2020年05月17日
子供時代のNゲージブーム
どうもです。
1か月以上放置プレイでした・・・
コロナで大変なご時世ですけど、皆さんはどのように過ごされてますでしょうか?
自分の場合は元々リモートワークなどとは縁のない職種なので以前と同じように毎日出社していますが、影響の大きい人たちはご苦労されていることと思います。
私は幸いなことに普段とあまり変わらない仕事環境ではありますが、世間が自粛している中では週末出掛けることもできないので自ずと自宅にいる時間が増えました。
なので最近は古いNゲージなどを引っ張り出して久しぶりに走らせてみたりということをやったりしています。
まあ子供もいるので一日中そんなことをできるわけではありませんが、ちょっと時間が出来た時などに少し弄ってます。
と、言うことで今回は自分の趣味の一つであるNゲージを始めた頃のことを書いてみました。
鉄道やNゲージに詳しくないと今回書いたことはあまりよくわからないと思いますが、昭和40年代生まれの子供の思い出話として気が向いたら読んでみてください。
自分と同世代で多少でもやっていたことのある人なら懐かしいことを書いているかもしれないです。
気づけば早40年ほどの年月が経っていることに今更驚いていますが、始めたばかりの頃はまだ今ほど種類もなく出来も素朴なものが多かったです。
それでもその頃の自分にしてみればとても良く出来た模型だと思っていましたし、今以上に車両一つ一つの価値は大きかったですね。
・・・私がNゲージを始めた小学校3〜4年生だった1980年前後の頃は、子供達の間でちょうどNゲージがブームだったんですよね。
その頃は大体クラスに何人かはNゲージを持ってる奴がいましたからね。
当時はブルトレブームなんかもあって小中学生には鉄道が身近な趣味のひとつとして認知されてた時代だったんで、オタク趣味というよりも自然な流れでみんな持ってたんだと思います。
自分は元々プラレールからこの世界に入り(どの世界?)ある意味当たり前のようにNゲージの世界へ移っていきました。
この最初のきっかけはクラスにいた小川君の影響です。
小川君って誰だよ?って話ですが、小学3年生の頃に同じクラスにいた友人の一人です。
ある時彼の家に遊びに行くと、そこには初めて身近で見るNゲージがあったんですよ。
それまで自分はプラレールとせいぜいスーパーレールくらいしか触れたことがなかったのに、彼の所にはそれとは全く次元の違う相当精密にできた鉄道模型があったわけです。
実際にはちょっと大きなデパートの模型売り場などに行けば売っているところもありましたが、そんなところへは滅多に行くこともなくある種幻のような存在でしたので、友人宅で初めて手にしたときの衝撃はすさまじいものでした(ちょっと大げさですが)
当然一気に気持ちはNゲージに鷲掴みされまして、それ以来プラレールは急にオモチャっぽく感じるようになります。
まあ、プラレールがデパートなどでたまに見ることのできた精密な模型に比べるといかにも子供向けなのは分かっていましたが、それでもそういった模型は自分には縁のないものと思っていたので、そういった精密な模型が自分にも手が届くところにあるということがわかってしまった当時の自分は居ても立ってもいられないのでした。
その後親にねだり、その年のクリスマスにはどうにかNゲージをゲットすることが出来ました。
初めて入手したのはトミックス(トミー「現トミーテック」から発売されているNゲージ2大ブランドの内の一つ)の「基本セットNo.2」というもので、これは予めレールと車両がセットになっているもので、これに走行させるためのコントローラー(パワーユニットとかパワーパックなどという)を別途購入すればすぐに走らせて遊ぶことが出来るというもの。
これを選んできたのは親父でした。
このころまだ自分はメーカーや発売されている車両などについての知識はほぼゼロでしたので、ただ親にはNゲージが欲しいとしか伝えてなかったと思います(雑なお願いだな・・・)
それでもクリスマス当日はケーキもそこそこに早速レールを部屋に引き回し、ワクワクしながら準備したのを思い出します。
このセットには機関車が1両と、客車が2両の計3両の車両が入っていまして、その車種は交流電気機関車のED75と旧型客車のオハ35とオハフ33でした。
