新年の抱負と目標設定を考える。
2016年01月15日
あっと言う間にクリスマス、大晦日、正月を迎え、成人の日も過ぎた。
今年が始まって2週間が過ぎたのだ。
しばらくの間、心の奥底にある不満について振り向くことにした。
その原因は大まかに認識出来ていたのだが、明確にする必要があるのだ。
ちょっとした問題、課題を確実に提起しないと、問題解決策を考える事も曖昧になってしまうからである。
正直なところ、望むような生活を送れていない事に不安と悩みが心底にある。
しかし、現実的には何かに囚われる事の無い時間を過ごせている。
これは何よりも幸せなことだ。
実質的には何も成果を挙げていない事は明確だ。
しかし、この期間に出来る事を全力尽くすことが大切だと、孤独に認識する。
思想的な考えとして、『今を生きる』という言葉を良く目にする。
いつ果てるか分からない人生について、将来計画に囚われる生き方をしていてはマズイというわけだ。
しかし、現実的には『曖昧な将来』に向けた安泰を求めて生活している。
「生きている時期」による景気の変動で損得勘定も出来る。
しかし、それは多感的な人生の送り方に他ならない。
「今の幸福」を常に味わい続ける事が出来るのは生活とは、どのようなものだろうか・・・。
私の場合、客観的に裕福・優秀・人気があったとしても、それに浸って満足出来る性格ではない。
これが困った点である。
多くの人が寄せ集まった社会の中で生きているのだから、その中で優位な位置を求めて努力し、ほんの少しでも一般より上位になった喜びに浸って満足出来れば良いのだが。
他の人と比べた優劣で満足できる人は、言ってみれば欲が少ない。
金銭、人気、知名度、役職のどれか一つでも、一般レベルを超えたものがあれば、生活に不満を唱えつつ、その生活に納得している部分もあるはずだ。
「自分が生きているからこそ、自分自身と周囲を認識出来ている。」
つまり、人生とは「自分を主人公としたドラマである。」と考えた場合、思想が変化する。
この思想の場合、歴史に名を刻む意味が無い。
自分が生きている時間を納得できれば良いのだ。
その人自身が満足した時間を過ごせたのであれば、その人生は幸せだったのだろうと考える事が出来る。
世のため人の為に尽くし、それによる称賛を得る喜びに浸る人もいる。
何かを成し遂げる為に、努力し続ける時間を喜ぶ人も要る。
苦しい中で我慢し、更に苦しさを求める事が生きがいとなっている人もいる。
適度な苦楽という刺激を受けつつ、安定志向の人もいるだろう。
何もせずにいて、食べるものも着るものも、住まいまで失って餓死してしまったとしても、何もしない人生を満喫出来た事になるのだろうか・・。
現社会においては、人の為に行った活動が「お金」という形で評価される。
その評価によって、今の社会を生きていく事が出来る。
しかし、今後は「お金」→「物」へと退化する可能性も否定できない。
いや、「物々交換」を求めている意向が心底にあるのは確かだ。
この意向は今に始まった訳では無く、20年以上前に派生した考えだ。
少しずつ「マネー」から「信用」のやりとりへと変化しつつある気がしている。
社会は共同体であるが、雇用・被雇用の関係では共同体として成立しない事が明らかになってくると、人と人のつながりを重視するような社会が生まれる。
少しずつ動いている社会の動向に対し、どのような活動をすべきか、そのように存在すべきか考える必要がありそうだ。
今年が始まって2週間が過ぎたのだ。
しばらくの間、心の奥底にある不満について振り向くことにした。
その原因は大まかに認識出来ていたのだが、明確にする必要があるのだ。
ちょっとした問題、課題を確実に提起しないと、問題解決策を考える事も曖昧になってしまうからである。
正直なところ、望むような生活を送れていない事に不安と悩みが心底にある。
しかし、現実的には何かに囚われる事の無い時間を過ごせている。
これは何よりも幸せなことだ。
実質的には何も成果を挙げていない事は明確だ。
しかし、この期間に出来る事を全力尽くすことが大切だと、孤独に認識する。
思想的な考えとして、『今を生きる』という言葉を良く目にする。
いつ果てるか分からない人生について、将来計画に囚われる生き方をしていてはマズイというわけだ。
しかし、現実的には『曖昧な将来』に向けた安泰を求めて生活している。
「生きている時期」による景気の変動で損得勘定も出来る。
しかし、それは多感的な人生の送り方に他ならない。
「今の幸福」を常に味わい続ける事が出来るのは生活とは、どのようなものだろうか・・・。
私の場合、客観的に裕福・優秀・人気があったとしても、それに浸って満足出来る性格ではない。
これが困った点である。
多くの人が寄せ集まった社会の中で生きているのだから、その中で優位な位置を求めて努力し、ほんの少しでも一般より上位になった喜びに浸って満足出来れば良いのだが。
他の人と比べた優劣で満足できる人は、言ってみれば欲が少ない。
金銭、人気、知名度、役職のどれか一つでも、一般レベルを超えたものがあれば、生活に不満を唱えつつ、その生活に納得している部分もあるはずだ。
「自分が生きているからこそ、自分自身と周囲を認識出来ている。」
つまり、人生とは「自分を主人公としたドラマである。」と考えた場合、思想が変化する。
この思想の場合、歴史に名を刻む意味が無い。
自分が生きている時間を納得できれば良いのだ。
その人自身が満足した時間を過ごせたのであれば、その人生は幸せだったのだろうと考える事が出来る。
世のため人の為に尽くし、それによる称賛を得る喜びに浸る人もいる。
何かを成し遂げる為に、努力し続ける時間を喜ぶ人も要る。
苦しい中で我慢し、更に苦しさを求める事が生きがいとなっている人もいる。
適度な苦楽という刺激を受けつつ、安定志向の人もいるだろう。
何もせずにいて、食べるものも着るものも、住まいまで失って餓死してしまったとしても、何もしない人生を満喫出来た事になるのだろうか・・。
現社会においては、人の為に行った活動が「お金」という形で評価される。
その評価によって、今の社会を生きていく事が出来る。
しかし、今後は「お金」→「物」へと退化する可能性も否定できない。
いや、「物々交換」を求めている意向が心底にあるのは確かだ。
この意向は今に始まった訳では無く、20年以上前に派生した考えだ。
少しずつ「マネー」から「信用」のやりとりへと変化しつつある気がしている。
社会は共同体であるが、雇用・被雇用の関係では共同体として成立しない事が明らかになってくると、人と人のつながりを重視するような社会が生まれる。
少しずつ動いている社会の動向に対し、どのような活動をすべきか、そのように存在すべきか考える必要がありそうだ。
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