と同一視し、遂に此の誤謬を生ずるに至りしにてもあるべし。
今古事記の諸本を取りて之を閲するに、本居宣長古訓古事記に於て、筑紫四面に日向國を除くの説を採りてより、世人多く是に見慣れたれども、寛永の版本、渡會延佳の〇頭古事記を始めとして、元々集所引古事記等、皆日向を四面の一に數へ、其の説もと一般に行はれたりしを知る。
然るに古事記傳には、
此ノ處舊印本及延佳本、又一本などには、肥國謂二速日別一、日向國謂二豊久士比泥別一と作(あ)り。
されど如此(かく)ては、上に有二面四一云々とある數に合はざれば、日向ノ國の無き方ぞ古本なるべき。
然るに右の如く日向ノ國の加はりたる本は、舊事紀に依って後人のさかしらに改めたるものとこそ思はれる。
           
と云ひて、上の「面四つ」といふことに重きを置き、又舊事本紀の記事を引きて、
舊事紀に右の如くあるなり。
其は此の記を取って記すとて、日向のなきを疑ひて、彼の日向日とある亦ノ名を其(それ)として、下の日ノ字をを國に改め、其の下に謂ノ字を補ひて、豊久士比泥別を其の日向ノ國の亦ノ名とし、又然為(しかす)る時は、肥ノ國の亦ノ名建一字になりて足(たら)ざる故に、次の熊襲の國の亦ノ名に效(なら)ひて、日別ケの二字を加へ、又さては熊襲のと全ク同じき故に、建を速に改めつるものなり。
凡て彼の書はかくさまのさかしらいと多し。
されど上の有二面四一とあるには心づかで、其(それ)をば改めずて、偽りの顕はれたるぞをかしき。
然るを後ノ人此ノ舊事紀のさかしらなる事を得曉らで、日向ノ國の有(ある)を宜(うべ)なりとして、遂に此ノ記をさへに然(しか)改めつる、其の本の世には流布れるなりけり。
 
とて、甚しき臆説をさへ加へたり。
されど熊襲を舊事紀の如く筑紫四面の外に置かんには、面四つといふに何等の支障を生ずべからず。
況や肥の國の別名を建日向日豊久士比泥別としては、此の名のみ特に長くて、他と權衡を失するのみならず、一方には日向の名を東方に向ふの義と解しながら、主として西海に面する肥の國の別名に、日向日の語あることも如何と思はれ、又西肥の域より九州脊梁山脈を越えて、遠く東海岸にまで渉り、之を通じて肥國として、筑紫四面の一に置かんこと、地理上到底首肯すべからざるあるをや。
本居氏の説蓋し千慮の一失なるべし。

熊襲國の位置に關する思想
熊襲のことは後に詳説すべきも、もと是れ或る民族の名稱にして、定まりたる一國の名にあらず。
又日本紀の傳ふる所によるも、其の域必ずしも日向、大隅、薩摩の地方と一致すべきにあらざるなり。
仲哀天皇朝の熊襲征討が、筑前香椎宮を根據として行はれ、其の陣中賊矢に當り給へりと言はるる同天皇が、痛身(いたづき)の翌日香椎宮にて崩じ給ひきと傳へらるるが如き、又其の後神功皇后神教のままに、吉備臣の祖鴨別を遣して討たしめ給ひし熊襲國が、浹辰(しばらく)を経ずして自ら服せりと稱せらるるが如き、又皇后自ら兵を用ひ給ひし範圍が、筑前、筑後の外に出でたりとは見えざるが如き、偶々(たまたま)以て古への熊襲の國が、筑前香椎を距る甚だしく遠からざりし地方にも存したりと信ぜられたりし證とすべし。
されば日隅薩地方と熊襲とを一國とし、之を以て筑紫四面の一とせんは、之を孰れの方面より論ずるも到底容るべきにあらざるなり。
古事記に所謂熊襲國は、實は古傳説に存する異族熊襲占據の國を、漠然と然か呼稱せるものにして、天孫降臨三代神都の地と信ぜられたる日向國と同視すべきにあらざるなり。
後に隼人の國として認められたる薩、隅二國が、行政上漠然日向の域内に編入せられたりしは當時の地方に於ける異民族が多く夙に邦人に同化し、是と融合して其の蹟を邦人中に没せし後の事にして、なほ平安朝に於て本州北端の蝦夷の國が、漠然陸奥、出羽の中なりと認められたりしと同一の現象なりとすべし。
されば此の形勢を以て、必ずしも太古の傳説を律すべきにあらず。
奥羽の南部も嘗ては蝦夷の國たり。更に遡りては關東地方も、又其の西の地方も、同じく蝦夷の國たりし時代のありしことを考へ合すべきなり。

豊久士比泥別の名と日向
更に思ふに「豊久士比泥別(とよくしひねわけ)」の名、既に日向に縁故あるが如し。
「豊」は美稱にして「別」は男子の別稱なれば、暫く其の名より之を除き、其の中間なる「久士比泥」の語に就いて考ふるに、其の音蓋しクシフル、又はクシヒといふに近し。
天孫降臨の地を日向の高千穂の久士布流(くしふる)の嶽といひ、或は槵日(くしひ)の高千穂の峰と云ふ。
國音往々良好と奈良と相轉ず。
日本紀に武夷鳥(たけひなとり)命とある神を、古事記に武比良鳥(たけひらとり)命と云ひ、越前の角賀(つぬが)を後世ツルガ(敦賀)と呼び當國財部(たからべ)を後にタカナベ(高鍋)と稱し、周防の束荷(つかに)をツカリと呼び、信濃の小谷(おだに)をヲダリといひ、近江の男鬼(ををに)をヲヲリと讀み、又「稲荷」と書きてイナリと訓ずるの類皆是なり。クシヒネとクシフルと、其の語源を一にすと解する、其の理由なしと謂ふべからず。
而して其のクシヒと謂ふは、或は其の末音を略したるものにてもあるべきか。
果して然らば、豊久士比泥別の名を以て、肥國の別名なりとせんよりは、之を日向の別名なりとするを當れりとせん。
此の事亦以て、筑紫四国を筑、豊、肥、日の四国となす古傳説の傍證となすべからんか。
而もなほ疑ひなきにあらず。
試みに記して後の考を俟たん。
若し夫れ熊襲の事、並びに其の隼人との關係に就きては、更に第二編第三章景行天皇西征の條以下の諸章に詳説すべし。

第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
  第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現

黄泉國
伊弉諾、伊弉冉の二尊は、大八洲國を始めとして、多くの神々を生み給ひしが、最後に火の神なる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生み給ふ事によりて、伊弉冉尊火傷して崩じ給ひ、黄泉國(よもつぐに)に入り給ひき。
黄泉國は即ち根國(ねのくに)なり。
伊弉諾尊之を悲しみ給ひ、追ひて其の國に到り給ひしに、伊弉冉尊の御肉體腐爛して、極めてあさましき御態(おんさま)にてましまししかば、見畏(みかしこ)みて逃れ還り給ふ。
乃ち黄泉比良坂(よもつひらさか)に千引の石を引さ塞へ給ひ、是より我が現國(うつしぐに)と、黄泉國との交通は絶へたりといふ。
其の所謂黄泉比良坂は、出雲國の伊賦夜坂(いふやさか)なりと古事記に見ゆ。
今同國八束郡に揖屋村(いやむら)あり、延喜式内に揖夜(いふや)神社あり。
蓋し其の古傳説地の名を傳ふるなり。
伊弉諾尊黄泉國に到り、其の穢れに觸れ給ひしかば御身を清め給はんが為に、粟門(あはと)と速吸名門(はやすひなと)とに到り給ふ。
兩所共に潮流急なり。
乃ち更に轉じて筑紫日向の橘の小戸の檍原(あはきはら)に到り、ここに海水に浴して禊祓(みそぎはらひ)し給へり。
これ禊祓行事の濫觴なり。

