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「桂馬の幻想」 坂口安吾 (12/12)
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「戦いの原則−人間関係学から組織運営の妙まで」 大橋武夫 (12/06)
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2013年12月18日
「ぼくらの頭脳の鍛え方―必読の教養書400冊」 立花隆・佐藤優
 書評本を読むことの意義は3つある。1つは評者の物の見方を評価対象の本を通じ自身と比較できること、2つ目は思いもよらぬ本・視点に出会えること、3つ目は自ら労することなく手っ取り早く本の「概要」「評価」「視点」を得られることである。

 1つ目はまあ書評の体を成す本ならばどれでも満たすだろう。2つめは自身と評者の相性もあるがまともな評者ならまあまず満たす。3つ目は当然といえば当然であるし、あまりに稚拙で功利的な手段であるといえばそうなるが、意外とこれを満たせるものは少ない。

 本書は知の巨人・立花隆と知の怪物・佐藤優(立花との対比で紹介にはこうあるがまさに言えて妙である)の対談書評本である。副題に必読の教養書400冊とある通り、二人が自分の書棚から百冊ずつ、書店の文庫・新書から100冊ずつ選りすぐったものである。

 立花隆はその経歴・著作から言ってもまさに「巨人」で、自身が執筆するのに参考とした文献を「冊」単位ではなく「m」単位で考える規格外の知識人だ。対する佐藤優も年は若いがソ連動乱時に情報活動を行っていたバリバリの実戦派、叩き上げのインテリだ。

 佐藤優は知識・思考の幅・深さ共に凄まじいものを持っているため、対談本ではたいてい相手を食ってしまう。今現在のところ佐藤と対談して互角に対談しているのはこの本での立花しか知らない。

 それにしても二人とも凄い。政治的立場や思想的立場を前面に押し出した対談ではなく、本好きの知識人二人がのんびりと談じているつくりだからなおさら話が広がり、深さがある。途中乃木希典の殉死の解釈とかで意見が分かれるところはあるものの、基本的には雑談の中でどんどんトピックに応じた本を紹介するのみで停滞感無く進んでいく。

 章が終わり、雑談に区切りができるごとに立花・佐藤それぞれの選んだ本がリストアップされる。佐藤がそれぞれに解説・解題をつけているのに対し、立花は何冊かにのみ膨大な解説・解題を付け、他はただ挙げるのみであるのが面白い。さらに立花が現代科学論・生理学・死といったように簡潔にジャンルを定めているのに対し、佐藤は「宗教・哲学についての知識で、人間の本質を探究する」「歴史についての知識で、未来への指針を探る」といったように分けているのも興味深い。

 宗教関連はやはり佐藤が多く挙げ、サイエンスものは圧倒的に立花が担当しているのが二人の来歴を示しているようでいい。

 この書評本は、書評のための本ではなく、二人の思考法に関する対談の中で本が紹介されている、ぐらいのものだろう。付録の「立花隆による『実戦に役立つ十四カ条』」・「立花隆選・セックスの神秘を探る十冊」もよく考え抜かれている。

 対談初めの方にある立花の本の読み方と、情報機関の人間の読書術が同じものであるというエピソードが一番面白かった。

佐藤優 立花隆 書評 対談






2013年12月18日
「戦いの原則−人間関係学から組織運営の妙まで」 大橋武夫
 本書は戦中は参謀として中国戦線で活躍し、戦後は「兵法経営論」をもって活躍した大橋武夫のものである。「戦争論」「孫子」といった世界各国の兵法書のエッセンスを各兵法書ごとにまとめてある。およそ兵法書というものは必然的にその内容は似通ってくるものである。だから、素人が兵法書から何かを得ようと思えば難解な漢文や専門用語が湧いている専門書を読むよりかは、こういった兵法に通暁した人がまとめ上げた入門書を読むほうがはるかにいい。

