╋ 歌祭り ╋
毎年8月7日に「瑞生大祭」(ずいせいたいさい)という
大本の祭典が開かれます。
明治4年(1871年)旧7月12日(新8月27日)の王仁三郎の誕生記念と、
昭和17年(1942年)8月7日に出口王仁三郎が監獄から出獄した記念
という二つの意味があります。
昭和22年(1947年)8月27日(旧7月12日)は、
王仁三郎の数え77歳(満76歳)、喜寿の誕生日でした。
ところが王仁三郎は「七十七」とか「喜寿」という言葉を嫌い、
「わしは三十三じゃ」と言い張って、喜寿としての慶祝を
許しませんでした。
そのため、当初は「喜寿慶祝祭」と呼んでいた祭典を急遽
「瑞生祭」と名称変更し、亀岡・天恩郷の「月の輪台」で
祭典を盛大に開いたのです。
このときから「瑞生祭」と呼ばれるようになりました。
〔『大本七十年史 下』p758、p796〕
祭典の執行日についてはこの半世紀の間にいろいろ変遷が
あるようですが、
今年に関して言えば、宗教法人大本(亀岡)では8月7日に、
大本信徒連合会(綾部)では8月25日(旧7月12日)に、
また愛善苑(亀岡)では瑞霊降誕祭を8月7日、瑞生祭を8月25日に
開きます。
さて、宗教法人大本と、愛善苑では、8月6日の夜に
「歌祭り」という特殊な祭典を開きます。
歌祭りは古代日本の村々で開かれていたもので
廃れてしまったものを
昭和10年に王仁三郎が復活させたものです。
その復活第一回は80年前の昭和10年(1935年)10月31日でした。
大本の秋の大祭で第一回目の「歌祭り」が盛大にもよおされたのです。
当時の機関誌に、歌祭りについて次のような
王仁三郎の談話が載っています。
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……歌垣というのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので……
歌祭というのは、この歌垣を中心として自分の村々で
年に一遍づつ行ったのである。
平素から村人の間の怨み妬み、また一家のもめごと、
一切のいざこざを歌祭によって、神様の御心を和めると共に
村人の心持ちをも和め、一切の罪悪を清め、
八重垣を払い去る平和な祭である。
……この歌祭も源頼朝が鎌倉に幕府を開き、
武家の世になってから絶えてしまって、
宮中に歌会が残っていたくらいである。
私の二十三才の時に園部の岡田惟平(これひら)翁という国学者に
歌垣の作り方、祭りの仕方とその歴史を聞かされた。
弓太鼓(ゆみだいこ)は、素盞嗚尊が八十国(やそくに)の
雲霧を払い、
八重垣を取り払うにはどうしたらよかろうかと心を
痛め沈んでいられる時、
櫛稲田姫(素盞嗚尊の妻)が、弓を桶にくくりつけて叩かれた。
それが弓太鼓の濫觴(らんしょう)である。
それが後には一絃琴になり、二絃琴になり、
今日の沢山絃のある琴ができた。
……右と左に侍女神がいるが、これは
手撫土と足撫槌(てなづち、あしなづち…櫛稲田姫の両親)
になぞらえたもので、
弓太鼓を鳴らす役は櫛稲田姫になぞらえるのです。
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八重垣を払い去る歌祭りが昔は各地の村々でおこなわれていた
というのは驚きです。
再びおこなわれるようになるといいですね。
「霊界物語スーパーメールマガジンから引用」
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