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2020年10月10日
45歳の春に念願の大学院への進学
45歳の春に念願の大学院への進学
通信制大学を卒業して15年が経過した。
マンネリ化が続く毎日。
刺激が欲しかった。
そこで考えたのが大学院への進学である。
決断してからのスピードは早かった。
説明会に参加し、その勢いで受験をした。
合格者が張り出された日、現地まで見に行った。
合格する自信はあったが、少し不安だった。
予想通り、自分の受験番号が掲示板に張り出されていた。
特に感動もなくその場を立ち去りバイクのエンジンをかけようとしたその時、何故かもう一度掲示板を見たいと思った。
もう一度掲示板を見てみた。
何故か顔が濡れていた。
涙だった。
これまで、受験と名の付くものは全て落ちていた。
高校受験の失敗。
そして、大学受験の失敗。
志望校の合格は初めてであった。
そんなわけで、現在高校教師を続けながら、夜間の大学院に通っている。
おじさんになって青春を送っている、そんな感じだ。
タグ:大学院
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2020年09月02日
教育実習で母校へ
教育実習で母校へ
なんとか、ぎりぎり、二〇代の二九歳の大学四年の春、教育実習を行った。教育実習は前年に直接実習高へ自身がお願いに行く。
私の場合、卒業した高校が私立高校だったので、母校へ直接お願いに行った。快く引き受けてくれ、実習が決定した。
私は一年生のクラスについた。また、教科は日本史、世界史、現代
社会で三週間の教育実習を行った。
まだ私もぎりぎり、二〇代だったので、今思えば生徒との距離も近く、楽しい思い出となった。授業の方は、もちろん、なかなかうまくいかずに何時も四苦八苦していた。久しぶりに帰ってきた母校で、教員と言う仕事の素晴らしさを体験できた。
教育実習の最後は研究授業で締めくくる。
研究授業とは、予め授業の資料や指導案を提示し、また、教員が実際の授業を見学して、授業後に批評会を行う授業の事を指している。
きちんとした、指導案を作るのは初めてで、また、たくさんの教員に見てもらうのは、とても緊張する事であった。
授業の内容としては、モンゴル帝国の領土拡大をテーマにした授業であった。最初こそ緊張したが、途中からは自分自身が授業にのめり込んでしまい緊張も無くなった。
普段はうまくいっていない授業であったが、この時は生徒も協力してくれて何とか授業を乗り切ったと感じている。
生徒の協力は裏で支えてくれた教師集団の口添えがあった事は言うまでも無い事である。
授業後の批評会では、これからの教員なので、良い事を中心に言って褒めて伸ばそうと言う事で、たくさんのプラスの意見をもらった。私自身褒めて伸びるタイプなので、とても良い感じで教育実習を終えることができた。
最終日の夜に指導教官から夕食をご馳走になった。この時思ったことは、もし自分が教師になる事ができたら、何時かは指導教官となって、若い教師の卵を育ててみたい。
そして、最終日に自分が指導した若い教師の卵に、ご飯をご馳走しようと思った。私が指導教官からご馳走になったそのお返しは、自分の教え子に返そうと思ったのである。
この私の思いが達成されるのはこれから、約一〇年の歳月が必要になる。教育実習から一〇年後、初めて教育実習生の指導教官に任命されて最終日教育実習生を飲みに連れて行き、自分の支払いを行おうとした実習生にこのエピソードを語った。
私が育てた実習生が教師になり、指導教官になった時は是非同じ様にして欲しいと思った。
世の中の繋がりに不思議な気持ちになった。
教育実習の全行程が終わり、よりいっそう教師になりたという気持ちが強くなった。自分は教師になるしかないと再確認ができた。
なんとか、ぎりぎり、二〇代の二九歳の大学四年の春、教育実習を行った。教育実習は前年に直接実習高へ自身がお願いに行く。
私の場合、卒業した高校が私立高校だったので、母校へ直接お願いに行った。快く引き受けてくれ、実習が決定した。
私は一年生のクラスについた。また、教科は日本史、世界史、現代
社会で三週間の教育実習を行った。
まだ私もぎりぎり、二〇代だったので、今思えば生徒との距離も近く、楽しい思い出となった。授業の方は、もちろん、なかなかうまくいかずに何時も四苦八苦していた。久しぶりに帰ってきた母校で、教員と言う仕事の素晴らしさを体験できた。