 著者は無数にある兵法書のうち、我々が読むべきは「孫子」「君主論」「政略論」「戦争論」「統帥綱領」「統帥参考」「作戦要務令」であるとする。そしてリーダー論、統率論を補完するものとして「論語」「孟子」「老子」「荘子」「荀子」「韓非子」を、謀略・策略の補完として「戦国策」「三十六計」「鬼谷子」、兵法の特異な部門として「闘戦経」「呉子」「蔚繚子」「六韜」「三略」を挙げている。

 内容としては各兵法書が各章をなしており、各章は「一、戦わずして勝つ」といったその書からの引用・解説・実例のパートで構成されている。著者の根が軍人・経営者とどちらも戦略思考を要する職であるためか、引いてくる実例や解説どれにも無駄がない。兵法をビジネスに応用するといった試みの本はたいてい実例の点で陳腐さが露呈するものが多い。この著者はさらに、各パートごとに、その教えと関連する他書や軍人の言葉の引用まで付けているので理解が進む。

 全体の内容としては著者の言うとおり、「孫子」や「戦争論」といった前半の「読むべき」兵法書の方に重きが置かれ、内容も十分なものとなっている。「戦争論」の要約としてこれほど的確にまとめ上げたものはなく、また戦前の日本の「統帥綱領・参考」「作戦要務令」を紹介するものは少ないので貴重である。

 個人的には「作戦要務令」の「四、指揮の要訣は、部下を掌握しながらも、独断活用の余地を与うにあり」の項で自身の工場で増員したにもかかわらず生産が減ってしまった時の対処で「作戦要務令」に立ち返り、部下の掌握について幹部に反省を促したエピソードや、「三十六計」にある大兵団の参謀経験者は三十六計は児戯に等しいと顧みぬが、第一線の部隊長では三十六計を妙計とする人がいたといったエピソードには生々しさがあり未だ「実学」として通用する「兵法」を感じた。

 兵法を実践しようとする人にはこの本一冊で十分である。

大橋武夫 兵法 経営論






2013年12月18日
「だまってすわれば−観相師・水野南北一代」 神坂次郎
 観相学・骨相学は正規の学問としてはもはや絶滅したものである。精神能力は大脳の各部位に根差しており、大脳の発達程度は顔の骨格から推定できるという説が、人の顔貌・表情からその精神能力を判断しようとするこの学問の土台となっていた。この学問がきっかけで生理学・犯罪心理学が発達したが、この学問の理論自体は大雑把なものだったのですぐに廃れた。

 学問として言う「観相学・骨相学」は19世紀初頭のヨーロッパで体系化されたものを指す。しかし、洋の東西を問わず、同じことをしようとする動きは遥か昔からあった。19世紀の西洋のそれも半ば占術から出たようなものであったが、他の観相は占術とほぼ同一とみてもいい。

 本書で取り上げられている水野南北は「だまってすわればぴたりと当たる」と評判が高かった江戸期の観相師である。観相一筋に修行してきた人物ではなく、若い頃は博徒としてあぶれ者の生活を送っている。目端が利く人物だったのか、裏社会でそれなりの存在となっていた頃、転機が訪れる。「死相が出ておる」と行きずりの僧に言われ、彼は生活を改めねば死ぬと諭される。その言葉にびびった彼は心機一転足を洗い、いくらかの経緯を経て観相師を目指すのであった

 神坂次郎の著作を読むのは初めてだがとても面白かった。司馬と作風が異なるが史料も緻密に各所に配されており、その時代の雰囲気を様々な角度から感じることができた。

 南北の観相学はその実践性から彼の生前天下第一の隆盛を誇り、また彼の理論はある程度仏の存在を借りつつ、観相の域を出、「節食により運気は改善する」とまで広範に及んだ。彼の観相学の爆発的流行のもととなったのは何よりそれが「ぴたりと当たる」からなのだが、その神がかり的な才覚がどうやって身に付いたかが面白い。

 観相を極めるに当たり南北は「人を見ることを極めるのだ」と思い立って髪結い・風呂場・火葬場を転々とし、舐めるように人々の肢体を観察する。この実証精神が実り、南北のもとには自ら門下に入る観相師達が続出する。

 興味深いのは神通力を得たような南北であるが節食など彼の教えを守る以外の点では、そんなに聖人君子然としていない所だ。相変わらず女癖は悪く、妻にもすぐ逃げられる。なぜか自身の将来は占えないのだ。そこが実に興味深い。

