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2014年02月19日
「打ちのめされるようなすごい本」 米原万里
 生前わが国最高峰のロシア語通訳者であった米原万里の各紙に掲載していた書評を一冊にまとめ上げたものである。書評対象となる本はかなり幅が広く、米原自身の知的好奇心も相当広いものであったことがわかる。対象となる本は1995年〜2005年のものがメインだ。

 タイトルはある日掲載された書評のタイトルなのだが、読了後に思えばこの本自体が「打ちのめす」だけの力を持っていることが分かる。作者のコメントは時に辛辣、時にべた褒めであり、ぼろくそにけなされていた本ですら読みたくなるから不思議だ。また感情論に終始しない、論理的かつ具体的な批評精神で評しているのが素晴らしい。

 また、本書を構成する彼女の言葉一つ一つが箴言となっていることも本書の大きな特徴である。

「作家は、自身の見解を率直に偽りなく語るべきで、権力者におもねったり遠慮したのでは、言葉が力を失う。」

「生死の境を何度も彷徨い、恐怖と裏切りに弄ばれて人格を崩壊させていく人々もあれば、そんな中でも温かい人間関係を築き、尊厳を維持していく人々の姿がある。」

「文字で記されたものには虚構が紛れ込みやすい。」

 また、本書は単なる書評以外に作者のガン闘病日記としての側面も併せ持つ。書評対象の幾分かはガン治療に関する本が占めており、彼女は読んだ治療法を実践するところまで書き表している。あまりにも知識を仕入れすぎているために、医者に煙たがられたり、追い出される描写が幾度もある。彼女レベルでインフォームドコンセント、セカンドオピニオンを発揮する患者もそうそういまい。医療従事者からしてみれば、ある意味そこら辺の問題を患者側から描いた作品と読むこともできる。また、代替医療の実践についても記されているのだが、少しでも詐欺臭さ・まがい物臭さがするとすぐに返品したり、止めてしまうところも彼女らしい。

 「知識人99人の死に方(荒俣宏監修)」という本では三島由紀夫、吉田茂ら知識人達の死にざま・死に臨んでの心情が描かれており死を前にして知識人の知識・思考はどのように振る舞ったかを知るに絶好の書であるのだが、本人視点の闘病記、それもとりわけ理知的な作者の手による点で本書はそれ以上に読む者をぐいぐい紙面へ引き込んでゆく。少しも死を前にした諦め、弱音といったものが感じられず、最後まで生きよう、本を読もう、世界を知ろう、として足掻いたのが分かる。

 解説を井上ひさしと丸谷才一が書いているが、この二人の文章もまた真に読むに値するものである。書評という著作にしてはあまりオリジナリティーを全面に押し出せない分野において、ここまで読み手を魅了できる書き手はそうそういないだろう。その分、張りつめたものが切れて読了後、どっと疲れが出た。






2014年01月13日
「現代語訳 信長公記」 太田牛一
 信長について知るには最適の資料の現代語版が文庫で出た。どの書店でも目立つ所にあったということはそれなりに需要があると見越しての発行なのか?それとも大河ドラマに乗ろうとしたのだろうか。まあともかく古文書の現代語訳が廉価で手に入るのはうれしいことだ。

 軍記物・合戦物では平家物語、太平記、甲陽軍鑑といった有名どころは現代語訳が出回るものの、なぜか真骨頂であるはずの応仁〜戦国期を扱ったものはそう一般的な書籍としては流通しない。ましてや現代語訳など・・・。陰徳太平記や北条記なんかの廉価現代語版出ないかなぁ。また、すこしそれるが兵法書の類もいいかげん五輪書、柳生兵法家伝書、不動智神妙録といったメジャーどころじゃないもの、天狗芸術論何かをぜひ現代語訳して廉価で世に出してほしい。欲を言うならこれらに詳細な合戦図、陣形図、原本にある図、脚注をつけた状態で出して欲しい。平家物語、太平記なんかも古典文学としてではなく、軍事記録・政治資料・戦争文学としての観点から詳細な資料を付け加えたものが出ないだろうか。そうすればもっと生きた古典となるのに。

 脱線したが「信長公記」である。信長の側近(本によっては秘書官とも)であった太田牛一が1610年頃に 完成させた信長の一代記。信長生誕から本能寺の変までが描かれている。信長の側近が記した記録として、信ぴょう性がある一級資料とされている。

