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2020年01月22日

シンクロニシティや不思議なことを体験したい

最近シンクロニシティが起こっていません。

自分の以前のブログを読み返していたら、
シンクロニシティが起こった話が書いてあり、いいなぁと思いました。


シンクロニシティとは「意味のある偶然の一致」のことらしいです。
誰かに電話をかけようとしたら
その直後にその人から電話がかかってきたとか、
そういうちょっと不思議な、プチ奇跡みたいなものでしょうか。


私が以前体験したシンクロニシティは、
人と「水に意識ってあるのかなぁ」と話していたら
その直後にテレビで
「水に意識はあるのか?」という番組が流れたことです。

そんな番組をやることは知らなかったので
私たちはビックリとしました。


水っていたずらっぽくて可愛いと、前から思います。

シンクロニシティとは違うかもしれませんが、私には
「手紙を出す日は雨が降る」という決まり? もあります。


他に不思議だったことといえば、
夜道で誰かに話しかけられたらように感じたので振り返ったら
側溝の蓋にヤママユガが挟まっているのを見つけたことです。
(ちなみにヤママユガは腕力強かったです)

あと、私はぼーっとしていると見知らぬ方から
話しかけられることがあります。
が、考え事で頭いっぱいだと話しかけられないように思います。

そんなわけで不思議なことって、調子のいいとき、
「不思議なことが起こってほしい」と受け入れ体勢でいるときに
起こりやすいように思います。


最近起こっていないけど、
不思議なことがある方が楽しかったな……。

なので今、不思議で面白いことがまた起こってほしいと思っています。
しかもみんなでシェアできるようなことだったら楽しいですね。







posted by 四月一日 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(3) | 雑記

2020年01月18日

誰も悪くない


大して何も成していない者に限って
存在意義や甘ったるい言葉を求める……。


自分のことです、ハイ(>∀<*)


私は以前から何をやってもダメでした。
で、「自分は何をやってもダメなんだ」という境地(?)に逃げ込んで
努力や改善を放棄するから、さらにタチ悪いです。


何しても怒られてばっかりで、自信なくして、
モチベーション持てるようなことも何もなくて。

「最初からできないのは当たり前。できなきゃ頑張ればいい」
という当然のことを認識できず、放棄して、逃げて、
「当たり前」に追い付けないところまで差が開いてしまいました。



そんなダメなやつ、できないやつなので
そっち側から物を見ます。

頑張っている人を見ると、心が痛むというか申し訳ないというか……。
なので、頑張っている人からは目を背けます。


「努力が美徳だなんて、命を削る危険な考えだ」
「『頑張り』なんて無理をしたときに感じることなんだから、
『頑張れ』と教えることは無理をさせることである」
「『頑張る人、頑張ることこそ素晴らしい』というのは
植え付けられた価値観だ」
というひねくれた考え方に偏り始めます。


ただ、必要のない努力論が蔓延しているのは確かだと思うんですよねー……。

でもそれは絶妙なバランスで立っているジェンガみたいなもので、
どれを抜くべきでどれを抜くべきでないのか分からない。
そんな感じかと。



頑張りたい人は頑張り、
頑張りたくない人は頑張らない……
そんな世界がベストだと思うんですけどね〜。

今でも選択権があるぶん、そうとも言えますが(*´ω`*)


頑張りたくなったときって多分頑張れます。
コンクールやコンテストとか思い出すと。

まぁそういう「やりたいことだけ」の話じゃなく、
やりたくないことも含めて一生懸命やるのが
「頑張る」ってことなんでしょうが……。


「◯◯へ行くために頑張るなら分かるけど、
頑張るために頑張るのは辛いよね」と今日も屁理屈こねています。



自然界じゃもっと厳しいけれど、
そのぶんすべてに価値がありますね。

弱いものは強いものに食べられ、糧となる。
狩られずに怪我や病気で倒れても、
虫、微生物、動植物…… みんなの命を繋ぐ糧となる。


だから「すべてに価値があります」。


って、それもなんだかなぁ……。

消えること前提の存在意義って……
生まれたとたん狙われ、必ず消えてゆく命って
一体何だろうと虚しくなります。



美的センス、価値観、感覚……
人間の世界じゃ、時代によって変わるもの

すごいと支持された英雄が、
明日には大量虐殺犯呼ばわりかも。

で、歴史で習う、戦いまくって倒しまくった人はすごいと言われて
でも今そんなことしたら逮捕されるだけで。


一体、今あるいくつのものが
未来でも評価されるものでしょうね……。


……そもそも評価や存在意義って何でしょう。



一人で生きる生き物は偉いですね〜。

別に存在意義があろうがなかろうが、誰になんと言われようが、
褒められようが褒められなかろうが、関係ない。
精一杯生き抜くだけ。強くなるだけ。

すごいですよね(*゚▽゚)