 彼の「食」に対する洞察も面白い。食は命を養う根源であり、命は食に従うもの。この食によりその人間の生涯の吉凶は決まると南北は説く。美食を食めば食むほど、運気が削られるらしい。

 科学はその実証性と普遍性、演繹性から他の考え方を蹴散らし、現代人の理性の第一の背景となっている。しかし世の中には漢方やこの南北の観相理論のように多大な実証性・普遍性を持つ非「科学」も存在する。西洋の知識階級と話すときには占星術の概念をある程度頭に入れておいた方がいい、向こうの人間は宗教がない人間は認めない、といったことは聞くが、これら「非科学」と「科学」の違い、付き合い方を一度考えてみるのもいいかもしれない。何も世界を観測するという点では両者に変わりはないのだから。

水野南北 神坂次郎 観相学 節食







2013年12月16日
「完全失踪マニュアル」 樫村政則
 有害図書「完全自殺マニュアル」の前書きにたしかこうあった

「こういう状況のなかで、もうただ生きてることに大した意味なんてない。もしかしたら生きてるんじゃなくて、ブロイラーみたいに”生かされている”だけなのかもしれない。だから適当なところで人生を切り上げてしまうことは、「非常に悲しい」とか「二度と起こしてはならない」とか「波及効果が心配」とかいう類の問題じゃない。自殺はとてもポジティブな行為だ。

 僕の知人に、それを飲んだら平気でビルから飛び降りちゃうほど頭のなかがメチャクチャになっちゃう”エンジェル・ダスト”っていう強烈なドラッグを、金属の小さなカプセルに入れてネックレスにして肌身離さず持ち歩いている人がいる。「イザとなったらこれ飲んで死んじゃえばいいんだから」って言って、定職になんて就かないでブラブラ気楽に暮らしている。

 この本がその金属のカプセルみたいなものになればいい。」

 「完全自殺マニュアル」は世間を賑わせ大いに売れたが、この本「完全失踪マニュアル」も同類と言えば同類である。自殺はある意味後先考えなくていいので勇気と手段さえあれば即実行可能だ。だが失踪は行方をくらませてからやることがたくさんあるリスキーな選択肢だ。本書はそのテクニックを元探偵が紹介する。

 失踪期間別に1カ月・数カ月・数年・永久失踪と編が分かれている。失踪期間1カ月などはストレス解消のようなものということで、失踪宣言書の作り方・持ち物・帰るきっかけなど素人目にもほんわかしている。

 失踪期間が延びるにつれ物騒になってくる。「仕事の探し方」「探偵の追跡をまく」「他人になりすます」「他人名義で就職」「発覚しても再失踪」「各種時効リスト」「記憶喪失を装う」…などなど。

 「完全自殺マニュアル」がちょっと後ろめたい懐剣だとすれば本書はややあったかいオーラの地図だと言えるだろう。違法行為も多々触れられており、覚悟無くして実践は難しいだろう。あるいは緻密に整備された現代社会制度の欠落(戸籍取得テクニック)を知る入門書としても使えるだろう。

 日本は少なくとも地方都市レベルまでは完全な整備された社会が広がっている。その息苦しさについてふと考え、「整備された社会」を見つめなおしたい人は読むべきだ。

 当然のことながら、失踪を志す人以外にも、失踪者を捜す側の人にも参考になるだろう。

有害図書 失踪 自殺 マニュアル 太田出版 アンダーグラウンド



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2013年12月16日
「殉死」 司馬遼太郎  後半「腹を切ること」編
 書評は一冊につき記事一本にすべきだが「殉死」に関しては前半・後半で区切るべきだと思い記事を分けた。

 司馬が乃木のことを生理的に嫌悪していることは前半部「要塞」や「坂の上の雲」を読めばすぐにわかる。しかしこの後半部「腹を切ること」を読むと乃木への批判がやや薄れたかのように感じられる。あたかも、自分の首を切った恨み尽くしても足りない上司についてふと彼の立場を思い、押し黙るようなものである。