因みにこの時点でどちらも実物は見たことがありません。
初めて自分の手でパワーパックのつまみを回して走り始めた時の感動は・・・あんまり覚えていませんけど、それまでのプラレールと根本的に違う最大の特徴(自分で速度調節が可能)なところは溜まらなく嬉しかった部分です。
このセットのレールにはポイントも一つ入っていて、それがまた電動で遠隔操作ができるところもリアルに感じられてこの時点で完全にNゲージの虜となったのでした(笑)
1981年当時の基本セットのラインナップ
’82トミックス総合カタログより抜粋
真ん中が基本セットNo.2ですが、この時点で車両はDD51と14系客車に変わってます。
しかし、小学3年生の身にはNゲージの価格はとても高価で、おいそれと車両の増備はできません。
次の機会は誕生日まで待たなくてはなりませんでしたが、その年の誕生日にはEF66と憧れのブルートレイン客車を買ってもらうことが出来たんですね。
実はこの間に別の友人がやはりNゲージを始めて、その友人が小川君とは全く別の車両を買ったんですよ。
小川君の家で見たものは、今思えば現在では既にNゲージの製造をやめてしまったエンドウ製の24系25形ブルートレイン客車だったんですが、その友人のは関水(セキスイ金属・・・ブランド名はKATOで2大メーカーのもう一つのほう。日本で最初にNゲージを発売した老舗メーカー)の24系25形だったんです。
この関水の24系の最大の特徴はテールマークが光り、しかもマークを切り替えることが出来る!というもの。
このギミックは当時話題だったようでした(当時バカ売れしたらしい)が、子供の自分はそんなことはつゆ知らずに友人のモデルで初めて存在を知り驚いたものです。
こちらはたぶん84年版?のカタログより(発行が83年なので)
カトーNゲージカタログより抜粋
その友人の家では良く部屋を暗くして毛布などでトンネルを作り床に顔を擦り付けるようにして目線を下げて、テールマークを光らせて走り去るブルートレインを堪能してました。
この友人は今でも付き合いがあり、以前別の記事でも出てきている人物なんですけど、彼は自分の趣味の世界ではかなりの影響を及ぼした人物なんですね。
この影響もあって誕生日には絶対に関水のブルートレイン客車を手に入れてやると誓っていたわけでしたが、その思惑はまんまと成就しました。
しかし、間抜けな自分はひとまずテールマークが光る客車を2両買うことにのみ集中してしまって、本来ならば寝台車のオハネフ25と電源車であるカニ24を買うべきところ、知識不足もあってオハネフを2両買うという大失態をやらかします。
そしてそれを牽引する機関車は時代を先取りしてEF66をチョイス。
詳しい人ならわかると思いますが、1980〜81年当時はまだブルートレインの牽引機はEF65の1000番台で、EF66がブルートレインを牽引するようになるのはそれから数年後の1985年になってからです。
なのに何故ここでEF66だったのかというと、単純に本に載っていたのを見たからというだけでした。
あの頃は本当に適当で、実際の編成なんて知りもしないので好き勝手に手持ちの車両を繋いで走らせているだけでした。
交流機のED75と直流機のEF66を一緒に走らせてもなんとも思わなかったですから。
・・・話を戻しますが、その後も車両の増備は遅々として進まずに増備が出来るのはクリスマスと誕生日、それに正月のお年玉を工面してどうにか少しずつではありましたが車両を増やしていきました。
今ではそこまで安くないですが、当時トミックスの貨車だと350円から買えたので重宝しましたね〜。
(この頃の関水の貨車は概ね500円で客車は800円から買えました)
雑なページ結合ですいませんが、当時のトミックス2軸貨車のラインナップ。(こちらも'82版より抜粋)
多数の書き込みが使い込んでいた証(笑)
当時のトミックス製品は香港製造のものが多数を占めていたのも今は思い出。
その後しばらく経つと友人宅に車両を持って集まり運転会なども自然とやるようになってきます。
でもやっぱり子供なんで遊び方が滅茶苦茶。
ジュースやオヤツ片手にレースをやったり、細かいことなんか一切気にせず凸凹編成を組んでその当時は楽しく遊んでおりました。
持っている車種もバラバラで、直流交流なんていっさいお構い無し!