天照大~以下の諸~日向に生れ給ふ
此の時八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)、伊豆能賣神(いづのめのかみ)、底津少童神(そこつわだつみのかみ)、中津少(なかづわだ)童神(つみのかみ)、表津少童神(うはつわだつみのかみ)、底筒男神(そこづつをのかみ)、中筒男神(なかつつをのかみ)、表筒男神(うわづつをのかみ)の諸神、御身を濯ぎ給ふ事によりて生じ、最後に左の眼を洗ひ給ふ事によりて天照(あまてらす)大神(おほみかみ)生じ、右の眼を洗ひ給ふ事によりて月讀尊生じ、鼻を洗ひ給ふ事によりて素戔鳴尊生じ給ひきと言ふ。
此の中、底筒男、中筒男、表筒男の三神は、即ち住吉大神(すみのえのおほかみ)にして、底津少童、中津少童、表津少童の三神は、是れ阿曇連等(あづみのむらじ)が齋(いつ)き祭れる筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)なりとあり。
或は云、衝立船戸神(つきたてふなどのかみ)、道之長乳歯神(ながちはのかみ)、時置師神(ときおかしのかみ)、和豆良比能宇斯能神(わずらひのうしのかみ)、道(ち)俟神(またのかみ)、飽咋之宇斯能神(あきくひのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那藝佐毘古神(おきつなぎきびこのかみ)、奥津甲斐辨(おきつかひべ)羅神(らのかみ)、邊疎神(へさかるのかみ)、邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)等、また此の時に生ずと。或は又云ふ、磐土命(いはつちのみこと)、底土命(そこつちのみこと)、大綾津日神(おほあやつひのかみ)、赤土命(あかつちのみこと)、及び大地(おほつち)、海原(うなばら)の諸神生ずと。
古書の傳ふる所其の説一ならず。
天照大神等の御出現に就きても異説多し。
年代悠遠、所傳簡古にして、今より其の詳細を知るを得ず。
されど天照大神、月讀尊、素戔鳴尊の三貴神を始めとして、住吉神、綿津見神(海神少童神と云ふに同じ)等の諸神が、日向の地に生れ出て給ふとの古傳説は、此の國が天孫降臨以前、既に我が大日本國發祥の縁由を有せし地なりとして、古人によりて語り傳へられたることを示せるものなりと謂はざるべからず。
天照大神靈徳あり、光華明彩六合の内に照徹し給ふ。
伊弉諾尊乃ち之を天に上(のぼ)して、高天原を治めしめ給ひ、月讀尊光彩之に亞(つ)ぎ給へるを以て、亦天に送りて之に配せしめ給ふ。
かくて素戔鳴尊は天が下を治らすべく定められ給ひしが、此の神勇悍にして粗暴の御行為多くまししかば、伊弉諾尊遂に之を根ノ國に逐(お)ひ給ふ。
或は云ふ、尊高天原にありて、天照大神に對し奉り、粗暴の御行為多かりしかば、諸神相議して科するに千座置戸(ちくらおきど)の祓(はらひ)を以てし、之を根ノ國に逐ひ奉ると。
根ノ國は即ち伊弉冉尊のまします黄泉國なり。
ここに於て大八洲國未だ定まれる君を得ず。
或は云ふ、月讀尊夜食國(よるのおすくに)を治らすと。
又曰く、滄海原(あをうなばら)を治らすと。
三神分治に就きても異説多く、今之を詳にすべからず。

私按一、 禊祓(みそぎはらひ)の意義
清潔を尚ぶの習俗
伊弉諾尊が日向の檍原にて禊祓し給ひしことは、尊が黄泉國に到りて其の穢に觸れ給ひしかば、之を清め給はんとてなり。
禊は身滌(みそそぎ)なり。
祓は拂(はらひ)なり。
水に浴して身を滌ぎ、穢れを拂ふなり。
邦俗清潔を尚(たっと)びて死穢血穢を忌むこと甚だしく、或は海岸河畔等に産小屋、月小屋を設けて、婦人一定の期間ここに移り住み、産穢の期間を経過し、或は終りて、水に浴して身の穢を去りたる後にあらざれば決して自宅に歸らず、神に近づかざるの習慣は、後の世までもなほ處々の海岸部落に遺れり。
維新後教育の普及と共に、古俗舊慣の廢せらるるもの多く、禊祓の遺風の如きも僅に神事にのみ存して、一般には之を見る少なきに至れるも、なほ越前敦賀彎西岸地方の如き、或は特殊の地方には、嚴に其の俗を保存せるあり。
なほ此の事は第八章産屋の條下に詳説すべし。

海水浴の習慣
禊祓を行ふは、或は之を海に於てし、或は之を川に於てすること、其の地の便に従ふが如きも、本來海水に浴するを以て其の本體とせしよしは、今に至ってなほ盬祓と稱し、食盬を蒔き散らして穢を除くの習慣あるによりても知らるべし。
延喜式祝詞の大祓ノ詞にも、天津罪、國津罪を速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津媛といふ神、大海原(おほうなばら)に持ち出で、荒盬の盬の八百道(やほぢ)の八盬道の、盬の八百會(やをあひ)に坐す速開都媛(はやあきつひめ)といふ神、之をカカと呑み、氣吹戸(いぶきど)にます氣吹戸主(いぶきどぬし)といふ神、之を根ノ國、底ノ國に氣吹(いぶ)き放ち、根ノ國、底ノ國に坐す速佐須良媛(はやさすらひめ)と云ふ神をさすらひ失ひ、かくて罪と云ふ罪はあらじと、祓ひ清むるの行作を述べたるを思ふに、海水は一切の罪悪汚穢を収容して、之を根ノ國の送達するものなりとして信ぜられたりしものの如し。
而して其の禊祓のことは、既に此の伊弉諾尊が我が日向の檍原に於て行ひ給ひしと傳へらるるなり。
以て我が古俗を見るべし。
尊が御身を穢し給へりとのことは、古事記に、黄泉國に伊弉冉尊を訪(とぶら)ひ給ひし時の狀(かたち)を記して、

伊弉諾尊の黄泉國訪問
左の御髻(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆづつまぐし)の男柱一個を取り闕きて、一つ火點(とも)して入り見ます時に蛆集(うじたか)れ盪(とろろ)ぎて、頭には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷(くろいかづち)居り、陰には拆雷(さくいかづち)居り、左手には若(わか)雷(いかづち)居り、右手には土雷(つちいかづち)居り、左足には鳴雷(なるいかづち)居り、右足には伏(ふし)雷(いかづち)居り、併せて八雷神成り居りき。
ここに伊弉諾尊、見畏みて逃げ還ります時に、其の妹(いも)伊弉冉尊、吾に辱(はぢ)見せ給ひつと申し給ひて、即ち黄泉醜女(よもつしこめ)を遣はして追はしめ給ひき。
爾(かれ)伊弉諾尊黒御鬘(くろみかづら)を取りて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち蒲子生(えびかづらのみな)りき。
これを〇食(ひりは)む間に逃げ出でますを、猶追ひしかば、又その右の御髻(みみづら)に刺せる湯津瓜櫛を引き闕きて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち笋生(たかむらな)りき。
こを抜食(ぬきは)む間に、逃げ出でましき。
且(また)後には、かの八雷神に千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副へて追はしめき。
爾御佩(かれみは)かせる十拳劔(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)にふきつつ逃げ來ませるを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到るときに、其の坂本なる桃子(もものみ)を三箇取りて、待ち撃ちたまひしかば悉く逃げ返りき云云。
とあるによりて知らる。
蓋し古俗觸穢を以て罪悪の一となしたりなり。
されば伊弉諾尊は、千引の磐石を以て黄泉比良坂を塞ぎ、黄泉國との交通を絶ちて、我が日向の檍原に來り、茲に禊祓し給ひきと傳へらるるなり。

