2021年01月04日
税務大学校での思い出 part3
目次:
前回、話した地獄だった最初の3日間が
終わってからはそんなにしんどくなかったですね。
と言うのも、怒られなかったからです。
強いて言うなら入寮式での動作について全体へ向けて怒られたくらいです(多分何してても怒ってた)。
さらに、税大は基本14,5人に1班で分かれるので、
カンポ以外にも教育官といった学校で言う担任の先生みたいな人がいます。
教育官については、他の班や先輩に話を聞いていると、
結構当たり外れが激しいらしいのですが、僕の教育官は
話もよく聞いてくれるし見えない雰囲気の良さがあったので、やりやすかったですね。
でも1番大きかったのは喫煙所での繋がりでした。
僕がいた大阪の税務大学校は、男女どちらの寮も喫煙所があったのですが、(今も多分あるかな?)
決まった時間でしか吸えないので、部屋で言うと4畳あるかないかのスペースに
男20人くらいが身を寄せあっていて、嫌でもある程度は仲良くはなります。
出身地も年齢(障害者枠で採用される方もいるので50歳くらいの人も)はバラバラなのに、
カンポのモノマネや男同士でしか話せないようなことも「寮の外にまで聞こえとるんちゃうか」というくらい
ゲラゲラ笑いながら過ごしてましたね。
どんだけ時間が無くても、さっき吸いに行ったけどすれ違ったら
「とりま喫煙所行こ」と言って向かうレベルで憩いの場でした。
極めつけは、カンポが「あれ?優しなった」と思うほどになったことです。
それまでが厳しすぎたせいで感覚が麻痺したのか、
ホントに優しくなったのかは分かりませんが、そう感じられました。
自習時間中はどこかのタイミングで、その日宿直のカンポか教育官が
見回りに来るのですが、 何かしていないとそこでも怒鳴ってきます。
なので、気は張りつめっぱなしでしたが、金曜日(その週LAST)のときは、
「どうや?疲れたか?もししんどかったら横なっとってええで」と
シャンプー事件のときでは考えられないほどになってました。
外の空気を吸えたのはこの上ない時間でした。
1週間のうちコンビニに出かけた20分ほどしか外に出てなかったので、
シャバに出た(逮捕歴はありません笑)ような感じやったので。
そんな休日を終えて、また地獄の1週間。
「休み明けでお前ら気緩んどるんちゃうかとか言うてくるんやろな〜」と
思ってたら、ほんとにそんな雰囲気でした。
と、ここで追い打ちをかける出来事が。
なんと、 僕の相部屋の同期が辞めてしまったんです。
2日目の自習時間中に「俺もう無理やわ」と言ってて、
「俺が辞める時は胃薬置いていくわ」と言ってましたが、
本当に僕の勉強机の上に置いてましたね。
「まあこんなとこならしゃーないか」と思いつつ、
1人になったんで嬉しさと同時に寂しさも出てきました。
となっていたのも束の間で、その次の日の課業後に僕ともう1人同期が呼ばれ、
「俺ら何かしたっけ?」と話し合ってると「お前ら部屋1人なったよな?
やから急で悪いねんけど今日中に部屋移動準備してくれ」と。
いやいや待てよ。
さすがに「ただでさえ自由時間少ないですから自習時間使っていいですか?」と嫌味ぽく聞きましたが、
「それはあかんねん」と言われ「は?」となりましたが、逆らっても仕方ないんで
飯抜きの覚悟で部屋戻って布団やら荷物を運び出しました。
幸いにも、何人か同期が手伝ってくれたこともあり、夕食時間には何とか間に合ったので
一応食堂には行ったのですが、 疲れきってたせいかその日の夕食はご飯2口しか喉を通りませんでした。
まあ無理もないんですよね。
入寮してから過度のストレスにより、毎日3時間睡眠や栄養不足、
さらに喫煙量の増加など体に悪いことしかしてないんですから。
そして、そのあと喫煙所に行ってドアを閉めた瞬間に
身体に力が入らなくなり、ついに倒れてしまいました。
その後のことはほとんど覚えてなく、
気づいたら救急車を下りて病院に入るところでした。
あとあと聞いた話では、僕が喫煙所に入ったときは同期が2人いたらしく、
倒れた時にそのうちの一人がダッシュで教官室に行ってくれたとのこと。
本来、教官室に行く時はスーツか税大ジャージで行かなければならないのですが、
その同期は課業後ということもあり私服だったにもかかわらず、我を忘れて向かってくれたそう。
ただ、自分の出来事に対して言うのもなんですが、
そんなときでも「お前なんやねん!その服装は!」と言われたらしい。
でも、「そんなこと言うとる場合ちゃうやろ!人命と規則どっちが大事やねん!」とまで
言ってくれたらしく、その子には今はもう絡みはありませんが、感謝しかないですね。
ということがあったらしく、僕は知らない間に救急搬送で近くの総合病院へ。
