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2020年04月12日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 袋井宿〜掛川宿)
袋井宿を出て、掛川宿を目指します。道のりは二里十六(約10.7Km)で、東海道も後半に入ります。
さて、掛川宿西の入り口ですが、どうやら逆川の支流倉真川に掛かる大池橋ではないか?と考えます。
袋井宿と掛川宿の間には、七ツ森神社、九津部一里塚、富士浅間神社大鳥居、袋井松並木、花茣蓙公園、岡津の松並木、仲道寺、善光寺、大池一里塚、秋葉山神社遙拝所などの史跡が有ります。
袋井宿を出発して暫く行くと、七ツ森神社が有ります。桓武天皇の頃、日坂宿に出没し悪さをする怪鳥を退治するため朝廷から7人の武士が派遣されましたが、返り討ちに合い7人とも命を落としました。その墓が此処にあるそうです。
更に暫く進むと九津部一里塚に差し掛かります。袋井東小学校の校庭に有り、1973年創立百周年記念で復元されたという事です。七ツ森神社と九津部一里塚の間には油山寺、法多山道、八幡社、村松・宇刈道などへの道標があります。
九津部一里塚の先には富士浅間神社の大鳥居が有り、神社は鳥居の先800ⅿほどの所に有るそうで国の重要文化財だそうです。又、富士山の周辺には浅間神社が何ヶ所か有り何れも富士山を御神体としています。
大鳥居を過ぎると、袋井の松並木が有ります。松と桜に囲まれた道だそうです。
松並木が終わり少し行くと、花茣蓙公園です。江戸時代は旅人相手の休憩所だった様で花茣蓙が有名との事です。此処は立場が有った所で、奈良時代は郡役所もあり交通の要所でも有ったそうです。
花茣蓙公園を出て、同新橋を過ぎると、岡津の松並木が始まります。旧東海道の松ですが、近年松喰虫の被害が目立っているそうです。
松並木が終わると、仲道寺と善光寺が有ります。仲道寺は江戸から京迄を測量したところこの寺が丁度真ん中であったから仲道寺となったというまことしやかな?話です。
善光寺の本尊阿弥陀仏は坂上田村麻呂の守り本尊だったとの事です。
暫く行くと連祐寺というお寺の前に江戸から59番目の大池一里塚が有るそうです。
一里塚を過ぎて、西掛川駅の先に秋葉山神社遙拝所が有ります。東海道には秋葉常夜燈、秋葉山常夜燈などが数多く点在しています。その火防の神様の秋葉山へ通じる道の入り口だそうです。遥拝所から直ぐに大池橋です。此処から掛川宿になります。
掛川宿は、山之内一豊が改修し棲んだ掛川城下町でもある江戸から二十六番目の宿場です。又駿河湾から秋葉山を経て信濃国へ通じる塩の道が交差する宿場でもあり江戸時代以降は秋葉街道と呼ばれたそうです。
掛川宿には十九首塚、円万寺、掛川城、七曲、塩の道道標、などが有ります。
掛川宿に入り少し行くと、十九首塚が有ります。現在公園に整備されているようですが、天慶の乱で藤原秀郷に滅ぼされた平将門と18人の武将の首が埋葬されているとの事です。
十九首塚を過ぎると、円万寺に差し掛かります。元は掛川城内に有った寺院と言う事ですが、山之内一豊による城の改修の折に現在の場所に移されました。山門は蕗の門と言い掛川城廃城の時円万寺が買い受け山門としたそうです。
その先、掛川城へと向かう道が有ります。城に向かって進むと、逆川に掛かる緑橋の先に城が見えるようです。室町時代今川氏が遠江進出の為家臣に命じて築城させたのが始まりという事です。戦国時代には山之内一豊が10年に渡り在城し、天守閣や大手門を建設し、城下の整備にも注力したそうです。
掛川城から街道に戻り進むと七曲りに突入です。この辺りが宿場の中心の様ですが本陣や脇本陣など他の宿場に有るものが在りません。七曲りに入り直ぐに塩の道道標に差し掛かります。秋葉山神社から信濃へ行く道になります。江戸時代は七曲りに木戸や番屋が置かれていた様です。東側の七曲り表示迄行くと東の入り口になります。
掛川宿で美味しいものは?決まっています。ちちんぷいぷい(昔の人は偉かった)で紹介されていたのですが、掛川本陣通りの屋台街、掛川宿で無いと、という訳ではありませんが此れはこれでそそられます。掛川で宿泊して、本陣通りで一杯しか頭にはありません。
次は、掛川宿から日坂宿に向かいます。一里十九丁(約6.9Km)の道のりになります。