2016年10月24日
叙任権闘争‐西洋史概説リポート
「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。 |
皇帝VS教皇
ヨーロッパの覇権はどちらの手に
叙任権闘争‐西洋史概説リポート
簡単に述べると、叙任権闘争とは、11世紀〜12世紀にかけて、司祭の叙任権を媒体としヨーロッパの覇権をかけた皇帝と教皇の戦いである。
キリスト教は、ヨーロッパ各地に教会が建設され、信者の数が増えた。
ヨーロッパではキリスト教は人間の精神的な部分を支配する道徳、みえない法律にまで成長した。
そして、西ヨーロッパではローマ司教が、だんだんと各地の教会の中で首位性を確立していった。
西ローマ帝国が滅亡後、西ヨーロッパでは皇帝という地位は実質的には存在していなかった。
しかし、キリスト教徒であるカール大帝(747〜814)は、800年教皇レオ3世(位759〜816)により西ローマ帝国皇帝として戴冠をうけ、ここに皇帝権が復活した。
そして、800年のカール大帝の戴冠により、西ヨーロッパには教皇と皇帝という2つの権力が存在する世界となった。
両者の対決は歴史の必然的な流れなのかも知れない。
叙任権闘争は、教皇グレゴリウス7世(位1073〜1085)が教会改革に乗りだした所から始まった。
聖職販売聖職者の罷免、妻がいる聖職者のミサ執行禁止、教皇の命令に違反した聖職者の行う典礼への信徒の参加禁止、違反者には免職、政務停止などの制裁を与えた。
また、皇帝や貴族封建諸侯らによる叙任を禁止した。そして、これに関連して、教皇令書を制作した。内容は、教皇は全世界の頂点で皇帝よりも上、すべての聖職者は教皇によってにみ任命されるというものである。
しかし、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世(1050〜1106)は教皇に従う気はなく、1075年教皇令書が出たといわれている直後に、ミラノの大主教をハインリヒ4世の同意により決定した。
これに対して、グレゴリウス7世は皇帝を激しく非難した。
その結果、皇帝は教皇の廃位を声明したが、逆に教皇はハインリヒ4世を破門し、破門状を公開した。
こうして叙任権闘争の火蓋は切られた。
これは単に叙任権問題の争いだけではなく、まさしく教皇権と皇帝権の激突である。
ドイツの多数の諸侯は皇帝権の拡大を恐れていたので教皇に味方しハインリヒを廃位させようと考えていた。
そして、破門が解除されない場合は、教皇臨席の下で諸侯会議を開き皇帝に対する最終措置を決めることを申し合わせた。
ハインリヒは会議の見通しが自分に不利なことを察知していたので、会議前になんとしても破門を解いてもらう必要性を感じていた。
そこで冬のアルプスを越え教皇が滞在していた城門の前に佇んで皇帝は3日間許しを求めた。その結果ついには教皇は皇帝の破門を解いた。
これが有名なカノッサの屈辱である。
そして、反対勢力のドイツ諸侯は新しい皇帝を選んでハインリヒに対抗したが戦争に敗れハインリヒの立場は絶対的に有利になった。
ハインリヒの権力拡張を恐れた教皇は再度破門したが時すでに遅く、逆に対立教皇を立てられた。
そして、皇帝軍の攻撃を受けたグレゴリウス7世はローマを離れなければならなくなった。
最終的にはハインリヒ4世の勝利に終わったが、まだ叙任権闘争が解決したわけではない。
その後、1105年ハインリヒ5世(1086〜1125)が帝位についてから、再び叙任権問題は最熱した。
しかし、教皇と結び自分の権力を拡張しようと企む諸侯達の反抗に皇帝は苦しみついには、1122年ウォルムス協約で皇帝は司教の叙任を放棄し、挙式は皇帝の前で行われ、選出された者には封土を与えるときめた。
妥協案ではあるが、叙任権闘争は終結した。
叙任権闘争が世界史に与えた影響ははかりしれない。
皇帝自身が諸侯の一人で他の諸侯を押さえるために、司教の叙任権を利用して権力を確立していたが、叙任権闘争の結果、皇帝の神格性は失われ権力は衰退した。
そのため、ドイツではますます皇帝は、各諸侯の勢力を押さえることができないようになり、封建化がよりいっそう進展していったのである。
その他、叙任権闘争の最中、1095年教皇ウルバヌス2世(1035〜1099)は教皇権の優越を目指していた。
そして、キリスト教による権力拡大を目指した第1回十字軍の成功で教皇は優勢に立った。
十字軍は、ヨーロッパ各国の国王や諸侯などが協力して軍隊を作り聖地奪還を目標とした。
十字軍の影響で、ヨーロッパでは教皇を頂点としたキリスト教と多くの国家という、連帯した共通の意識を持った、ヨーロッパ世界が形成された。
最後に、聖職者たるものは信仰心に厚い人格者でなければならないということから教会改革運動が生まれた。
以後、聖職者の人格や信仰が大きな影響力をもつようになり、宗派が多くできる原因ともなった。
それは、現在でも続く宗教戦争の遠因となったと言っても過言ではない。
そして、聖職者の人格を問題にする事は、当然、叙任には、俗権の利益を求めた都合のよい任命では問題となる。そのため教会当局、すなわち教皇にこそ聖職者の叙任の権限が必要となる。
しかし、皇帝や国王からしてみれば、すでに教会は行政の一部であり、教会領からの収入もある。
そうなると教会も俗権の利益の中にあり、その両者の衝突は教会の機能とは何か、国家との関係は何か、教会を法的権限と組織の中において良いものなのかなど様々な問題を考えさせる要因となった。
(西洋教会史 小嶋潤 刀水書房)(西欧中世史(中) 江川温 服部良久 ミネルバ書房)(世界歴史10中世4 岩波書店)
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