同じ線路に青大将とブルートレインを走らせても何とも思いませんでした。
それこそ固定観念なんて全く無いので好きなように楽しんでいた時代です。
しかし、今は逆に知識が邪魔をして純粋に楽しむ事が出来なくなっているかも。
実物を精密に模しているとはいえ、あくまでも模型ですからね。
実物どおりの編成や時代設定に拘らなくても良いはずなんですけど、大人になると拘っちゃうんですよね・・・
ただ、リアルさに惹かれて手にしたはずのNゲージなのに、その辺りはかなり適当だったのはやっぱり子供だったからでしょうね〜
・・・そして徐々に知識も増えてきた小学校高学年の頃には、少しずつですが地域や時代を気にし始めます。
このころになると既に旧型車への興味が増大し、今とほぼ同じような趣向になっていったのでした。
KATO、トミックスだけにとどまらずグリーンマックスのキットにも手を出し始め、完成品では入手できない旧型国電や客車などの車両の充実を図り始めたのがこの頃です。
しかし、情熱とは裏腹に技術は追いついていないので満足にキットを完成させることは中々出来ず、思うようには車種が増やせなかったのも今となっては良い思い出。
この頃には友人宅での運転会も少し変化が現れ、ちょっとだけリアルにこだわるようになってきます。
一応ちゃんとダイヤに則った運転をしたり(と言ってもその時作った適当なもの)、内回りと外回りを別々に担当して乗り入れさせたり、そう言った極々初歩的なレベルではありましたがルールを決めて遊ぶことの楽しさを覚えたのがこの頃です。
小学校高学年の頃はちょうどNゲージから足を洗う奴とそうでない奴が出始める頃でしたが、自分は幸い?趣味として充実していきました。
ちょうどこの頃が世間的に第1次ブームの最高潮だったころではないかと思います。
メジャーな完成品メーカーは思い出しただけでも、カトー、トミックス、エンドウ、グリーンマックス、エーダイ、学研、などがあり、他にもしなのマイクロや中村精密に忘れちゃいけない伝説のモアなど、今では消えてしまったり撤退してしまったメーカーが多数参入していた時期です。
まあ、子供の時分はそんな詳しいことは知らずに、店頭でヨダレを垂らしてそれらのモデルを見るだけの毎日でしたが、その後知識が増えていくのと反比例してNゲージメーカーは少しずつ減少していきます。
メーカーとして認識したのはすでに廃業後だったエーダイは1980年に、その後エーダイ製品の生産を引き継いだ学研も気が付くと市場から消えていました。
エンドウも細々と続けていましたがいつの間にかフェードアウトしてHOだけに。
中村精密もナカセイと名が変わった後、しばらくして市場で見かけなくなります。
しなのマイクロはマイクロエースと社名が変わって間もなく廃業。
名前と一部製品はアリイ(現マイクロエース)が引き継ぎ今に至ります。
廃業や撤退したメーカーは概ね80年代半ば頃までに市場から消えていきましたが、時を同じくして自分のNゲージ熱も徐々に下降線をたどり始めます。
Nゲージとほぼ同時期には当然のように実物の鉄道にも興味を持ち、週末になると友人と線路際へブルートレインなどを見に行っていた小学生の頃はとても充実した日々を送っていました。
中学になると実物は見るだけの物から撮影する対象に変わり、Nゲージの方も実物の知識をフィードバックしていくようになります。