でも私は、すべてに存在価値がある世界を妄想して、
虚しく、恋しく思います。

誰も犠牲にならない。
誰もがここにいていい。
ここにいるだけでいい。

「弱肉強食」ができるなら、
「誰もがここにいていい」
そんな全肯定世界もできるんじゃないかと思うんです。


そうなりゃ差別も上下も全部いらない。
必要悪も、必死こいた考えもいらない。
「愛のムチ」で、人の夢や甘ったるい考えを打ち砕く必要もない。

全部あっていいんだから。



そんな理想論の手始めに
「誰も悪くない」って心の中でつぶやいてみました。


自分のこと棚に上げて自分の正義論振りかざす人も、
愛のムチをふるって世界の厳しさを教えようとしてきた人も、
いじめをしてきた人も、
いじめから救ってもくれないくせに口だけ出してくるまわりのノイズも、
気持ちの流れを汲んでくれない人も、
ひたすら自分の話ばっかりする人も、
「あの時ああだった」と後出ししてくる人も、
次から次へと流れてくる理不尽なニュースも、
もはや原因も分からない息苦しさや虚しさや怒りも……


全部、誰も、なにも悪くない。



悪いことする人にも、心を閉ざして異様に冷たい人にも、
きっとそれなりの理由がある。

ものすごいトラウマになるような、
心が壊れるような出来事があったかもしれない。
でも誰も助けてくれなかったのかもしれない。

自分のことを捨ててもいいほどに思っているから、
人のことも捨てていいと考えるのかもしれない。


意見を押し付けてくる人だって、自信過剰なフリして
本当は消え入りそうなほど不安なのかもしれない。

そして私にだって言い分がある。
「そんなの言い訳だ。いい加減前を向け」と言われようとも。


前を向けなくたって、落ちこぼれだったって
逆に頑張りすぎていたって…… 何も悪くない。



「考え方」の中でしか、甘い夢は語れないから
せめて言葉で語り尽くしたい。
たとえ1ミリの価値もなくたって、それでいい。

甘い夢の証明は、できませんね。
ファンタジーであることを理解して楽しみます。


って、ネガティブの独りよがりの現実逃避ですね(´▽`*;)

でもこれをネガティブって言われる意味も
今一つ分からないんですけどね……。


逆にどれが本当の「前向き」なんだろうと。

前を向いているつもりで、実は逆向きかもしれない。
自然破壊や、価値観の押し付けに加担しているかもしれない。
人に無駄なプレッシャーや苦痛を与えているかもしれない。


それはネガティブも同じですけどね。
ネガティブ発言を聞くだけでしんどい、という方もいるそうです。

でもネガティブはネガティブなのでしょうがないです……。

ネガティブな言葉が一番優しく聞こえる……。
それでも良いじゃない? って思います。











posted by 四月一日 at 01:23| Comment(0) | TrackBack(5) | 雑記

2020年01月17日

今日も、イメージで塗り固めた世界を、歩いていく

この間、人通りの少ない薄暗い小道で生き物写真を撮影しました。
滅多に人に会わない道なので
つい油断してボーッと撮影していたのですが、
気づいたらすぐ側に人(お子様)がいて、あわてて立ち去りました。


人通り・車通りの多い、道に近いところも撮影しにくいですが
人通りの少ない道ってのも気を抜いてしまって危ないですね……。

変な人だと思われて怖がられていないと良いのですが(´oーo`*)



現在、落ち着いて撮影できるスポットを探していますが
どこも車通り・人通りが多くて、なかなかありません(´ーωー`;)

公園でも人通りが気になるし……。
山や田畑は人のものですよね……。



国道(?)から1〜2本それた細い道に入ってみても車がどんどん来ます。
小道でも、自転車や人が多く通り、
立ち止まっていいものなのかどうか気になります。
直接車が通らない場所でも、車の音が多いと緊張しますね。

しかも立ち止まるのが難しい道に限って
珍しい虫がいたりします(`―´;)



歩いていって「やっと静かな道を見つけた!」と思って
小道を登ってみたら、お墓だったりもしました。
「なんでもない場所」って無いものなんですね……。

(本当の「なんでもない場所」は
人の足で登れそうにないところかもしれませんが……。)


それでも虫たちは、
車道のそばの草むらなどで健気に暮らしています(*^ー^)
……いや、飛べるから多分、ずっとそこにいるわけじゃないですね。



安心して虫を撮るためには、山にでも登らないとダメですかね……。
でも山登りって山に登ることが目的であって、
足を止めている間はないイメージがあります(°ー°*)

