その名はマリア・スクウォドフスカ=キュリー
Maria Salomea Skłodowska-Curieですが
フランス語でマリ・キューリと呼ばれる
事が多いです。彼女は物理学と化学で
2度ノーベル賞を受けています。
マリ・キューリの父は研究者でしたが
貴族階級の出自故に、帝政ロシアの
支配下の元で教壇に立つことを禁じ
られていました。
マリ・キューリは10歳をなる前に
大変苦労します。父の非合法の講義
が発覚して職・住を失い、母の結核
による他界があり、更には投機での
失敗もあり、親戚等の世話になります。
そんな時期にマリ・キューリにも恋をした時代があったようです。当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキという青年と恋仲に落ちます。共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしましたが、最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。
パリでもマリ・キューリは苦労します。
屋根裏部屋に住んで寒い時には
持っている全ての服を着ながら
勉学に励みます。そんな生活は
大学の学部を卒業する迄、続きました。
そんなマリ・キューリに
漸く光明がさします。
知り合いを通じてピエール・キューリ
と出会ったのです。
そのピエール・キューリは国外で
評価を受けていて1893年には英国の
ケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。
ところがピエール・キューリは
勲章を辞退するような性格で
ひたすら研究に励んでいました。
そんな二人が惹かれ合い、認め合い、
マリの帰国後もピエールは恋文を
贈り続け、遂には簡素な結婚式をあげます。
幸せなん結婚生活だったと思います。
祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、
つつましい形式でしたが
祝い金で買った自転車に乗り、
フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。
料理を頑張り、長女に恵まれながらも学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の含有量が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。
同位体の存在に近づいていったのです。
関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。その中で第二子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、新しい概念の提唱に至ります。すなわち、特定元素は別の元素へ変化し得る、という事実です。
そして、その過程で放射線を放出して一見エネルギー保存の法則に相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが研究成果を次々に発表します。そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。
当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。
所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの物が必要でしたが、最終的に妻マダムは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。
この内容に関してはいずれ追記したいと思います。
いつか、書き足すに値する部分だと思えます。
ケルビン卿・カメリーオネス・アインシュタインといった
当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。
そして、何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。
波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。
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2020/10/14_初稿投稿
2021/01/15_改定投稿
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