 「腹を切ること」は@乃木夫妻の交流A日露戦後の乃木B乃木の内面思想C殉死の経緯、が内容となっている。乃木とその妻静子の結婚生活は現代ならば週刊誌で騒がれるであろうほどに奇妙なものだ。乃木の悪所通いや、軍隊生活を家でもし家族をそれに従わせる点などは、とうに愛想を尽かされてもいいほどである。日露戦後の乃木は学習院の院長となる。そして彼は陽明学徒でもあったと、乃木の精神描写が多くなる。乃木と明治帝、昭和天皇の交流譚や殉死前に彼が終わらせたかった仕事が描かれる。

 乃木が日露戦の復命書を読み上げる場面は象徴的である。他の司令官と違い、乃木は自身の手で誰のものよりも名文で、感動的な復命書を書き上げ、奏上する。途中、彼はうなだれ、嗚咽し始めたため明治帝と乃木そして児玉を残して他の将官たちは退室する。凱旋後、服を着かえる余裕は十分にあり宮中ということで他の者どもはみな華麗な礼服を着用していた。その中で乃木だけが泥と硝煙の染みついた戦闘服のまま参加した。司馬は言う「希典はつねに劇的であった」。この明治帝と郎党・乃木との劇的場面にいた児玉は日露戦の疲労により、泣いたり座を外す気根も心の弾みもなくなってしまっていた。明治帝は日露戦で陸軍最大の功労者と言ってもいい児玉ではなく、希典の劇的なたたずまいの方を好まれた。

 劇的性格の人間はある母体があれば否応なく存在するものだ。大方の場合は承認欲求や実現欲求を変に拗らせている場合が多いものだが乃木はどうか。司馬が乃木の内面を描くに持ち出した材料は陽明学(さらに狭めれば山鹿素行の系譜)である。司馬作品では「峠」「世に棲む日日」でおなじみの思想であるが司馬は今回乃木の自律のみならず国家観への言及でこれを持ち出している。乃木が日露戦で時折見せた自殺的行動や劇的行動は、「陽明学的体質」の者に「陽明学」が触れたために起こったと彼は言う。

 「旅順のときも大石橋のときも、死は美であるとしか希典には考えられなかったのであろう。そのことは、陽明学的な純粋発想からすれば正しいのであろう。動機が美でさえあれば結果をさほど重視せずともよいということであろう」

 現実問題としての彼の死は戦局の混乱を招くばかりか、外国にも伝えられ戦費調達を阻害し、戦争自体の遂行・成否にかかわるものである。しかし彼の心にはあまり関係がなかった。と司馬は書く。

 このような人間がどうやって出来上がるのか。司馬は陽明学についてやや安直に解釈をしがちだが、乃木に関してはその強引な解釈で充分合うように思われる。さらに初めの方で「乃木自身がそうである以上に彼を見る周りの人々の目がいっそうにその風姿を劇的に仕立てようとした。」この文はかなり良い。これのおかげで個人的にはすんなりと読了できた。

 自身を劇中に動かす乃木。彼の劇は相方の明治帝を中心に成り立っている。その相方が居なくなった以上、幕切れしかない。

 乃木が妻にさえ殉死の決意をぎりぎりまで伝えない所と言い、彼は変なやつである。三島の「憂国」、進化生物学、深層心理などを絡めて考えても面白いかもしれない。

 「殉死」ジャンルがあるならばトップ2には入るであろう良作。

乃木希典 明治天皇 軍神






2013年12月16日
「城塞」 司馬遼太郎
 この作もメインの主役を置かずに群像活劇の様相を呈している点「関ヶ原」の系譜を継いでいる。「関ヶ原」から十数年が経ち、前作の登場人物たちも変わった。反豊臣のラスボス家康はそのままとして謀臣正信は息子正純に代わり、三成の位置には大野治長が、島左近に代わり小幡勘兵衛が登場する。福島政則・加藤清正はまだ存命だが老いてしまっている。真田では昌幸が没し幸村が登場する。また講談などで有名な毛利勝永・後藤又兵衛・木村重成らも登場する。描写は勘兵衛が徳川方の諜者として大野家に潜入するところから始まり、家康・勘兵衛・幸村らを中心に展開していく。

