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2019年12月28日

戦国土佐国人名一覧

【あ】

赤松飛騨守【あかまつひだのかみ(15??〜1563)】

吉良親貞家臣。赤松正則の男。官途は飛騨守。一条教房に従い土佐国に赴き吉良親貞に仕え神母山館80石を領した。

安芸元親【あきもとちか(1482〜15??)】

安芸郡安芸城主。官途は備後守。1526年、「安芸城の戦い」で香宗我部親秀勢と戦い香宗我部秀義を討取る戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安芸元泰【あきもとやす(15??〜1544)】

安芸元親の男。官途は山城守。室は与松元盛の娘。継嗣の安芸泰親が早世したため、次男の安芸国虎が安芸家の家督を相続した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

安芸泰親【あきやすちか(15??〜15??)】

安芸元泰の男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
 
安芸国虎【あきくにとら(1530〜1569)】

安芸元泰の次男。官途は備後守。室は一条房基の娘。与松元盛の後見を受け安芸家の家督を相続した。1563年、「夜須館の戦い」で長宗我部元親の家臣吉田重俊勢と戦い反撃を受け撃退された。1569年、「八流川の戦い」で長宗我部元親勢と戦い大敗した。「安芸城の戦い」で長宗我部元親勢の攻撃を受け一条兼定の後詰も無く、城内の井戸に毒を入れられるなどしたため、浄貞寺で自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安芸弘恒【あきひろつね(1557〜1582)】

安芸国虎の男(矢野備後守の養子)。官途は飛騨守。通称彦左衛門。別名矢野又六。室は矢野備後守の男。1569年、「安芸城の戦い」で父の安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い浄貞寺で自刃したため、畑山元氏とともに阿波国の矢野備後守のもとに落延びた。1582年、「阿波中富川の戦い」で矢野備後守に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。
 
安芸家友【あきいえとも(1562〜1634)】

安芸国虎の次男(安芸左京進の養子)。通称三郎左衛門。別名祖成山三郎左衛門。1569年、「安芸城の戦い」で父の安芸国虎が長宗我部元親勢と戦い自刃したため、阿波国に落延びた。土佐成山村で長宗我部元親の妹養甫尼に養育された。1600年、長宗我部盛親が改易処分に処されたため、山内一豊に仕えた。1601年、七色紙を献上し御用紙方役、幡多郡代官に任ぜられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安芸左京進【あきさきょうしん(15??〜15??)】

安芸国虎家臣。1563年、「夜須館の戦い」で安芸国虎に従い長宗我部元親の家臣吉田重俊勢と戦い反撃を受け撃退された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安宗実刻【あきむねさねくに(15??〜1574)】

一条房基家臣。幡多郡安宗館主。官途は因幡守。1574年、一条兼定が追放されたため、奈良長門守、竹葉権頭、伊与田淡路守らと結び長宗我部元親勢に対抗した。「安宗館の戦い」で長宗我部元親に属した小島政章、中脇美作守らと和議を結び安宗館から出たところを小島政章勢に謀殺された。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

秋山刑部丞【あきやまぎょうぶのじょう(15??〜15??)】

吾川郡秋山館主。1540年、一条房冬に仕えた。1557年、「秋山館の戦い」で本山茂辰勢の攻撃を受け降伏した。1560年、「秋山館の戦い」で長宗我部国親勢の攻撃を受け降伏して長宗我部国親に仕えた。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

芦田主馬太夫【あしどしゅめいだいふ(15??〜15??)】

香宗我部親泰家臣。陰陽師。1600年、長宗我部盛親が改易処分を受けため、山内一豊に仕え算所頭、博士頭を務めた。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。

飛鳥井頼孝【あすかいよりたか(15??〜15??)】

一条房家家臣。別名飛鳥井自楽。室は一条兼定の姪。家門五家。和歌、蹴鞠を家業とした。土佐国に下向して一条房家に寄食した。1565年、山城京都に戻った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飛鳥井雅量【あすかいまさかず(15??〜1587)】

飛鳥井頼孝の男。別名飛鳥井関内。歌人、蹴鞠家。1563年、津野定勝に鞠道八足の図を与え蹴鞠の秘儀を教えた。1565年、父の飛鳥井頼孝は山城京都に戻ったが、一条兼定に仕えた。1574年、一条兼定が追放処分に処されたため、長宗我部元親に仕え鞠道と和歌を教えた。1587年、「豊後戸次川の戦い」で長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飛鳥井雅春【あすかいまさはる(1582〜1662)】

飛鳥井雅量の男。通称弥右左衛門。1587年、「豊後戸次川の戦い」で父の飛鳥井雅量が長宗我部元親に従い島津義久勢と戦い討死したため、飛鳥井家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並直敏【あなみなおとし(15??〜15??)】

一条房基家臣。官途は和泉守。通称忠兵衛。室は飛鳥井雅量の娘。一条家四家老。1573年、家老職の羽生道成、為松若狭守とともに一条兼定を隠居させ一条内政に家督を相続させた。1574年、長宗我部元親の支援を受け一条兼定を豊後国へ追放した。「中村城の戦い」で羽生道成、為松若狭守とともに長宗我部元親の支援を受けた加久見左衛門尉、大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉守、山路出雲守、伊与田対馬守、伊与田国安、上山重正、上山源助、小島政章、和田兵衛、依岡左京、依岡右京進、野町四郎丸、沖長四郎、大塚八木右衛門勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並有次【あなみありつぐ(15??〜1621)】

安並直敏の男。通称久左衛門。1561年、一条兼定の意向を受け伊予国の土居清良のもとに赴いた。1574年、一条兼定が豊後国に追放されたため、長宗我部元親に仕えた。1600年、長宗我部盛親が改易処分を処されたため、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

安並弥三【あなみよぞう(15??〜15??)】

高岡郡安並館主。1517年、「姫野々館の戦い」で一条房家の意向を受け津野国泰の家臣中平元忠勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

安並玄蕃【あなみげんば(15??〜15??)】

片岡直光家臣。1585年、「伊予金子城の戦い」で片岡光綱に従い小早川景隆勢と戦い片岡光綱が討死したため、竹内又左衛門、上村孫左衛門とともに片岡光綱の亡骸を黒岩館に持帰った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

天野屋清左衛門【あまのやせいざえもん(15??〜15??)】

佐竹義直家臣。1571年、「蓮池城の戦い」で佐竹義直に従い長宗我部元親の家臣吉良親貞勢と戦い落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。

有井玄蕃【ありいげんば(15??〜15??)】

安芸国虎家臣。安芸郡十二人衆。参考文献:「長宗我部家武将列伝」by作者不明。

有岡安房守【ありおかあわのかみ(15??〜15??)】

幡多郡加持有岡館主。参考文献:「高知県の観光」by高知県の観光。

有沢重貞【ありさわしげさだ(15??〜1569)】

安芸国虎家臣。官途は石見守。別名有沢重親。1569年、安芸国虎が長宗我部元親との戦い浄貞寺で自刃する錯を務め、殉死した。参考文献:「長宗我部元親軍記」by筑後守。
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