教育実習の最後は研究授業で締めくくる。
研究授業とは、予め授業の資料や指導案を提示し、また、教員が実際の授業を見学して、授業後に批評会を行う授業の事を指している。
きちんとした、指導案を作るのは初めてで、また、たくさんの教員に見てもらうのは、とても緊張する事であった。
授業の内容としては、モンゴル帝国の領土拡大をテーマにした授業であった。最初こそ緊張したが、途中からは自分自身が授業にのめり込んでしまい緊張も無くなった。
普段はうまくいっていない授業であったが、この時は生徒も協力してくれて何とか授業を乗り切ったと感じている。
生徒の協力は裏で支えてくれた教師集団の口添えがあった事は言うまでも無い事である。
授業後の批評会では、これからの教員なので、良い事を中心に言って褒めて伸ばそうと言う事で、たくさんのプラスの意見をもらった。私自身褒めて伸びるタイプなので、とても良い感じで教育実習を終えることができた。
最終日の夜に指導教官から夕食をご馳走になった。この時思ったことは、もし自分が教師になる事ができたら、何時かは指導教官となって、若い教師の卵を育ててみたい。
そして、最終日に自分が指導した若い教師の卵に、ご飯をご馳走しようと思った。私が指導教官からご馳走になったそのお返しは、自分の教え子に返そうと思ったのである。
この私の思いが達成されるのはこれから、約一〇年の歳月が必要になる。教育実習から一〇年後、初めて教育実習生の指導教官に任命されて最終日教育実習生を飲みに連れて行き、自分の支払いを行おうとした実習生にこのエピソードを語った。
私が育てた実習生が教師になり、指導教官になった時は是非同じ様にして欲しいと思った。
世の中の繋がりに不思議な気持ちになった。
教育実習の全行程が終わり、よりいっそう教師になりたという気持ちが強くなった。自分は教師になるしかないと再確認ができた。
2020年08月03日
卒業論文の制作、初めての本格的な歴史研究
卒業論文の制作、初めての本格的な歴史研究
卒業論文の制作は気の遠くなる作業であった。
第一文献にあたるのが卒論の基本である。
空襲がテーマの卒業論文で、第一文献と言えば、高松空襲経験者の生の声である。この高松空襲経験者の記録は高松空襲手記編という形で本になっている。空襲経験者の証言をまとめて、共通点を見つけていく、研究は根気と時間が必要であった。
どのような研究も同じで、一つの説を打ち立てるには、証拠が必要で、その証拠は多ければ多い方が良い。
証言者の意見が多ければ多いほど、その説には信憑性が生まれ、また、証言以外の別の資料を証拠として提出できれば定説になる可能性が出てくる。
例えば、一例を挙げると、高松空襲が始まった時間だが、高松空襲経験者の証言では、七月四日午前一時から二時の間に空襲が始まったとする証言が大半を占める。
この証言を裏付ける資料として、高松市史年表がある。この資料は議会や消防などの公的な機関の報告書をまとめた資料で、現地の人達が作った信憑性の高い資料である。この高松市史年表では高松空襲の始まった時間は一時四八分頃と記載されている。
当時の公的機関の正式発表と空襲経験者の証言がほとんど一致しているので、ほぼ確かな説と言える。
しかし、どのような歴史にも、様々な説が存在する。この高松空襲の開始時間に関してもそれは同じである。
実例として、高松市市民文化センター平和記念室の展示には、高松空襲の始まった時間は七月四日の午前二時五六分と記載されている。
実に、高松市史年表と一時間以上の誤差が生じている。
この二時五六分を裏づけする資料として、サイパンのマリアナ基地の出撃に関する米軍資料が挙げられる。この資料を見ると、二時五六分は第一目標上空時間と記載されている。
では、高松市年表の午前一時四八分とマリアナ基地の二時五六分のどちらが有力な説なのかを考察してみる。米軍の資料は、一番機の到着の目標時間なので、あくまでも予定と考える事ができ、実際に到着した時間とは違うのではないかと考察する事ができる。
そのように考えると、決め手になるのが第一資料である。
第一資料の空襲経験者の証言では、午前一〜午前二時の間という意見が多いので、一時四八分の方が空襲の経験者の証言に近い為、高松空襲が始まった時間は一時四八分ぐらいと考える事が妥当である。