 内容はまあ、信長について書かれた本大半のソースなので衝撃の事実発覚!というようなものはない。ただし、道三二代説(斉藤道三の国盗りは実は父子二代によるものであったという説、ソースとして近隣の大名六角氏の文書が挙げられる)を裏付ける記述はなく、講談などでおなじみの一代の成り上がりとして描かれているのでどうしても一代説を推したくなる。

 信長の若い頃の合戦一つ一つに至るまで詳細に何某が一番槍、何某が討死と書かれている点がいかにも戦場ルポの様だ。信長の全生涯が文庫・現代語訳にして500頁に収まるのだから当時の軍記がいかに無駄を排し、要点のみをまとめ上げた文章なのかがよくわかる。

 武将名の羅列に近い戦闘描写以外の信長の描写は生き生きしたエピソードが多い。虚偽を許さず手ずから処刑する信長や山中の乞食を憐れむ信長は現代語である文余計に近所のヤンキーを見るかのごとく感じられる。

 欧米の知識階層に比べ日本人は自らの文学を大事にしないと言われる。フランス人ならラブレーやモーパッサンを読んでいないことは考えられないそうだ(まあ文学好きの知識人としてはだろうが)。だから意外と他国の文学には無頓着なことが多いそう。それに対して日本人は他国文学はやたらと渉猟するくせに自国は顧みない不思議な国民と考えられているらしい。

 日本においては古典というとまず、いわゆる文学作品が筆頭に来て次いで歌や神話もの、と来る。良質なルポルタージュ、モノによっては山師の売り込み本としての軍記物ももう少し視野に入れてみてはどうだろうか。ガリア戦記のように武将自らが執筆したものが少ないのもあるのだろうが。



 


2014年01月13日
「永遠の0」 百田尚樹
 数年目から常に書店で平積みの目立つ場所に置かれているのを見ながら、つくづくなぜ今更特攻ネタが流行るのだろうとずっと思っていた。ブームの終盤頃となり、今更ながら読んでみるとどんどんページに没入するかのように読み入ってしまい、600ページ弱あるのに一晩で読めてしまった。

 放送作家であったためか飾った言い回しをしない素朴な文章である。その無駄を排した文章により紙面に展開される戦時中の人間ドラマに引き込まれる。

 将来をあまり具体的に描けていない健太郎はフリーライターである姉に頼まれて戦闘機乗りで戦死した祖父について調べることとなった。調査の過程で浮かび上がる祖父は始めは臆病者、ついで天才的技量をもつ努力家、戦争を冷めた目で見つめる家族思いの男、とどんどん変わっていく。終わりに、健太郎の血がつながらない祖父が最後の証言者として口を開き、頑なに死ぬことを拒んだ戦闘機乗りの全物語が明らかとなる。

 戦闘機乗り達の証言なんかは「大空のサムライ」「零戦撃墜王」といった実在のエースパイロットらのエピソードをこれでもかと盛り込んでいて、現実感溢れるものとなっている。また、テロリストと特攻を同じ扱いにするな、と老人が憤るシーンからは作者の熱い思いが伝わってくる。

 話の構成、読者への問いかけの重さ、如何に紙面に入り込む余地があるか、どれをとっても素晴らしく完成された小説である。個人的には最後の血がつながっていない祖父の独白を読んだ後にもやもやとしたものが残ったが(再婚した祖父母を非難したいわけではなく、戦争で捻じ曲げられた男女の関係の悲惨さを思ってのこと)、この作品を読んだ女友達にこの点を尋ねてもそんなにこだわっていなかったことに驚いた。やはり男女の脳・思考回路は違うのだなと実感した。

 この作品が大ブームを巻き起こしたのはこの作品じたいの完成度が高いことによるところが大きい。だが、「大衆小説はその時代の集合無意識の反映」とする五木寛之の考えを借りるとするならば、近隣諸国との軋轢を経て日本国内で自虐史観を脱しナショナリズムが高まりつつあると言えるだろう。「坂の上の雲」ブームにも似たにおいを感じたが…。

