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2021年09月12日

 第一編 太古史 第一章 國土の發生に關する古傳説

日向國史 上
  第一編 太古史
第一章 國土の發生に關する古傳説
日向の國名
筑紫島の産成
日向の名に關する故事
筑紫四面の疑問
隼人族と熊襲國 
日向は筑紫の四面の一
大八洲の説
熊襲の國
舊事本紀の筑紫四面に關する記事
舊事本紀の價値
熊襲國の位置に關する思想
豊久士比泥別の名と日向

宮崎には多くの傳説がある。
古事記、日本書紀の宮崎を舞台にした天皇家の先祖に関する記述を裏付ける状況証拠が多くある。
伝説の中にはどう好意的に考えても後世の作り話と判断すべきものもあるのだが。
以前、宮崎をテーマにしたウェブサイトを運営していた。
その時に集めた書籍の中に「日向國史」がある。
文學博士の喜田貞吉が著した。


日向國史が喜田君によりて公表せらるるに方り、自分は最初より之に関係を有するを以て、同君の嘱に応じ、一言を寄せて其の来歴を叙べ、併せて序に代ふる所あらんとす。
回顧すれば、明治四十四年の三月と覚ゆ、自分が宮崎県知事を拝命せる際、赴任に先立ち、参内して 天機並 御機嫌を奏伺したりしが、退出の際香川皇后宮太夫にも新任の挨拶をなせるに、同太夫は、其の時容を正して、「宮崎県知事とあらば是非御聞き申したい事があります。
それは霊峯と知られた高千穂の峯は高い山でありますか、低い山でありますか。」と、いとも熱心に問はれたり。もとより突然のことなれば、其の場は、「赴任の後委曲を調査して何づれ申上げん。」とて、此の対話は簡単に打切りたるが、自分の心琴には一種の高鳴を覚えざるを得ざりき。
実は、皇祖発祥の聖地たる宮崎県は、自分も一度任官したき希望を有せし處にして、曾って一木内務次官にまで其の旨を申出でたることありしに、このたび宿望を達し、將に任に赴かんとして心躁の新なるに際し、場所は宮中、しかも純情その儘なる香川老太夫より、靈境に就いて話しかけられては、遠く神代に心の馳するを禁ぜざりしなり。 後略

出版された当時の製紙技術は現在より相当に劣るのものであっただろうし、また印刷技術もインクの質も同じ事情があっただろう。
今その本の状態は相当に「朽ちている」状態である。
なので、文字が消えていたり霞んでいたりして所々読めない部分もあり、読むには中々苦労がある。
文章は極めて格調が高い。
漢字は現代の画数を減らした簡略漢字ではない。
それをそのままにネット媒体に乗せたいと以前から考えていた。


日向國史 上
  第一編 太古史
第一章 國土の發生に關する古傳説
日向の國名
日向は九州島の東南隅にありて、西と北とに山を負ひ、東と南とは海に臨み、直ちに日の出づる方に向ふ。故に日向の名ありと稱せらるる。
筑紫島の産成
傳へ言ふ。太古伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神、此の漂へる國を修理固(つくりかため)成(な)せとの天神(あまつかみ)の命を奉じて、高天原より降り、我が大八洲(おおやしま)の諸島を生み給ふ。
中に筑紫島(つくしのしま)あり。
筑紫島は即ち九州島なり。
此の島身一つにして面四つあり。
筑紫國を白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊國(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥國(ひのくに)を速日別(はやひわけ)と謂ひ、日向國を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)と謂ひ、熊襲國を建日別(たけひわけ)と謂ふと。
或は言ふ。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)と謂ひ、熊曾國を建日別と謂ふと。是れ我が日向の名の古書に見ゆる初なり。

