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2020年04月06日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 浜松宿〜見附宿)
見附宿を目指します。道のりが四里七丁(約14.7Km)という長い距離です。
見附宿の西の入り口は、見附宿西木戸になります。
浜松宿と見附宿の間には、旧掛塚街道入口、旧笠井街道入口、馬込一里塚、龍梅禅寺、神明の鳥居、子安神社、安間一里塚、明善記念館、かやんば高札場跡、六所神社、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹碑、舟橋之記碑、天竜川橋、池田の渡し、長森立場跡、宮之一色一里塚、善導寺の大楠、遠江国分寺跡、など多数の史跡が有ります。
馬込橋東詰にある外木戸跡の標識を後に浜松宿を出発します。すぐに掛塚街道と笠井街道の入り口、その先には馬込一里塚が有りますが何れも標識のみとなっている様です。
少し行くと、龍梅禅寺です。享保年間の浜松城主松平信祝の娘が旅の途中に病に倒れ亡くなり、この寺に葬られたという事です。その先に、蒲神明宮への入り口がありそこには神明の鳥居が建っています。
大鳥居を過ぎると、子安神社が有ります。土地の庄屋が浅間神社から分霊したのが始まりとされますが、源範頼が娘の無事出産を願い創建したという説も有るという事です。
暫く進むと、安間一里塚に差し掛かりますが標柱だけの様です。同じ位行くと、明善記念館があります。金原明善と言う人物の記念館で、この人物は明治から大正の実業家で天竜川の治山、治水、森林水害予防に資財を投じて貢献した人物だそうです。記念館の向には生家も有るとの事です。その先に、かやんば高札場跡、六所神社を過ぎると天竜川沿いに出ます。六所神社は、浜松市内位には何か所かある様です。篠山市の二村神社の様な感じでしょうか?
天竜川沿いに出ると、天竜川木橋跡、舟橋跡、玉座迹跡、舟橋の記が続けて有ります。何れも標柱や碑のみです。玉座迹跡、舟橋の記は明治天皇が東幸の際、船をつなぎ橋を作ったといわれる所です。それを過ぎると、天竜橋を渡ることになります。
天竜橋を渡ると、磐田市に入ります。橋を渡って上流には、池田の渡しが有り、付近には池田橋跡、渡船場跡、歴史風景観、などが有り池田の渡し公園として整備されているそうです。
街道に戻ると、長森立場があります。天竜川の側に有った為、川越をする人、した人で賑っていたそうで、ここの名物に長森膏薬と言うものが有りました。あかぎれや切り傷に効いたという事です。少し行くと宮之一色一里塚の碑が立っています。更にその先、JR磐田駅前に善導寺の大楠が有ります。過っては、ここが善導寺の境内だった事からそう呼ばれているとの事で、樹齢700年以上で県の天然記念物にもなっています。現在善導寺は郊外に移転しています。
大楠を過ぎると遠江国分寺跡に差し掛かります。天平時代の遺跡のようで、国分尼寺の講堂跡も発掘されているそうです。付近には府八幡宮と万葉歌碑が立っています。その先には、西の入り口、西木戸になります。
見付宿は、江戸から28番目の宿場です。見附は水に接する土地で有る事が由来となっていますが、他にも京から来て初めて富士山が見える事から見附となったという説も有ります。元々遠江国の国府が置かれたところで、中世には東海道屈指の宿場でしたが、江戸時代には単なる宿場町となりました。
見付宿には、姫街道入口、見附小学校、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場、東の木戸跡などの史跡が有ります。
西木戸跡から直ぐに、姫街道入口に差し掛かります。此処が姫街道の起点になり新居関を避ける為女人はこちらをよく通っていた道です。本当は、本坂越え追分と言います。
姫街道入口の先には、ちちんぷいぷいでも紹介された、見附小学校です。現存する日本最古の木造疑洋風小学校校舎で国の史蹟になっているそうです。隣には淡国玉神社も有ります。
見附小学校を過ぎると、高札場、北本陣、南本陣、脇本陣、問屋場の碑や標識が続きます。問屋場から少し行くと、東の入り口、東木戸跡に到着です。
見付宿の美味しいものですが、調べても、見付宿で食べなければならない様なものは、見つかりませんでした。
次回は、袋井宿に向かいます。一里半(約6.9Km)の道のりです。