 また、政治から少し離れてみると、国家、民族、さらには一個人としての立脚点を明確に持たない現代日本にとっては、内実はたとえ軍部中堅幹部が暴走し国民も新聞も訳の分からぬ狂乱状態で植民地をめぐる対欧米中戦に突入したとはいえ、「愛する家族のために死ぬ(本作ではむしろ死なない)」という大義名分で死んでいった者に感動し、かくありたいと思わせる、カタルシス作用を持った本作に魅かれる現代日本人はどこかに依存もしくは保護対象(いずれにせよ心理的依り代)を求めているのではないか。そうだとすれば今は家族、愛する人などとそれ以外考えられないであろう理由であるが、それが強く出すぎている分不要な横槍をそれがくらえばすぐに別の流れとなってしまうのではないか。ここでファシズムや排外主義、差別主義などと言葉を限定してしまえば陳腐となるのでここで止める。

 なにはともあれ、素晴らしい小説であることには違いない。








2014年01月13日
「インテリジェンス人生相談−復興編」 佐藤優
 佐藤優が「週間SPA!」で行っている人生相談ものの第三弾だそうである。書店にあったのがこれだけだったためここから読み始めるのだが、面白い。著者が著者単体での執筆物、書評、対談で縦横無尽に展開する発想法を「実際の人生上の問題」においてはいかに解釈し対応するのかがうかがい知れるからだ。

 発言者のあらゆる「資質」を問われるという点で書評よりもさらにピンきりなのが人生相談コーナーである。「性欲に困ってる」という中学生に対し「熟女に頭を下げろ」という上野千鶴子、とりあえず何にでも「己の苦しみを知ることによる救い」に強引に持っていく車谷長吉、「なんで人を殺しちゃいけないの?」という子供の問いかけに、「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。」と逃げた大江健三郎(これだけは人生相談ではないが)とまあ、自分から論題を作り出す作業ではない分、「知識人」達の生活力が問われる、ある意味重大な知的活動である。

 回答のタイプとしては
@自らの体験オンリーで全部解決しちゃう人
A補足で偉い人の言葉とか本とか引用しちゃう人
B全面的に他人の受け売りで回答を作成しちゃう人
C完全に回答する気がない人
以上に区分できるかと思う。@なんかは人生相談コーナーとしては一番あるべき姿かもしれないが恋愛経験ないような物理学者なんかがどろどろした不倫の相談受けたらどうなるんだろうか。気になる。

 佐藤優の場合は書評でもだいたいAのパターンで他人の発言、著作を援用しつつ、時折自身のとても十中八九読者が遭遇しないであろう体験をぶち込んでくる点が面白い。

 題名にもある震災復興関連には1章割いていて、あとは社会・家庭・職業・自己・恋愛である。回答者が佐藤優だけあって質問も風変わりなものが多い。

「計画なき開発から、街を守りたい」
「日本でイスラーム教を普及させたい」
「独立してロシアでビジネスを始めたい!」
「コロンビアで男の器量を磨きたい!」
「風俗で働いてると告白したらフラれました」
「佐藤優さんのような男をオトしたい」

もちろん「マトモな」相談も載っている。だいたいの回答にはこれを読め!と本が紹介されるのだが、佐藤自身の回答も質問者に寄り添う形で、時には大胆に飛躍し、時には堅実に「病院行け」と答えている。このご時世「コロンビアで男の器量を磨きたい!」に対し、真剣にどの言語をどう学べばいいのか、そもそも行く前提で回答しちゃう奴はそうそういない。人への寄り添い方が分からないと悩む坊主にたまにはロシア美女で羽目を外すのもよいと、ブローカーの良しあしに結論が行くのもすごい。

 あとがきで彼は、彼が絶対に崩さないスタイルとして「担当者は、仮に相談者の立場に全く共感ができない場合であっても、常に相談者の立場で考え、回答をする」と言っている。この方法論は実際に相談を受ける際にも使えるだろう。

 とりあえず人生相談本としては西原理恵子並みの威力(如何に読者の度胆を抜くか)と射程(話の奥行)・射角(ジャンルの広範さ)を誇りながら、結論がどこにどこに飛んでいくか分からない所に魅力がある。






2014年01月13日
「憂国のラスプーチン」 佐藤優・伊藤潤二・長崎尚志
 佐藤優の「国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて」をホラー作家・伊藤潤二作画、長崎尚志脚本で漫画化したものである。登場人物の名前が現実と微妙に変えられている(鈴木→都築、東郷→西條、程度)が、将来「北方領土疑獄事件」とでも呼ばれそうな事件の顛末が非常にわかりやすく描かれている。「国家の罠」や「自壊する帝国」に挫折した方はこちらから読んでみると良い。