 この作品も面白い。ただ「関ヶ原」に比べ人物の魅力に欠ける。これは司馬の筆力のせいではなく、「関ヶ原」とは何もかもが違うからであろう。

 第一家康とその政府の権力が相対的に増大しすぎてしまったがために、家康の謀略が荒くなっている。釣鐘事件の件など、チンピラの難癖同様の恫喝が彼の外交の主流となる。対する治長は三成ほど芯のある男ではない。三成も決断が鈍ることが多々あったが、徳川が絶対的な敵であるという危機認識は変わらなかった。しかし治長や城中の女どもは家康の策略に容易に乗り、乗るたびに徳川は自分らの味方だと錯覚する。城内の統一認識どころか個々人レベルでも危機認識に一貫性が無いところが致命的である。勘兵衛は諜者でありながら、治長のことをどことなく気にかけている。もう少し勘兵衛が積極的に歴史に介入するところを期待してしまうがそうすれば創作がメインになってしまうからやむを得ないのだろうか。幸村はじめとする牢人武将たちの活躍はさすが生き生きとつづられている。胸がすく展開はここだけだろうか。

 この作品は「関ヶ原」という勢力争いゲームの分水嶺を経て誕生した閾値を超えた「相対強者」が「絶体強者」となり「支配者」となる過程を描いたものである。そのためあまり激動が無く、結果が分かりきった展開となるのも仕方がない。

 徳川方の諜者である勘兵衛が時折「大坂方について勝たせてやろうかな」と思うのも面白い。勘兵衛は他の城将と異なり山っ気で入城しているわけではないが、それでも時折心が動くのである。このあたりの自負心・実現欲求などが諜者のロイヤリティー・アイデンティティーの本質なのかもしれない。

 また、秀頼を囲む女や小姓どもが権力を有している描写も面白い。「胡蝶の夢」では多紀楽真院ら漢方の奥御医師たちが大奥とつるみ権勢を振るう様が描かれていたが、それに似る。権力が自然発生的にどういったところに根付くかが分かる。

 ラストは「関ヶ原」ほどではないものの、考えさせられる。

司馬遼太郎 大坂の陣 小幡景憲






2013年12月15日
「関ヶ原」 司馬遼太郎
 関ヶ原−日本人なら誰もが知っている戦国最後の大合戦である。五大老トップ徳川家康と五奉行トップ石田三成、両者が如何にして対立構図となり戦端を開くに至ったかが生き生きと描写されている。司馬遼太郎の作品の中では「明確な主人公がいない」群像活劇のパターンということで「城塞」に通ずるものがある。

 この話の主人公格は石田三成・その謀臣島左近・徳川家康・謀臣本田正信である。準主役として福島政則や真田昌幸、黒田官兵衛らがぞろぞろ出て来て心躍る。

 三成に過ぎたるものと評され、軍勢を指揮したならば天下で三指に入るといわれる島左近。彼は自身の主、三成の自覚無いままに敵を作りやすい性格にあきれつつも、彼のその人柄に惚れ込み奔走する。家康とその待臣本田正信は秀吉死後、表裏ありとあらゆる手を尽くして豊臣家を弱体化させるため護持者・三成に罠を張り巡らせる。三成は勘定や内政官僚としては比類なき才を持っていたが、ここぞという時に決断ができず、左近は家康暗殺を幾度となく止められ歯噛みする。理想主義的・戦略的で構想がとかく広大な現実認識が甘い三成に対し、現実主義的かつ戦術的で即物的な左近は何度も意見が衝突するが、左近は決して三成を見捨てない。福島政則らによる屋敷襲撃事件・小山軍議を経て決戦・関ヶ原となる。西軍は寄せ集めで士気もばらばら、内応している軍もある状態である。あとは決戦をもって家康を打ち取るのみ、と覚悟した三成、左近、大谷吉継らはいかなる最期を迎えるのか、家康・正信らはいかにして反逆者の汚名をかぶらずに三成征討軍を起こしたのか。三巻約1600頁の大作ながらすぐに読み終わってしまうほど面白い。

