2021年10月31日
プリンス社報 1964年1月号
どうもです。
今回もどうにか月末に間に合わせることが出来ました。
さて、今回のプリンス社報は前回からちょっと飛びまして1964年1月の第135号となります。
実は前回の63年9月号の後、10月号では新発売のS50系スカイラインについての記事が載っているはずなんですが、生憎その辺りがごっそり抜けており紹介できません。
申し訳ないのですが今後入手がかないましたら改めて紹介できればと思います。
1964年と言えば東京オリンピックの年でした。
しかし、プリンスとしてはある意味正念場の年であったのではないでしょうか。
ラインナップはほぼ完成していましたが思うように販売台数は伸びず、残念ながら翌年の1965年には日産との合併が決まってしまいます・・・
さて、今回はいつもより画像が多いので閲覧は重いかもしれません。
文字まで読めるようにあまりサイズを小さくしていないのでご了承ください。
では早速表紙から
1964年(昭和39年)の干支は辰でしたので表紙もそれにちなんでます。
次は表紙裏と1ページ目です
若戸大橋とは当時東洋最大を誇った吊り橋との事です。
この吊り橋が出来たおかげで北九州市が誕生したというのは知りませんでした。
隣の写真はマンモストレーラーに積載されて関西方面へ出荷されるS50スカイラインです。
63年の11月に発売開始以来販売は好調に推移していたようで、この頃はちょうど生産が軌道に乗り始めた時期なのでしょうか。
次のページは見開きで、新年らしく役員総出で新年の御挨拶と言った感じの写真なんですが、スカイラインのボディ色が黒っぽくて、どちらかと言うとあまり見ない色のように見えます。
次の左は目次になりますが、右ページに写っている「迎春」のグロリアはプリンスの広報車として使われていたもので、この後もちょくちょく色々なところで写真に写っているのを確認できます。
スペースフローの型式認証もこの車で取ったと人伝に聞いた記憶がありますし、各種オプションの試験車としても使われていたそうです。
実はこのグロリアは平成の世まで生き残っており、この車だと言われた実車を私も見せてもらったことがあります。
パワーシート付でしたがそれは試作品だと聞きました。
今はどうなったことでしょう。
ここからは座談会のページです。
1964年をどうするかと言った話を社長を交えて真剣に語り合っています。
読めるサイズにしていますので興味のある方は一読してみては
左のページには海外のプリンス車の紹介があります。
次のページは業界ニュースのページです
例によって生産台数の表がありますが、前年11月のプリンスの生産数はようやく5,000台と言ったところなのに、トヨタ、日産はそれよりはるかに多い20,000〜30,000台以上の生産数です。
もう一つの注目は東洋工業(マツダ)ですが、一般的に軽自動車ではこの時代のトップと思われがちな富士重工業(スバル)よりもはるかに多い生産数なんですね。
軽乗用車だけでもマツダはスバルの3倍以上の生産数で、軽商用車を見てもほぼ倍の差があります。
それにしては車の残存数で言うとスバルのほうが残っているように思えるのは不思議な気もします。
この次のページからはまたしても座談会の記事なんですが、こちらはどうやって販売数を増やすかということについて話をしています。
読んでみるとこの当時のグロリアの販売状況や、出たばかりのS50スカイラインの評判などが分かって面白いです。
やはりプリンスは販売網が弱いということはメーカーも自覚していたことが分かりますね。
この後の左のページは以前紹介したことのある、グロリアとスカイライン用のスポーツキット発売のニュースと、スーパー6にノンスリップデフがオプション装着できるようになることを知らせる記事です。
ほかにもジェットルームが10大新製品に選ばれたということや、雑誌の人気投票で発売間もないS50スカイラインがクラウンに次いで2位になりブルーバードより順位が上だった、なんてことも書かれています。
ここからはいつもとちょっと趣向が変わり、同じくプリンス発行のPR誌である「プリンス」誌より転載された記事です。