登山道でも人多そうですし……。
やはり、身近な穴場を探したいです。



しかし……
いきなりですが「環境破壊」って、
どこか遠くの未開の地とか熱帯雨林で行われている、
木がバッサバッサと切り倒されている光景のイメージだったのですが

どこへ行っても道、どこへ行っても人と車……
この何気ない日常、人間の世界のありのままの姿が
「環境破壊」ってことなのかもしれないとやっと実感しました。

「河童のクゥと夏休み」って映画の中に
「どこに行っても人間だらけ」みたいなシーンがあって、
それを見たときはその表現の意味がピンとこなくて
「?」となっていたのですが、ようやく分かった気がします。



確かに人、多いですよね……。


人は人だし、いるのが当たり前で比較対象がないから
何に比べて多いとか少ないとか分からないし
少子高齢化だからもっと人手が必要と言われていて
人間側の事情もありますが

ここで人間を増やしたって
またその年代の人たちも老いていくわけだし、
未来で色々問題が起こったりして

そうしたらまた人手が必要になって人間を増やして……
無限ループ?


戦争で減らしたかと思えば、今度は増やせ増やせと言って、
なんだかなぁ……。「我々は政府の手駒か?」って感じですね。
(歴史詳しくないので分かりませんが)

尊い命、とか言われたって
「本当にそう思ってる?」って感じです。
尊ばれるのは人の存在そのものではなく、
相手にとって必要な役割ばかりのような。


生き物たちのことだって、害虫、害獣と言って駆除したり
保護対象と言って守ってみたり

(……私はそうしていただいたおかげで
恩恵を受けて野菜や肉を食べて安全でいられるのだから、
こんな失礼なこと言える側の立場じゃないですが)

人間の都合だけ考えていって
その先一体どうなるんでしょう……(°ー°;)



ところで(?)、自分は「動物」と聞いたら
ゾウとかライオンとかキリンが思い浮かび

「自然」と聞いたら
綺麗な森とか小川とかお花が思い浮かぶのですが

ゾウやライオンやキリンって外国の生き物ですよね。
そして「自然」って、花や森や小川だけのことじゃないですよね。
蚊もゴキブリもカラスもアブも、ずっと昔から「自然」にいた生き物です。


アブや蚊やハチがぶんぶん飛び回る、
雑木林の近くのにごった水たまりなんかも自然のはずですが……

よく考えたら私たちは、自然を美化して、イメージだけで解釈して、
「自然はこうあるべき!」みたいに思って、さらに
「哺乳類や鳥や花は可愛いけれど虫はダメ」みたいに差別して
自然そのものを見ていないような……。



外来種がどうとか本来の生態系がどうとかもよく言いますが、
大陸移動説が本当なら、
人間がああしたりこうしたりしなくたって自然の手で
あっちの大陸とこっちの大陸が繋がって生き物が行き来して、
また離れて……、ある種は滅び、ある種は栄え。
生態系が変化するのも自然の流れのような。


そして、私はオカルト的なことを一部信じているのですが、
もしも人間自体が宇宙から来た、
地球にとっての外来種だったらどうするんでしょう……?

なんて、妄想してしまいます。



身近な昆虫たちも、自然であり、動物であるはずですね。でも
日本の自然のこと、自然の歴史、ちゃんと分かっているかというと……

私は知りません。まったく。

すぐそばにいる虫の名前も、生き方も、
どんな環境が必要で何が好きなのか、何を食べるのか、
仕草や行動にどんな意味があるのかも知りません。



人の生き物との関わり方って、
よくネットで「動物虐待だ!」とか言って論争が起こっていますが
それも人間目線で、感情的になって悪者探しをしているだけのような……。

人間のエゴを手放して、自然を自然のままにし、
足を踏み入れず、適切に距離をとり……
そうすれば大自然は保たれるでしょうか?



なんかそんなことない気がします。
今だって自然から遠く心が離れた結果
虫が異様に嫌われて、見るのも嫌という人が増えていそうだし

(※自分も、耳元で虫の羽音がしただけで飛び上がって逃げます)

自然をそのままにしよう、介入しないようにしよう、
動物園も水族館もエゴだから無くそうなんてしたら、
人はいつしか他の生き物たちの存在、息づかいを忘れて
ますます大規模に、自然を消し去ってしまう気がします。



だから、エゴでも間違いでもなんでも
まずは存在を知り、息づかいを感じ、命に触れて
関わっていった方が良いような……。
関わったところでどうなるのかは分かりませんが……。

というかそもそも、完全に自然から離れるなんて無理ですよね。
私たちは自然のものや水を口にし、
酸素を吸って生きている動物です。


ということで(?)
これからも考える葦なりに、自然について考えていこうと思います。

虫たちを驚かせてしまったり、
「草地を踏むことで知らぬ間に虫を踏み潰してしまっているだろうな……。
こんなことして、自然と触れ合っていると言えるのだろうか?」
などと悶々としながら、写真撮影していきたいと思います!