 司馬文学の欠点は、設定・構造及び対話が巧緻につくられすぎている上、巧みに史料と創作が交えてあるためつい史実もそうであったと思い込んでしまうところだ。司馬自身も自身の作品が史実を忠実に再現したものではないと認めている。司馬作品は司馬の信奉する近代合理主義を歴史上のある地点において、有名人をプレーヤーとして展開しているものなのだ。世が世なら司馬はある種、マキアヴェッリのような役割を果たしたかもしれない。

 ともかくこの作品の圧巻は小山軍議とラストである。小山軍議の情景描写はそのまま現在の役員会議や株主総会、政界会談を思わせるものがある。いかにして大義名分を無いところから作り出すか、敵陣営を買収して切り崩すか、防衛本能をくすぐり味方に抱き込むか、ここまで会議の場における謀略を縷々と描いた作品も珍しい。

 ラストは三成の愛人と意外な人物との会話で終わる。司馬作品の中でも特に余韻が残る終わり方である。この場面を藤原頼長の政治思想やカラマーゾフ、他のキリスト文学と比較するのも一興かもしれない。

 石田三成 島左近 関ヶ原 徳川家康 司馬遼太郎










2013年12月15日
「北斗の人」 司馬遼太郎
 現代剣道の基礎の基礎と言っていいであろう北辰一刀流を創始した千葉周作の話である。この話では

 ・そこまで動乱の時代ではない
 ・したがって政治思想的なものも出てこない
 ・だが剣術という「技術業界」に限っては主人公がパラダイムシフトを起こしまくる

という点で「俄−浪華遊侠伝」と似て気楽に読める作品である。千葉周作が怪しげな術理を持ち出す古流剣術を打ち破り、「合理的な」新剣法“北辰一刀流”創始に至るまでが痛烈である。ある意味では司馬作品の特徴「近代合理主義礼賛」が最も色濃い作品かもしれない。

 武道をやっている人間なら「型」と「実戦」の兼ね合いについて悩んだことが誰しもあるのではなかろうか。剣道・柔道・空手はいざ知らず、弓道においては「当て射」なるものがある。学生弓道に多いもので、指導者はこれを忌む。射形が「射法八節」(現代弓道における型)の理想型から外れ、当たりばかりにとらわれているため変な癖がついてしまっているものを指す。さて射形がきれいで中らない射と、射形が汚くて当たる射、どちらが優れているか。これは各弓道人により出す答えは異なるだろう。少なくともこの本の持つまぶしいばかりの合理礼賛の姿勢は少しは参考になるかもしれない。

 相手との戦いに勝つために合理的に剣技・教授法を練り現在に近い竹刀剣法を編み出した周作であったが、試合の勝負にこだわりすぎて、真剣勝負の精神と技術を疎かにしないためにまず抜刀・組太刀で技を練り、修行が一定段階に達し初めて竹刀打ちに進めるようにしたというのが興味深い。

北辰一刀流 千葉周作 司馬遼太郎






2013年12月15日
「ジョーカー・ゲーム」 柳広司
 ひとは読書するにあたり、自身の境遇とは全く異なる作品を好むらしい。巷にスパイ小説、探偵小説、ギャングものetc…があふれていることからも分かる。

 スパイを扱った小説・映画は大別すると2パターンになる。一つはジェームズ・ボンドに代表されるような華麗なハードボイルド(表現に矛盾があるが気にしない)タッチの作品だ。まあやたらと銃撃戦やハニートラップが展開されるもので、主人公はなぜかタキシードを着つつも戦線すれすれまで潜入したりする。情報戦に関する文献にあたったことがない人にとってはこの辺が「スパイ」のイメージであろう。

 もう一つは、リアルな写実を旨とするものだ。ジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」などである。ボンドシリーズの作者イアン・フレミングも含めサマセット・モーム、ジョン・ル・カレ、グレアム・グリーンなどイギリスのスパイ小説家の中には実際に情報業務に携わっていた者が多い。リアルな描写の作品には少なからず現実の情報が基となっているはずだからと各国の情報機関はそうした作品が出るたびに情報の「ウラ」をとるものだと聞いたことがある。この本「ジョーカー・ゲーム」は後者のタイプだ。