日向の名に關する故事
日向の名義の由來日本紀に見ゆ。
景行天皇の十七年、天皇熊襲を親征して此の國に到り給ひ、子湯縣(こゆのあがた)に幸して、丹裳小野(にものをの)に遊び、東方を望(み)そなはして、左右に謂って宣り給はく、「此の國は直ちに日の出づる方に向へり」と。
故に其の國を號して日向といふなりとあり。
丹裳小野の地、今之を明かに指定するを得ざれども、蓋し児湯郡の海岸に近き高臺なるべく、日向の名稱の起れる、以て其の位置の察すべし。
釋日本紀所引日向風土記には、上文の「日の出づる方に向ふ」とあるを、「扶桑に向ふ」に作れり。
藤原濱成の天書亦然り。
扶桑は古代の漢人によりて、東海中に在る國として信ぜられたりし所にして、亦東に向ふの義なり。
古人の解せし所以て見るべし。
日向はもと「ヒムカ」と訓めり。
推古天皇の御製(ぎょせい)に「馬ならば辟武加(ひむか)の駒」の句あるは、以て證となすべし。
和名抄に之を「比宇加(ひうか)」と訓ずるは、音便によれるなり。
ヒムカの名義果して文字の示す如く、單に天日に向ふの意か。
若し然らんには、或は是をヒムカヒ、若くはヒムキと訓むべく、其の名もむしろ南面の地勢に適するものなるべく解せらる。
而も其の地勢は東に向ふ。
此れ日本紀に、特に「日出づる方に向ふ」と云ひ、風土記及び天書に、「扶桑に向ふ」とある理由なるべからんも、東に向ふことをのみ殊更に日向といふは、到底妥當ならざるの感あり。
果して然らばヒムカの本義、或は他に存するにはあらざるか。
邦語東方をヒガシ或はヒムガシと言ふ。
日向或は九州にありて東方(ひむがし)の國なりとの義か。解するもの或はいふ、東方をヒムガシといふも、亦「日向(ひむかひ)」の義なるべしと。
果して其の然るや否やを詳にせず。
一説に日向の名は、高千穂の地の「朝日の直(ただ)さす國夕日の日照國なり」とある形に負へるものにして、為に日向の高千穂の名あり、其の名つひに其の國に及べるものならんと。
そはともかくも、既にヒムカなる國名存したらんには、之に附會して地名傳説の生ずるは普通の例なり。
日向の名神代紀にしばしば繰り返さる。
必ずしも景行天皇の西征を俟って始まれるにはあらざるべし。
附記して參考に供す。

筑紫四面の疑問
筑紫四面の事は古事記及び舊事本紀に見ゆ。
古事記諸本異同あり。
所謂筑紫等の四面を解して、前記の如く、或は筑紫、豊、肥、日向、熊襲の五國となすものあり。
未だ其の是非を詳にせず。
而も四面にして五國ありと謂ふは、其の孰れかに於て誤謬あるを承認せざるべからず。
ここに於てか本居宣長は、古訓古事記を著はして四國説を採用し、平田篤胤は五國説に従ひて、古史成文に「面五つ」と改めたり。
古訓本の四國説によれば、日向の北部半國ばかりは、もとは肥の國の中なりしを、やや後に分れて一國となれるなりと解し、其の南半を以て大隅及び薩摩と共に、もと熊襲の一部を成したりとするものの如し。
然れども、肥前、肥後と共に、日向の北部を通じて筑紫島の一面とせんは、もとより地理の實際に副はざるなり。
又古史成文の五國説に従ふも、日向の南半と薩、隅二國とを以て熊襲國となし、後の日向の北半のみを以て、日向の一國なりきと解するなり。
而も日向を二分することの、地理自然の状態に副はざるは前説と同一なるのみならず、古へ熊襲族居住の地と傳へられたりし境域が、必ずしも後の日向南部以南に限られざることに於て、此の兩説ともに妥當なりと謂ふべからず。
固より國土産成の事如きは、其の説幽玄にして、強ひて人事を以て論ずるを要せず。
ただ古事記が成りし奈良朝初に於て、我等の先祖が語部(かたりべ)の傳へによりて、なほ斯くの如きの説を有したりしを信ずるを以て満足せんのみ。

隼人族と熊襲國                           
今奈良朝初期の形勢を按ずるに、大隅、薩摩の両國地方には、當時異族として認められたりし隼人族ここに占據したるの事實あり。
養老年中に薩摩、大隅二國の隼人亂を為し、皇軍の大征討を要するに至れるなり。
後人或は此の際の叛亂を以て、日向、大隅二國の隼人の所為なりきと云ひ、當時なほ我が日向にも、隼人族として認められたりし民族の住居せしことを傳へたり。
更に遡りては景行天皇及び日本武尊の熊襲御征討が、主として日向の域内に於て行はれたりしが如く傳へらるるあり。
されば其の日向の域を以て、大隅、薩摩と共に嘗って異民族占據の堺なりとし、隼人即ち熊襲なりとの見解のもとに、之を以て熊襲國と稱したりとなさんは、頗る其の理由あるに似たり。