だが、また、新たな視点や資料が登場すれば、私が研究した説は簡単に覆るだろう。それが歴史研究だと思っている。
過去の定説がいとも簡単に変わるところに、歴史の面白さと難しさを感じる事ができる。
これ以外にも、最初の爆撃地、終わりの時間、空襲中の行動、出撃数、空襲前、空襲後、全国的な比較、復興など様々な視点を高松空襲経験者の証言を中心に、数多くの資料を裏づけにして研究を進めていった。
研究を進めていくと高松空襲の真実と全体像が浮かび上がって来る。
高松空襲の全体像から他地域の空襲と比べることによって、次は、日本全体での本土空襲の様子が見えてくる。
高松空襲を研究する事によって、昔流行った、アメリカ軍は文化遺産を避けて空襲を行ったという、ふざけた俗説を一蹴する材料の一つにもなった。
京都は原子爆弾投下の候補地でしかなかったと言う事だ。
米軍の本土空襲はそんな甘いものではない。アメリカの攻撃は国際法を無視した、大量殺戮と徹底的な破壊があるのみである。
2020年07月04日
広島と高松の共通点とは?卒業論文のテーマが舞い降りた日
広島と高松の共通点とは?卒業論文のテーマが舞い降りた日
卒業論文のテーマを決定づける出来事がたまたま訪れた。
広島の街を歩いているとき、ふと、頭の中に突然、卒論のテーマが頭に入ってきた。
なにかアイデアが浮かぶ時は何かをしている時に浮かぶことが多い。
広島とくれば原子爆弾、おそらく、日本中の殆どの人たちが思いうかぶ事であろう。
卒業論文のテーマ設定では、今まで誰も研究していない事柄が好ましい。この点で行くと広島の原子爆弾はあまりにもメジャーで卒業論文のテーマとしては相応しくない。
私が広島の町を歩いてふと思ったことは、街並みがある町に似ていることであった。
実際に歩いてみて思った広島の町の特徴は、太くて大きな碁盤の目の様になった道路と大きな商店街であった。大きな道路を碁盤の目のように張り巡らせるためには、計画的な都市計画が必要である。
広島に似ている街並みは香川県の高松である。高松の町も碁盤の目のように張り巡らされた大きな道路と日本一大きな商店街が特徴である。
広島と高松が似ているのは、たまたまなのか、それは、偶然でなく必然であることを私は気付いてしまった。
広島は原子爆弾の投下によって町が焼け野原となり、戦後復興を果たした。
高松市も高松空襲によって焼け野原となり、戦後復興を果たした町という共通点が存在していた。
香川県民ですら広島の原爆は知っていても高松空襲の事は知らない人が多いようだ。
どの地域も同じだと思うが、日本の現在のカリキュラムでは地方史、すなわち、高松空襲の様な、地方の空襲を取り上げる授業は基本的には存在していない。という事は、東京大空襲や広島、長崎の原爆の事は知っていても、自分が住む地域の空襲の事は知らない人が多くいるという事である。実に嘆かわしい事だと思う。
私自身が高松空襲の事を知った理由は私の恩師からの話がきっかけである。その話の内容は、高松に住んでいた恩師の親が高松空襲の日に、たまたま用事があって、別の所に行っていたので命が助かった。
もし、親が高松にその日居たら、自分自身はこの世に生まれてくることはなかったであろうと言う話をたまたま覚えていた事である。何故かその話は私の記憶に鮮明に残った。
私の卒業論文のテーマは高松空襲に決定した。この高松空襲との出会いが、今後の私の人生を大きく変えていくことになろうとはこの時、知る由もなかった。
2020年06月05日
卒業論文のテーマを考える‐課題の選びかた
卒業論文のテーマを考える‐課題の選びかた
大学卒業の最大の関門は卒業論文であった。卒業論文を仕上げる事が大学に通う目標の一つでもあった。
卒業論文の制作では、資料は第一資料を使うこと。原則、まだだれも研究していないテーマで行うことが求められた。
卒論のテーマを考えると、古典、漢文、外国語が苦手な私にも唯一得意な言語がある事に気づいていた。
その言語を使うことでしか、四年で卒業する道は残されていなかった。その言語は小学生でも一般的には得意な言語で、現代日本で使われている日本語の事である。日本語ができれば、人生なんとかなる、この時そう思った。
なんとか、近代の文章からは読めるようになっていたので、第一文献を読むことができる、日本近現代史で卒業論文を書くしか方法が残されていなかった。