 「ジョーカー・ゲーム」は結城中佐率いるD機関の機関員が軍内部の謀略や外務省からの情報漏洩に妨害されつつも、他国のスパイを寝返らせたり、テロ計画を食い止める短編集である。舞台は戦前の日本である。

 構成が上手く、どんでん返しやトリックが巧緻なのですぐに読み切ってしまう。少しでも情報活動関連の歴史書を紐解いた人は分かるであろう。この短編集に入った話の大半は戦前の日本の情報活動史にある事件をモチーフとしていたり、現代も含め情報機関が採用しているテクニックがふんだんに散りばめられている。陸軍中野学校やゾルゲ事件などだ。

 史料との格闘が要求される小説家の偉大なところは、ただ資料を読むだけでは観察者→史料上の出来事という一方向的・二次元的な解釈しか往々にしてできない所を、誰にでも容易に史料上の人物の立場からの三次元的考察・追体験ができるようにしてしまう点である。戦前の情報活動やについて手っ取り早くイメージが欲しければこの本を読むことだ。

スパイ 中野学校 柳広司 情報機関











2013年12月14日
「弓道士魂」 平田弘史
 現代の「武道」と維新以前の「武術」の間には緩やかな断絶がある。剣道は各藩・各流派の技術を明治初期に統合した警視流が大本となっているし、嘉納治五郎創始の柔道も初期は新興の柔術流派という扱いであった。合気道も大東流・古流柔術等を修めた植芝盛平が創始したものであるし、空手道も競技化・組織化の流れでだいぶ古流と変わってきている点が多い。

 もちろん「武道」「武術」どちらがより優れていると議論するのは野暮なもので、海音寺潮五郎の言うように結局は流派の技術差よりは個々人の技量が優劣を定めていることは確かだろう。

 弓道もこの点他の武道と同様に断絶と統合を経ている。現在日本で最も盛んな「弓」の流派は全日本弓道連盟が定めた「射法八節」に従う「弓道」である。他にも古流として流鏑馬で有名な小笠原流や甲冑戦闘の名残を残す日置流、独自の哲学昇華をしている新興・無影新月流などがあるが、全弓連と対立したりはせずに緩やかに交流しているのが現状である。

 日本の弓執る者の大多数は「弓道」をやっているわけだが、「弓道士魂」には現代の弓道人が忘れている「武術としての弓」が描かれている。

 太平の江戸期にあっては武芸が大流行した。弓術に至っては三十三間堂の通し矢という藩総出の大イベントが行われた。このうち最も有名な「大矢数」は堂の端から120m先のもう片端までを射通すもので、一昼夜をかけて行われた。藩命にかけて天下惣一の栄誉を勝ち取るために弓術家たちは文字通り血のにじむ修練を繰り返した。さらに天下惣一が達成できなかった責任をとり切腹した者も多数いたり、他藩を追い落とすために刺客を派遣したりと太平の世とはとても思えないエピソードが多々残っている。現代の弓道家が用いる道具や技術の大本はこの時期に原案・洗練化された。

 主人公・星野勘左衛門は8000本を射通し、天下惣一を成し遂げた男である。勘左衛門がなぜ通し矢の世界に入り、いかにして当代随一の名手となりえたかが描かれている。通し矢を実行するためにどのような訓練が課されたかという描写にだいぶ頁が割かれており、弓道人ならずもその苛酷さがわかるであろう。純粋に娯楽漫画としてみても話のまとめあげ方が秀逸である。

 現代の武道以上に武術では一見気狂いと見まごうばかりの自己鍛錬を課すことが多い。海音寺潮五郎は過去の精神主義としばしば批判的にそこのところを書いてはいるが、武の根幹を見失わないためにも「過酷な修行話」ぐらいは系譜として残しておくべきではなかろうか。

弓道 三十三間堂 平田弘史 










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