2018年01月17日
日野コンテッサ
どうもです。
相変わらず更新が遅くて申し訳ありません。
今年も既に半月ほど経ってしまいましたが、新年一発目のネタは日野コンテッサでいってみたいと思います。
日野コンテッサと言う車は現在トラック、バス専業メーカーでトヨタグループの一員でもある日野自動車が昭和36年に発売したリアエンジンリアドライブの乗用車です。
詳しくは割愛しますが、日野は戦前からあるメーカーで、今のいすゞとは元々同じルーツにある会社です。
そんな日野ですが、戦後は大型バスやトラックなどの開発、販売を行っていましたが1953年にはフランスのルノー公団とノックダウン生産の契約を締結して日本国内でルノー4CVの生産を始めました。
ノックダウン生産とは、海外の自動車メーカーと契約を結び、そのメーカーの車を国内メーカーが部品を現地より調達(輸入)して日本国内で組立(生産)を行うことを言い、メーカーとしては自社で開発、生産するよりもかなり早く技術を取得できる事から、戦後技術的に欧米と大きな差が出来ていた国内メーカー各社が取った方法でした。
昭和20年代後半には国内主要メーカー各社がほぼ同じタイミングで海外メーカーと契約を結び、三菱は他メーカーより早い1951年にアメリカのカイザーフレイザーと契約してヘンリーJの生産を始めますがわずかな期間で止め(当時はまだ三菱ではなく東日本重工業)、新たに1953年にアメリカのウイリスと契約(こちらは当時中日本重工業)してジープの生産を始めます。
日産も同じく1953年にイギリスのオースチンと契約して当初A40の生産を開始しますが直ぐに本国のモデルチェンジに合わせてA50ケンブリッジの生産にチェンジ、いすゞも1953年にはイギリスのルーツグループと契約しヒルマンミンクスの生産を始め、日野は先ほど書いたようにフランスルノー公団と契約を結んで4CVの生産を始めたのです。
当初は部品のほぼ100%を輸入品でまかなっていましたが、各メーカーとも数年掛けて部品の国産化を進め最終的にはすべてのメーカーが契約期間内に100%国産化を達成しました。
日野も1958年には完全国産化を達成し、その後最終的に1963年までルノーの生産を続けました。
繰り返しになりますが、ノックダウンの最大のメリットは手っ取り早く自動車生産のノウハウが手に入る事です。
戦後の日本は戦争で工業全般に手痛い打撃を受けており、自動車の開発及び生産のための技術力はとても低かった為に各メーカーは手本を海外メーカーに求めたわけです。
この中で海外メーカーと提携をしなかった大手自動車メーカーはトヨタとプリンスくらいでした。
トヨタは戦前から自社での自動車開発をしており、プライドもあったのでしょう。
プリンスの場合は戦後の新興メーカーでしたので単純にそれだけの資金が無かったか、元飛行機屋集団の意地なのか分かりませんが、とにかく自力での開発を進めます。
結局この2社は独力で自動車の開発に成功し、後のクラウンとスカイラインに結実するわけですね。
ノックダウン組も後にその技術を元に日産はセドリックを、いすゞはベレルを、日野はコンテッサの開発に役立てる事になりました。三菱はそのままジープの生産、改良を進めて「三菱ジープ」に育て上げましたね。
余談ですが、当初三菱のジープは本国と同じ左ハンドルでしばらく生産されていました。
ここで日野に話を戻しますが、日野は主に大型車専門のメーカーとして戦後再スタートを切ったわけですが、当初は戦時中の軍用車の流れを汲むディーゼルエンジン搭載のトラックや、バス、そしてトレーラーバスの製造を開始。
特にトレーラーバスはトップシェアを誇り、戦後の混乱期の輸送事情の改善に寄与しました。
子供の頃に図鑑で見て以来、トレーラーバスが気になって仕方がなかったんですが、大人になってから日野と金剛の二社しか生産していなかったと知りました。