この辺りからリアル路線化が始まるのですが、これは割と短い期間だけでした。
中学から高校にかけての数年間で国鉄は以前よりも加速度的に合理化と省力化を進め、どんどん魅力のないものになっていきました。
貨物列車のヤード方式の廃止、荷物列車の全廃、旧型車両の淘汰・・・
好きなものが変わっていくのは寂しいものです。
書籍からの知識は増える一方でしたけど、実際に目にする実物はどんどん味気ないものになっていき興味が削がれていったんですね。
そしてその頃には原付の免許を取得。
行動半径は広がりましたが、鉄道写真の撮影にはあまり活躍しませんでした。
そうこうしているうちに今度は中型免許を取得。
いよいよこっちのほうが楽しくなってきます。
いつの間にかNゲージも触ることが減り、高校半ばの頃にはほとんど触ることもなくなります。
実物の方も1987年4月の国鉄民営化以降は一気に醒めてしまい、その後はバイクと車にのめり込みました・・・
Nゲージ共々、鉄道とはしばらくの期間距離を置く事になります。
ここまでが自分のNゲージ第1次ブームの頃のお話です。
小学3年生の時初めて手にしてから10年弱の間でしたが楽しい時代でした。
結局触らなくなった後も処分することは考えず、すべてしまい込んでいました。
お陰でそれからまた約10年後にはスムーズに復活することが出来ましたからね。
とにかく基本捨てられない性格なんですよ(笑)
なので今でも当時買った各社のカタログが残っています。
82〜84年頃の各社カタログ。
KATOとGM(グリーンマックス)はこの頃ほぼ毎年欠かさず買ってましたので今でもほとんど残ってます。
他にはこんなものも
友人とトレードした品物の一つで、当時は相当読み込みました。
こちらは当時入手した車両などの一部
当時から自分で買った以外にもトレードなどで車種を増やしたりということが割と普通でした。
この中にもそんな方法で手に入れたものがあります。
他にも誕生日プレゼントで貰ったりするとトレードに出したり処分したりできずいまだに持っていたりして。
このうちエーダイだけは大人になってから貰ったジャンク品の一部です。
いまではオークションなどで当時の物を探すのは容易になりましたが、別に当時のものにこだわりがあるわけじゃなくてただ懐かしいという感情ですかね。
なのでわざわざ当時のコレクターズアイテムを探し出して購入したいとかいう気持ちは殆どありません。
むしろ今の技術で作られた車両のほうが出来も走りも圧倒的なんで、もし欲しい車両があれば間違いなく今のモデルを買います。
しかし今は昔以上に高価な趣味となってしまいましたね。
今のセット物一つで当時ならNゲージを始められるくらいの金額ですもんね。
おじさんでもおいそれと手を出せない価格帯のものが増えてしまいました。
最近当時買った車両をあえて引っ張り出して走らせたり眺めたりしていますが、作りは素朴ですが何か見ていて癒されるものがあります。
子供時代の記憶とリンクするものがあるからなのかもしれませんが、現在のレベルで見れば出来の悪いモデルたちでも一つ一つに思い出があるのでおいそれと処分は出来ません。
しかし、妻にはいい加減呆れられていますけれどね。
ケンカして捨てられないように気を付けます(笑)
ではまた
1か月以上放置プレイでした・・・
コロナで大変なご時世ですけど、皆さんはどのように過ごされてますでしょうか?
