「長岡半太郎」の原稿を投稿します。私のサイトは外国からもアクセスがありますので文末に拙いながらも英訳を付けました。英語文章を作成していて確認出来るのは内容の正確さです。お恥ずかしい話として、文章に主語が無く文脈から判断させたりしていたりしましたのです。SEO効果を狙って単語を必要以上に入れたくないので、逆に文章が不正確になっていて逆効果だったのです。以後この点は改善します。原稿文字数は4279文字です。また、アマゾンアソシエートのリンク掲載に関して最後に記載しました。アマゾン関連の作業は嫁任せでしたがサイトの運営として記載します。読者満足度を考え関連書籍を記載します。作業として7月からの四半期で登場場所別、時代別のリライトをしてます。そして、私の文章で遷移語が不足しているようです。遷移語は、「同様に」、「しかし」、「に加えて」、「たとえば」などの単語です。以後加筆します。また、学術論文を読む時には英語必須、他国の方と議論の時にも英語必須です。少しでも話せるようになる機会は大事ですので、オンライン英会話をご紹介しています。別途、個別の人物の追加もトピックスのご紹介もしていきたいです。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。
作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】
【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】
長岡半太郎の豊かな人脈
この長岡半太郎も湯川秀樹同様に大村藩の流れ
に生まれます。学生時代は東大で山川 健次郎や
田中舘愛橘に学び、助教授としてドイツ留学していた
時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義
の考え方も、留学以後は踏まえながら議論をしていった
のでしょうか。どこまで核心に迫っていったか
論じる際には当時の日本における量子論での
現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、
科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。
別の面から調べてみたら話は進む時があると
思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は
学業成績は芳しくなかったようです。
この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、この二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は理化学研究所の三太郎と呼ばれて居たそうです。携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。
長岡半太郎の研究業績
長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、
本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、
長岡半太郎の研究業績として大きいのは、
なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みで
ミクロへの探求を進めていたのです。トムソンが
ブドウパンの中のブドウのような形で
中心からの距離や軌跡と無関係に
電子の存在を仮定していたのに対し、
長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する
土星のようなモデルを提唱しました。
この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。その考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。
時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測
することを考えてみて、電子の挙動をとらえる
帯電物質を想定してみても帯電体の中を
動き回る電子の動きを止める事は出来ません。
電子とは何時も動いている物体だからです。
それだから、初めの時点での
モデル化の難しさが出てくるのです。
今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。全く知見の無かった原子という存在をに対して初期的なイメージを作る事が出来たのです。そのモデルをもとに帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。
素晴らしいパラダイムシフトでした。
〆最後に〆
以上、間違いやご意見があれば
以下アドレスまでお願いします。
問題点に関しては適時、
改定や返信を致します。
nowkouji226@gmail.com
2020/09/13_初回投稿
2021/09/21_改訂投稿
(旧)舞台別のご紹介
纏めサイトTOPへ
舞台別のご紹介へ
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介
東大関連のご紹介
力学関係のご紹介へ
量子力学関係へ
【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】
(2021年9月時点での対応英訳)
Hantaro Nagaoka's rich personal connections
This Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.
This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.
Research achievements of Hantaro Nagaoka
Hantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.
I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of "momentum".
Considering going back in time
and observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That's why it's difficult to model at the beginning.
Although it can be said that it is an incomplete model in today's physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka's model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances.
It was a wonderful paradigm shift.
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image