でもやはり、とにかく、
ほっと一息つける撮影スポットを見つけたいですね……。



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写真素材 PIXTA










posted by 四月一日 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑記

2020年01月16日

上手に食み出し隊

最近本をよく読むんですが
「うわー、普通の人はこんな考え方するんだ……」
と色々知ってビックリです。

元々、人がどう思うとか、何を考えているかに鈍感で
社会通念とかを無視してきたもので、
ちゃんとした人間になろうかな、と考えた今になって
その面倒さを実感しております。


本でよく見るような世界観とか
何やら難しい理論・駆け引きとか
暗黙の了解に則っている人間って
全員ではないでしょうが……

人間についてきちんと知っておけば、
何かやらかして顔をしかめられたり
空気を凍らせてしまったりしても
なんとなく理由が分かるので安心ですね。


しかし人間の水面下の思いに触れ続けていると突然
「あーっ!!」って叫んで走り出したいような気分になります。

人間は複雑すぎてめんどくさい。
だから「動物になりたい」なんて思うことも。


でも動植物は動植物で大変でしょうね〜。
というか、人間よりもっと過酷な中で生きていますよね。

でも。


野生動物の世界といえば弱肉強食、ってイメージがありますが
うまく「みんなが選ぶ道」からはずれた進化をして
ちょっと変わった生態を手に入れた生き物も多いらしいです。

そんな彼らは、はみ出し者のパイオニアかも?


誰も食べないようなものを主食にしたり、
競争や捕食者から逃れるために、やせた土地に住んだり。
どっちが過酷だろうって気もしますが。

人間でも、いるみたいですね。
人間関係やしがらみから逃れて、大自然の中とかに移り住む方。
(逃れる意図以外の人もいっぱいいるようですが。)


人によっては孤独が一番の苦しみでも、
他の人にとっての一番の苦しみは、人付き合いかもしれない。
何が苦手で何なら平気か、全然違うみたいですね。

ならば、他の人は嫌がるけれど自分はそれをしても平気、
ってものを見つけるのも面白そうです。
……それがそんな簡単に見つからないんですけどね。


ものすごく頑張っているように見える人でも、
苦痛とかは感じていないかもしれない。
大してストレスのない状況にいるように見える人でも、
ものすごく苦手と感じていることがあるかもしれない。


「頑張り」が美徳とされがちな世の中で、
うまいこと楽する方法を見つけたいですね〜。

頑張りすぎて死ぬこともあるのに、
頑張ることのメリットばっかり推すんじゃなく。


「長い」「短い」
「早い」「遅い」
全部、ただの個性になるように。

出てきた気持ちを「悪だ」としばき倒すんじゃなく、
それが実現できる方法を考えるように。

誰も進まない道を選んだ動物たちみたいに、
はみ出し上手になりたいです。





posted by 四月一日 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(5) | 雑記

2020年01月14日

芽が出ない種には水をまかない(力にならない継続もある)

皆様は、「人に認められたい」などという気持ちが
強い方でしょうか、弱い方でしょうか(*゚▽゚)

私は「認められたい」気持ちが強い方です。


でも身近に、
「人に認められたいとか褒められたいとか、意味わかんない」
っておっしゃる系の方がいて……。

そのようなセリフを聞く度に、
私は怒られているんだろうかと、冷や汗かいております(´▽`*;)

その人は、
「人からどう思われるかとか関係ない。
 自分のやりたいようにやるだけ」
みたいなタイプですが、
自分勝手というわけでもなく
多くの方と仲良くできるみたいです。


そりゃ、そんな器のでかい考え方できて、
しかも心から、正しい行いを信じてできるなら
それに越したことないですけどね〜……( ̄。 ̄;)

私のように不真面目で器の小さい者は、
そう上手には振る舞えないです。


ところで、継続は力なりと言いますが、最近薄々
「なんでもかんでも続けりゃ良いってものじゃない」と気づきました。
今更かよって感じですが……。

結果が出るとか出ないとか、
認められるとか認められないとか、関係ないことであれば
すべて「継続は力」と捉えることもできると思うんですが……

目に見える物のみを「力」とする場合、やはり
「まいても芽のでない種」ってものはあるんですね。


種をまくときは大抵、
花が咲いてほしいとか、実を収穫したいとか
何らかの意図があります。

「花が咲くこと、実が生ることだけが大事なんじゃない。
 私はあなたの好きなようにしてほしいだけ。
 そして、そんな貴方と一緒にいたいだけ。」
と、すべての種に向かって、言いたい気持ちは山々なのですが……
簡単にそうも言えないのだと、分かってきました(T_T)