そもそも通常のバスに比べると特殊なトレーラーバスですので、一般的なバスに比べると普及度で言えば全く少数派ではあります。
それでもトレーラバスは、戦後疲弊して輸送力が不足していた公共交通機関からすれば救世主のような存在で、一度に大量の乗客を運べる為に一時は首都圏だけではなく地方のバス会社からも引き合いがあるほどの人気を誇ります。
この本には現役当時のトレーラバスのカラー写真が載っていて貴重です。
始めて見た時には興奮して、高い本にもかかわらず購入してしまいました。
しかし世の中がだんだん落ち着いてくると、トレーラーとトラクタの両方をそろえなくてはならないことによる煩わしさと、その頃普及し始めたリアエンジンバスの大型化により徐々に活躍の場を狭めて、早くも昭和30年代には淘汰されてしまいます。
その後は通常のボンネットバス以外に日野独自のセンタアンダフロアエンジンの、愛称「ブルーリボン」バスを発売。
箱型バスの主力製品として販売するのでした。
話を戻します・・・
このような状況の中、日野はルノーと提携して小型車の生産にも乗り出しました。
このルノー(PA)は順次国内の道路事情に合わせて改良を続け、当時の国産車に比べて走りもよくタクシーにも多数が使われていました。(それでも結構不具合はあった様で、メーカーはかなり苦労した模様)
そして1961年4月にはこのルノーで培った技術を元に自社開発のコンテッサ(PC10)を発売します。
GP20型水冷直列4気筒893ccエンジンをルノーと同じくリアに搭載して35馬力を発揮。
グレードはデラックスとスタンダードの2種類を用意。
ミッションは1速ノンシンクロの3速で、リアエンジン車としては世界初?のコラムシフトを採用。
最高速110キロを誇りました。
コンテッサはリアエンジンながらコラムシフトを実現しており、日野の拘りを感じます。
リアエンジン車をコラムシフトにするにはリンケージの取り回しが難しく、距離も伸びるので普通は採用しませんがコンテッサではロッドと電磁スイッチを採用してモノにしてしまいます。
お手本だったルノーでも採用していなかったコラムシフトにした理由は何だったのでしょう?
高級感を出したかったからなのか、それとも室内を少しでも広くしたかったからなのか?
どちらにしてもコンテッサ900の特徴のひとつになったわけです。
もうひとつの大きな特徴が、「シンコーヒノマチック」と言われる神鋼電機と共同開発をした2ペダル式電磁クラッチをオプション設定した事です。
原理は、シフトチェンジをしようとするとシフトレバーに装着されたスイッチがクラッチの切断を行い、アクセル開度に応じて今度はクラッチがスムーズに繋がるようになっていました。
コンテッサとは「伯爵夫人」の意でコンテッサのイメージにはぴったりでした。(特に後のクーペ)
このコンテッサを何故今回取り上げたのかと言うと、実は昔欲しかったクルマなんです。
最初はコンテッサ1300クーペに惚れて、いつか欲しいクルマランキングで言えばベスト3に入っていました。
その後何かの折にコンテッサ900のことを知り、コンパクトなボディながらバランスの取れた4ドアスタイルと、リアエンジン特有のリアスタイルに痺れて一躍ベスト3入りを果たします(笑)
1961年から1965年までの約4年間販売されていたコンテッサ900ですが途中にマイナーチェンジとグレード追加がありました。
最初は発売翌年の62年7月に小変更がありました。
外観ではフロントウインカー周辺が変わります。
63年11月には第1回日本グランプリ仕様のコンテッサSが発売になります。
エンジンは吸排気系の変更により40PSにアップしており、シフトもコラムから一般的なフロアシフトに変更されています。
(レース仕様なので当然と言えば当然ですね)