 私按二、黄泉國の辨
根國と出雲地方
黄泉國は、伊弉冉尊が崩じて後入り給ひし暗黒の國にして、尊の御形骸はそこに腐爛の状を呈し、恰も墳墓の壙内なるかの如く、極めて忌はしき穢れたる處として傳へられたり。
而も現國(うつしくに)より此の國に通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、古事記に之を出雲國の伊賦夜坂(いふやざか)なりといへり。
蓋し古へ黄泉國即ち根ノ國を以て、出雲地方、若しくは其の方角にありとし、此所よりして其の國へ交通せしものなりと信ぜられたりし事を示せり。
出雲風土記に闇見(くらみ)ノ國あり。
夜見ノ島あり。
闇見(くらみ)ノ國は今は八束郡の内なる、もとの島根郡の地にして、延喜式には同郡久良彌(くらみ)神社といふもあり。
出雲風土記には椋見(くらみ)社に作る。
又夜見島は、今は砂嘴(さし)之を連ねて、伯耆の夜見ガ濱となれり。
黄泉國は一に夜見ノ國とも、又根ノ國ともいふ。
暗黒の國として信ぜられたれば、其の夜見と云ひ、闇見と云ふも、名義に於て互に縁由ありげに見ゆるなり。
されば是等の地も、嘗ては夜見ノ國に關する傳説を有し、若しくは其の一部として信ぜられたりしものか。
出雲風土記には、別に出雲郡宇賀郷の條下に、
磯より西の方に窟戸あり。
高さ廣さ各六尺許(ばかり)。
窟の内に穴あり、人入るを得ず。
深浅を知らず。
夢に此の磯の窟の邊に至る者は、必ず死す。
故に俗人、古より今に至るまで、號して黄泉(よみ)ノ坂、黄泉(よみ)ノ穴と云ふなり。

とありて、黄泉國を出雲の海岸より通ずる地下の國として信ぜし狀(かたち)を示せり。
尚言はば、黄泉國に入り坐せる伊弉冉尊を、古事記には黄泉津(よもつ)大神と云ひ、出雲國と伯伎國との境なる比婆ノ山に葬るともあれば、此の地方亦黄泉國の中として信ぜられたりしものか。
ともかくもこの國が、出雲地方若しくはその方角にありとして信ぜられたりしことは明なりとす。
かく黄泉國の位置に就きては、種々の古傳説ありといへども、ともかくも其の國はもと出雲系統の諸神の祖國として信ぜられたりしなり。
而してそこには、伊弉冉尊の長(とこ)しへに鎭(しずま)りませるなり。
されば古事記には、素戔鳴尊の御語(ことば)を録して、「妣國(ははのくに)の根之堅洲國(ねのかたすくに)に罷(まか)らんと欲す」と云ひ、日本紀には、「母に根ノ國に従はんと欲す」とも見ゆるなり。

根國と朝鮮地方 
而も其の根ノ國に就き給へる須戔鳴尊は、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅國に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居ますと、日本紀にあり。或は韓ク(からくに)の島より、其の御子神たちを紀伊國に渡し給ひて後、熊成峯(くまなりのたけ)にましますとも云へり。

熊成と熊野
熊成は日本紀雄略天皇條引日本舊記に見ゆる久麻那利の地にして、任那國下哆呼利(あるしたこり)縣の別邑なりとあり。
須戔鳴尊はここに鎭まりましきと傳へられたるなり。
出雲に國幣大社熊野神社あり。
此の神を祭り奉る。
熊野は蓋し熊成と同語の轉訛なり。
紀伊の熊野亦此の系統の神々に縁あり。

出雲系統の諸神と紀伊
尊の御子神達は多く紀伊に鎭まり給ひ、又日本紀の一書には、其の妣神(ははがみ)とます伊弉冉尊を、紀伊の熊野の有馬村に葬り奉るともあるなり。
紀伊の熊野の名も、亦此の熊成及び熊野の大神に縁あるを否定すべからず。
更に其の御子五十猛神(いたけるのかみ)の事を、延喜式には、韓國伊太氏神(からくにのいだてのかみ)ともあり。
出雲各地に鎭まり給ふ。
而して此の神亦日本紀に、大屋津姫、抓津姫(つまつひめ)など、素戔鳴尊の他の御子神達と共に、韓國より渡りて樹種を傳へ給ひきと傳へられ、共に紀伊國に祭られ給へるなり。
今是等の諸説を合せ考ふれば、根ノ國とは、或は朝鮮地方の國なりとして信ぜられたりしものなりとも解せられざるにあらず。
而して素戔鳴尊の御子神として、八十神達を従へて、もと我が國を領し給ひし大國主神は、後に出雲の大社に鎭まり給ひしも、其の魂は大物主神として、大和の三輪山に鎭まり給ひ、其の三柱の御子神達も、亦大和各所に鎭まり給ひて、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護り神となり給ひきと傳へらるるなり。
蓋し出雲の神の系統に属する民族は、もと朝鮮方面と特殊の關係を有し、大和平野を中心として、紀伊其の他、廣く大八洲國に繁延せしが、後漸次大和民族に同化融合して、其の民族的獨立を失ひし後までも、出雲及び紀伊の地方には、久しく其の系統の民族が維持せられ、ここに其の祖神を祭り、祖神の陵(みささぎ)を傳へ、祖神の傳説を保存せしものなるべし。
殊に大國主神は、國を天孫に譲り奉りて後、出雲なる杵築大社に鎭まり給ふと傳へられて、此の系統の諸神の御事蹟に關しては、出雲地方に於て最も濃厚に保存せらるるものか。

根國と黄泉國
而も其の祖國たる根ノ國が、死後の黄泉國の思想と合體するに及びて、或は暗黒の國なるが如く、或は地下の國なるが如く、或は墳墓の壙内なるが如くにも傳へられ、伊弉諾尊の千引の岩を置き給ふことによりて、現國(うつしくに)との交通の絶えたることを言ふに至れるものならん。
されば日本紀の一書には、伊弉冉尊の入り給ひし黄泉國を以て、「殯歛(ひんかん)の處」なりとし、他の一書には、「所謂黄泉比良坂は復別に處あるにあらず、ただ臨死氣絶の際を謂ふか」とも解せるなり。
こは自ら別問題なれども、ともかくも伊弉諾尊は、黄泉國にて其の穢に觸れ給ひ、之を清め給はんとて、粟門、速吸名門を過ぎ、遠く我が日向の檍原に來り給へりとは、古く語り傳へられたりしところなりとす。

私按三、粟門と速吸名門との所在
粟門
粟門は従来、學者多く解して阿波の鳴戸となす。
其の潮流の急なりといふに恰當す。
或は云ふ、紀淡海峽なる友が島を古へ淡島(あはしま)と稱し、もと紀伊加太(かだ)なる淡島明神の鎭座せしところにして、其の海峽卽ち所謂由良の門は潮流の頗る急なれば、アハ門或は此の海峽ならんかと。

速吸名門
次に速吸名門は、神武天皇東征の時國ツ神珍彦(うづひこ)を得て海路の嚮導(きょうどう)となし給ひし處にして、古事記には、之を吉備と難波との間に叙す。
卽ち明石海峽なり。
亦潮流急なりと云ふに相當たる。
然るに日本紀には、其の速吸名門を日向と宇佐との間に叙し、之を佐賀ノ關海峽に當つ。
此の地亦潮流急なるのみならず、延喜式に豊後海部郡早吸日女(はやすひひめ)神社の、其の古地名を傳ふるあれば、是を以て之に擬するもの多し。
蓋し速吸名門とは、早吸(はやすひ)の門(と)と卽ち海水を速く吸ひ込むが如き潮流の急なる瀬戸の義にして、もと普通名詞なるべければ、必ずしも一所とのみ限るべきにあらず。
同一の事件を數所の速吸名門に就きて、各自地方的に語り傳へしこともあるべし。
而して伊弉諾尊が、此の粟門と速吸名門とを過ぎて、最後に我が日向の地に到り給へりとせんには、之を鳴戸と解し、由良の門と解し、又明石海峽となし、佐賀ノ關海峽となす。
何れにても通ずべし。