目を覚ますと、「ロード」の歌詞通り、病室のベッドの上でした。
一応、話すことは出来たので「何があったん?」「ここどこ?」「今何時?」と、
矢継ぎ早に質問が飛び出してて帰ってくる答え全てに驚きを隠せなかった。
ここで、「あれ?そーいやポケットにケータイ入れとったよな」と思い出し、
看護師さんに取ってもらって触ろうとすると、指が全然動かない。
それと足も力が入らない。
何も考えられませんでした。
と、色々考えていると教育官や研修所の関係者が何人か来られました。
「この人ら誰?」となる人もいましたが、
ここでも色々話を聞いていると、申し訳ない気持ちしかなかったです。
あんだけ、「どうやってやめよ」と考えてたのに予想に反する出来事とは言え、
「なんかいる?」とか「なんかとって欲しい?」など親切にしていただき、
そんなことを考えてた自分に対して、
一人の人間として身体以上に精神的に痛くなってましたね。
その後、真っ先に思い浮かんだのが親についてです。
もちろん連絡は行き届いていたらしく、
「明日お父さんが朝イチで来てくれるそうやわ」と言われ、
ここでも頭が真っ白になりましたね。
意識はあるし普通に話せるので、
「どんな顔すればええねん」って気持ちが真っ先に来ました。
と、そんなことを考えてる間に入寮してから全然寝れてなかったこともあり
ぐっすり眠れ、目が覚めると担任の教育官と一緒に親父がいました。
ここでの僕が何を言ったかは覚えてませんが、
親父は「大丈夫やったか!?」と言ってくれて、
泣きそうになってたのを覚えてます。
聞いた話では、仕事明けなのにも関わらず電車で直行してくれたらしく、
一緒になった教育官にずっと謝ってくれてたそう。
と、担当医が来て「大変でしたね。症状を聞いてると、
もしかしたらギラン・バレー症候群か脳梗塞の可能性があるんで、
これから大学病院に移動してもらう予定です」と言われ、またまたパニクりました。
「俺そんなヤバい状況やったんかよ。。」とここで事の重大さに気付かされ、
宣告通りまた救急車に乗せられて高槻市(大阪)にある大学病院に入れられました。
その時はまだ手足が動かない状態でしたが、着いてすぐに
採血や脚気(膝叩くとピクんとなるやつ)など色んな検査を施されて、
病室に戻ると医師や看護師さん7,8人に囲まれ、身体について根掘り葉掘り聞かれてた。
結果から言うと、「脳梗塞」や「ギランバレー症候群」である可能性はほぼなく、
倒れた原因は「心因性反応」とのこと。
これが分かったのが入院生活2日目の事だったのですが、
上腕筋(力こぶ)や皮の薄い腰に針をぶっ刺されたりと
出来れば二度と経験したくない痛みを味わされたので、ある意味辛かったですね。
ここからは思い通りとまでは言わずとも、
腕は動くようになりケータイを触れるほどにまでなったので、
電源をつけると同期から数えきれない量のLINEやDMが。
「大丈夫か!?」「はよ帰ってこいよ!」「みんな待っとるぞ」などと
あんまり話したことの無い子までメッセージをくれて、1人だったこともあり涙が止まりませんでした。
でも、同時に申し訳なさもありました。
退院しても戻る気はなかったからです。
入院中、知り合いが何人も見舞いに来てくれて、色んな話を聞いたり
持ってきてくれた本を読んだりしていると、「精神病ませてまでやる仕事なんかない」と思い始めてました。
ちなみに、この時に読んだ本の影響や旅するYouTuberの影響もあり、
「誰も知り合いおらんくて海の見える沖縄に行こう」と決めてました。
けど、引っかかるのがやっぱり周りの存在。
やっと公務員になれたとき、自分の事のように喜んでくれた
「家族」「友達」「先輩」「恩師」の顔が思い浮かびました。
特に、親に対してはそう思ってることを中々言い出せず、
伝えられたのは入院生活17日間と長引いた入院生活を終えようとしてた退院4日前。
母親は「倒れてまであんたがそう考えたんならもう何も言わへん」と
言ってくれてましたが、父親は「体が動く以上せっかく受かったんやしもうちょい続けてみ」との考え。
僕が父親でも、多分親父と一緒の立場に立った時はそう言ってたと思います。
が、この時にはもう気持ちは結構固まってたので、
変なところで頑固になる僕と譲らない親父との考えは中々一致出来ませんでした。
そんなことをしてるうちに退院日を迎え、みんなは喜んでくれてました。
僕を除いては。
続く。。
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コメントもいただけると、可能な限りでお答えしますので、ぜひお願いします(´ω`)
こちらのコメント欄でなくても、InstagramのDMでも受け付けてます!