日向は筑紫の四面の一
而も又一方より之を觀れば、日向は其の域山によりて他の地方と隔離し、殊に古く神祖發祥、天孫降臨の傳説を有する地方なれば、之を以て異族熊襲の國なりと謂はんは、妥當ならざるの感なき能わず。
況や日向國の名は古くより存し、歴史時代に於て現實に隼人族の占據せし薩、隅二國は、却って行政上漠然と其の域内に含まれたりしの事實すらあるをや。
筑紫島内の諸國の一として、日向の名は到底之を逸すべからざるなり。
而も我が古傳説は、明かに我が南陬に於て太古異族占據の國ありし事を傳ふるなり。
ここに於て奈良朝初の人士、所謂大八洲國(おおやしまぐに)の島々を數ふるに當り、九州島に於て熟知の筑紫、豊、肥、日向の四國ありとし、其の四國以外に、別に漠然と古傳説によりて、此の異族の國の存在を認めんは、亦其の理由なきにあらず。

大八洲の説
元來大八洲國とは群島國の義にして、必ずしも八個の大島ありとのみ、狭義に解釋すべきにあらず。
「や」は數の多きを謂ふなり。
然るに奈良朝初の人士此の義に暗く、「や」の假字として用ひられたる「八」なる文字の意義に泥みて、強ひて著名なる八島を數へんとせしが為に、遂には日本紀の本文及び其の引用せる多數の一書に見るが如く、種々雜多の異りたる説を生ずるに至りしなり。
古事記には、淡路、四國、隠岐、九州、壹岐,對馬、佐渡及び本州の八大島を、大八洲と數へて、吉備兒島(きびのこじま)、小豆島(あづきのしま)、大島、女島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、及び兩兒島(ふたごじま)を、其の以外に置き、又日本紀本文には、本州、四國、九州、隠岐、佐渡、越洲(こしのしま)、大洲(おほしま)及び吉備子洲(きびのこじま)を以て大八洲と數へ、淡路を別に置き、其の以外の對馬、壹岐、並びに諸々の小島は、諾冉二尊の生み給へるにはあらずして、潮沫(しほのあわ)の自然に凝りて成れるものなりとなせるが如き、皆此の思想に基づけるなり。
其の他、日本紀引用の多數の一書、又それぞれに大八洲の島々に就きて、異なりたる數へ方を爲せるなり。
斯くの如きは畢竟數多の島嶼の中より、特に八個の大島を擇ばんとせし結果にして、固より是れ古意にあらず。
本來の古傳説には、必ずしも八個の大島とのみは限らず、我が群島悉く大八洲の中なりしものなるべし。
されば蝦夷の國を之に數ふるも可なり。

熊襲の國
熊襲の國を之に數ふるも亦不可なきなり。
論者或は謂はん、熊襲國は筑紫島以外別に島を成すにあらず、之を一島と數ふべきにあらずと。
復謂はん、熊襲は古事記之を特に國といひ、島とはいはざるを如何にと、然れども古代都人士の僻遠の地理に暗き、必ずしも其の實地を踏査せしにあらねば、深く是が言辭の末に拘泥すべきにあらず。
彼の越洲(こしのしま)の如き、名義は越(こし)人即ちアイヌ族占據の地の謂にして、漠然と今の北陸兩羽地方を指せしものなるべく、固より本州の一部にして、別に一島を成すにあらずと雖、而も其の地がもと越人(こしびと)占據の地方として、自ら別個の國の如く考へられたりしかば、之を特に越ノ洲として、日本紀には大八洲の一にしも數ふるなり。
而して熊襲の場合亦之を以て類推すべからずや。
尚言はば、當時薩南海中にも島嶼の存在することは、之を熟知したるべければ、之を以て熊襲占據の島と想像し、之を別個に數ふること、亦これなしと謂ふべからず。
其の之を國と云ひて島と謂はざるは、上に筑紫四國の名を擧げたるによりて紛れたるものか、或は熊襲征討の古傳説によりて、熊襲國の名人口に膾炙せしより生ぜし誤りならんも知るべからず。