あまり知られていないクルマですが、コラムからフロアシフトに変更されている以外にも、ホイルキャップもS専用ですしバッジ類も「S」のイニシャル入りの専用品で、「見る人が見れば分かる」的ないぶし銀仕様のバージョンでした。
その後、64年3月にはコンテッサS用のエンジンがノーマル車に搭載されて40PSとなり、このまま65年の最終まで生産されます。
自分はコンテッサSが一時期欲しくて旧車雑誌等をチェックしていましたが、流石に売り物は出てこなくて諦めまして、900なら何でも良いという考えに切り替えてイベント等でコンテッサクラブのブースにある900等を見ては勝手に妄想をしている時期がありました。
結局はスバル360の後にグロリアを購入したのでそれっきりとなりましたが(途中レビンに浮気したりもありましたが)、今でも好きなクルマです。
特にSは今でも条件が許せば本気で探したい一台であります。
コンテッサ900は65年までに47,299台が生産され、一部は輸出もされました。
当初から想定していたタクシーでの使用も実績があり、当時の映画や町並みの写真などを見ているとちょくちょく写っています。
また、コンテッサ900には美しいスタイルのコンテッサ900スプリントと言うクーペが存在します。
こちらは後のコンテッサ1300のスタイリングも担当するイタリアのミケロッティがデザインしたもので、62年10月のトリノショーでデビューしました。
海外での生産計画もありましたが、結局は市販化されずに終わってしまった勿体無い車です。
wikipediaより
フロントバッジにはカタカナで「ヒノ」と書かれているのが珍しいです。
今回は一応ここまでです。
長くなりすぎたので次回コンテッサ1300に続きます。
ではまた。
相変わらず更新が遅くて申し訳ありません。
今年も既に半月ほど経ってしまいましたが、新年一発目のネタは日野コンテッサでいってみたいと思います。
日野コンテッサと言う車は現在トラック、バス専業メーカーでトヨタグループの一員でもある日野自動車が昭和36年に発売したリアエンジンリアドライブの乗用車です。
詳しくは割愛しますが、日野は戦前からあるメーカーで、今のいすゞとは元々同じルーツにある会社です。
そんな日野ですが、戦後は大型バスやトラックなどの開発、販売を行っていましたが1953年にはフランスのルノー公団とノックダウン生産の契約を締結して日本国内でルノー4CVの生産を始めました。
ノックダウン生産とは、海外の自動車メーカーと契約を結び、そのメーカーの車を国内メーカーが部品を現地より調達(輸入)して日本国内で組立(生産)を行うことを言い、メーカーとしては自社で開発、生産するよりもかなり早く技術を取得できる事から、戦後技術的に欧米と大きな差が出来ていた国内メーカー各社が取った方法でした。
昭和20年代後半には国内主要メーカー各社がほぼ同じタイミングで海外メーカーと契約を結び、三菱は他メーカーより早い1951年にアメリカのカイザーフレイザーと契約してヘンリーJの生産を始めますがわずかな期間で止め(当時はまだ三菱ではなく東日本重工業)、新たに1953年にアメリカのウイリスと契約(こちらは当時中日本重工業)してジープの生産を始めます。
日産も同じく1953年にイギリスのオースチンと契約して当初A40の生産を開始しますが直ぐに本国のモデルチェンジに合わせてA50ケンブリッジの生産にチェンジ、いすゞも1953年にはイギリスのルーツグループと契約しヒルマンミンクスの生産を始め、日野は先ほど書いたようにフランスルノー公団と契約を結んで4CVの生産を始めたのです。
当初は部品のほぼ100%を輸入品でまかなっていましたが、各メーカーとも数年掛けて部品の国産化を進め最終的にはすべてのメーカーが契約期間内に100%国産化を達成しました。
日野も1958年には完全国産化を達成し、その後最終的に1963年までルノーの生産を続けました。