前回までの話
@怒涛の1週間が終わったが。。
前回、話した地獄だった最初の3日間が
終わってからはそんなにしんどくなかったですね。
と言うのも、怒られなかったからです。
強いて言うなら入寮式での動作について全体へ向けて怒られたくらいです(多分何してても怒ってた)。
さらに、税大は基本14,5人に1班で分かれるので、
カンポ以外にも教育官といった学校で言う担任の先生みたいな人がいます。
教育官については、他の班や先輩に話を聞いていると、
結構当たり外れが激しいらしいのですが、僕の教育官は
話もよく聞いてくれるし見えない雰囲気の良さがあったので、やりやすかったですね。
でも1番大きかったのは喫煙所での繋がりでした。
僕がいた大阪の税務大学校は、男女どちらの寮も喫煙所があったのですが、(今も多分あるかな?)
決まった時間でしか吸えないので、部屋で言うと4畳あるかないかのスペースに
男20人くらいが身を寄せあっていて、嫌でもある程度は仲良くはなります。
出身地も年齢(障害者枠で採用される方もいるので50歳くらいの人も)はバラバラなのに、
カンポのモノマネや男同士でしか話せないようなことも「寮の外にまで聞こえとるんちゃうか」というくらい
ゲラゲラ笑いながら過ごしてましたね。
どんだけ時間が無くても、さっき吸いに行ったけどすれ違ったら
「とりま喫煙所行こ」と言って向かうレベルで憩いの場でした。
極めつけは、カンポが「あれ?優しなった」と思うほどになったことです。
それまでが厳しすぎたせいで感覚が麻痺したのか、
ホントに優しくなったのかは分かりませんが、そう感じられました。
自習時間中はどこかのタイミングで、その日宿直のカンポか教育官が
見回りに来るのですが、 何かしていないとそこでも怒鳴ってきます。
なので、気は張りつめっぱなしでしたが、金曜日(その週LAST)のときは、
「どうや?疲れたか?もししんどかったら横なっとってええで」と
シャンプー事件のときでは考えられないほどになってました。
外の空気を吸えたのはこの上ない時間でした。
1週間のうちコンビニに出かけた20分ほどしか外に出てなかったので、
シャバに出た(逮捕歴はありません笑)ような感じやったので。
A2週間目でついに
そんな休日を終えて、また地獄の1週間。
「休み明けでお前ら気緩んどるんちゃうかとか言うてくるんやろな〜」と
思ってたら、ほんとにそんな雰囲気でした。
と、ここで追い打ちをかける出来事が。
なんと、 僕の相部屋の同期が辞めてしまったんです。
2日目の自習時間中に「俺もう無理やわ」と言ってて、
「俺が辞める時は胃薬置いていくわ」と言ってましたが、
本当に僕の勉強机の上に置いてましたね。
「まあこんなとこならしゃーないか」と思いつつ、
1人になったんで嬉しさと同時に寂しさも出てきました。
となっていたのも束の間で、その次の日の課業後に僕ともう1人同期が呼ばれ、
「俺ら何かしたっけ?」と話し合ってると「お前ら部屋1人なったよな?
やから急で悪いねんけど今日中に部屋移動準備してくれ」と。
いやいや待てよ。
さすがに「ただでさえ自由時間少ないですから自習時間使っていいですか?」と嫌味ぽく聞きましたが、
「それはあかんねん」と言われ「は?」となりましたが、逆らっても仕方ないんで
飯抜きの覚悟で部屋戻って布団やら荷物を運び出しました。
幸いにも、何人か同期が手伝ってくれたこともあり、夕食時間には何とか間に合ったので
一応食堂には行ったのですが、 疲れきってたせいかその日の夕食はご飯2口しか喉を通りませんでした。
まあ無理もないんですよね。
入寮してから過度のストレスにより、毎日3時間睡眠や栄養不足、
さらに喫煙量の増加など体に悪いことしかしてないんですから。
そして、そのあと喫煙所に行ってドアを閉めた瞬間に
身体に力が入らなくなり、ついに倒れてしまいました。
B気づいたら病院に運ばれてた
その後のことはほとんど覚えてなく、
気づいたら救急車を下りて病院に入るところでした。
あとあと聞いた話では、僕が喫煙所に入ったときは同期が2人いたらしく、
倒れた時にそのうちの一人がダッシュで教官室に行ってくれたとのこと。
本来、教官室に行く時はスーツか税大ジャージで行かなければならないのですが、
その同期は課業後ということもあり私服だったにもかかわらず、我を忘れて向かってくれたそう。
ただ、自分の出来事に対して言うのもなんですが、
そんなときでも「お前なんやねん!その服装は!」と言われたらしい。
でも、「そんなこと言うとる場合ちゃうやろ!人命と規則どっちが大事やねん!」とまで
言ってくれたらしく、その子には今はもう絡みはありませんが、感謝しかないですね。