 外務省でいわゆるノンキャリながら独自のパイプを持ち、鈴木宗男とタッグを組んで北方領土問題解決に心血を注いでいた外交官佐藤は、外務省を巡る鈴木の事件に関連して背任容疑で逮捕される。身に覚えのない佐藤に言わせると検察の書く筋書きは全てでっち上げなのだが、佐藤の部下・上司・仕事仲間の学者・商社マンなど皆がその筋書きに乗っかり佐藤を売る。佐藤は鈴木を売りさえすれば悪くはしないと持ちかけられるが、信条からそれを突っぱね、検察と徹底抗戦するするのであった。

 大方の人物は実物どおりの容姿なのだが、佐藤(劇中では憂木)が妙にさわやかな好男子に描かれ、ちっとも「ラスプーチン」らしさがないのが残念。まあ、現実通りに描写したらしたで、自身を裁く法廷で傲然とむしろ詰問する側のように座っていたといわれるジョン・ウィルクスのようになってしまうから、あまり「国策捜査の犠牲者」感が出ないとしてさわやかイケメンにされたのかも。

 内容は「国家の罠」のダイジェスト版であるから、その時に考察したい。漫画を用いてのプロパガンダという点でこの作品は興味深い。佐藤は起訴後、「こうなったら自分が助かることは考えず、外務省ごと引きずり落としてやろう」と考え作家に転身、外務省批判を行う。組織告発のために執筆活動を行うのはインテリにとって一般的手法だ。だが、そこに漫画を付け加えたことは斬新だ。

 漫画を用いれば「国家の罠」を読まない層の目に触れる機会もある上(ビッグコミックに掲載されていた)、読者の脳内でのイメージ形成の段階をすっ飛ばして、完成済みの強いイメージを植え付けることができる。宗教団体や進研ゼミの漫画を多用した宣伝も、単なる活字離れ以外の意味があるものだ。

 郵政民営化の際には国民を(宣伝工作的観点から)数パターンに分けてのプロパガンダが繰り広げられた、と語る元公安調査庁職員の証言もある(余談だがその人は痴漢容疑だったかで起訴されている)。国民選挙前に自民党が漫画のパンフレットを配りだしたら、いよいよ・・・かもしれない。

 余談だが、新聞、新書、テレビ、映画や大衆小説、果ては新聞のエイプリルフールの嘘記事に至るまで、大衆の目に触れる媒体には多かれ少なかれプロパガンダ的要素が入り込む。ポルノ映画なんかは人間の原初的欲求を司る視床下部にダイレクトに訴えかける分、そこにちょっと手を加えてやればかなり有効に作用するかもしれない(下世話すぎるので内容は書かないが、世の中の大半の有権者男性の目には触れる)。

 他の胡散臭い来歴の人々、田中森一(ヤメ検・闇世界の守護神)・守屋武昌(防衛事務次官・収賄容疑)などに比べ佐藤が作家として弁明と新たな生き方の確立に成功しているのは、彼に米原万里といった文壇関係者や神学部繋がりのアカデミックな人脈があったからだけではない。ある時は告発本、ある時は対談、ある時は全く政治色のなさそうな神学専門書、そしてこの漫画、とそれぞれ形を変えての巧妙に仕込まれた一手一手が有効に機能したからだ。

 プロパガンダとして現在進行形で機能している漫画として見れば、かなり面白い。もちろん、主人公が信念に基づき清く正しい拘置所ライフを送る漫画としても楽しめる。

 「僕から見ればこの事件はまさにホラー」と語る伊藤潤二が作画なので、おぞましいシーンは実にホラー漫画だ。ここらへん、感情を揺さぶらせるには実にうってつけの配役である。






2014年01月13日
「桂馬の幻想」 坂口安吾
 何とも奇妙な小説である。若手の天才棋士・木戸六段は対局中に中座し、外に出かけてしまう。逍遥中に彼は茶屋の娘の顔を見てふと桂馬が思い浮かぶ。それは彼が考えていた次の一手を示すものであった。そして彼は突如失踪する。彼と娘のいきさつを知る記者が彼らを見つけ出した時には、彼らは奇妙な同棲をしていた。彼らはいわゆる夫婦ではなく、教祖と信徒という関係性で同棲していたのだ。

