ネガティブ感情やポジティブ感情を超越した悟りの境地 “涅槃寂静” を目指しましょう。
『日々、笑顔と感謝で心安らかに生きる』
ただそれだけを目標にしてもいい、
と私は思います。
『涅槃寂静』とは、
『煩悩を解脱した悟りの世界は、
心の静まった安らぎの境地である』
という意味です。
仏教学者で東京大学名誉教授の平川彰文学博士(1915−2002)は、著書
『自在に生きる 涅槃経』(集英社)
の中で、
『涅槃』について、こう述べています
「涅槃とは、
一口でいえば『至福の世界』です。
これは、言葉では表現できない平安な世界です。
例えば、
熟睡に入ったときには、
深い静寂があり、
そこに満ち足りた安らぎがあります。
それは、
熟睡から目覚めたときに、
何ぴとも経験することです。
しかし熟睡には意識がありません。
もし熟睡のままで、
しかも意識があるならば、
その静寂な状態は、
涅槃の世界に近いといえるでしょう。
『涅槃は寂静である』といいますので、
これは静かな世界です。
静かであることが、
至福につながるのです。
感情の起伏があると、
喜びのあとには悲しみがあるでしょうし、
幸福がいつまでも続くことはないでしょうから、
幸福を失ったときに、
不幸を感ずるでしょう。
したがって真の幸福は、
平静な心の状態の中に求められねばならないと思います。
しかしその平静が無知の平静では、
真の幸福とはいえないでしょう。
それは、
無知な動物の幸福と区別がないからです。
したがって、
真の幸福は、
平静な心の状態の中に、
知恵の洞察が輝いていることが重要です。
しかしここでいう『知恵』とは、
いわゆる偏差値で示されるような知識ではありません。
もっと深い
『人生を知る知恵』
です。
この知恵と、
さきの知識とを混同してはなりません。
世間には頭はよくても、
けっこう非常識な人はいますし、
またその知識を悪用して、
他人に迷惑をかけたり、
自分も不幸に陥る人があります。
頭のよいことが、
必ずしも幸福を実現するものではありません。
たとえば、
人類が原子爆弾をつくってしまったことなどは、
人間を不幸にしたよい例であります。
社会が幸福でないのに、
自分だけが幸福になることは無理です。
したがって人生において、
何が真の幸福であるかを、
はっきりと見きわめて、
心の奥に
『不動の境地』
を確立することが大切です。
この不動の心が、
涅槃に通ずる心です。
人生の真実を洞察する知恵が、
心の奥に確立されていることが大切です。
この知恵は、
いわゆる賢愚とは違いますから、
誰にも平等に具わっているのです。
この知恵によって、
洞察せられた
『人生の真実』
が、涅槃の骨格となっています。
私たちの心に不動の力を与えるものが涅槃です。
これは、
『人生の真理』
といいかえてもよいでしょう。
この真理を、
知恵によって見いだすところに、
涅槃が発見されるのです。
自分の心が涅槃を発見し、
心が涅槃と一つになれば、
心は至福に住することができるのです。
涅槃は、
我々が見つけると否とにかかわらず、
いまここに厳存しているのです。
ただわれわれの知恵の眼が、
くらまされているので、
涅槃を見いだすことができないのです。
人生の真の生き方を洞察するならば、
利害得失を超えた
『不動の心』
が得られるのです。
そして心が不動に住することが、
それだけ心が涅槃に住していることを示しています。
しかし心が涅槃を発見するのに、
障害となるものがあります。
それは煩悩です。
むさぼりや怒り、無知、
さらに慢心や嫉妬などが煩悩です。
心にこれらの煩悩があると、
知恵は活動を邪魔されて、
本来のはたらきを発揮することができないのです。
私たちの心の奥には、
このような真の寂静を求める欲求があることを、
見落としてはなりません。
この寂静こそが、
私たちに
『真の満足』
を与えるものであります。
とっさに考えれば、
財産や名誉、
権力などが人間に満足を与え、
幸福にするように思います。
しかしこの種の満足は、
相対的ですから、
真の満足ではありません。
上には上がありますから、
どれだけ財産ができても、
もっと欲しいと思いますし、
どれだけ権力を集めても、
もっと大きな権力を欲するものです。
たとえば終戦直後の貧しい生活にくらべたら、
現代の日本人の生活は豊かそのものですが、
それで日本人が満足しているのかというと、
そうでもないのです。
すなわち外部に満足を求めても、
真の満足は得られないのです。
外部から得られる満足は動揺しており、
無常なものです。
この点を見きわめねばなりません。
それゆえ、
外部にではなしに、
心の奥に寂静な世界を開拓し、
そこに不動の世界を建立すべきです。
そこには、
相対を絶した真の幸福があります。
それが真の安住の世界であります。
しかしこのことは、
外部に向かって幸福を求めてはならないという意味ではありません。
われわれは、
衣食住のすべてを外部に求めねばなりませんし、
食べるものや着るものがないのに、
幸福があるはずがありません。
親や兄弟、
妻や子どもなども外部にあります。
そういうものを獲得することを否定するのではありませんが、
これらのものは、
自分にとって喜びにもなり、
また同時に苦痛の原因にもなります。
この点をよく見きわめて、
心の奥の不動の世界に、
真の幸福を開拓すべきです。
そこに涅槃が見いだされるのです。
それは、
心が相対的のものに妨げられない、
動揺のない、
真の満足の世界です。
私たちは、
外界には魅力のあるものがあふれアトラクティヴなものがあるが、
心の中は空虚だと思いやすいのですが、
これは大間違いです。
心をしずめて、
心の中を見るならば、
そこにこそ無限の宝があることがわかると思います。
人間の発明も発見も、
すべて心の中から現れたものです。
心の奥に至福の世界を得るためには、
さきにもいいましたように、
煩悩を滅しなければなりません。
お釈迦さまは激しい修行の結果、
煩悩を滅して悟りをひらき、
涅槃と一つになり、
至福の境地に安住したのです。
しかしわれわれが、
たやすく煩悩を滅することは不可能です。
煩悩があると、
正しい知恵の働きが、
妨げられるということを知るだけでも、
貴重な成果です。
それを知ることによって、
煩悩の力は弱められるからです。
煩悩が弱められれば、
それだけ知恵の力が増大し、
何ほどか涅槃が自己に実現しているのです。
すなわち、
心の奥の不動の世界が、
それだけひらかれたのです。
心の奥の世界がひらけるとは、
外界の富や名誉、
成功や失敗などに、
心が奪われないようになったということです。
外界の富や権力などの争奪に全力を傾注して、
心の奥をかえりみない人には、
涅槃はまったく実現していないのです。
こういう人には、
心のやすまるときはないのです。」(7頁〜11頁)
煩悩を解脱して涅槃寂静の境地に達すれば、
至福を味わえます。
『言うは易く行うは難し』で、
簡単ではありませんが、
魂の目的は、
悟りを開くことなので、
お互いに精進しましょう。
瞑想を日課とし、
修養を積み、
悟りを開きましょう
『湯上がりの 気持ちを欲しや 常日頃』(曲亭馬琴)
『もの持たぬ たもとは軽し 夕涼み』(白隠禅師)
『気に入らぬ 風もあろうに 柳かな』(仙腰a尚)
『悟れば一瞬にして幸来たる』(中村天風)
行こう
行こう
覚者の国へ
悟りを開いて皆んなで一緒に行こう
悟りあれ
幸いあれ
(推薦図書)
『自在に生きる 涅槃経』
(著者 平川 彰 集英社)
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