舊事本紀の筑紫四面に關する記事
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
筑紫島身一つにして面四つあり、面毎に名あり。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を速日別と謂ひ、日向國を豊久士比泥別と謂ふ。
次に熊襲国を建日別と謂ふ一に謂ふ佐渡島と
とあり。
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。

舊事本紀の價値
元來舊事本記は僞書として、従來多くの學者の排斥する所なれども、そは本書を以て聖徳太子御撰の書なりと稱するが為にして、其の記事の内容、必ずしも悉く捨つべきもののみにあらず。
本書はもと日本紀、古事記、其の他の古書の章句を抄録して、編を成せるものなれば、中には重複もあり、矛盾もあり、一編の著書として整備せるものにはあらず。
随って其の記事が抄録せられたる原書以上に、史料としての價値なきは勿論なれども、而も編次は少なくも平安朝當時にして、恐らくは延喜以前にありきと認めらるるほどの古書なれば、中には其の抄録せられたる原本の、全く後世に失はれてもはや見るべからざるもの少なからず。
又其の存するものと雖、本書によりて後に傳冩の失より生じたる魯魚焉馬の誤謬を訂正すべきものなきにあらず。
而して此の熊襲國の記事の如き、亦實に其の一例とすべきに似たり。
即ち當初の古事記は、舊事本紀之を轉載するが如く、漠然九州東南部の地方を日向の域とし、筑紫筑前筑後、豊豊前豊後、肥肥前肥後、の三國とともに之を筑紫四國と數へ、別に熊襲島を其の次に置きしものにして、所謂大八洲中にはもと佐渡を脱せしものにてはあらざりしか。
されど日本紀編纂せられて、此の書世間に流布し、景行天皇西征の際の熊襲の位置が、日向の南部に當るが如く世人に解せらるるに至りてより、後には日向を以て熊襲國と同一視し、遂に此の誤謬を生ずるに至りしにてもあるべし。
今古事記の諸本を取りて之を閲するに、本居宣長古訓古事記に於て、筑紫四面に日向國を除くの説を採りてより、世人多く是に見慣れたれども、寛永の版本、渡會延佳の〇頭古事記を始めとして、元々集所引古事記等、皆日向を四面の一に數へ、其の説もと一般に行はれたりしを知る。
然るに古事記傳には、
此ノ處舊印本及延佳本、又一本などには、肥國謂二速日別一、日向國謂二豊久士比泥別一と作(あ)り。
されど如此(かく)ては、上に有二面四一云々とある數に合はざれば、日向ノ國の無き方ぞ古本なるべき。
然るに右の如く日向ノ國の加はりたる本は、舊事紀に依って後人のさかしらに改めたるものとこそ思はれる。
           
と云ひて、上の「面四つ」といふことに重きを置き、又舊事本紀の記事を引きて、
舊事紀に右の如くあるなり。
其は此の記を取って記すとて、日向のなきを疑ひて、彼の日向日とある亦ノ名を其(それ)として、下の日ノ字をを國に改め、其の下に謂ノ字を補ひて、豊久士比泥別を其の日向ノ國の亦ノ名とし、又然為(しかす)る時は、肥ノ國の亦ノ名建一字になりて足(たら)ざる故に、次の熊襲の國の亦ノ名に效(なら)ひて、日別ケの二字を加へ、又さては熊襲のと全ク同じき故に、建を速に改めつるものなり。
凡て彼の書はかくさまのさかしらいと多し。
されど上の有二面四一とあるには心づかで、其(それ)をば改めずて、偽りの顕はれたるぞをかしき。
然るを後ノ人此ノ舊事紀のさかしらなる事を得曉らで、日向ノ國の有(ある)を宜(うべ)なりとして、遂に此ノ記をさへに然(しか)改めつる、其の本の世には流布れるなりけり。
 