 要約しても意味が分からないが、オリジナルを読んでも意味が分からない。棋士という極めて頭脳を酷使する勝負師が、対局から抜け出した際に見た女の顔に桂馬が浮かんだ。ここまではまだわかる。思考の共感覚とでも言おうか。

 題名の通り、この時見えた「桂馬」の幻像がテーマとして終盤まで貫く。記者は娘について調査するにつれ、娘の父親の不審な死やまじない師として村では避けられていることを知り、木戸の身を案ずる。

 木戸が初めに見た「桂馬」の幻像は「この娘は殺人を犯したのではないか?」というものだが(これは外れであった)、次に「彼女と同棲する」という新たな「桂馬」の一手をとる。

 娘に、自分と木戸の暮らしを見ないかと誘われ記者が目にしたのは、木戸に理解不能な暴力を振るう娘教祖の姿であった。彼女は木戸を殴ったり、柱に叩きつけるたびに洗脳するかのような言葉を吐く。

「目をあいて、オレを見な。オレの目を見な。お前の性根はくさっているぞ。お前の魂はまだ将棋指しの泥沼からぬけていないよ。人間は自然の子だ。カボチャや大根と同じものだぞ。ちっとも偉いことない。まだ、わからないか。このガキ!」

しかし、木戸は彼女を母親のように慕い、記者から見ても彼らの行動はどことなく愛情が通ったものと映るのであった。娘の振る舞い・様子は記者や村人等から見ると距離を置きたくなるものであり、彼女を見たものはだいたい見立てを誤り悪く解釈してしまう。

 木戸は「桂馬」に錯覚しなかったのは自分の誇りだと述べる。あの時見た「桂馬」は、彼女の行動が単なる物理的・精神的運動であるからこその翳だったのだと。ここで娘教祖の行動は女王蜂がオス蜂を殺すのと同じ、罪悪はなく翳がある行動であると語られるのだが、ここの部分は新興宗教の教祖の行動基準・理念と照らし合わせてみれば面白いかもしれない。

 さらに娘は村人から罵詈雑言を浴びせられると「虫けらどもが!」と応戦する。「日本中虫けらだらけさ」と語るのだが、宗教の閉鎖性は単なる一個人レベルにおいても存在することを示している。記者は都会の虫けら生活と先祖の大婆さん(この語句で木戸と娘の関係は記される)との共同生活、どちらもそんなにいいもんじゃないと結論づける。

 桂馬は将棋の駒の中では一番奇妙な動きといってもよい。初見の人から見ればまさに「飛躍する」駒といってよいだろう。木戸は天才棋士だからこそ、発想が飛躍しすぎた。同じ場所に居合わせた記者では到底たどり着かない結論を見出した。「宗教」にはまる人というものは、思考の「飛躍」する人なのだろうか。木戸の得た安住は民俗学的、古代信仰的モチーフにあふれたものだが、「魂の安住」というキーワードでドストエフスキー作品の、運命を甘受する人々と比べて見るのもよかろう。安吾の奇抜な発想が十二分に発揮された作品である。

 結局、記者は「キミは適所を得たらしいが、オレは再びキミを訪ねないぜ」と「念を押して」別れを告げる。「念を押さずにはいられないような妙な不安におそわれたからである。」






 

2014年01月10日
「毒舌訳 哲学者の言葉」 有吉弘行
世界の哲学者の名言を挙げていき、それを有吉が独自の解釈でぶった切るというもの。紹介には「そうだったのかー!!哲人の言葉が身近に感じられる、有吉流・言葉遊び傑作選!」とあるのだがなかなか、内容は深い。

「なんじの敵には軽蔑すべき敵を選ぶな なんじの敵について誇りを 感じなければならない
                                                       −ニーチェ」

「なんか言ってることが『少年ジャンプ』っぽい。なんていうか、言ってることが幼い。(中略)『好敵手』って書いて『ライバル』って読ませたいタイプの人ですよね。そこが『少年ジャンプ』みたいな感じがするんです。敵に誇りなんか感じる必要ないです。戦うのは、明らかに自分より下のレベルの奴でいい。”絶対勝てる”っていう相手しか選んじゃだめです。」


