登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「田中館愛橘」の原稿を投稿します。使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。その時代に学内で銀杏を植えていたのでしょうか。また、バーナーは今迄、文章の区切りとして多用していましたが、最近はGoogleに任せています。閲覧している方々の日常に合わせたクッキー情報で入れてもらうことにします。私は文章を作る事に集中します。話し戻して田中館愛橘ですが、日本の物理学会を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。
【以下が投稿原稿です】
田中館愛橘、その名は愛橘と書いてあいきつ、と読ませます。生まれた年は旧暦の時代で安政3年9月18日です。【新暦で1856年10月16日です】没年は新暦での昭和27年です。先祖に南部藩の赤穂浪士と呼ばれた方が居たそうですから、そうしたイメージから語り出したいと思います。時代の変革期に若き日を過ごしました。
さて、田中館愛橘の父方は兵法師範の家系であり、愛橘は藩校である作人館に学びます。作人館での同窓生には原敬がいて後輩には新渡戸稲造がいました。存じませんでしたが立派な学校ですね。東京に出て慶應義塾に通いますが学費が高額なので東京開成高校に進みます。今で言えば東大教養学部のイメージでしょうか。そこで愛橘は山川健次郎から物理学を学びます。政治にも関心を持っていたようですが、山川から諭され、我が国の理学での遅れを挽回せんと愛橘は物理学を志しました。1879年に東大で外国人教師であるメンデンホールとユーイングがエジソンの発明したフォノグラフを日本に紹介しましたが、田中館愛橘は早速試作を行いました。その音響や振動の解析を行っています。1880年にはメンデンホールによる重力観測に参加し、東京と富士山で観測作業を行いました。当時の世界1の高精度方位計であると称えられた電磁方位計を愛橘は制作しました。
田中館愛橘は明治16年12月に福岡に帰っていた父・稲蔵が割腹自殺したとの知らせを受けて帰郷します。そしてその年に東京大学助教授となりました。詳細は追って調べます。この時期気になる動きです故。
その後、田中館愛橘はイギリスでケルビン卿に師事し、大きな影響を受け、生涯を通じてケルビンを敬愛しました。その後1890年にヘルムホルツのいたベルリン大学へ転学、電気学などを学びます。この時代の電気に対する理解は、後ほど項を改めてマクスウェルらと関連して語ります。愛橘は東京帝大理科大学教授となり後にに理学博士の学位を受けます。更にデンマークのコペンハーゲンで開かれた万国測地学協会 第14回総会で地磁気脈動や磁気嵐の発表をします。
また時代柄もあって、田中館愛橘は陸軍や海軍に対して貢献します。地磁気測量では指導の中心的な役割を果たしています。旅順での戦闘の際には敵情視察用の繋留気球の制作を依頼されています。それが愛橘と航空研究のきっかけ
となりました。田中館愛橘は中野の陸軍電信隊内での気球班で気球研究を始め、制作および運用法を指導しています。試行錯誤の末に気球を完成させ、旅順戦で戦闘に使用されています。
そして田中館愛橘が60歳になり、教授在職25周年のパーティで愛橘は辞職する旨を伝えました。後の東大での定年退職制度に繫がっていきます。また、田中館愛橘は数多くの人材を育てました。教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などが居ます。それ故、愛橘は「種まき翁」、「花咲かの翁」と呼ばれたそうです。95歳7か月の天寿を全うしました。
〆
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2020/12/16_初版投稿
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