当時の私は日本近現代史にはそれほどの興味と関心は無かった。今思えば、愚かで無知、歴史のことなど薄い知識でしか知らない人間であった。
日本近現代史にそれほど関心がなかった理由は、第二次世界大戦のイメージが強く、日本は敗戦国家で、中国、朝鮮、東南アジアなどで極悪非道な悪いことばかりして、ナチスドイツと組んで世界を混乱させる悪の根源的な負のイメージしかなかった。その為に近代史にはあまり興味は持てなかった。
しかし、違う見方をすると、欧米列強のアジア支配に対して日本がアメリカやイギリスと戦った。この戦争はいわば、アジアの解放の為の戦いであるという視点が存在している。むしろ、世界を混乱へ導いていたのが、アメリカやイギリスを中心とした欧米列強の帝国主義にある事に気づかされた。
近現代史を深く研究して、勉強していく内に、これまで持っていたイメージが一方的なイメージにしか過ぎず、様々な視点が存在している事を知り、歴史の奥深さを痛感していく事になる。
どのような歴史であっても、様々な説が存在していて、絶対が無い。二次世界大戦でいえば、なぜ、日本が中国やアメリカ、イギリスなどを相手に戦争をしなければいけなかったのか、その理由を探っていくと、そこには今まで見えなかった新たな視点が隠されている事に気付いたのである。
資料が豊富に現存しているが為にロマンや空想では語れない近現代史、だからこそ、一言では語れない、多様な真実が近現代史には存在している。
2020年05月06日
3年目の大学生活!折り返しのターニングポイント
3年目の大学生活!折り返しのターニングポイント
2年目以降順調に単位を修得していった。それは、3年目でも継続され、3年目が一番多くの単位を修得することができた。
三年目になると、そろそろ、卒業論文のテーマを考えるだけでなく、予定している教育実習のことも考えていく学年になる。
とても、忙しいが、充実した一年となった。
生活のサイクルも確定してきた。
リポートのネタを探す。リポートを作成する。単位修得試験が近づくと、テスト勉強をする。夏と冬にスクーリングに行く。この年間のサイクルが出来上がった。
ルーティンが出来れば強いものである。
このままいけば、卒業と教員免許も取得できると、ある程度ゴールも見えるようになってきた。
しかし、それとは、同時に本当にこのまま上手く事が進むのかと不安もあった。
大学三年は、充実した大学生活の日々、順調な日々、忙しい日々、不安な日々、考える事が多い日々など、様々な感情が入り乱れた一年間となった。
この一年間が今後を左右するキーポイントになった。
タグ:大学生活
2020年04月07日
法政大学通信教育のスクーリング宿舎について
法政大学通信教育のスクーリング宿舎について
法政大学のスクーリングは、夏と冬におこなうのが一般的だ。午前中と午後に分けて、2科目を月曜日から金曜日まで授業をする。土曜日にテストがあり、日曜日は休みになる。この一週間のサイクルが、数回続く。
スクーリング中に困るのが、宿舎だ。私のように地方出身者にとって、宿泊先を確保するのが、大仕事になる。出来るだけ安く宿泊したいのが本音だ。大学側から、発行される冊子で、宿泊先の紹介がされる。
〇主な宿泊パターン
・ルーテル市谷センター
自分自身このルーテル市谷センターに宿泊する場合が多かった。三人一部屋で、法政大学の通信生ばかりの部屋になる。通信生同士の交流には向いている。
・ユース
私自身は利用したことは無いが、ユースを利用する学生も多い。こちらは大部屋を共同で使用する。
・ホテル
ホテルで連泊する人もいた。お金はかかるが、プライベートは守れる。
・ウィークリーマンション
一度使用したことがある。集中して勉強をするには適している。プライベートが守れるが、交流が出来ないので、私には向かないと感じた。
・その他
少数だが、ファミリーレストランで過ごして、宿泊代を浮かす人もいた。私は流石にここまで出来ないと感じた。
タグ:大学生活
2020年03月09日
スクーリングでのプチ大学生活‐大人でも学生気分を楽しむ方法
スクーリングでのプチ大学生活‐大人でも学生気分を楽しむ方法
通信制大学と言っても、全ての単位を通信で取るわけではありません。30単位以上は必ずスクーリングで修得する必要があります。30単位と言うと、約一年分の単位に相当します。
