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2022年06月14日
何のために生きるのか?
「何のために生きるのか?」普段あまり考えることのないこの問いについて、最近私は久しぶりに考える機会がありました。このようなことを考えるのは、だいたい心が疲れている時です。なぜなら「心が疲れている→生きるのがつらい→つらい状況に耐えてまで生きる意味は何なのか?」という思考になるからです。実際、私は忙しさと睡眠不足により、ややウツ気味でした。
私が初めてこの問いについて考えるようになったのは、高校に入学して、しばらく経った時でした。私は進学校に入り、毎日ある小テストに向けて、睡眠時間を削って勉強していました。大事なところだけ勉強すればいいものを、生真面目な性格だったため、例えばドリルの最初のページから全ての問題を解いていく勉強法でした。また、中学から高校へと環境が変わり、社交的ではない性格だったため、周りの人とあまり会話ができず、孤立感がありました。「高校に入ってから調子がおかしいな」というストレスは、何となく感じていました。
そんなある日「プツっ」と糸が切れたかのように、小テストの勉強が手につかなくなりました。今まで「努力」することで様々な困難を乗り越えてきた自分が、なぜか「努力」できなくなりました。気晴らしに、中学の頃、あんなに楽しかったスーパーファミコンをしてみても、全く楽しいと感じませんでした。それもまたショックでした。当時は自分に何が起きているのか、全く分かりませんでしたが、人生で初めて、本格的なウツ状態を経験したということが、今では分かります。
この本格的なウツ状態は、勉強のペースを落としたり、休んだりすることで、少しずつ回復し、小康状態になりましたが、その頃から「何のために生きるのか?」という問いが、頭から離れなくなりました。自分なりに必死に考え、「家族のため」、「趣味(マラソン)のため」とか、問いの答えを探しました。問いの答えを一応でも良いから準備しておくと、一時的には問いの答え探しを中断することができましたが、問いが頭に浮かんでくるたびに「家族のために生きる、マラソンのために生きる、家族のために生きる、マラソンのために生きる、・・・」と頭の中で繰り返し唱えていると、だんだんしっくりこなくなり、再び最良の答えを探す思考が始まってしまいました。問いの答えがない状態は不安、そうかといって、一応見つけた答えもしっくりこない。こんな感じで、常に頭の中は不安でいっぱいの状態で、それを人にうまく説明することができないし、勇気を出して説明しても、「考えすぎ」と言われ、理解してもらえない。高校生の頃は、一人で悩み、プチウツ状態が継続している感じでした。
大学に入り、環境が変わり、この問いについて自然と考えることはなくなりましたが、冒頭でも書いたように、あれから20年経った今、ふと、この問いが頭をよぎりました。20年間で様々な経験をし、その問いの答えはおそらく無いだろうとは思っていましたが、久しぶりに考えてみました。通勤中の車の中で、10分くらい考え、良い答えが見つからないとモヤモヤしていた時に、ふと、その答えを目の前に広がる景色から見つけました。
野に生える草木。あの雑草や、あの雑木は、生きる意味なんて考えているのだろうか?そんなこと、考えているようには全く見えない。この世に生を受けたから、ただ生きているだけ。各々の遺伝子情報に従って、茎や幹を伸ばし、葉を付けているだけ。草木も、人間も、自然の一部。人間の生きる意味も、草木と同じではないだろうか?
「何のために生きるのか?」その問いに対する答えは「草木と同じように、ただ生きているだけ。」
私はこの答えが分かってからは、「何のために生きるのか?」を考えることをやめることができるようになりました。
近年のコロナ渦やロシア・ウクライナ戦争、物価の上昇等、社会全体が生きづらさを感じやすくなってきている状況で、ふと「何のために生きるのか?」という問いが浮かび、その答えが見つからず、悩み、苦しむ人が増えてきているかもしれません。そのような人に読んでもらい、私と同じように「生きる意味」呪縛から抜け出し、自分らしく生きる人生を送って欲しい、そんな思いから書いてみました。
※ 記事一覧はこちら
私が初めてこの問いについて考えるようになったのは、高校に入学して、しばらく経った時でした。私は進学校に入り、毎日ある小テストに向けて、睡眠時間を削って勉強していました。大事なところだけ勉強すればいいものを、生真面目な性格だったため、例えばドリルの最初のページから全ての問題を解いていく勉強法でした。また、中学から高校へと環境が変わり、社交的ではない性格だったため、周りの人とあまり会話ができず、孤立感がありました。「高校に入ってから調子がおかしいな」というストレスは、何となく感じていました。
そんなある日「プツっ」と糸が切れたかのように、小テストの勉強が手につかなくなりました。今まで「努力」することで様々な困難を乗り越えてきた自分が、なぜか「努力」できなくなりました。気晴らしに、中学の頃、あんなに楽しかったスーパーファミコンをしてみても、全く楽しいと感じませんでした。それもまたショックでした。当時は自分に何が起きているのか、全く分かりませんでしたが、人生で初めて、本格的なウツ状態を経験したということが、今では分かります。
この本格的なウツ状態は、勉強のペースを落としたり、休んだりすることで、少しずつ回復し、小康状態になりましたが、その頃から「何のために生きるのか?」という問いが、頭から離れなくなりました。自分なりに必死に考え、「家族のため」、「趣味(マラソン)のため」とか、問いの答えを探しました。問いの答えを一応でも良いから準備しておくと、一時的には問いの答え探しを中断することができましたが、問いが頭に浮かんでくるたびに「家族のために生きる、マラソンのために生きる、家族のために生きる、マラソンのために生きる、・・・」と頭の中で繰り返し唱えていると、だんだんしっくりこなくなり、再び最良の答えを探す思考が始まってしまいました。問いの答えがない状態は不安、そうかといって、一応見つけた答えもしっくりこない。こんな感じで、常に頭の中は不安でいっぱいの状態で、それを人にうまく説明することができないし、勇気を出して説明しても、「考えすぎ」と言われ、理解してもらえない。高校生の頃は、一人で悩み、プチウツ状態が継続している感じでした。
大学に入り、環境が変わり、この問いについて自然と考えることはなくなりましたが、冒頭でも書いたように、あれから20年経った今、ふと、この問いが頭をよぎりました。20年間で様々な経験をし、その問いの答えはおそらく無いだろうとは思っていましたが、久しぶりに考えてみました。通勤中の車の中で、10分くらい考え、良い答えが見つからないとモヤモヤしていた時に、ふと、その答えを目の前に広がる景色から見つけました。
野に生える草木。あの雑草や、あの雑木は、生きる意味なんて考えているのだろうか?そんなこと、考えているようには全く見えない。この世に生を受けたから、ただ生きているだけ。各々の遺伝子情報に従って、茎や幹を伸ばし、葉を付けているだけ。草木も、人間も、自然の一部。人間の生きる意味も、草木と同じではないだろうか?
「何のために生きるのか?」その問いに対する答えは「草木と同じように、ただ生きているだけ。」
私はこの答えが分かってからは、「何のために生きるのか?」を考えることをやめることができるようになりました。
近年のコロナ渦やロシア・ウクライナ戦争、物価の上昇等、社会全体が生きづらさを感じやすくなってきている状況で、ふと「何のために生きるのか?」という問いが浮かび、その答えが見つからず、悩み、苦しむ人が増えてきているかもしれません。そのような人に読んでもらい、私と同じように「生きる意味」呪縛から抜け出し、自分らしく生きる人生を送って欲しい、そんな思いから書いてみました。
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