私按四、檍原出現の諸神に就きて
天津神と國津神
我が古傳説に見ゆる諸神は、之を大別して天津神、國津神の二系統となす。
傳ふる所一ならずして、其の區別頗る困難なるも、之を槪説すれば、天津神とは高天原の諸神にして、國津神とは、天孫降臨以前より此の國土にます諸神なり。
卽ち高天原より來れりと傳へらるる民族の祖神として祭る神と、其の以前より此の國土に住する民族の祖神として祭る神との別を云ふなり。
而して其の國津神と呼ばるるもの多き中にも、出雲の大國主神の系統の諸神と、伊弉諾尊の檍原に於ける禊祓の時に出現せる諸神との二大流派あり。

海神
住吉大神(すみのえのおほかみ)、筑紫斯我神(つくしのしがのかみ)の如きは、此の後者中の重なるものとす。
大寶令の古記に住吉大神を天津神となす。
こは同じく此の禊祓によりて出現し給へりと傳へらるる天照大神以下の三貴神を、天津神と稱するにより、其の關係にて同じく天津神の中に収め奉れるものならんも、新撰姓氏録には、海神の系に属する諸家を、地祇、卽ち國津神の系に列したり。
三貴神降誕の御事は、別の傳へには冉尊の黄泉國に入り給ふ前にありて、諾冉二尊の御間に生まれ給ひし御子ともありて、殊に尊き神にませば、自ら區別あるべし。住吉神、斯我神は、山神の山を守り給ふと同じく、此の國土にありて海を守り給ふ神として信ぜられ、主として漁業航海に從事せし海人等の齊(いつ)き奉る神にますなり。
而して是等の神々が、檍原の禊祓によりて出現せりと傳へらるるは、自から海人系統の民族の祖先を語れるものに似たり。

道祖神
船戸神(ふなどのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)等、俗に道祖神(さいのかみ)として祭らるる神々の、此の禊祓の際に出現せりと傳へらるることも、亦古く此等の神々を祭れる民族の、同じ系統に属することを語れるものと解すべし。
なほ是等の事は第五章に於て詳説する所あるべし。

第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
  第一節 伊弉諾尊の禊祓と三貴神の出現
   私按五、三貴神分治の説
天照大神以下三貴神の出現に就いて種々の異傳あるが如く、其の治(し)らし給ふ所に就いても亦種々の異説あり。
三神分治の異説
天照大神が日の神たる最貴の神として、高天原に君とます御事には論なきも、月讀尊は或は高天原にありて日の神に配し給うと云ひ、或は夜食國(よるのおすくに)を治らし給ふとも云ふ。
又素戔鳴尊は海原(うなばら)を治らすべしとし、或はもと天が下を治らすべく定められ給ひしも、粗暴の行為おはししにより、妣(はは)の國として伊弉冉尊のます根ノ國へ遣はされ給ひきとも傳へらるるなり。
月讀尊が夜の食國を治らし給ふと云ひ、日の神に配し給ふといふは、日月共に天空に懸れるに擬したる説なるべきも、其の海原を治らし給ふとは、蓋し素戔鳴尊と混同したる結果なるが如し。

月の神と素戔鳴尊との混同
日本紀には此の神保食神(うけもちのかみ)の許に使して、其の無體を怒り、之を斬り給へるの傳説あり。
此の事は古事記に、素戔鳴尊が大氣都比賣(おほげつひめ)の許に使して、之を斬り給へると同一の説話なりとす。
以て兩神の混同せらるるものあるを見るべし。
海原
海原(うなばら)は滄海の事にして、漁撈航海を業とする民の以て生活する所。
我が海國にありては、もと海の幸(さち)によりて生活するもの頗る多く、海は陸と共に人生上必要なる場所たりしを知るべし。
而も一方には韓ク(からくに)を海表の國と云ひ、神武天皇の皇兄稻飯尊、妣(はは)の國として海原(うなばら)に入り給ひしことを傳へ、而も後に新羅の國主となり給ひ、後裔新良貴(しらぎ)氏となれりといふを思ふに、素戔鳴尊が朝鮮と深き關係を有し給ふことと、海原を領し給ふといふことと、互に相關係する所あるが如し。
須戔鳴尊が一旦天が下の君たるべく定められ給ひきといふことは、其の御子大國主神が其の御名の如く大國の主となり給ひ、後に其の國を天孫に譲り奉りて、大地主神として大倭神社(おほやまとじんじゃ)に祭られ給ふといふと同じ筋の説話にして、此の系統の神はもと我が國を領し給ふべき尊き神にてましまししが、故ありてそれを去り給ひきとのことを語れるものと解すべし。
斯(か)く高天原を治らし給へる日ノ神も、之に次ぎて日ノ神に配し給へる月ノの神も、又一旦天が下を領すべく定められ、其の御子に大國主神を有し給へる須戔鳴尊も、共に我が日向の橘の小戸の檍原にて、出現し給へる神として語り傳へらるるなり。

第二章 檍原(あはきはら)の禊祓(みそぎはらひ)
 第二節 檍原の古傳説地
檍原の所在に關する諸説
諾尊禊祓の地なる檍原が、我が日向の域内なるべく古人によりて信ぜられたりしことは、其の地名に「筑紫日向」の名を冠する事のみによりても徴證甚だ明なりとす。
而も之に關して古來亦頗る異説なきにあらず。
或は之を以て長門の赤間關附近にありし、或は之を以て、筑前に其の所ありとするものあるなり。
之を長門なりとするの説の如きは、今日に於て特に之を辨ずるの價値を認めざれば擱(お)く。
之を筑前なりとする説は先輩の間に頗る有力にして、亦多少の據なきにあらず。
よりて聊(いささ)か之を辨ぜん。

筑前説
本居宣長の著古事記傳には、
「日向は」二つの義あるべし。
一つには比牟加比乃(ひむかひの)と訓(よ)みて、日の向ふ地と云へるなり。
此の考に依るときは、筑紫とは筑前、筑後の域を云へるにもあるべし。
今一つには比牟加乃と訓みて、卽ち日向ノ國のことなるべし。
此の考に依るときは、筑紫とは九國の總名なり。
右の二つの考何れよけむ、決(さだ)めかねたれど、書紀神功巻に、此を日向ノ國の橘ノ小門とあるにすがりて、姑(しばら)く國名の方に就きて、比牟加とは訓めり。
橘ノ小門。
書紀火折尊(ほをりのみこと)の段にも、此地名見えたり。
同處なるべし。
さて日向ノ國に、此地名物に見えず。
古へは大隅、薩摩の地までかけて日向と云へるを、其國々にもすべて物に見えず。
今も聞ゆる事なし(但し日向國に、今現に此舊蹟はたしかにありと云へり。
然れども、古書によりて舊蹟を設け作ること、世に多ければ、かるがるしくはうけがたし。)されば日向とある、日向國のことならば、後に此の地名は失せつるなるべし。
又日の向ふ地を云へるならば、九國の地にて尋ぬべし。
とあり。
未だ斷定を與へたるにはあらざれども、其の日向なる舊蹟と云ふを後の附會と疑ひ、更に貝原篤信の説を引きて、
筑前國糟屋郡に立花と云ふ處あり。
又席田郡にも、早良郡にも、青木村と云ふもありて、海邊なりと云へり。
信(まこと)に此の禊になりませる墨江大神(すみのえのおほかみ)、又志加海神(しかのあまのかみ)の鎭座も、皆彼の國なれば、由ありて覺ゆ。
かの青木村のあたりに、小戸と云ふものありと、貝原氏は云へり。

