2018年04月23日
仲良きことは 親日 その5 命のビザ
リトアニアのカウナス領事館で
杉原が発行したビザの数は正確には分からない。
発行記録をとる時間すら惜しんで
1枚でも多くのビザを書き続けるため、
一人でも多くの人を助けるために。
しかし、ビザを発給された全員が
ウラジオストックにたどり着けたわけでもなかった。
シベリア鉄道の旅にも多くの困難が待ち受けていた。
それでも数千人の難民が
ウラジオストックに次々とたどり着いた。
さて、ここからがまた大変。
ウラジオストックから船で敦賀に運び入国手続きが必要となるが、
ポーランド(杉原)ビザのキューソラー行に代わる出国先が必要となった。
ウラジオストックで受け入れを担当した根井三郎は
本省と5回にわたるやり取りをするが埒が明かない。
そこで頭の固い本省の逆手をとって
「一度発行したものは取り消せない」と言い張り、
本来は漁業関係者にしか出せない日本行乗船許可証を発行した。
見事な人道的配慮である。
根井三郎は、
後藤新平が創った「ハルピン学院」において杉原の2年後輩であり、
二人とも後藤の薫陶をうけている。
さて、日本にたどり着いたものの
国内の移動と出国の手立てがない。
アメリカのユダヤ人協会から依頼を受けた
ユダヤ学者小辻節三を中心に苦慮していたが、
時の外務大臣松岡洋右は小辻に粋なアドバイスを送った。
「入国してしまった者に対しては、外務省の管轄から内務省の管轄に移る」。
その後小辻は、内務省や自治体などに働きかけ、
難民全員を神戸や横浜に移動させ、
米国とパレスチナに約1000人、その他は上海租界へ出国させた。
このウラジオストックから神戸横浜までの旅は
根井や小辻の働きのおかげではある。
しかし、当時の交通事情で
数千人の難民を移動させるのは並大抵の事ではない。
そこで旅のプロの登場である。
ジャバ・ツーリスト・ビューロー、
今のJTB(元日本交通公社)の大迫辰雄が中心となって、
ウラジオストックからの船、
上陸してからのバス鉄道の旅の長期にわたる大ツアーを
見事成し遂げている。
その仕事がいかに大変であったか、
いかに素晴らしいものであったか・・・。
日本人が意識することもない人権・人道に対する意識、
おもてなしの精神、日本人のホスピタリティ、
責任感の強さなどを見ることができる。
JTBグループのホームページに
「素敵な日本人へ 〜命をつないだ、JTBの役割〜 」
と言うページがある。
そこに、
「76年のときを超えて、再び日本へという」
いかにユダヤの人達が感謝しているかが記されている。
母は西から船で逃避行、
その子は東から飛行機で母のお礼と想いを語り継ぐための旅。
子は、76年前に行く先々で母が受けた親切を実感する旅になったようです。
1940年8月31日に
カウナス駅のホームから去り行く汽車を追いかけ
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。
もう一度あなたにお会いしますよ」
と叫んだかつての青年ニシュリは、イスラエルの参事官なっていた。
彼は何度も日本の外務省に問合せをしたが、
返事は芳しいものでなかった。
それでもようやく探し出し、
1968年杉原への一方的な約束を果たすことが出来た。
1969年イスラエルの宗教大臣になっていた
ゾラフ・バルルフィクとは、エルサレムで29年ぶりに再会すことができた。
彼らは、そこで初めて杉原が離職覚悟でビザを発給したことを知った。
外務省に何度も問い合わせなければならなかったのには
二つの理由があると思います。
杉原は本省の命令に背いて勝手にビザを発給し、
外務省を退官していたため資料がなかった。
さらに彼らは「センポ スギハラ」で問い合わせていた。
なぜかというと「千畝」チウネは
ユダヤ人にとって非常に発音しにくかったので、
杉原は彼らに「センポ」と呼ばせていたため。
二つ目は私の推測。
その杉原がユダヤ人から称賛されるこことへの外務省の妬み、
狭量で無視されていた。
私は、二つ目が理由だと確信しとります。ハイ。