最初の話に戻りますが、
認められる・認められないってのも不思議ですね。

本とかテレビで、
どれだけ頑張っても、
理不尽な扱いを受けたという人の話を聞きます。
特に親とかブラック企業とか、抜け出しづらい環境の中で。

そういう、頑張りを受け止めてくれず
感謝もされず、大切にしてもらえない状況というのも
芽の出ない種のようですね……。


私は、状況には恵まれていますが、能力が……。
何をやってもダメ系です。
そんな甘いこと言っているからそこ止まりなんですけどね(^ー^;)

でも、ほんの少し、居場所とか
使うものを変えてみただけで、
今までと違う人に出会って
今までと違う話ができたことがよくあります。

結局いつも大事なところで
逃げてしまってチャンスをつかめないんですが……。
次こそは、と思っております。


いくら水をまいても、芽のでない種はあります。
でもその水(=労力、視点)を
ほんのちょっと別の方向に向けることができれば
そこから芽が出るかもしれませんね。

出なかったら、また別の場所へ。


あんまり強くもなく、純粋で綺麗とも言えない動機だけれど
私は、足を引っ張るしかできなくて居場所がないよりは、
認められたい。
居場所がほしい。

これをモチベーションに、進もうと思います。







posted by 四月一日 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2020年01月13日

好き嫌いは飛び火する……






私に苦手な人がいたとして
その人がもし、常に黄色の服を着て、ある音楽を聴いていたら
私は「黄色」と「その音楽」が苦手だと錯覚してしまうかもしれません。

すりこみですかね。
嫌な時間が始まる前に見るもの、聴くもの、嗅ぐものなどは
強く印象に残ってしまいます。

病院が苦手だったら、
病院とは違う場所で病院っぽいニオイを嗅いだだけでも
「嫌な感じだなぁ」と思ってしまうかもしれません。


実は世の中そんなことだらけかもしれませんね。
「◯◯が苦手」と言っている人は、
その「◯◯」とたった二回しか接していないかもしれません。

もっと色んな◯◯に出会えば、
「こんな心地いい◯◯もあるんだ……」となるかもしれないのですが……。

そのためには言葉で縛っちゃダメですね。


好き嫌いは飛び火します。

「好き」の輪が広がるのは素敵なんですけどね。

アメリカの映画が好きだからアメリカが好き。
優しいおばあちゃんを思い出すから畳が好き。
以前楽しいことがあったから、この道がすき。

好意が広がっていけば楽しいです。


……悪意を広げれば、
テレビでしか見たことがない国にでも悪いイメージを付けられますね。

「目に見えないものは信じない」なんて人もいるそうですが
テレビってのも、「ごく限られた部分しか見えない」ものですよね。
自分の目で実際に見たものならまた印象が違うかもしれないけれど、
テレビで見たイメージをそのまま信じてしまうこともあるかもしれません。


だから……
もし苦手な人が「黄色」や「ある音楽」が好きだとしても
それまで苦手だと錯覚しないようにしたいですね。

色や音楽だけでなくなんでも。

「◯◯する人が苦手」「◯◯な人が苦手」って思うとき、言うとき、
「それは本当に◯◯のせいなのか?」って振り返ってみたいですね。
「◯◯」でも気の合う方、尊敬できる方はいるかもしれません。


あるいは、「嫌い・苦手・憎悪」を飛び越えるほどの
素晴らしい出来事に出会うというのも楽しそうですけどね。

苦手なものは苦手。それはやっぱりしょうがない。
そういう結論だったとしても……

いつか何かのきっかけで「ああ、そうだったのか」と
理解できるようになったら嬉しいです。


posted by 四月一日 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2020年01月12日

「意見を押し付ける」と「押し付けていないただの意見」の違いって?

「意見を押し付けてくる人が苦手」って、よく聞きますね。
えっ、そうでもない?
個人的によく聞く言葉です。

私も、意見を押し付けられるのは苦手です。
「人それぞれでいいじゃん」って思うんですよね〜。


しかし、じゃあ自分は人に意見を押し付けたことがないのか?
というと、「ありません」とは言えません。

意見を押し付けてはいないつもりだし、
「あの人って押し付けてくるよね」などと思われていたらイヤですが……
そもそも「押し付けているかいないか」の基準が分からないのです。

検索したら、意見押し付けチェッカーとか出てきますかね?
でも怖くて検索できません……。


「何をいじめと感じるか」の感じ方レベルが人によって違うように
意見の押し付けと感じるレベルもそれぞれバラつきがあるんですかね?