筑前説の批評
とて、頗る筑前説に傾けり。此の説今なほ有力にして、學者往々之を唱道するものなきにあらず。
如何にも其の地が筑紫の國の中にありて、地名を橘と稱し、附近に青木、又小戸の名もありて、諾尊禊祓の際に出現し給へる、住吉、斯我の二神の鎭座せることなどの事實を綜合すれば、數多の材料殆どここに具備して、古傳説と符節を合すが如き觀あり。
其の説の有力なる故なきにあらず。
然れども、更に飜(ひるがえ)りて考ふるに、筑紫とはただに兩筑地方にのみ限らざるなり。
之を廣く九州全島の意義に用ふる事、四面を合せて筑紫の島と云へる古事記の傳説は更に言はず、後世までもなほ其の例多し。
令集解引古民部省式の如き、明かに西海道諸國を總括して筑紫國となし、又古くは之を管する大宰駐剳(ちゅうさつ)の府を、筑紫ノ大宰府としも言へるなり。
又タチバナの地名の如きも、必ずしも此の筑前の地にのみ限るべからず。
續日本紀寶龜九年條には、肥前國松浦郡橘浦あり、阿波國那賀郡にも亦現に橘浦の名を存し、其の他武藏國に橘樹(たちばな)郡橘樹(たちばな)郷あり、山城、大和、河内、伊勢、遠江、駿河、上總、下總、常陸、美濃、上野、陸中、加賀、越後等の諸國にも、皆それぞれにタチバナの地名を存するなり。
されば其の名義の由來は如何にもあれ、或る共通せる地形に就いて、若しくは何等かの關係に依りて、各地に同一なる此の名は起りたるものなりと見るべく、ひとり筑前にのみ之を求むべしとするを要せざるなり。
又彼の青木、小戸等の名の其の、附近に存するに至りては、所謂「古書によりて設け作られたる舊蹟」としても解し得べきものか。
殊に其の筑前なる住吉大神の鎭座の事の如きに至りては、古事記、日本紀に於て、明かに神功皇后の征韓の際、皇軍を護り給ふべく此の地に顯れ給ひしを記したることによりて解すべく、必ずしも以て此の神發生の地たるの證とはなし難かるべし。
若し夫れ綿津見ノ神なる斯我ノ神の鎭座の事は、此の神を奉祀する阿曇連が、海人(あま)の長として此の地方に勢力を有したりしが爲ならんのみ。
又其の「日向」の二字を以て、國名にあらずして日の向へる地の形容に用ひたりとなすが如きは、是れ古傳の眞意にあらず。

「日向」は國名
其の國名として用ひられたりしものなることは、古事記傳にもすでに引けるが如く、日本紀神功皇后條に、住吉三神の託宣を記して、
日向國の橘の小戸の水底(みなそこ)に居て、水葉(みなは)も稚(わか)やかに出で居る神、名は表筒男、中筒男、底筒男の~あり。
とあるによりても知るを得べし。
諾尊禊祓の筑紫ノ日向ノ橘ノ小門の地名に見ゆる日向は、是れ直に我が日向の國にして、所謂橘の小門が其の域内の地なりと信ぜられたりしことは、毫末(ごうまつ)の疑を容れざるなり。

橘小門は日向の地名
尚更に言はんに、同じ日本紀神代巻の一書に、火折尊(ほをりのみこと)卽ち彦火火出見尊を海神宮に導き奉りし八尋鰐(やひろわに)の事を記して、
海神の乗る所の駿馬は、八尋の鰐なり。
是れ其の鰭(ひれ)背をたてて、橘の小戸にあり。
とあり。
古傳説によるに、彦火火出見尊の御事蹟は、常に我が日向地方に於て演ぜられたるものとして信ぜられたり。
然るに如何ぞ遠く筑前に八尋鰐を尋ねて、是に海神宮の嚮導(きょうどう)を求めたりと語り傳へんや。
古へに所謂橘の小門が、古代人士によりて、我が日向の域なりと信ぜられたりしこと疑あるべからず。

芥屋大門説
更に一説には、同じ筑前の中にも、糸島郡なる芥屋(けや)の大門(おほと)を以て、橘の小門に擬せんとするものあり。
而も是れただ玄武岩より成れる自然の一大岩洞のみ。
大門(おほと)と小門(をと)と名の稍(やや)似寄りたりと云ふの外、深く據(よ)るべきものあるにあらず。
固(もと)より以て辨ずるまでもなかるべし。

橘小門檍原の義
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。

檍原は宮崎附近の地
之を宮崎地方の海岸にありとする説に就いても、亦本居翁が巳に指摘せるが如く、古書に其の徴證あるを見ず。
然れども、由來日向の地西陲(すい)に僻在して、中央との交渉甚だ少かりしが故に、ただに檍原の事のみならず、他の事件に就いても、其の古書に見ゆる極めて少なく、奈良朝の古風土記、亦僅に一二節を存するに過ぎざる程なれば、古書に見る所なきの故を以て、直に之を排斥すべきにあらず。
少なくも往時に於て宮崎郡の海岸地方に、小戸ノ渡、住吉神社などの存せしことは明かにして、當時之を以て檍原の地なりと解したりしものなるは、推測するに難からず。
之を近き代の文献に求むるに、伊東義祐が永禄五年の飫肥紀行と云ふものに、

飫肥紀行の檍原
急ぎける程に、檍が原の波間より露はれ出でし住吉の里の近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る。玉鉾の道の行衞に見渡せば、人王の始、宮崎の京、神武天皇の御前近き所にて、辱さに泪落ちけりと云ひし古事まで、思ひ合せられて通りけるに、其の里人に事問へば、平家の一門景清の御墓もありと聞くままに、六字一編手向して行けば、程なく小戸の渡に至りぬ。神道の秘密數々に思ひ出づるとて、
 神代より其の名は今もたちばなや、小戸の渡りの舟の行く末。
とよみ侍りぬ。
とあり。
此の書義祐の作として、果して信ずべくば、少なくも戰國時代の頃、此の地に此の説のありしことを認むべし。

一ノ宮巡詣記檍原
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
十六日江田の御社へ參り、それよりあをきが原の住吉に詣でて、
  尋ね來て聞けば心も住吉の、松はあをきが原の松原。
 此の海邊に伊弉諾尊の身そぎし給ふ、上中下の三つの瀬ありと傳へし。
 十七日、鵜戸山法花嶽へ參りたる山伏を、花が島より案内に頼み、うどの岩屋へ赴き、上別府を通り、赤江川舟あり。此の處を小戸の渡りと云ふ。此にも三つの瀬あり。古歌に、
  日向なる小戸の渡りの鹽せみに、顯れ出でし~ぞまします。
 此の鹽せみとは、北山大明~立ち給ふ上の瀬を云ふと聞きて、
   あなたふと、詣でぬる身の心まで、あらふあかゐの北の~垣。
 此の三つの瀬より諸人は初まりけり。
   日向なる、小戸の瀬の浦こそは、人草の初めなりけれ。
  と賤しき渡守の古歌を語りければ、所がらやさしくぞ思ひける。
とも見ゆるなり。
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。

住吉~社
義祐が、「住吉の里近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る」と云ひし筒男の三~を祭れりと稱せらるるなり。
人或は云ふ、此の~延喜式内に列せられず、國史に著はれず、何ぞさる由緒ある古社なりとせんやと。
然れども、卽に云へる如く、日向は僻遠の國なれば、古代に於て中央と交渉極て少く、~祖發祥の地として信ぜられたる古國にてありながら、なほ且式内の~社僅に四社を數ふるに過ぎざる程なれば、此の住吉社の所見なき、必ずしも怪しむを要せざるなり。

小戸~社
又宮崎市上野町なる小戸~社は、もと大淀河口下別府にありしが、寛文二年九月十九日の地震に海岸陥没し、社地亦其の難に罹りしかば、ここに移轉せるものにて、傳へて伊弉諾尊を祭るといふ。
亦以て小戸の地名の古く存せし一傍證とすべきか。
之を要するに、諾尊禊祓の~蹟と稱する橘の小戸の檍原が、我が日向の域内にありきと信ぜられ、其の地が古く宮崎附近なりきと認められたりしことは疑を容れず。
或は思ふ、此の地大淀川西北より來りて海に朝す、流れ緩やかに、水淀むを以て大淀川の名を得たり。
而して後世其の河口に近く小戸の名あるは、蓋し大淀の轉訛より新に言ひ出だせしものにはあらざるかと。
されば現今傳ふる宮崎附近の遺蹟が、たとひ古書によりて後より設け作られたるものなりとするも、小戸の名の存する卽に戰國時代にありて、勿論近時の附會にあらず。
而して日向一國内他に之を傳ふる有力なる候補地なきに於ては、暫く之を以て諾尊禊祓、三貴~出現の古傳説地と定るを至當とせんか。