社会人になると、仕事の都合をつけるのがとても難しい。私自身は、うどん屋でアルバイトをしていたので、それほど問題なく、スクーリングには通えました。
スクーリングの日々でプチ大学生活を送ることが出来ました。何度もスクーリングに参加していると、顔なじみも増え、交流を持つことが出来ました。同性、異性、年代と関係なく、幅広く知り合いました。
もちろんその中には、恋愛も含まれています。全国の女性と知り合う機会は普段、なかなかあるものではありません。それもスクーリングの楽しみでありました。私自身、スクーリングを通じて付き合った女性がいましたが、スクーリングが終わると、遠くに離れ離れになり、上手く付き合いを続けることが出来ませんでした。しかし、今となっては良い思い出になっています。
憧れの大学生活を送れなかった私にとって、通信制大学でのスクーリングは、それにあてはまる貴重な体験です。
タグ:大学生活
2020年02月10日
中年のおっさんでも英語の教員免許が取れるか?2019年10月‐日本大学通信教育部英文学専攻
中年のおっさんでも英語の教員免許が取れるか?2019年10月‐日本大学通信教育部英文学専攻
2019年10月20日(日)に第3回目の単位修得試験を受験しました。
今回受験した科目です。
1限目…英文法
2限目…イギリス文学史1
3限目…英語科教育法4
4限目…イギリス文学史2
の四科目です。
今回の試験で、4単位の科目の内、2つ合格できれば、高校英語一種の教員免許が取得できます。
英文法、イギリス文学史1、イギリス文学史2の内、2つ以上合格すれば、ねんがんの高校英語免許が取れます。
大手のかかった状態で、ついにここまで来たかと言う感じです。
う〜ん、ここまでの道のりは長かった。(頑張ったね♪)
受験した感想としては、イギリス文学史1と2は合格の自信があり、英文法と英語科教育法4はおそらく不合格だと予想する。
はたしてその結果は・・・。
*結果は11月の中旬には発表される。
そして、11月の中旬に結果が発表。
●試験の結果
〇英文法
↓
不合格
予想通りの結果
〇イギリス文学史1
↓
合格
予想通りの結果。そしてなんと(すいちょうけん)、Sランクでの合格。Sランクはたぶん、A反対の上をいく合格ラインかと。
〇英語科教育法4
↓
合格
予想に反しての合格にびっくり仰天。
あきらめずにほとんどの問題を解答したのが勝因かも。
〇イギリス文学史2
↓
不合格
が〜ん、絶対の自信があった科目だが、現実は不合格。意味不明です。不合格になった理由を分析して、次の試験でリベンジをはかる。
試験の結果、今回は高校一種英語の教員免許は取得できなかった。
ショックだが、次は必ず合格すると誓う。
〇決意
思い返せば、学生時代英語が不得意で、その結果、高校受験と大学受験に失敗しました。中学時代の定期試験では100満点中、8点を取ったこともあります。そんな私が、40代にしてふんきし、英語の教員免許取得のために勉強をはじめました。そのむぼうと思える挑戦も、もうすぐゴールが見えます。次のテストでは必ず、英語の高校教員免許を手に入れると決意します。
日本大学通信教育部英文学専攻について、くわしくは別ブログにて記事を書いています。
世界が君を待っている英文学科大学生
にて配信しています。
2020年01月12日
プラトンについて!法政大学通信教育部文学部史学科倫理リポート
プラトンについて!法政大学通信教育部文学部史学科倫理リポート
プラトンはソクラテスに大きな影響を受けた1人である。
それは、主にソクラテスとの対話方式で書かれた初期対話篇に見られる。
ソクラテスの倫理は主に対話を通じて相手の無知を自覚させ、新たに真の知を探索させようとする方法である。
つまり、人間の生き方は自分自身を知ることによって、自分自身を含めた人間は知者の存在ではなくて、無知の存在であるとし、人間は無知であるからこそ、自分自身に無い知を愛し、そして、知を求めるものだと考えた。
ソクラテスの生き方は、ほんとうに生きるとはどういうことかを問い続けた生き方だと思われる。
ソクラテスの生き方に対して、ペロポンネソス戦争に敗れ、政治的、社会的に不安に陥っていたアテナイでは、反感の意を唱える者も現れてくる。
そして、最終的には死刑となって、死んでいくわけである。
プラトンは師匠であるソクラテスの運命な死を目の当たりにして、人間の本当の生き方や国家のあり方、道徳のあり方など考えさせられたと思われる。