「あらゆる人は同等である それを異なるものにするのは生まれではなくて、徳にあるのみ
                                                    −ヴォルテール」

「『世の中で一番平等なものって何かな?』って考えたとき、僕、風俗だと思うんですよ。風俗って客に平等なんですよ。あんまり裏表がないんですよね。(中略)プロですね。目の前の1万5千円しか見えてないんですよね、あの人たち。金があろうがなかろうが、売れていようがいまいが、1万5千円払えばもう平等に扱ってくれる。僕のこと、『1万5千円分の客』としか見てないですから」

 このように有吉流の見方でどんどん哲人たちの言葉がかすんでゆく。有吉のような極めて現実主義的、実利的な人間の出す結論と、机上型、思索型の人間の結論との違いを考えさせられる。

 「吾輩は猫である」の中で「分からぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺りには何だか気高い心持が起るものだ。」と猫が知識人の性格に根源的批判を投げかけるシーンがあるがそれを面白おかしく笑い飛ばせる形にしてくれた本。

 余談だが、セネカの「仕事は高貴なる栄養なり」という言葉について「なんか言ってることが国の人っぽいんですよね。(中略)こんなんじゃ国民はもう騙されませんよっていう典型的なダメなキャッチコピーの見本。」と散々にこき下ろしている。

 セネカのみならず過去の思想家の言葉を解釈する際、現代人は主義思想ばかりを気にして、発言者のもっと俗な部分を見落としてないだろうか。有吉のゴキブリのような現実感覚が、吾猫のネコのように問いかける。






2014年01月09日
「英雄の器」 芥川龍之介
 文学好きの人に言わせれば両者はまるっきり別物なのだろうが、芥川と安吾の短編は非常に読みやすい。日頃ノンフィクションや実用書、専門書の方ばかりを「読書」する人間にとっては「文学」はあまりにも文章が濃厚すぎて胃もたれを起こすのだ。中島敦ぐらい現実生活から離れたリズムなら良いのだが、大半の作家が用いる言語は日常語が豪華になったものであるがために、つい油断して、中ってしまう。

 自分も含めフィクションにあまり触れない人間にとって、気軽に読みやすい小説は必然的に短めのものとなり、なおかつあまり重々しさがないもの、理知的だが軽妙洒脱な感じの作風…となるとやはりこの両者だ。安吾の洒脱さはヒロポン由来のイメージになってしまうが、芥川のそれは天性のものであると思う。

 芥川の短編は「蜜柑」、「魔術」、「花火」、「地獄変」…とどれも傑作だが、この作品もその短さに似合わぬ余韻の深さに圧倒される。

 項羽を打ち取った将軍たちが祝宴の場で項羽が英雄であるかを評す。それを劉邦は鼻で笑って、何かをつぶやく。 

 これだけの内容なのだが、「英雄というものは、天と戦うものである」という議論にかんするトートロジー(同語反復)で最後の落ちがつくというつくりがいかにも芥川らしい。純粋に文学を楽しむならば、やはりこういった作品だ。






2014年01月09日
「鬼」 吉川英治
吉川英治の作品における悪人というのはどこかしら愛嬌がある。司馬の、ひたすら彼の思想にそぐわないものを断罪するかのような作風と異なり、なにかしら悪人をも温かいまなざしで見つめたものが多い。そんな吉川による、ある男の執念の物語である。

 町人から金を借り上げ逐電した福原主水を討てという君命に従わず、彼を見逃したために与右衛門は家中の「穀つぶし」とされ、笑いものになっていた。屈辱に耐えながら「何か御奉公したい」と思い続けていた与右衛門は、領内の貧困の大元である岩木川の氾濫を食い止めるために、治水を行おうとする。始めのうちは家中の同僚らも、農民たちも彼の計画を認めようとはしなかった。与右衛門の計画は金を浪費するばかりだと武士たちは非難し、農民たちは動員令を呪った。与右衛門の計画への出費によりもとより何もない津軽藩はますます困窮し、事態打開のため、彼を闇討ちするものさえ出る始末であった。そして少しでも成果が出たかと思われるとすぐに、氾濫で台無しになってしまう…。

 与右衛門と領民の苦労の末、治水に成功するまでを描くのだが、治水成功までに長い年月を要したため、短編であるにも関わらず数多くのドラマが展開される。

 題名の「鬼」についても、与右衛門が「鬼」となるのを決心する場面がある。

(俺は能なしだ、米喰い虫にちがいなかった、せめてこれくらいな事を仕遂げねば)

(幕府の御制度の中にある藩地である。藩の制度の下にある経済である。お上には、どんなご失費も滞渋ができぬように、下の者も、どんな事をしても、苛税に骨を削らなければならぬ。下ほどそれは辛くなる。出ないものを絞り出す苦悩なのだ−ところで、そういうお上と下のあいだに立っているのは誰だ?武士というもの達だ−この際、武士のすることは何か?)