第三章 天孫降臨
 第一節 大國主~の國土奉献
大國主~の國土經營
素戔鳴尊の逐はれて根ノ國に入り給ふや、途出雲を過ぎて簛の川上に八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稻田(くしいなだ)姫を娶りて、大已貴~(おほなむちのかみ)を生み給ふ。
大已貴~一に大國主~、又大物主~と云ふ。
少彦名命と力を戳せ、心を一にして、天下を經營し、廣矛を提げて服(まつろ)はぬ荒振~等(あらぶるかみたち)を從へ、遂に所謂大國の主となり給ふ。
後少彦名命は去りて常世(とこよ)ノ國に行き、大國主、~止まりて出雲にあり。
然れども、もと是れ天~の依(よ)ざし給ふ所にあらず。
以て此の國の主たるべからず。
乃ち天照大~は、御子天忍穂耳尊を下して葦原ノ中ツ國の主となし給はんとす。
然るに其の地には、蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)、蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)多(さは)にありて、草木又皆物言ふの狀態なりき。

大國主~國土を天孫に奉る
ここに於て天照大~は、高皇産靈~と共に、八百萬~を天安河の河原に會して衆議を徴し、之を鎭定せしめ給はんが爲に、大國主~の許に使者を遣はし給ふこと三度に及びき。
而も彼等は孰れも皆其の目的を達せず。
最後に經津主(ふつぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給ふに及びて、大國主~は其の子事代主~と共に、謹んで天ツ~の命を奉じ、身を避けて潔く國土を奉る。
時に事代主~の弟建御名方~あり、ひとり之を拒む。
乃ち之を追ひて信濃の諏訪に至り、遂に之を服せしめ、更に他の服(まつろ)はぬ荒振~等をも平らげて、高天原に復命し奉る。

第三章 天孫降臨
 私按一、大國主~の國土經營
天孫降臨以前の大八洲國の狀態
天孫降臨以前に於ける我が大八洲國の狀態は、古事記に天照大~の~誥(こう)を記して、
此の葦原ノ中ツ國は、我が御子の知らさらん國と言依(ことよ)ざし給へる國なり。かれ此の國に速振荒振國~(はやぶるあらぶるくにつかみ)等多(さは)にありとなもおもほす。
とあり。
又日本紀には前文引けるが如く、
彼の地には多く蛍火光~(ほたるびのかがやくかみ)、及び蠅聲邪~(さばへなすあしきかみ)あり、復草木咸能く物言ふ。
と云ひ、又
葦原ノ中ツ國には、磐根(いはね)、木株(このもと)、草葉(くさのかきは)も、なほ能く物言ふ。夜は熛火(もころ)の如く喧響(おとな)ひ、晝は五月蠅(さばへ)なす沸騰(わきあが)る。
などあるによりて、其の先住土着の民族の酋長等各地に割據し、殆ど統一する所なかりしと信ぜられたりし狀を察すべし。
ここに於てか之を安國(やすくに)と定め給ふべく、天孫降臨の要はありしなり。
されど其の統一なかりきと云ふが中にも、出雲を根據とせりと傳へらるる大國主~の如きは、夙に多くの多くの荒振~等を從へて、所謂大國の主となり、ここに有力なる政治上の一勢力を形成せしものなりと信ぜられき。
大國主~は素戔鳴尊の御子なりとも、又其の六世孫なりとも傳へられる。
素戔鳴尊既に簛ノ川上に於て高志(ごし)の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し給ふ。
高志は越(こし)にして、越人(こしびと)は卽ち日本海方面に占據せし蝦夷族の人民なりしならんか。
「蝦夷」正しくは之を「カイ」と讀むべし。
蓋し現に北海道、樺太等に住めるアイヌ族と、其の系統を同じくするものなり。
之を「アイヌ」といふは、蓋し「カイナ」の轉なり。
北海道及び樺太のアイヌ、嘗て己が族を「カイ」、又は「カイナ」と呼びき。
「ナ」は美稱の添辭にして、「カイ」蓋し其の本語なり。
されば樺太アイヌの事を、漢土の書に往々「苦夷」といひ。今も同島に住するオロツコ族、ニクブン族などより、之を「クエ」など呼ぶなり。
クイ、クエ、共にカイの轉なるべし。又同じアイヌ族にして、千島に住するもの、之を「クシ」といふ。
是れ亦もとクイと同語なるべく、コシ蓋し是と原を同じうする語なるべし。

越洲は蝦夷の島
日本紀に越洲(こしのしま)あり、大八洲の一に數ふ。
蓋し亦蝦夷の國の義なるべきか。而して其の「高志」を名に負へる八岐大蛇(やまたのおろち)とは、蓋し蝦夷族の數多の酋長の義なるべし。
素戔鳴尊此等の蝦夷族をも從へて、遺業を大國主~に附與し、根ノ國に入り給ふ。

大國主~は地主~
大國主~は、既記の如く一に大巳貴~、又大物主~などと云ひ、或は大國魂~、顯國魂(うつしくにだま)~、八千矛(やちほこ)~等の別名あり。
實にもと我が大八洲國を領せし國津~の首なるものにして、其の八千矛とは、蓋し武勇勝れたりしことを示せる美稱なるべし。
古事記に素戔鳴尊の此の~に告げ給ひし語を録して曰く、
汝(いまし)が持たる生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)を以て、汝が庶兄弟を、坂の御尾に追ひ伏せ、又河の瀬に追ひ撥ひて、おれ、大國主~となり、又現國魂~(うつしくにだまのかみ)となりて、我が女須世理毘賣(すせりびめ)を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷椽(ひぎ)高知りて居れ。
とあり。
大国主~には庶兄弟八十~(やそかみ)ましきといふ。
八十~とは多數の~の義なり。
是等の八十~悉く此の~に從ひきとの傳説は、大國~が、所謂八千矛を提げて、多數の土着の豪族等を從へたりし事蹟を語れるものなりと解すべし。
而して其の從へられたる土豪等の中には、高志(こし)の八岐大蛇(やまたのおろち)等と同じく、越人卽ち蝦夷の族もあるべく、又奇稻田姫の親、手摩乳、足摩乳等と同じく、古くより出雲其の他の地方に住せし山~系統の民族もあるべし。
手摩乳~、足摩乳~等は、傳へて大山祇~の後稱せらるる。
大山祇~の事は後に説くべし。
この~の族はなほ海~の族たる海人(あま)が、海(うみ)の幸(さち)によりて生活する如く、山の幸によりて生活する部族なりしなるべし。
此の族もと廣く九州より、中國地方にまで蕃延せしが、其の中には一時越人(こしびと)の脅すところとなりしこと、彼の奇稻田姫傳説の示すが如きものありしならん。
而して素戔鳴尊が八岐大蛇を退治して、其の難を救ひ給ひきと傳ふるは、出雲の~が越人の壓迫より是等の民を救ひ給ひしことを傳ふるものならんなり。
大國主~既に庶兄弟八十~を從へ、又越の八國(やくに)を平げて大國の主となり、高志の國の沼河毘賣(ぬながはびめ)を婚(よば)ひて妃となし給ふ。
ただに幾多の土豪のみならず、越人の國をも從へ、又之を懐柔し、同化し給へるを云へるなり。