自分の場合は元々リモートワークなどとは縁のない職種なので以前と同じように毎日出社していますが、影響の大きい人たちはご苦労されていることと思います。
私は幸いなことに普段とあまり変わらない仕事環境ではありますが、世間が自粛している中では週末出掛けることもできないので自ずと自宅にいる時間が増えました。
なので最近は古いNゲージなどを引っ張り出して久しぶりに走らせてみたりということをやったりしています。
まあ子供もいるので一日中そんなことをできるわけではありませんが、ちょっと時間が出来た時などに少し弄ってます。
と、言うことで今回は自分の趣味の一つであるNゲージを始めた頃のことを書いてみました。
鉄道やNゲージに詳しくないと今回書いたことはあまりよくわからないと思いますが、昭和40年代生まれの子供の思い出話として気が向いたら読んでみてください。
自分と同世代で多少でもやっていたことのある人なら懐かしいことを書いているかもしれないです。
気づけば早40年ほどの年月が経っていることに今更驚いていますが、始めたばかりの頃はまだ今ほど種類もなく出来も素朴なものが多かったです。
それでもその頃の自分にしてみればとても良く出来た模型だと思っていましたし、今以上に車両一つ一つの価値は大きかったですね。
Nゲージとの出会い
・・・私がNゲージを始めた小学校3〜4年生だった1980年前後の頃は、子供達の間でちょうどNゲージがブームだったんですよね。
その頃は大体クラスに何人かはNゲージを持ってる奴がいましたからね。
当時はブルトレブームなんかもあって小中学生には鉄道が身近な趣味のひとつとして認知されてた時代だったんで、オタク趣味というよりも自然な流れでみんな持ってたんだと思います。
自分は元々プラレールからこの世界に入り(どの世界?)ある意味当たり前のようにNゲージの世界へ移っていきました。
この最初のきっかけはクラスにいた小川君の影響です。
小川君って誰だよ?って話ですが、小学3年生の頃に同じクラスにいた友人の一人です。
ある時彼の家に遊びに行くと、そこには初めて身近で見るNゲージがあったんですよ。
それまで自分はプラレールとせいぜいスーパーレールくらいしか触れたことがなかったのに、彼の所にはそれとは全く次元の違う相当精密にできた鉄道模型があったわけです。
実際にはちょっと大きなデパートの模型売り場などに行けば売っているところもありましたが、そんなところへは滅多に行くこともなくある種幻のような存在でしたので、友人宅で初めて手にしたときの衝撃はすさまじいものでした(ちょっと大げさですが)
当然一気に気持ちはNゲージに鷲掴みされまして、それ以来プラレールは急にオモチャっぽく感じるようになります。
まあ、プラレールがデパートなどでたまに見ることのできた精密な模型に比べるといかにも子供向けなのは分かっていましたが、それでもそういった模型は自分には縁のないものと思っていたので、そういった精密な模型が自分にも手が届くところにあるということがわかってしまった当時の自分は居ても立ってもいられないのでした。
その後親にねだり、その年のクリスマスにはどうにかNゲージをゲットすることが出来ました。
Nゲージを手に入れてから
初めて入手したのはトミックス(トミー「現トミーテック」から発売されているNゲージ2大ブランドの内の一つ)の「基本セットNo.2」というもので、これは予めレールと車両がセットになっているもので、これに走行させるためのコントローラー(パワーユニットとかパワーパックなどという)を別途購入すればすぐに走らせて遊ぶことが出来るというもの。
これを選んできたのは親父でした。
このころまだ自分はメーカーや発売されている車両などについての知識はほぼゼロでしたので、ただ親にはNゲージが欲しいとしか伝えてなかったと思います(雑なお願いだな・・・)
それでもクリスマス当日はケーキもそこそこに早速レールを部屋に引き回し、ワクワクしながら準備したのを思い出します。
このセットには機関車が1両と、客車が2両の計3両の車両が入っていまして、その車種は交流電気機関車のED75と旧型客車のオハ35とオハフ33でした。
因みにこの時点でどちらも実物は見たことがありません。
