2018年06月22日
沖縄の勇者 久松五勇士
毎年4月下旬に、沖
縄県の宮古島では全日本トライアスロン宮古島大会が開催される。
ご承知のように、水泳・自転車・ランニングといという
3種類の競技を連続して行う競技である。
とんでもないスタミナと精神力を要求される鉄人レースである。
その宮古島で、1905年明治38年5月に
国のために命を懸けた出来事があった。
ボートで直線距離105キロを15時間外洋の荒波の中を漕ぎ続け、
ランニングで舗装などされているはずもない30キロの山道を
4時間で走り切った人たちがいる。
(これらの数字は諸説ある中の一例である。以下、同様)
1904年10月15日、
ロシアのバルト海沿岸の軍港リバウを出港したバルチック艦隊は、
北海でイギリスの漁船を銃撃し死傷者をだしたこともあり、
全てのりイギリスの植民地で妨害にあいながらも
ようやく日本に近づいていた。
この時点で日本軍がバルチック艦隊の位置を確認できていたのは、
5月19日に台湾の最南端から
200キロメートルほどフィリピン寄りのバシー海峡を通過中
という情報が最後で、その後のコースが予測できなかった。
5月23日、このバルチック艦隊を見つけたのが
宮古島近海で漁をしていた沖縄本島の漁師、
奥浜牛(オクハマ ウシ29歳)だった。
宮古島に26日10時頃着いて、駐在に報告し、
島のお偉いさんたちは、軍部に報告しようとしたが、
当時宮古島にはまだ電信局がなく、
一番近くの電信が打てる場所は、石垣島の八重山郵便電信局。
そこで大急ぎでサバニで石垣島までたどり着くことのできる
操船技術をもっている若者、
サバニを長時間こぎ続けることのできる
強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし、
5名を石垣島へと送ることを決めた。
5人は、5月27日の早朝鎮守で任務遂行の祈願を行い、
朝8時頃橋口島司(区長)から軍令部への極秘扱いの電文を受け取り、
誰にも知られないように石垣島に向けて出発した。
そして翌28日 午前7時、
八重山郵便電信局よりバルチック艦隊通過の電信報告が無事になされた。
当時の軍部はこのことを内密にし、
正式発表としては信濃丸が発見し、
連絡を受けた東郷平八郎率いる連合艦隊は
バルチック艦隊を壊滅したとしている。
第一報がどっちだったかはどうでもいいのだが、
軍部としては、今後の漁船の安全のためにも、
漁船からの報告があったということを外国には
知られたくなかったのだろう。
しかし、内密にしたことで当事者たちは何も語らなかったため、
今も明確にならない点がいくつもある。
しかし、1920年ごろから
このことが日本国中ひろく知られることになり、
人々から称賛を浴び教科書でも紹介されていた。
やえやまファーム
大東亜戦争後は、再び違う理由で長い間か語られこともなかったが、
近年歴史を掘り起こすことで、
宮古島にも写真のような当時のボート
「サバニ」の顕彰碑が建立されている。
120年前の沖縄の人々が
いかに日本人であったかという大切な照明である。
米国との沖縄戦に多くの本土の若者が戦い命を落としたか。
彼らはこのような事実を知っていたからではないだろうか。
沖縄は日本である事に何の疑いを持たずに戦ったのだ。
縄県の宮古島では全日本トライアスロン宮古島大会が開催される。
ご承知のように、水泳・自転車・ランニングといという
3種類の競技を連続して行う競技である。
とんでもないスタミナと精神力を要求される鉄人レースである。
その宮古島で、1905年明治38年5月に
国のために命を懸けた出来事があった。
ボートで直線距離105キロを15時間外洋の荒波の中を漕ぎ続け、
ランニングで舗装などされているはずもない30キロの山道を
4時間で走り切った人たちがいる。
(これらの数字は諸説ある中の一例である。以下、同様)
1904年10月15日、
ロシアのバルト海沿岸の軍港リバウを出港したバルチック艦隊は、
北海でイギリスの漁船を銃撃し死傷者をだしたこともあり、
全てのりイギリスの植民地で妨害にあいながらも
ようやく日本に近づいていた。
この時点で日本軍がバルチック艦隊の位置を確認できていたのは、
5月19日に台湾の最南端から
200キロメートルほどフィリピン寄りのバシー海峡を通過中
という情報が最後で、その後のコースが予測できなかった。
5月23日、このバルチック艦隊を見つけたのが
宮古島近海で漁をしていた沖縄本島の漁師、
奥浜牛(オクハマ ウシ29歳)だった。
宮古島に26日10時頃着いて、駐在に報告し、
島のお偉いさんたちは、軍部に報告しようとしたが、
当時宮古島にはまだ電信局がなく、
一番近くの電信が打てる場所は、石垣島の八重山郵便電信局。
そこで大急ぎでサバニで石垣島までたどり着くことのできる
操船技術をもっている若者、
サバニを長時間こぎ続けることのできる
強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし、
5名を石垣島へと送ることを決めた。
5人は、5月27日の早朝鎮守で任務遂行の祈願を行い、
朝8時頃橋口島司(区長)から軍令部への極秘扱いの電文を受け取り、
誰にも知られないように石垣島に向けて出発した。
そして翌28日 午前7時、
八重山郵便電信局よりバルチック艦隊通過の電信報告が無事になされた。
当時の軍部はこのことを内密にし、
正式発表としては信濃丸が発見し、
連絡を受けた東郷平八郎率いる連合艦隊は
バルチック艦隊を壊滅したとしている。
第一報がどっちだったかはどうでもいいのだが、
軍部としては、今後の漁船の安全のためにも、
漁船からの報告があったということを外国には
知られたくなかったのだろう。
しかし、内密にしたことで当事者たちは何も語らなかったため、
今も明確にならない点がいくつもある。
しかし、1920年ごろから
このことが日本国中ひろく知られることになり、
人々から称賛を浴び教科書でも紹介されていた。
やえやまファーム
大東亜戦争後は、再び違う理由で長い間か語られこともなかったが、
近年歴史を掘り起こすことで、
宮古島にも写真のような当時のボート
「サバニ」の顕彰碑が建立されている。
120年前の沖縄の人々が
いかに日本人であったかという大切な照明である。
米国との沖縄戦に多くの本土の若者が戦い命を落としたか。
彼らはこのような事実を知っていたからではないだろうか。
沖縄は日本である事に何の疑いを持たずに戦ったのだ。
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