とて、甚しき臆説をさへ加へたり。
されど熊襲を舊事紀の如く筑紫四面の外に置かんには、面四つといふに何等の支障を生ずべからず。
況や肥の國の別名を建日向日豊久士比泥別としては、此の名のみ特に長くて、他と權衡を失するのみならず、一方には日向の名を東方に向ふの義と解しながら、主として西海に面する肥の國の別名に、日向日の語あることも如何と思はれ、又西肥の域より九州脊梁山脈を越えて、遠く東海岸にまで渉り、之を通じて肥國として、筑紫四面の一に置かんこと、地理上到底首肯すべからざるあるをや。
本居氏の説蓋し千慮の一失なるべし。

熊襲國の位置に關する思想
熊襲のことは後に詳説すべきも、もと是れ或る民族の名稱にして、定まりたる一國の名にあらず。
又日本紀の傳ふる所によるも、其の域必ずしも日向、大隅、薩摩の地方と一致すべきにあらざるなり。
仲哀天皇朝の熊襲征討が、筑前香椎宮を根據として行はれ、其の陣中賊矢に當り給へりと言はるる同天皇が、痛身(いたづき)の翌日香椎宮にて崩じ給ひきと傳へらるるが如き、又其の後神功皇后神教のままに、吉備臣の祖鴨別を遣して討たしめ給ひし熊襲國が、浹辰(しばらく)を経ずして自ら服せりと稱せらるるが如き、又皇后自ら兵を用ひ給ひし範圍が、筑前、筑後の外に出でたりとは見えざるが如き、偶々(たまたま)以て古への熊襲の國が、筑前香椎を距る甚だしく遠からざりし地方にも存したりと信ぜられたりし證とすべし。
されば日隅薩地方と熊襲とを一國とし、之を以て筑紫四面の一とせんは、之を孰れの方面より論ずるも到底容るべきにあらざるなり。
古事記に所謂熊襲國は、實は古傳説に存する異族熊襲占據の國を、漠然と然か呼稱せるものにして、天孫降臨三代神都の地と信ぜられたる日向國と同視すべきにあらざるなり。
後に隼人の國として認められたる薩、隅二國が、行政上漠然日向の域内に編入せられたりしは當時の地方に於ける異民族が多く夙に邦人に同化し、是と融合して其の蹟を邦人中に没せし後の事にして、なほ平安朝に於て本州北端の蝦夷の國が、漠然陸奥、出羽の中なりと認められたりしと同一の現象なりとすべし。
されば此の形勢を以て、必ずしも太古の傳説を律すべきにあらず。
奥羽の南部も嘗ては蝦夷の國たり。更に遡りては關東地方も、又其の西の地方も、同じく蝦夷の國たりし時代のありしことを考へ合すべきなり。

豊久士比泥別の名と日向
更に思ふに「豊久士比泥別(とよくしひねわけ)」の名、既に日向に縁故あるが如し。
「豊」は美稱にして「別」は男子の別稱なれば、暫く其の名より之を除き、其の中間なる「久士比泥」の語に就いて考ふるに、其の音蓋しクシフル、又はクシヒといふに近し。
天孫降臨の地を日向の高千穂の久士布流(くしふる)の嶽といひ、或は槵日(くしひ)の高千穂の峰と云ふ。
國音往々良好と奈良と相轉ず。
日本紀に武夷鳥(たけひなとり)命とある神を、古事記に武比良鳥(たけひらとり)命と云ひ、越前の角賀(つぬが)を後世ツルガ(敦賀)と呼び當國財部(たからべ)を後にタカナベ(高鍋)と稱し、周防の束荷(つかに)をツカリと呼び、信濃の小谷(おだに)をヲダリといひ、近江の男鬼(ををに)をヲヲリと讀み、又「稲荷」と書きてイナリと訓ずるの類皆是なり。クシヒネとクシフルと、其の語源を一にすと解する、其の理由なしと謂ふべからず。
而して其のクシヒと謂ふは、或は其の末音を略したるものにてもあるべきか。
果して然らば、豊久士比泥別の名を以て、肥國の別名なりとせんよりは、之を日向の別名なりとするを當れりとせん。
此の事亦以て、筑紫四国を筑、豊、肥、日の四国となす古傳説の傍證となすべからんか。
而もなほ疑ひなきにあらず。
試みに記して後の考を俟たん。
若し夫れ熊襲の事、並びに其の隼人との關係に就きては、更に第二編第三章景行天皇西征の條以下の諸章に詳説すべし。



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