繰り返しになりますが、ノックダウンの最大のメリットは手っ取り早く自動車生産のノウハウが手に入る事です。
戦後の日本は戦争で工業全般に手痛い打撃を受けており、自動車の開発及び生産のための技術力はとても低かった為に各メーカーは手本を海外メーカーに求めたわけです。
この中で海外メーカーと提携をしなかった大手自動車メーカーはトヨタとプリンスくらいでした。
トヨタは戦前から自社での自動車開発をしており、プライドもあったのでしょう。
プリンスの場合は戦後の新興メーカーでしたので単純にそれだけの資金が無かったか、元飛行機屋集団の意地なのか分かりませんが、とにかく自力での開発を進めます。
結局この2社は独力で自動車の開発に成功し、後のクラウンとスカイラインに結実するわけですね。
ノックダウン組も後にその技術を元に日産はセドリックを、いすゞはベレルを、日野はコンテッサの開発に役立てる事になりました。三菱はそのままジープの生産、改良を進めて「三菱ジープ」に育て上げましたね。
余談ですが、当初三菱のジープは本国と同じ左ハンドルでしばらく生産されていました。
ここで日野に話を戻しますが、日野は主に大型車専門のメーカーとして戦後再スタートを切ったわけですが、当初は戦時中の軍用車の流れを汲むディーゼルエンジン搭載のトラックや、バス、そしてトレーラーバスの製造を開始。
特にトレーラーバスはトップシェアを誇り、戦後の混乱期の輸送事情の改善に寄与しました。
子供の頃に図鑑で見て以来、トレーラーバスが気になって仕方がなかったんですが、大人になってから日野と金剛の二社しか生産していなかったと知りました。
そもそも通常のバスに比べると特殊なトレーラーバスですので、一般的なバスに比べると普及度で言えば全く少数派ではあります。
それでもトレーラバスは、戦後疲弊して輸送力が不足していた公共交通機関からすれば救世主のような存在で、一度に大量の乗客を運べる為に一時は首都圏だけではなく地方のバス会社からも引き合いがあるほどの人気を誇ります。
昭和30年代バス黄金時代 発掘カラー写真 [ 満田新一郎 ] 価格:7,560円 |
この本には現役当時のトレーラバスのカラー写真が載っていて貴重です。
始めて見た時には興奮して、高い本にもかかわらず購入してしまいました。
しかし世の中がだんだん落ち着いてくると、トレーラーとトラクタの両方をそろえなくてはならないことによる煩わしさと、その頃普及し始めたリアエンジンバスの大型化により徐々に活躍の場を狭めて、早くも昭和30年代には淘汰されてしまいます。
その後は通常のボンネットバス以外に日野独自のセンタアンダフロアエンジンの、愛称「ブルーリボン」バスを発売。
箱型バスの主力製品として販売するのでした。
話を戻します・・・
このような状況の中、日野はルノーと提携して小型車の生産にも乗り出しました。
このルノー(PA)は順次国内の道路事情に合わせて改良を続け、当時の国産車に比べて走りもよくタクシーにも多数が使われていました。(それでも結構不具合はあった様で、メーカーはかなり苦労した模様)
コンテッサ
そして1961年4月にはこのルノーで培った技術を元に自社開発のコンテッサ(PC10)を発売します。
GP20型水冷直列4気筒893ccエンジンをルノーと同じくリアに搭載して35馬力を発揮。
グレードはデラックスとスタンダードの2種類を用意。
ミッションは1速ノンシンクロの3速で、リアエンジン車としては世界初?のコラムシフトを採用。
最高速110キロを誇りました。
コンテッサはリアエンジンながらコラムシフトを実現しており、日野の拘りを感じます。
リアエンジン車をコラムシフトにするにはリンケージの取り回しが難しく、距離も伸びるので普通は採用しませんがコンテッサではロッドと電磁スイッチを採用してモノにしてしまいます。
お手本だったルノーでも採用していなかったコラムシフトにした理由は何だったのでしょう?