(打開と云っても、御制度の中での打開だ。津軽領以外へ何の策も施す途はない。自己の持つ土の上に打開を求めるほかないではないか。−また武士は、自己の為すことを、自己の分の中から、今こそ求め探して、奉公にさし出す時ではないか。−元和、寛永の武士道をそのまま習慣にして、刀にかけてものをいうだけが士道だと心得ている時機ではなかろうが)

(世の中は、生きてゆく。殖えてゆく、進んでゆく。粗衣粗食の御節約も結構だが、絶対に、消極策というものは、どんな飢饉の地でも適合しない。つまりこの世の中というものの本質に適合しない)

(鬼になれ。−鬼になってやらねば出来ない!)

 始め与右衛門を突き動かしていたものは面子であり、承認欲求であり、あるいは百姓への憐みであったろう。しかし、鬼と化してからの与右衛門はそれら一切を振り払い、ただ治水の指揮に邁進する。最期に与右衛門が鞭を振るった相手といい、行政官のあるべき姿を描いたものといえよう。

 執念というキーワードで「恩讐の彼方に」や「五重塔」と比較してみるのも面白いかもしれない。







 

2014年01月08日
「織田信長」 坂口安吾
安吾の短編である。安吾の歴史小説の特徴については昨日も書いた通り、書きたいところのみをピックアップして記す点である。書きたい構図・関係性のみを見つめて各結果、必然的に作品は他に比べ簡潔に、短くまとまることとなる。

 この作品は織田信長を彼固有の合理性と松永久秀との奇妙な友情という観点から描き出そうとした作品である。松永久秀と言えばご存じ、平蜘蛛の名器と共に大爆死した梟雄だ。

「だから、自信というものは、自分で作るものではなくて、人が作ってくれるものだ。他人が認めること
によって、自分の実力を発見しうるものである。このように発見せられた実力のみが自信であり、野心
児の狙いやウヌボレの如きは何物でもない」

「かかる信長に、三度や四度の戦勝が、まことの自信をもたらしてくれるものではない。信長にはもって生まれた野育ちの途方もないウヌボレがあった。それと同量の不安があった。このウヌボレをまことの自信に変えるためには不安と同量の、他人による、最高、絶対の認められ方が必要であった。」

と描かれる野生児信長の実力を老いた天下の執政・久秀は素直に認める。

「彼は信長を見抜いた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。」

彼と信長との友情は互いを利用しあうものであるが、ただ利用し依存する先を変え続ける足利義昭のそれとは違う。

「然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。(中略)ホンモノの悪党は悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。(中略)老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていいた。」

とこれに続き、信長の実証精神、科学する魂を信玄は理解できたかどうか…と続く。そこで信長の行動原理は彼が好んだ小唄「死のうは一定」に即していたのだと語られ、いよいよ佳境に入るところで唐突に終わる。この作品は未完なのだ。なので久秀と信長の決別も分からずじまいなのが残念だ。

 信長の合理性というのは小説の題材となりやすい上、一般的イメージもそれに即したものである。しかし、武田信玄や毛利元就など地方に王国を築きえた群雄たちは皆たいてい合理的思考を武器に領土を切り開いていった。その中で信長のみが天下に手をかけることができたのは彼独自の合理性に求めるべきなのか、あるいは地政学的、経済学的な彼の利点に求めるべきなのか。彼の政治思想と共に意見が分かれるところであろう。信長の科学精神、合理性について大衆作家で言及し世に広めたのは安吾ではなかったかと思わせるほど、合理主義に利点が置かれている。

 久秀と信長との互いを利用しあう固い信義に基づいた友情というのは国家間あるいは組織同士のあるべき交流関係とも言えよう。その破たんが描かれず終わっているのが実に残念だ。






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