ということがあったらしく、僕は知らない間に救急搬送で近くの総合病院へ。
目を覚ますと、「ロード」の歌詞通り、病室のベッドの上でした。
一応、話すことは出来たので「何があったん?」「ここどこ?」「今何時?」と、
矢継ぎ早に質問が飛び出してて帰ってくる答え全てに驚きを隠せなかった。
ここで、「あれ?そーいやポケットにケータイ入れとったよな」と思い出し、
看護師さんに取ってもらって触ろうとすると、指が全然動かない。
それと足も力が入らない。
何も考えられませんでした。
と、色々考えていると教育官や研修所の関係者が何人か来られました。
「この人ら誰?」となる人もいましたが、
ここでも色々話を聞いていると、申し訳ない気持ちしかなかったです。
あんだけ、「どうやってやめよ」と考えてたのに予想に反する出来事とは言え、
「なんかいる?」とか「なんかとって欲しい?」など親切にしていただき、
そんなことを考えてた自分に対して、
一人の人間として身体以上に精神的に痛くなってましたね。
その後、真っ先に思い浮かんだのが親についてです。
もちろん連絡は行き届いていたらしく、
「明日お父さんが朝イチで来てくれるそうやわ」と言われ、
ここでも頭が真っ白になりましたね。
意識はあるし普通に話せるので、
「どんな顔すればええねん」って気持ちが真っ先に来ました。
と、そんなことを考えてる間に入寮してから全然寝れてなかったこともあり
ぐっすり眠れ、目が覚めると担任の教育官と一緒に親父がいました。
ここでの僕が何を言ったかは覚えてませんが、
親父は「大丈夫やったか!?」と言ってくれて、
泣きそうになってたのを覚えてます。
聞いた話では、仕事明けなのにも関わらず電車で直行してくれたらしく、
一緒になった教育官にずっと謝ってくれてたそう。
と、担当医が来て「大変でしたね。症状を聞いてると、
もしかしたらギラン・バレー症候群か脳梗塞の可能性があるんで、
これから大学病院に移動してもらう予定です」と言われ、またまたパニクりました。
「俺そんなヤバい状況やったんかよ。。」とここで事の重大さに気付かされ、
宣告通りまた救急車に乗せられて高槻市(大阪)にある大学病院に入れられました。
その時はまだ手足が動かない状態でしたが、着いてすぐに
採血や脚気(膝叩くとピクんとなるやつ)など色んな検査を施されて、
病室に戻ると医師や看護師さん7,8人に囲まれ、身体について根掘り葉掘り聞かれてた。
結果から言うと、「脳梗塞」や「ギランバレー症候群」である可能性はほぼなく、
倒れた原因は「心因性反応」とのこと。
これが分かったのが入院生活2日目の事だったのですが、
上腕筋(力こぶ)や皮の薄い腰に針をぶっ刺されたりと
出来れば二度と経験したくない痛みを味わされたので、ある意味辛かったですね。
ここからは思い通りとまでは言わずとも、
腕は動くようになりケータイを触れるほどにまでなったので、
電源をつけると同期から数えきれない量のLINEやDMが。
「大丈夫か!?」「はよ帰ってこいよ!」「みんな待っとるぞ」などと
あんまり話したことの無い子までメッセージをくれて、1人だったこともあり涙が止まりませんでした。
でも、同時に申し訳なさもありました。
退院しても戻る気はなかったからです。
入院中、知り合いが何人も見舞いに来てくれて、色んな話を聞いたり
持ってきてくれた本を読んだりしていると、「精神病ませてまでやる仕事なんかない」と思い始めてました。
ちなみに、この時に読んだ本の影響や旅するYouTuberの影響もあり、
「誰も知り合いおらんくて海の見える沖縄に行こう」と決めてました。
けど、引っかかるのがやっぱり周りの存在。
やっと公務員になれたとき、自分の事のように喜んでくれた
「家族」「友達」「先輩」「恩師」の顔が思い浮かびました。
特に、親に対してはそう思ってることを中々言い出せず、
伝えられたのは入院生活17日間と長引いた入院生活を終えようとしてた退院4日前。
母親は「倒れてまであんたがそう考えたんならもう何も言わへん」と
言ってくれてましたが、父親は「体が動く以上せっかく受かったんやしもうちょい続けてみ」との考え。
僕が父親でも、多分親父と一緒の立場に立った時はそう言ってたと思います。
が、この時にはもう気持ちは結構固まってたので、
変なところで頑固になる僕と譲らない親父との考えは中々一致出来ませんでした。
そんなことをしてるうちに退院日を迎え、みんなは喜んでくれてました。
僕を除いては。
続く。。
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