私は、会話の中で「私はそうは思いません」と言ったら失礼かと思って
「そうなんだ〜」「みんな考え方違うよね」と言う場合があるのですが
(あえてハッキリ「そうは思わない」と言うこともあります)

「私は同感ではない」と態度で示している(つもり)なのに
そのまま「私はこうなんだよね」とずっと意見を言われ続けると
なんだかモヤモヤします。

こちらの意見を変えてほしいのか?
うなずいてほしいのか?
私は相づちマシーンか? と。

……黙って話を聞いてあげられない、私が小さすぎるのでしょうか……。


「人それぞれでいい」とは思うけれど、
相手の主張を最初から最後まで聞いて、
それでどうしてほしいのか分からないです。
「……で、何?」という状態です。

もちろんこちらの言動も相手から見て
「どうしてほしいの?」あるいは
「こうしてほしいのが見え見えだけど、私はやりたくない」
と思われている可能性は十分にあるのですが……


やはりすべて、「基準が違うのだろうからなんとも……」
というところに行き着きますね。
こっちのセーフラインが向こうの方にとってはアウトかもしれないです。

しかし一般的には、
「私は◯◯」と言っているうちは「ただの意見」で
「あなたもこうした方がいいよ」とまで言ったら押し付け、
でしょうかね?






でも私は、話に相づちを打たざるを得ない状況で何度も
「私はこう思う。それで私だったらこう。で、私は……」
と言われるとまいってしまいます。
納得できる意見だったら「うんうんうん」となるかもしれませんが
「私、私、私……」と言われると大抵モヤつきます。

「私は」と言っている地点で、押し付けではないはずなんですけどね?
「あなたは」「あなたも」とは言っていないので。
「私は」の連発も押し付けに感じる……
これってどうなんでしょう。私が間違っているんでしょうか。


「私」連発の話ですが、個人的には、文章だったらまた別です。
文章は「私はこう」と言う場だと思うからです。
たとえ書いた本人が極めて客観的で、
自分を抑えた話をしているつもりでも
文章なら「私は世界をこう捉える」という主張だと思っています。

しかし文章でも、読んでいて心地よくて
吸い込まれるような「私は」もあれば
読み終わったあとモヤモヤするような「私は」もありますけどね。
それは完全に好みだと思います。


じゃあ文章と会話で何が違うのかといえば……

文章なら「合うか合わないか」で判断して
読むか読まないか、取り入れるか取り入れないかを決められるけど
(読む側に権利があるべき。それが文章ですね)
会話で「私ワールド」を繰り広げられると逃げられないということです。

会話でも本やブラウザを閉じるように逃げることができればいいですが……
逃げたあと丸く収まるとは思えませんね。


できれば会話上では自分ワールドを展開せずに
相手の様子をうかがい、入りやすいワールドにしてほしいものですね。
そして「入りたい人のみ入れる」文章の世界などで
ディープな自分ワールドを発信していただきたいです。






でもまた最初の話に戻りますが、
自分は意見を押し付けないようにできているのかというと、
そうとは言えないです。

私自身は、相手の方が「私は地動説を信じています」と言おうが
否定しないし、受け入れる心を持っているつもり……ですが、
自分の意見と対立する意見でなければ受け入れられたとしても
「自分の価値観を否定されているかのような意見を受け入れられるか」
というと、そこに関してはものすごく許容範囲が狭そうです。

そして誰かの意見に対する応戦でなくても
「私はこうです」と自ら発信している言葉自体にトゲがあり
相手の方をモヤモヤさせてしまっていることもあるかもしれません。


……あるかもしれないというか、あるんでしょうね。


でもそれはきっと人間全員。
「私は◯◯」は押し付けではないはずだけれど
それを聞いて否定されているように感じる人もいる。
責められているように感じる人もいる。

私は人の「私は◯◯」を聞いてモヤモヤすることがあるし、
人も私の「私は◯◯」を聞いて傷つくことがあるのでしょう。


もし「私は◯◯」が意見の押し付けになるのだとしたら……

もう、意見の押し付けはどうやっても防ぎようがないですね。
意見は多かれ少なかれ全員にあって、
完全にそれを出さないということはできないですから。


とにかく、会話の中でできるだけ多くのタイプの方への逃げ道を作る。
それが大事かもしれませんね。
逃げ道っていうと変かもしれないですが、
個人的にはそれがしっくりきます。

冗談や占いで「◯◯は◯◯です」などと
断定的なことを言われると面白かったりしますが、
真面目なトーンでの、視野の狭い決め付けはキツいです。
聞いていて疲れます。


もしかしたら、相手の方が逃げられない
「私ワールド」を作ってしまっていないだろうか?
相手の方を追い込んでいないだろうか?