プラトン哲学は後期には自己流の哲学へと発展を遂げると考えられているが、しかし、根底にはソクラテス哲学が存在していると思う。
ソクラテス哲学は主に人間を対象にしていたのだが、プラトン哲学は人間だけでなく、国家や宇宙など、その領域を広げた所に特徴があると言えるだろう。
プラトンの倫理学の中心となるのは、イデア論だと思われる。
イデアとは、形相のことで、プラトン流の解釈なら、実在するものや真実のものと言った物事の本質を表す言葉である。
例えば、美しいと感じる物があったとするなら、その美しい物のなかには、永遠不変の美のイデアが存在していると考えられた。
プラトン哲学の特徴は、物体や固体よりもその内側にあるものを重要視している。
言いかえると、現実世界にある物よりもイデア界を重要なものとして扱っている。
人間の生き方で考えるなら、肉体を鍛えるよりも、内側の精神や魂などを鍛える方が重要であるとの考えである。
この考え方は、魂の世話を主張した師ソクラテスの思想ともほぼ同じと見る事ができる。
プラトンの考え方は、神が自然の万物を作りあげる時にその原型となるのがイデアだと考えた。
すなわち、イデアは万物を創造する時の設計図のようなものであると考えられる。
このようにイデアは神の意志が入った神聖なものとされた。それに対して固体は模型にしかすぎないと考えられた。
この神の思想のような空想的で非現実的な考え方は、プラトンの倫理学では重要となってくる。
それは、人間にとって偉大なことは、神にとらわれることであるとの思想である。
神に人間がとらわれると言う事は、すなわち、神よって人間の意思が動かされる事を意味している。
例えば、恋愛をしているときなど、自分自身には恋愛相手の良さが分かるが、しかし、他人にはまったく、恋愛相手の良さが理解されない。これは、神にとらわれたことによって、その人にしか分からない相手の良さを発見することである。
このように、人間の生き方は神の意志と密接に関りをもっていると考えられた。
このプラトンの空想的な神の思想は、後に、中世キリスト教の教義などと結びついていき、歴史的にも人間の生き方に大きな影響を与えることになる。
また、プラトンは魂の三分説を唱え、魂をイデア界に関る部分と現象社会に関る部分との2つに分け、また、現象界は勇気と欲情的なものとに分けられるとした。
プラトンは魂の三分説の中で、理性は魂を支配し、正しく導く存在と考えられ、勇気は理性のよき支配を受けながら、理性を助けて欲情を正しく導く存在とし、また、欲情は健全な肉体を維持する存在だと考えられた。
また、プラトンは人間の生き方だけでなく、政治にも興味を示している。
理想の国家を作るためには、その統治階級者となるべき人には徹底した教育が必要であると考えた。
そのため、プラトンは学園アカデメイアを創設し、学園で理想国家の統治者になるべき人間を育てていくことになる。
プラトンの理想国家論は理想的な人間と理想的な国家は本質的には同じだと考えた。
そのため、理想的な人間を育てることは、理想的な国家を作る事と同じあると考えた。
プラトンの理想国家論は、人間を3階級に分け、それぞれの階級には独自の任務と道徳観が必要であると考えられた。
まず、上級者階級は法律や制度の制定などを行い、また、市民を統率することを主な任務とする。上級者階級に必要な徳は知恵であるとかんがえられた。
次ぎに防衛者の階級は国家の防衛を行うので、戦う事を主な任務とする。
防衛者階級が必要とする徳は勇敢である。
次ぎに生産者階級は国家が必要とする生活必需品の生産が主な任務で、必要とする徳は節制である。
また、以上三つの徳を国家活動の中で統一されることによって、調和が生まれ、そして、公正という徳が生まれる。
これら4つの徳によって国家が理想的に運営されると考えられた。
これら4つの徳のうちもっとも重要な徳と思われるのは知恵だが、しかし、それは、4つの徳全てが理想的に機能している状態でのみ発揮されることである。
4つの徳が理想的に発揮される倫理的社会とは国家の事を指している。
(西洋哲学史 今道友信 1987 講談社 参照)
(プラトン初期対話篇研究 上田徹 2001年11月20日 東海大学出版会 参照)
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