初めて自分の手でパワーパックのつまみを回して走り始めた時の感動は・・・あんまり覚えていませんけど、それまでのプラレールと根本的に違う最大の特徴(自分で速度調節が可能)なところは溜まらなく嬉しかった部分です。
このセットのレールにはポイントも一つ入っていて、それがまた電動で遠隔操作ができるところもリアルに感じられてこの時点で完全にNゲージの虜となったのでした(笑)
1981年当時の基本セットのラインナップ
’82トミックス総合カタログより抜粋
真ん中が基本セットNo.2ですが、この時点で車両はDD51と14系客車に変わってます。
しかし、小学3年生の身にはNゲージの価格はとても高価で、おいそれと車両の増備はできません。
次の機会は誕生日まで待たなくてはなりませんでしたが、その年の誕生日にはEF66と憧れのブルートレイン客車を買ってもらうことが出来たんですね。
実はこの間に別の友人がやはりNゲージを始めて、その友人が小川君とは全く別の車両を買ったんですよ。
小川君の家で見たものは、今思えば現在では既にNゲージの製造をやめてしまったエンドウ製の24系25形ブルートレイン客車だったんですが、その友人のは関水(セキスイ金属・・・ブランド名はKATOで2大メーカーのもう一つのほう。日本で最初にNゲージを発売した老舗メーカー)の24系25形だったんです。
この関水の24系の最大の特徴はテールマークが光り、しかもマークを切り替えることが出来る!というもの。
このギミックは当時話題だったようでした(当時バカ売れしたらしい)が、子供の自分はそんなことはつゆ知らずに友人のモデルで初めて存在を知り驚いたものです。
こちらはたぶん84年版?のカタログより(発行が83年なので)
カトーNゲージカタログより抜粋
その友人の家では良く部屋を暗くして毛布などでトンネルを作り床に顔を擦り付けるようにして目線を下げて、テールマークを光らせて走り去るブルートレインを堪能してました。
この友人は今でも付き合いがあり、以前別の記事でも出てきている人物なんですけど、彼は自分の趣味の世界ではかなりの影響を及ぼした人物なんですね。
この影響もあって誕生日には絶対に関水のブルートレイン客車を手に入れてやると誓っていたわけでしたが、その思惑はまんまと成就しました。
しかし、間抜けな自分はひとまずテールマークが光る客車を2両買うことにのみ集中してしまって、本来ならば寝台車のオハネフ25と電源車であるカニ24を買うべきところ、知識不足もあってオハネフを2両買うという大失態をやらかします。
そしてそれを牽引する機関車は時代を先取りしてEF66をチョイス。
詳しい人ならわかると思いますが、1980〜81年当時はまだブルートレインの牽引機はEF65の1000番台で、EF66がブルートレインを牽引するようになるのはそれから数年後の1985年になってからです。
なのに何故ここでEF66だったのかというと、単純に本に載っていたのを見たからというだけでした。
あの頃は本当に適当で、実際の編成なんて知りもしないので好き勝手に手持ちの車両を繋いで走らせているだけでした。
交流機のED75と直流機のEF66を一緒に走らせてもなんとも思わなかったですから。
・・・話を戻しますが、その後も車両の増備は遅々として進まずに増備が出来るのはクリスマスと誕生日、それに正月のお年玉を工面してどうにか少しずつではありましたが車両を増やしていきました。
今ではそこまで安くないですが、当時トミックスの貨車だと350円から買えたので重宝しましたね〜。
(この頃の関水の貨車は概ね500円で客車は800円から買えました)
雑なページ結合ですいませんが、当時のトミックス2軸貨車のラインナップ。(こちらも'82版より抜粋)
多数の書き込みが使い込んでいた証(笑)
当時のトミックス製品は香港製造のものが多数を占めていたのも今は思い出。
その後しばらく経つと友人宅に車両を持って集まり運転会なども自然とやるようになってきます。
でもやっぱり子供なんで遊び方が滅茶苦茶。
ジュースやオヤツ片手にレースをやったり、細かいことなんか一切気にせず凸凹編成を組んでその当時は楽しく遊んでおりました。
持っている車種もバラバラで、直流交流なんていっさいお構い無し!
