2011年02月06日
長崎市:『 新地蔵所 』
長崎ランタンフェスティバルのメイン通りと言ったら、新地中華街の通りを皆さん頭に浮かべるのではないでしょうか?
その新地中華街の道が交差している所に『新地蔵跡』という石塔があったり、メイン通りに看板があったりします。お気付きになられているでしょうか?
「え?あったっけ。。。」なんて思っている方も多いのでは。。。
今日は、新地中華街の『新地蔵所』についてご紹介致します。
丁度、中華街の中心部の交差している道の角にその石柱は経っています。
その石柱の上に書いてある説明文によれば。。。(転記)
■ 新地荷蔵跡
『 元禄11年(1698)、後興善町からの舵は、隣接する22町を延焼、樺島町や浦五島町の土蔵33棟に収納されていた唐船20隻分の貨物(代銀3,377貫目分)も全て焼失した。そこで、元禄15年(1702)に2年の歳月をかけて新地がこの地に造成された。敷地は東西は70間、南北は50間、総坪数は3,500坪のほぼ長方形で12棟60戸の土蔵が建てられた。
安政の開国後、新地も変貌、慶応元年(1865)の献納後は外国人居留地に編入された。』
となっています。その昔、ここ新地は、まだ海だったんですね。そして、埋め立てられてこの新地が出来上がったということになります。江戸時代の鎖国時代と比べ、現在では、長崎港も埋め立てが進んだものです。(左:新地、右:出島)
この石柱より、浜市側に少し行ったところに「新地蔵所」と書かれた説明の看板があります。
■ 新地蔵所 (看板より転記)
『 江戸時代、新地の南側(現在の湊公園方向)には4つの水門があり、荷役の際には荷物の種類ごとに水門の扉が開かれたといわれています。右側の絵図には、荷役作業が終了し、閉鎖された三番水門と新地荷物蔵水門が描かれています。左側の絵ズでは、新地から唐人屋敷へ「新地橋」という木橋が架かっているのがわかります。新地橋の手前に門があり、新地を出る中国人には探番(長崎奉行所の役人)によるボディチェックが行われていました。』
元の長崎港の姿を想像しながら、長崎の中心街を歩いてみるのも面白いかもしれません。
【がんばらんば長崎の最新記事】
この記事へのコメント