夷~三郎殿
後世或は此の~を夷(えびす)~(かみ)として崇敬す。
其の社は延喜式内攝津國菟原郡大國主西ノ~社にして、所謂西宮夷是なり。
もと其の攝社に三郎殿ありき。
或は夷三郎殿と稱す。
古事記に大國主~の御子を列記する中の、第三の男子に當れる事代主~を祭れるなり。
一説に三郎殿を蛭子(ひるこ)~なりと稱するも、毫も徴證を得ず。
中世以後此の西ノ宮の分靈所々に祭られて、大國主~は其の字音大黒に通ずるより、つひに印度の~たる大黒天に附會せられ、三郎殿専ら夷~の名を有し、大黒、夷、相並びて~と仰がるることとなれり。
大黒像の袋を負へるは、古事記に、大國主~が負袋者としてとして、庶兄弟なる八十~に從ひ行けりとある傳説に基づけるものにして、其の袋に代ふるに魚を以てしたる夷~像は、是れ即ち古への三郎殿の像なりしなり。
三郎殿の魚を持てるは、同書に、事代主~が出雲三穂が崎にて魚を釣れりとある傳説に基づけるものなり。
かくて其の大黒天と夷~とは、後世には共に破顔微笑の~として祭らるるも、古への夷~と三郎~とは、むしろ勇猛なる武~として信ぜられき。
古書の本地を云ふもの、夷~を毘沙門天となし、三郎殿を不動明王となす。
大黒天の古~像の今に存するもの、往々忿怒の形相を呈する少からず。
而して是れ實に大國主~と、事代主~とが、勇猛なる素戔鳴尊の後に出で、武を以て國土平定し、先住土着の諸民族を服從せしめたりし由来を語れるものなりと謂はざるべからず。
中世武士をエビスといふ。
エビス~蓋し武士~の義か。
此の~もと主として漁業航海を守る~として、海岸住民の尊崇する所なりき。
海邊人亦古くエビスと呼ばれき。
エビス~或は海邊人の~の義か。
後に我が商業が多く航海業者におりて撥達せしより、夷~つひに商家の祭る~となり、財b授け給ふの~となりしものならむ。

第三章 天孫降臨 
 私按二、大國主~の隱退
大國主~の招諭
大國主~既に勇猛なる武~にして、先住土着の民を從へて大國の主たり。
されば天~の之に臨む亦頗る愼重にして、國土の授受決して平和談笑の間にのみ行はれたるにはあらざりき。
之を古事記及び日本紀の記事に見るに、初め高皇産靈~及び天照大~、八百萬~を天ノ安ノ河原に會して、之を如何にすべきかを議り給ふ。
乃ち思金~(おもひがねのかみ)、八百萬~と議して天穂日命(あめのほひのみこと)を遣はし、國土を天孫に奉るべき命を大國主~に傳へしむ。
天穂日命は天忍穂耳尊などと共に、素戔鳴尊が天照大~と高天原に於て誓約し給ひし際に生れ出で給ひし~にして、實に出雲國造、土師臣(はじのをみ)等の祖にます。
然るに大國主~、勢威強大にして、穂日命使命を完うする能はず、却って大國主~に媚びつきて、三年を經るも復命せず。
乃ち更に其の子武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣はし給ひしが、是れ亦父に從ひて歸らず、よりて更に天稚彦(あめのわかひこ)に授くるに天鹿兒弓(あめのかごゆめ)と天波々矢(あめのはばや)とを以てし、之を遣はし給ひき。
されど稚彦、亦大國主~の女下照姫(したてるひめ)を娶りて、其の國を得んとし、八年に至るも復命せず、爲に高皇産靈~の矢に中りて命を落と殞すに至り、最後に天津~は、更に武甕槌(たけみかづち)~に天鳥船~を副へて遣はし給ひき。
日本紀には、之れを經津(ふつ)主(ぬし)、武甕槌(たけみかづち)の二~を遣はし給へりとなす。
二~降りて出雲の五十田狭(いたさ)の小濱(をばま)に到り、十握劒を抜きて浪の穂の上に逆しまに立て、其の劒の前に跌座し、天ツ~の命を傳へて此の國土を奉るべきか否かを問ふ。

大國主~の服命
大國主~の御子事代主~、謹しみて命を奉じ、身を避け奉る。
別に大國主~の御子建御名方(たけみなかた)~あり。
ひとり之に抗す。
武甕槌~乃ち追ひて信濃の諏訪に到り、遂に之を服す。
建御名方~は卽ち諏訪大~なり。
ここに於て大國主~奏して曰く、「我が子二~卽に命を奉ず、我れ何んぞ違はんや、此の葦原ノ中ツ國は命のままに献らん。
我れもし禦がましかば、國内の諸~必ずまさに同じく禦ぎなん。
今我れ避け奉る。
誰か亦敢て順(まつろ)はざるものあらん」と。
乃ち國を平げし時に杖つきし廣矛を以て二~に授けて曰く、「我れ此の矛を以て卒(つひ)に功をなせり。
天孫若し此の矛を以て國を治め給はば、必ず當に平ぎなん」と。
是より二~諸の順(まつろ)はぬ鬼~等を誅して復命す。
其の大國主~は出雲の杵築大社に、事代主~は同國三穂~社に、又經津主~は下總の香取~宮に、武甕槌~は常陸の鹿島~宮に祭らるるなり。
武甕槌、經津主二~の此の行、大國主、事代主二~を從へたるを以て、功の最なるものとす。
故に日本紀の一書に曰く、「此の時歸順せる首渠は、大物主~(大國主~の別名)及び事代主~なり」と。
二~の勢盛なりし狀觀るべきなり。

大國主~の崇敬
大國主~既に國を譲り奉る。天津~乃ち厚く之を遇し給ひて、委ぬるに~事(かんごと)を以てし、其の鎭まります杵築ノ宮の宮造りは、底津磐根に宮柱太知り、高天原に千木高知りて、天津~の御子天津日嗣知ろしめす瑞(みづ)の御舍(みあらか)の如くに造り給ひき。
蓋し此の國譲りは、近く韓國の併合にも比すべきものにして、是が爲に、自他共に其のwを増進すること甚多く、從來「いたく騒ぎてありけり」と言はれたりし此の葦原ノ中ツ國も、天孫の御稜威によりて、安國と知ろしめることとなりしなり。
されば近くもとの韓國皇帝を遇するに、特に皇族の尊貴を以てし給ふが如く、大國主~に對するにも、天皇に對し奉るとほぼ相當する程の尊敬を以てし給ひしなり。
其の現露(あらは)の事は天孫自ら之を統治し給ひ、大國主~に委するに~事(かんごと)を以てし給ひしは、大化の改新に際して國造の政權を朝廷に収め給ひ、爾後國造は専ら祭祀を掌ることとなりしにも比すべきものならんか。

第三章 天孫降臨
 私按三、地主~の崇敬
大國主~は地主~
右の古傳説は、天孫降臨以前既に大八洲國には數多の住民あり、互いに割據して國を成せるが中にも、大國主~の領するところ最も大にして、後までも此の~が、我が帝國の大地主(おほとこつかさ)の~として崇敬せらるる所以を語れるものなりとす。

出雲の~は皇家の外戚
~武天皇東征の後、事代主~の大女媛鞱鞴(ひめたたらい)五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を立てて皇后と爲し給ふ。
古事記には、三輪大物主~の女比賣多多良伊須氣余理(ひめたたらいすけより)比賣(ひめ)となす。
三輪の大物主~は卽ち大國主~の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)にして、延喜式なる出雲國造~賀詞に、此の~の和魂(にぎみたま)を八咫鏡に取りつけて、此の山に鎭めますとある是なり。
尋いで綏靖天皇の皇后は、事代主~の小女五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)にまし、安寧天皇の皇后は、事代主~の孫鴨王の女、渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)にましきと傳へらるる。
斯くの如きは是れ皆大國主~の系統に屬する出雲の~裔が、代々我が皇家の外戚となり、我が皇室の起原が、天津~の系たる天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の御後と、國津~の系たる大國主~の御後と、相依り相合して成れることを語れるものなりと解すべきに似たり。
ただに皇室の御上のみならず、我が國民亦實に高天原より天降れる天~系統のものと、先住土着の國~系統のものと、相依り相合して成立せるなり。