同じ線路に青大将とブルートレインを走らせても何とも思いませんでした。
それこそ固定観念なんて全く無いので好きなように楽しんでいた時代です。
しかし、今は逆に知識が邪魔をして純粋に楽しむ事が出来なくなっているかも。
実物を精密に模しているとはいえ、あくまでも模型ですからね。
実物どおりの編成や時代設定に拘らなくても良いはずなんですけど、大人になると拘っちゃうんですよね・・・
ただ、リアルさに惹かれて手にしたはずのNゲージなのに、その辺りはかなり適当だったのはやっぱり子供だったからでしょうね〜
ディープな世界へ
・・・そして徐々に知識も増えてきた小学校高学年の頃には、少しずつですが地域や時代を気にし始めます。
このころになると既に旧型車への興味が増大し、今とほぼ同じような趣向になっていったのでした。
KATO、トミックスだけにとどまらずグリーンマックスのキットにも手を出し始め、完成品では入手できない旧型国電や客車などの車両の充実を図り始めたのがこの頃です。
しかし、情熱とは裏腹に技術は追いついていないので満足にキットを完成させることは中々出来ず、思うようには車種が増やせなかったのも今となっては良い思い出。
この頃には友人宅での運転会も少し変化が現れ、ちょっとだけリアルにこだわるようになってきます。
一応ちゃんとダイヤに則った運転をしたり(と言ってもその時作った適当なもの)、内回りと外回りを別々に担当して乗り入れさせたり、そう言った極々初歩的なレベルではありましたがルールを決めて遊ぶことの楽しさを覚えたのがこの頃です。
小学校高学年の頃はちょうどNゲージから足を洗う奴とそうでない奴が出始める頃でしたが、自分は幸い?趣味として充実していきました。
ちょうどこの頃が世間的に第1次ブームの最高潮だったころではないかと思います。
メジャーな完成品メーカーは思い出しただけでも、カトー、トミックス、エンドウ、グリーンマックス、エーダイ、学研、などがあり、他にもしなのマイクロや中村精密に忘れちゃいけない伝説のモアなど、今では消えてしまったり撤退してしまったメーカーが多数参入していた時期です。
まあ、子供の時分はそんな詳しいことは知らずに、店頭でヨダレを垂らしてそれらのモデルを見るだけの毎日でしたが、その後知識が増えていくのと反比例してNゲージメーカーは少しずつ減少していきます。
メーカーとして認識したのはすでに廃業後だったエーダイは1980年に、その後エーダイ製品の生産を引き継いだ学研も気が付くと市場から消えていました。
エンドウも細々と続けていましたがいつの間にかフェードアウトしてHOだけに。
中村精密もナカセイと名が変わった後、しばらくして市場で見かけなくなります。
しなのマイクロはマイクロエースと社名が変わって間もなく廃業。
名前と一部製品はアリイ(現マイクロエース)が引き継ぎ今に至ります。
廃業や撤退したメーカーは概ね80年代半ば頃までに市場から消えていきましたが、時を同じくして自分のNゲージ熱も徐々に下降線をたどり始めます。
長いブランクへ・・・
Nゲージとほぼ同時期には当然のように実物の鉄道にも興味を持ち、週末になると友人と線路際へブルートレインなどを見に行っていた小学生の頃はとても充実した日々を送っていました。
中学になると実物は見るだけの物から撮影する対象に変わり、Nゲージの方も実物の知識をフィードバックしていくようになります。
この辺りからリアル路線化が始まるのですが、これは割と短い期間だけでした。
中学から高校にかけての数年間で国鉄は以前よりも加速度的に合理化と省力化を進め、どんどん魅力のないものになっていきました。
貨物列車のヤード方式の廃止、荷物列車の全廃、旧型車両の淘汰・・・
好きなものが変わっていくのは寂しいものです。
書籍からの知識は増える一方でしたけど、実際に目にする実物はどんどん味気ないものになっていき興味が削がれていったんですね。
そしてその頃には原付の免許を取得。
行動半径は広がりましたが、鉄道写真の撮影にはあまり活躍しませんでした。
そうこうしているうちに今度は中型免許を取得。
いよいよこっちのほうが楽しくなってきます。
いつの間にかNゲージも触ることが減り、高校半ばの頃にはほとんど触ることもなくなります。
実物の方も1987年4月の国鉄民営化以降は一気に醒めてしまい、その後はバイクと車にのめり込みました・・・