杉原が発行したビザの数は正確には分からない。
発行記録をとる時間すら惜しんで
1枚でも多くのビザを書き続けるため、
一人でも多くの人を助けるために。
しかし、ビザを発給された全員が
ウラジオストックにたどり着けたわけでもなかった。
シベリア鉄道の旅にも多くの困難が待ち受けていた。
それでも数千人の難民が
ウラジオストックに次々とたどり着いた。
さて、ここからがまた大変。
ウラジオストックから船で敦賀に運び入国手続きが必要となるが、
ポーランド(杉原)ビザのキューソラー行に代わる出国先が必要となった。
ウラジオストックで受け入れを担当した根井三郎は
本省と5回にわたるやり取りをするが埒が明かない。
そこで頭の固い本省の逆手をとって
「一度発行したものは取り消せない」と言い張り、
本来は漁業関係者にしか出せない日本行乗船許可証を発行した。
見事な人道的配慮である。
根井三郎は、
後藤新平が創った「ハルピン学院」において杉原の2年後輩であり、
二人とも後藤の薫陶をうけている。
さて、日本にたどり着いたものの
国内の移動と出国の手立てがない。
アメリカのユダヤ人協会から依頼を受けた
ユダヤ学者小辻節三を中心に苦慮していたが、
時の外務大臣松岡洋右は小辻に粋なアドバイスを送った。
「入国してしまった者に対しては、外務省の管轄から内務省の管轄に移る」。
その後小辻は、内務省や自治体などに働きかけ、
難民全員を神戸や横浜に移動させ、
米国とパレスチナに約1000人、その他は上海租界へ出国させた。
このウラジオストックから神戸横浜までの旅は
根井や小辻の働きのおかげではある。
しかし、当時の交通事情で
数千人の難民を移動させるのは並大抵の事ではない。
そこで旅のプロの登場である。
ジャバ・ツーリスト・ビューロー、
今のJTB(元日本交通公社)の大迫辰雄が中心となって、
ウラジオストックからの船、
上陸してからのバス鉄道の旅の長期にわたる大ツアーを
見事成し遂げている。
その仕事がいかに大変であったか、
いかに素晴らしいものであったか・・・。
日本人が意識することもない人権・人道に対する意識、
おもてなしの精神、日本人のホスピタリティ、
責任感の強さなどを見ることができる。
JTBグループのホームページに
「素敵な日本人へ 〜命をつないだ、JTBの役割〜 」
と言うページがある。
そこに、
「76年のときを超えて、再び日本へという」
いかにユダヤの人達が感謝しているかが記されている。
母は西から船で逃避行、
その子は東から飛行機で母のお礼と想いを語り継ぐための旅。
子は、76年前に行く先々で母が受けた親切を実感する旅になったようです。
1940年8月31日に
カウナス駅のホームから去り行く汽車を追いかけ
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。
もう一度あなたにお会いしますよ」
と叫んだかつての青年ニシュリは、イスラエルの参事官なっていた。
彼は何度も日本の外務省に問合せをしたが、
返事は芳しいものでなかった。
それでもようやく探し出し、
1968年杉原への一方的な約束を果たすことが出来た。
1969年イスラエルの宗教大臣になっていた
ゾラフ・バルルフィクとは、エルサレムで29年ぶりに再会すことができた。
彼らは、そこで初めて杉原が離職覚悟でビザを発給したことを知った。
外務省に何度も問い合わせなければならなかったのには
二つの理由があると思います。
杉原は本省の命令に背いて勝手にビザを発給し、
外務省を退官していたため資料がなかった。
さらに彼らは「センポ スギハラ」で問い合わせていた。
なぜかというと「千畝」チウネは
ユダヤ人にとって非常に発音しにくかったので、
杉原は彼らに「センポ」と呼ばせていたため。
二つ目は私の推測。
その杉原がユダヤ人から称賛されるこことへの外務省の妬み、
狭量で無視されていた。
私は、二つ目が理由だと確信しとります。ハイ。
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