日本交通後楽園営業所を訪ねてある朝の風景を取材したものですが、数台の観音クラウンを除けば見事にプリンスばかりです。
この時期は車種がS21スカイラインにほぼ統一されたようで、それ以前のSI系は見当たりません。
その後は徐々にS40系グロリアの台数が増えていきます。
日本交通はプリンスの大ユーザーでしたが、一時期は保有車両の1/3以上をプリンスで占めていたこともあったようです。
最後に裏表紙です
フランスのシムカです。
今ではもう消滅してしまったメーカーの一つです。
今回は以上です。
ちょっと今回はページが多かったですが、内容もそれだけ充実していたと思うのでご勘弁ください。
ではまた
今回もどうにか月末に間に合わせることが出来ました。
さて、今回のプリンス社報は前回からちょっと飛びまして1964年1月の第135号となります。
実は前回の63年9月号の後、10月号では新発売のS50系スカイラインについての記事が載っているはずなんですが、生憎その辺りがごっそり抜けており紹介できません。
申し訳ないのですが今後入手がかないましたら改めて紹介できればと思います。
1964年と言えば東京オリンピックの年でした。
しかし、プリンスとしてはある意味正念場の年であったのではないでしょうか。
ラインナップはほぼ完成していましたが思うように販売台数は伸びず、残念ながら翌年の1965年には日産との合併が決まってしまいます・・・
さて、今回はいつもより画像が多いので閲覧は重いかもしれません。
文字まで読めるようにあまりサイズを小さくしていないのでご了承ください。
では早速表紙から
1964年(昭和39年)の干支は辰でしたので表紙もそれにちなんでます。
次は表紙裏と1ページ目です
若戸大橋とは当時東洋最大を誇った吊り橋との事です。
この吊り橋が出来たおかげで北九州市が誕生したというのは知りませんでした。
隣の写真はマンモストレーラーに積載されて関西方面へ出荷されるS50スカイラインです。
63年の11月に発売開始以来販売は好調に推移していたようで、この頃はちょうど生産が軌道に乗り始めた時期なのでしょうか。
次のページは見開きで、新年らしく役員総出で新年の御挨拶と言った感じの写真なんですが、スカイラインのボディ色が黒っぽくて、どちらかと言うとあまり見ない色のように見えます。
次の左は目次になりますが、右ページに写っている「迎春」のグロリアはプリンスの広報車として使われていたもので、この後もちょくちょく色々なところで写真に写っているのを確認できます。
スペースフローの型式認証もこの車で取ったと人伝に聞いた記憶がありますし、各種オプションの試験車としても使われていたそうです。
実はこのグロリアは平成の世まで生き残っており、この車だと言われた実車を私も見せてもらったことがあります。
パワーシート付でしたがそれは試作品だと聞きました。
今はどうなったことでしょう。
ここからは座談会のページです。
1964年をどうするかと言った話を社長を交えて真剣に語り合っています。
読めるサイズにしていますので興味のある方は一読してみては
左のページには海外のプリンス車の紹介があります。
次のページは業界ニュースのページです
例によって生産台数の表がありますが、前年11月のプリンスの生産数はようやく5,000台と言ったところなのに、トヨタ、日産はそれよりはるかに多い20,000〜30,000台以上の生産数です。
もう一つの注目は東洋工業(マツダ)ですが、一般的に軽自動車ではこの時代のトップと思われがちな富士重工業(スバル)よりもはるかに多い生産数なんですね。
軽乗用車だけでもマツダはスバルの3倍以上の生産数で、軽商用車を見てもほぼ倍の差があります。
それにしては車の残存数で言うとスバルのほうが残っているように思えるのは不思議な気もします。
この次のページからはまたしても座談会の記事なんですが、こちらはどうやって販売数を増やすかということについて話をしています。
読んでみるとこの当時のグロリアの販売状況や、出たばかりのS50スカイラインの評判などが分かって面白いです。
やはりプリンスは販売網が弱いということはメーカーも自覚していたことが分かりますね。