もし自分が「私ワールド」を発してしまったとしても、
発してしまったことにすぐに気づけるような人間になりたいですね。










posted by 四月一日 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2020年01月11日

のんびり昆虫撮影ができるユートピアはいずこ……(ー_ー;)

私は最近虫の写真を撮り始めました。

自分が住んでいるこのあたりはわりと田舎だと思っていたのですが、
昆虫写真を撮るようになってから
意外と人通り・車通りが多かったのだと知りました。
なかなか落ち着いて撮影できるスポットが見つかりません。

自然公園的な場所に行ってみましたが、
公園だと綺麗に整備されているためか、
木が多くても昆虫が少なかったです。

公園より、大型ゴミが不法投棄されているような
雑木林に近い場所の方が虫が多かったのですが
そこは駐車場であって公園ではなく……。


ホタルのいる身近なスポットも2カ所あるのですが
住宅地で家の近くなので、
あまりうろついて良さそうな感じではありません。

カブトムシや甲虫たちが見つかるエリアや
ハンミョウを見つけた場所も、車道のすぐ横で
まわりにゆっくり立ち止まって良さそうな場所も見あたりません。
そして立ち止まれる場所についた頃には、
会いたい昆虫が好む環境のエリアではなくなっています。


「撮りたい場所」と「撮って良さそうな場所」が一致せず……。
というか、「撮って良さそうな場所」すらよく分かりません(>_<*)

昆虫の写真を撮るのが好きな方は、
どういう風にしておられるんでしょう……。

町中で、サッと虫を撮ってサッと離れるとか?


この間道でしゃがんで昆虫を撮っていたら、
(見晴らしが良かったので邪魔にはなっていないはずですが)
「うわっ」とか二度も言われて凹みました(´ーωー`;)


人がいる時は撮影を控えた方が良いんでしょうか?
でもちょっと脇道に入ってみても家や建物があって通行人がいて……
それだと撮れそうな場所がないんですが……(°ー°;)

人が来ないところというと、
入って良いんだか良くないんだか分からないけれど
とりあえず「立ち入り禁止」とは書かれていない場所、
みたいな所になります……。

人から変な目で見られても気にしなければ良いんでしょうか。
それとも、変な目とかじゃなく実際迷惑だったんでしょうか……。


昆虫写真の撮り方について検索すると、
撮り方やカメラについては色々書いてあるし
散歩・散策中に昆虫写真を撮られる方も多いようですが
どういう場所なら撮りやすいか、
どこなら撮って良いかとかがよく分かりません。

昆虫でなくても皆さんたくさん写真を撮っておられますが、
あんまり、時間をかけて何枚も撮ったりせず、
迷惑にならないよう気をつけているということなんでしょうか。

道端でしゃがむのもやめた方が良いんですかね……。
でもしゃがまずに小さな昆虫の写真を撮るなんて無理なような……。


歩道で写真を撮るのも、行き交う車が気になって落ち着きません。
車の人を驚かせてしまわないか心配です。

近くに虫がいっぱいいる公園っぽいものがあれば理想的なんですが、
公園から虫が大量発生するというのも良くないんでしょうね(ー_ー;)


時々、昆虫図鑑とか昆虫の情報のところに
「是非、身近な場所で昆虫と触れ合ってください!」
みたいなことが書いてあるのですが
「身近な場所って一体どこ!?」と気になります。

とりあえず穴場探して彷徨っています。
場所ごとにやっぱり雰囲気があるし、
大らかで包容力があり、落ち着ける、虫の多い場所を探したいです。





posted by 四月一日 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑記

2020年01月09日

冬といえば……

昨日、「トラックバック」というものを初めてやってみました!
トラックバックやってみました

おかげでトラックバックが何なのか、少し分かった気がします!
ということで、ファンブログの今週のブログテーマにも
参加させていただきます。


テーマは「冬といえば何をイメージしますか?」ですね。

冬といえば……
私にとってはカメムシですかね


冬って生き物が少ないんですよね!
静かだし……。
ちょっと寂しいかな? というイメージです。

でも、よく見てみると、結構虫がいることに気づきました

冬でもわりとよくいる虫の中で、大きくて目立つのはカメムシです。
この間もいた気がします。


その他、
カマドウマやコウガイビル、ハエトリグモ、赤いダニ(?)
にも会いました。

冬でも植物が緑の葉を出していたり、花を咲かせていたりもするし、
結構にぎやかなんですね。


あと、冬といえば……

やっぱりクリスマスとお正月ですね!