天照大~と倭大國魂~
されば太古天皇の宮中には、代々天照大~と、倭大國魂~(やまとのおほくにみたまのかみ)を並べ祭り奉りき。
倭大國魂~、一に大地主(おほとこつかさ)~と云ひ、實に大國主~と同~にますといはるるなり。
かく皇室の御先祖たる天照大~と、地主~としての此の大國魂~とを、共に太古以來宮中に並べ祭り奉りしことは、此の兩~に對する崇敬の、特に他~にも揩オて厚かりしを示すものと謂ふべし。
此の大國魂~は、今の官幣大社大倭~社(おほやまとじんじゃ)に祭れる~なり。
大倭~社注進狀に
大倭~社、大和國山邊郡大倭邑に在り。
蓋し出雲の杵築大社の別宮なり。
傳へ聞く、大國魂~は、大巳貴~の荒魂なり。
和魂と力を戮し、心を一にして、天下の地を經營し、大造の績を建て得、大倭豊秋津國にありて國家を守る。
因りて以て號して倭大國魂~といふ。亦大地主~といふ。
八尺瓊を以て~體となし齋き奉る。
とあり。
其の傳ふる所以て觀るべし。
然るに崇~天皇の御代に至り、天皇特に敬~の念篤くおはししかば、かく~祇と同じく大殿の中に住み給ふことは、~威を瀆し奉るを虞ありとなし、天照大~を皇女豊(とよ)鍬入姫命(すきいりひめのみこと)に託して、倭の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭らしめ奉り、又倭大國魂~は、皇女渟名城入姫命(ぬなぎいりひめのみこと)に託して、別の地に之を祭らしめ給ひしが、渟名城入姫命、髪落ち、體瘠せて祭ること能はず。
乃ち更に~託によりて、市磯長尾市(いちしのながをいち)なるものをして、代りて之を祭らしめる奉るとあり。
卽ち今の大倭~社なり。

三輪大物主~
崇~天皇は、斯く大國主~の荒魂を倭大國魂~として、齋き祭り給ふ外、別に同じ神の和魂を、大物主~として、其の~裔なる大田田根子を求めて、三諸山に祭らしめ給ひき。
官幣大社大三輪~社是なり。
初め大國主~の國を避け奉るや、高皇産靈尊特に勅してのたまはく、「汝若し國ツ~を以て妻ととせば、なほ汝に疎き心ありと謂はん。
故に今我が女三穂津姫を以て、汝に配して妻と爲ん。宜しく八十萬~を領(ひき)ゐて、永く皇孫(すめみま)の爲に護り奉れ」と。

大國主~天孫を護り奉る
されば大國主~は、其の御子~等と共に大和の各地に鎭座して、皇孫尊の守護に任じ奉る。
延喜式所収出雲國造~賀詞に、
大穴持~(大国主~に同じ)の申し給はく、皇御孫命(すめみまのみこと)の静まりまさん大倭(やまと)の國と申して、己が命を和魂を、八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉(くしみかたま)の命と名を稱へて、大御和(おほみわ)の~奈備(かんなび)に坐(ま)させ、己が命の御子阿遅須伎高孫根(あぢすきたかひこね)の命の御魂を、葛木の鴨の~奈備に坐させ、事代主の命の御魂を、宇奈提に坐させ、賀夜奈流美(かやなるみ)の命の御魂を、飛鳥の~奈備に坐させて、皇御孫命の近き守りの~と奉り置きて、八百丹杵築(やほにきづき)宮(のみや)に静まりましき。
とあり。
以て國土授受の業の容易ならざりし事と、大國主~我が國家に對する關係とを見るべきなり。
此の~の後裔に大三輪君賀茂君等あり。
前記大田田根子は大三輪の祖なり。

第三章 天孫降臨
 第二節 天孫の高千穂降臨
天孫日向に降り給ふ
天忍穂耳尊高天原に在りて、高皇産靈尊の女栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津(あまつ)彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)を生み給ふ。
天照大~乃ち瓊瓊杵尊に、八咫鏡、八坂瓊曲玉、草薙劒の三種の~寶を授け賜ひ、又中臣連の祖天兒屋命(あめのこやねみこと)、忌部首の祖太玉命(ふとだまのみこと)、猨女君(さるめのきみ)の祖天鈿女命(あめのうづめのみこと)、鏡作連の祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)、玉祖連(たまのおやのむらじ)の祖玉祖命、すべて五部の~を以て配侍せしめ給ふ。
よりて詔してのたまはく、「葦原千五百秋瑞穂國(あしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ子孫の王(きみ)たるべき地(くに)なり。
宜しく爾皇孫就(ゆ)いて治(し)らしむべし。
寶祚(みくらゐ)の隆(さか)えまさんこと、天壌(あめつち)と窮(きはま)りなかるべし」と。
ここに於て尊は天の磐座(いはくら)を放ち、天の八重雲を排し分け、稜威(いづ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂の峯に天降り給ふ。
大伴連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命、天之石靭(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の劒を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挟み、御前に立ちて仕へ奉る。
高千穂ノ峯一に高千穂ノ槵觸(くしふる)之峯とも、槵日(くしひの)高千穂之峯とも、高千穂之槵日ノ二上峯とも、或は日向の襲の高千穂ノ添山峯(そほりのやまのたけ)ともあり。
其の傳ふる所一ならず。
天孫降臨の狀を叙するもの古書の記事亦頗る異説なきにあらず。

第三章 天孫降臨
 第二節 天孫の高千穂降臨
  私按一、天孫降臨の意義
祖先天降の説
天孫瓊瓊杵尊は、畏くも我が皇室の御先祖として、我が國土に後を垂れ給ひし最初の~にまします。
古傳説の示す所によると、實に高天原より八重棚雲を排し分けて、我が日向の高千穂ノ峯に天降り給ひき傳へらるるなり。
凡そ祖先の天上より降れりとの傳説を有するもの、東方諸民族間に其の例多し。
朝鮮の始祖桓雄が大白山頂~壇の樹下に降り、辰韓六村の長たる李氏の祖が瓢ー峯に降り、鄭氏の祖が兄山に降り、孫氏の祖が伊山に降り、崔氏の祖が花山に降り、裴氏の祖が明活山に降り、薜氏の祖が金剛金剛山に降り、又金首露以下六加耶王の祖が龜旨峯に降れりと稱するが如き、皆是なり。
琉球の始祖阿麻美久、亦天より阿麻美嶽に降れりと傳へらるるなり。
此の外夫餘、高勾麗、百済等の祖が、天帝の子と稱せられ、蒙古、満州等、亦類似の傳説を有するもの多く、天を崇祭するの俗は濊、馬韓、其の他にも廣く行はれたり。
蓋し皆天を以て其の祖國となし、太祖天上に在りとの思想に基づくものなるべし。
我が皇祖亦高天原より高千穂の峯に降臨し給ひ、天ツ~の依ざし給へるままに、ここに天壌無窮の皇基を創め給ふ。
其の形迹稍傍近の諸民族傳ふる所と類似するものあるは、其の間相因縁するものあるに似たりと雖、而も其の依ざしの國を安國と定め給ひて、ここに天~の使命を全うし、萬世一系の天皇長しなへに榮えますもの、ひとり我が國に於てのみ之を見る。

天孫の人事的解釋
既に之を天降と云ふ。
其の遺蹟を天に最も近き高山の頂に求めんとするは自然の勢なりとす。
事もとより~聖に屬し、其の説幽幻にして、猥りに人事を以て忖度し得べきにあらず。
然りと雖、假りに之を地上の事蹟と解し、民族遷移の傍例を以て觀んに、天孫の降臨とは、我が皇室の御先祖が高天原と稱する或る祖國より、多くの臣民を率ひて此の島國に遷り給ひ、從來統率なく、保護なく、塗炭の苦に惱みたりし先住の民衆を綏撫し、不逞の徒を征服して、之を安國と治(し)ろし給ひしものと解すべし。
斯くの如くにして先住の民衆は、從來の苦患より脱離するを得、天孫に隨從し奉りて渡來せし民族と相依り相結びて、我が日本民族を構成し、相共に上に萬世一系の天皇を奉戴して、ここに光輝赫々たる大日本帝国は成立せしものなりと解すべし。


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