この後の左のページは以前紹介したことのある、グロリアとスカイライン用のスポーツキット発売のニュースと、スーパー6にノンスリップデフがオプション装着できるようになることを知らせる記事です。
ほかにもジェットルームが10大新製品に選ばれたということや、雑誌の人気投票で発売間もないS50スカイラインがクラウンに次いで2位になりブルーバードより順位が上だった、なんてことも書かれています。
ここからはいつもとちょっと趣向が変わり、同じくプリンス発行のPR誌である「プリンス」誌より転載された記事です。
日本交通後楽園営業所を訪ねてある朝の風景を取材したものですが、数台の観音クラウンを除けば見事にプリンスばかりです。
この時期は車種がS21スカイラインにほぼ統一されたようで、それ以前のSI系は見当たりません。
その後は徐々にS40系グロリアの台数が増えていきます。
日本交通はプリンスの大ユーザーでしたが、一時期は保有車両の1/3以上をプリンスで占めていたこともあったようです。
最後に裏表紙です
フランスのシムカです。
今ではもう消滅してしまったメーカーの一つです。
今回は以上です。
ちょっと今回はページが多かったですが、内容もそれだけ充実していたと思うのでご勘弁ください。
ではまた
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コメントの承認や返信が遅くなってしまいすみません。
日本交通のS21Sはかなりの勢力だったようですが、当然他の車種もいたわけですよね。
写真に写っていたクラウンの他にベレルも使われていたのは私も写真で見た記憶がありますが、この記事の営業所に配置が有ったかは分からないですね。
スカイラインは、S21より前の初期のSI系から導入されていたのは写真で見ているので知っていますが、最盛期はどれくらいの台数だったんでしょうね。
それにしても、羽のある頃のスカイラインのタクシーは確かに格好良いですね。
桃源郷の様な情景味と趣と風情と情緒が良い感じです。正に麗しの60年代クラウンの他に1963年64年当時はいすゞベレルも使用していた様です。タクシーの映像はユーチューブでは二回り後の年代がアップロードされていましたが自分は意地でも60年代党純粋なレトロ感覚要素満載は81年以前迄だと思います。
正に王道年代麗しの60年代桃源郷レトロ車タクシー情景s21スカイラインタクシー自分はデザインが気に入っています。当時は日本交通タクシーにはいすゞベレルも存在した様です画像や資料で見付けました。YouTubeで80年代のタクシーが掲載されています
今回のプリンス社報はボリュームがあって読み応えも十分だったと思います。
それにしてもこのメーカーがたった2年後には吸収合併で消えてしまうとは、当時の人たちは思いもよらなかったでしょうね。
合併の是非を現在の部外者が色々考察するのは無責任な気はしますが、気になってしまうのもある意味仕方ないことかもしれません。
私自身も、もし今でもプリンスが存続していたらどうだっただろうか?
なんてことをいまだに思ってしまいますし、なぜプリンスだけがあのようなことになったのか考えてしまいますからね。
若戸大橋、地元でしたか!
私は九州にはたった一度しか行ったことが無く、是非改めてじっくり回ってみたいとは思っているのですが・・・
予算と休みが無いので難しいです(泣)
プリンス社報は今後も定期的にアップする予定ですので、また楽しみにして下さい!
プリンス社報いつも楽しみにしています。ゆっくりじっくりと読んでいるのと、このイケイケドンドンな会社が数年後には消滅してしまうなんて当時誰が予想したでしょうか?私自身考えがまとまらずコメントに困ってしまいます。
私の両親は北九州市の出身なので若戸大橋は子供の頃からのお馴染みです。
この写真のように昔は歩道があり歩いて通行できましたが現在は4車線になり廃止されています。今の私の家から明石海峡大橋が見えますが帰省すると若戸大橋も関門大橋も「こんなにちっちゃかったんだ」と思ってしまいます。
正月号とあって攻めるプリンス!という感じの社報ですが、この後のことを知っている未来人「時をかけるオヤジ」(笑)からすれば辛い気持ちになります。
日産への吸収合併について所説ありますが今日は論評は避けておきます。