クリスマスが近づいてくるワクワク感、そして
クリスマスが終わってからもお正月があるという
オマケ感(?)が好きです。

クリスマスが近づいてくる頃の街のBGM 、クリスマスソング、
飾り付けやライトアップ、クリスマスのグッズ、
キラキラしていて、それでいて厳かなような雰囲気が好きです。
懐かしいような……。不思議な気持ちになりますね。
言葉だけでは言い表せない何かがあります。


そして、個人的にはクリスマスが好きなんですけど、
お正月も良いですね

「おめでとう」が約束されているイベントなんてなかなかないですよね。
しかも一位とか二位とかじゃなくても、特に理由がなくても、
誰でも毎年参加できる「おめでとう」です。
人生の参加賞みたいなものですかね!?

そんなこんなでお正月は
「おめでとう」を贈りあうハッピーな行事だと思います。
一年に一度、必ず「おめでとう」。
明るくて楽しいムードになりますね。


ということで、冬は草木が枯れ、生き物がいなくなり
寂しい季節というイメージがありましたが
楽しいイベントが多いし、よく見たら生き物も多いし、
思ったよりにぎやかな季節でした。

ではこれで終わります。
グダグダですが、最後まで読んでいただきありがとうございました!



posted by 四月一日 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2020年01月02日

人の不利見て 我が不利なおせ

以前ニュースで
「イギリス王室の公式SNSが炎上した」という話をやっていたのですが、
大変失礼ながら、その話を聞いてなんだかホッとしてしまいました。


イギリス王室のことを私は全然知らないのですが、
すごくしっかりしていそうなイメージがあります。

そんな王室でさえ炎上するということは
大抵悪口を言われる側が悪いのではなく、
言う人は誰にでも何にでも喧嘩を売るということですね。


いや、言われる側にも何か理由があるといえばあるのかもしれませんが
大体燃え盛っている人々は言葉が悪く態度も悪く
相手の気持ちなんてどうでも良いと思っているだろうし、

たとえほんの少し的を得た指摘であったとしても、
匿名で大勢で襲いかかるなんてやり方が間違っていると思います。


私は、炎上とか悪口がすごく怖いです。
ブログでそのようなことを感じたことはありませんが、
他サイト等でヒヤッとしたことは何度かありました。
(もちろんほとんどの人は親切なユーザーさんでしたが。)

そして、今現在は炎上しそうな場所にはいないですが
ネットを見ていて悲しいことはいっぱいあります。


たとえば、好きな映画や漫画や本を見終わって、
他の人はどう感じたのだろうと、検索してみたとき。
音楽や、アーティストさんについて検索するとき。
作品や作者さんへの悪意あるコメントを見てしまうことがあります。

また、動画サイトで心温まる動画を見ているとき……
なぜか低評価が多く付いているのを見て、悲しくなりました。


ほとんどの動画に低評価があります。
低評価を押される理由が、見ていてまったく分かりません。
なぜわざわざ動画を見て、あるいは見ずに、
低評価を押していくのか。

また逆に、悪意ある動画のコメント欄が盛り上がっていて
それに正当な批判をした人が、
寄ってたかって叩かれている様子もありました。


また、私の尊敬する人を馬鹿にしたような動画も見つけてしまいました。
その動画には的確な批判コメントが付いていたので
少々ショックがやわらぎましたが……。


あとは、前から何度か書いていますが、占いについて検索したとき
明らかに悪意があるとしか思えないコメントが引っかかってきます。

星座でも血液型でも県民性でもひどい言葉が山ほどあり、
こんなの子どもたちが見て傷ついたらどうするんだろうと思います。


数で見るのもどうかと思いますが、
星座なら12、血液型なら4、県民性なら47のタイプがあり、
一つのタイプを攻撃するということは
かなりの数の人に一気に悪意を向けることになります。

そもそもそんな攻撃的な書き込みをする人に
たくさんの友達がいるとも思えません。
ほんの少しの、限られた人付き合いを元に
人の性質を決めてかかるような発言をするなんて怖いです。


でも、批判する人に突っかかったりしたら後が怖いです。
何をされるか分かりません。

SNS等で悪質な投稿をした人がいたとき、
それを見た人が正義感を振りかざしてか、
投稿した人の住所を特定したそうです。

しかしその住所が間違っていて、
まったく関係ない人が被害を受けたという話を聞きました。

正義気取りのわりに自分は匿名で、
関係ない人が被害にあって、なんだか卑怯ですね。


でも卑怯というなら、このブログも卑怯ですね。
そして私もネット上で人と衝突したことが多くあり、
関係ない人に迷惑をかけたこともありました。
また今でもこのように、思わず批判してしまいます。

自分も大差ありませんね。
人のことを批判するより、
人の不利見て我が不利直そうと思います。


……上の文、「人の振り見て我が振り直せ」と書こうとしたら
誤字変換されたのですが、
なんか「不利」の方がしっくりきました。
コンピュータ(?)さん、ナイスです。

悪意を振りまくのって、
結局自分が不利なんですよね〜。









posted by 四月一日 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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