Nゲージ共々、鉄道とはしばらくの期間距離を置く事になります。
ここまでが自分のNゲージ第1次ブームの頃のお話です。
小学3年生の時初めて手にしてから10年弱の間でしたが楽しい時代でした。
結局触らなくなった後も処分することは考えず、すべてしまい込んでいました。
お陰でそれからまた約10年後にはスムーズに復活することが出来ましたからね。
とにかく基本捨てられない性格なんですよ(笑)
なので今でも当時買った各社のカタログが残っています。
82〜84年頃の各社カタログ。
KATOとGM(グリーンマックス)はこの頃ほぼ毎年欠かさず買ってましたので今でもほとんど残ってます。
他にはこんなものも
こちらは当時入手した車両などの一部
この中にもそんな方法で手に入れたものがあります。
他にも誕生日プレゼントで貰ったりするとトレードに出したり処分したりできずいまだに持っていたりして。
このうちエーダイだけは大人になってから貰ったジャンク品の一部です。
いまではオークションなどで当時の物を探すのは容易になりましたが、別に当時のものにこだわりがあるわけじゃなくてただ懐かしいという感情ですかね。
なのでわざわざ当時のコレクターズアイテムを探し出して購入したいとかいう気持ちは殆どありません。
むしろ今の技術で作られた車両のほうが出来も走りも圧倒的なんで、もし欲しい車両があれば間違いなく今のモデルを買います。
しかし今は昔以上に高価な趣味となってしまいましたね。
今のセット物一つで当時ならNゲージを始められるくらいの金額ですもんね。
おじさんでもおいそれと手を出せない価格帯のものが増えてしまいました。
最近当時買った車両をあえて引っ張り出して走らせたり眺めたりしていますが、作りは素朴ですが何か見ていて癒されるものがあります。
子供時代の記憶とリンクするものがあるからなのかもしれませんが、現在のレベルで見れば出来の悪いモデルたちでも一つ一つに思い出があるのでおいそれと処分は出来ません。
しかし、妻にはいい加減呆れられていますけれどね。
ケンカして捨てられないように気を付けます(笑)
ではまた
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おはようございます。
コメントいただきありがとうございます。
この記事は子供の頃の思い出として書いたのですが、同年代の方には懐かしがって頂いているようで、皆さん同じような過ごし方をされていたんだなとチョット嬉しくなりました。
Nゲージ返り咲いたのですね。
自分も若い頃とは違い自分の自由になる予算が限られますので(泣)最近は中々新製品に手を出せませんが、それでも楽しくやってます^ ^
自分も船Nさまと同じくほぼ国鉄形オンリーでして、しかも昭和40年代くらいまでの車輌がストライクゾーンです。
子供の頃に見ていた出雲、確かに自分も見ていたのかもしれません。
しかし、神奈川県内では走行時間帯が早朝か夜間だった為、夏休みなどの極限られた時期しか見ることが出来ず希少価値が高い列車でした。
既にブルートレインは絶滅してしまいましたが、Nゲージならいつまでも走らせて楽しめますね!
たまに昔の事を書いていきますので宜しければまた見に来てください。
画像検索から貴ブログに辿り着き、
拝読させて頂きました。
主様とほぼ同世代のようで、
鉄道模型との出会いや線路際での想い出であったり、
あの頃に鉄道に触れた少年達は、
おっさんになっても似たような道を歩いているのかもと、
仕事帰りの電車の中で懐かしく回顧させて頂きました。
小生の鉄道模型の再燃は半年程前、
もう前回の熱から30年以上ぶりなのですが、
子供ゴジラによる破壊に怯えつつ、
財務大臣(妻)から僅かな予算をもらいながら、
国鉄の車両達をこつこつと買い集め始めています。
幼少の頃、
郷里の山陰本線の線路際で見送っていた出雲号、
もしかしたら主様と同じ列車を眺めていたかも知れませんね。
門鉄局様
鉄道の趣味が同じようでチョット嬉しいです。
自分も国鉄型以外はあまり興味がないまま現在に至ります。
私は1970年生まれなので少しだけ歳下ですね。
それでは失礼いたします。
ご連絡ありがとうございます。
了解しましたのでお気になさらず。
またコメントをお待ちしております。