高級感を出したかったからなのか、それとも室内を少しでも広くしたかったからなのか?
どちらにしてもコンテッサ900の特徴のひとつになったわけです。
もうひとつの大きな特徴が、「シンコーヒノマチック」と言われる神鋼電機と共同開発をした2ペダル式電磁クラッチをオプション設定した事です。
原理は、シフトチェンジをしようとするとシフトレバーに装着されたスイッチがクラッチの切断を行い、アクセル開度に応じて今度はクラッチがスムーズに繋がるようになっていました。
コンテッサとは「伯爵夫人」の意でコンテッサのイメージにはぴったりでした。(特に後のクーペ)
コンテッサ デラックス エンジン型式 GP20 水冷4気筒 893cc 最高出力 35PS/5,000pm 最高トルク 6.5m・kg/3,200rpm 全長 3,795mm 全幅 1,475mm 全高 1,415mm ホイルベース 2,150mm 最小回転半径 4.3m 車両重量 750kg 乗車定員 5名 最高速度 110キロ |
このコンテッサを何故今回取り上げたのかと言うと、実は昔欲しかったクルマなんです。
最初はコンテッサ1300クーペに惚れて、いつか欲しいクルマランキングで言えばベスト3に入っていました。
その後何かの折にコンテッサ900のことを知り、コンパクトなボディながらバランスの取れた4ドアスタイルと、リアエンジン特有のリアスタイルに痺れて一躍ベスト3入りを果たします(笑)
1961年から1965年までの約4年間販売されていたコンテッサ900ですが途中にマイナーチェンジとグレード追加がありました。
最初は発売翌年の62年7月に小変更がありました。
外観ではフロントウインカー周辺が変わります。
62年頃?の日野総合カタログより フロントウインカーレンズ内側のヒゲ?が伸びました。(レンズ形状も変わってます) 当時まだ併売されていたルノーと同じページで紹介されています。 |
63年11月には第1回日本グランプリ仕様のコンテッサSが発売になります。
エンジンは吸排気系の変更により40PSにアップしており、シフトもコラムから一般的なフロアシフトに変更されています。
(レース仕様なので当然と言えば当然ですね)
コンテッサS 何故か当時の自動車ガイドブックには掲載されていない車 (63年版64年版共) |
あまり知られていないクルマですが、コラムからフロアシフトに変更されている以外にも、ホイルキャップもS専用ですしバッジ類も「S」のイニシャル入りの専用品で、「見る人が見れば分かる」的ないぶし銀仕様のバージョンでした。
その後、64年3月にはコンテッサS用のエンジンがノーマル車に搭載されて40PSとなり、このまま65年の最終まで生産されます。
自分はコンテッサSが一時期欲しくて旧車雑誌等をチェックしていましたが、流石に売り物は出てこなくて諦めまして、900なら何でも良いという考えに切り替えてイベント等でコンテッサクラブのブースにある900等を見ては勝手に妄想をしている時期がありました。
結局はスバル360の後にグロリアを購入したのでそれっきりとなりましたが(途中レビンに浮気したりもありましたが)、今でも好きなクルマです。
特にSは今でも条件が許せば本気で探したい一台であります。
コンテッサ900は65年までに47,299台が生産され、一部は輸出もされました。
当初から想定していたタクシーでの使用も実績があり、当時の映画や町並みの写真などを見ているとちょくちょく写っています。
また、コンテッサ900には美しいスタイルのコンテッサ900スプリントと言うクーペが存在します。
こちらは後のコンテッサ1300のスタイリングも担当するイタリアのミケロッティがデザインしたもので、62年10月のトリノショーでデビューしました。
海外での生産計画もありましたが、結局は市販化されずに終わってしまった勿体無い車です。
wikipediaより
フロントバッジにはカタカナで「ヒノ」と書かれているのが珍しいです。
今回は一応ここまでです。
長くなりすぎたので次回コンテッサ1300に続きます。
ではまた。
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