その後に改定前の原稿を残します。。
「ボルン・オッペンハイマー近似」
という言葉で出てくる2人の組み合
わせが、どうも今迄ずっと
しっくりきていませんでした。
今回調べてみて納得です。
時代的、政治的に複雑な環境に晒された
オッペンハイマーですが、色々語る個所
はあるかと思えます。ご高覧下さい。
@J・R・オッペンハイマー
【オッペンハイマーの原稿】
オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれている側面もありますが、
UCB(バークレー校)では学生からオッピーと呼ばれていました。
彼の人生は喜怒哀楽に満ちています。
個人的な着眼点としては彼もユダヤ系の血を引いているという点です。
ヒットラーが民族としてのユダヤ人に焦点を当て迫害し、敵視していた
現実は動かしがたい事実です。強制収容所に連行されるような世相の中で
ユダヤ人達は非常な危機感を感じていたはずです。その危機感の中で
20世紀初頭の歴史は、天才たちが育ち・団結して新しい物を生み出し
ていたのではないでしょうか。この考えは幾多の人が繰り広げてきた
のではないかと思えますが、再度私も強調します。
具体的にはアインシュタイン・ボルン・そしてオッペンハイマーです。
(今は此処迄しか思い浮かびませんが後日、追記することになるでしょう)
それ程に
今世紀初頭の物理学の進展は急でした。その進展は物理学に留まらず、
工学、産業、果ては1917年ロシア革命に始まる社会体制の変化
にも繋がっていったと言えるのでは無いでしょうか。
実際、オッパンハイマーは最終的に6つの言葉を操ります。
少年時代には鉱物学・数学・地質学・化学に関心を示し
ハーバードを3年で終えてケンブリッジに留学します。
そこから理論物理学のゲッティンゲン大学に進み
ボルンと出会います。オッペンハイマーはボルンの
指導の下で研究を進め、
共同でボルン・オッペンハイマー近似等の業績を上げます。
その後、アメリカに戻りカリフォルニア工科大学やUCBで
教鞭をとりますが、第二次大戦勃発に伴いオッペンハイマーは
ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命されます。
ここで原爆を開発したのです。この仕事は、
世界のパワーバランスを変え、後の世界を大きく変えました。
晩年、オッペンハイマーは成し遂げた仕事の意味を自問し、
後悔の言葉さえ残しています。戦争時代の原爆開発・使用は
国としてのアメリカの中で必要と判断されていましたが
現代ではそれを使い各国が持つだけで攻撃対象とされたり
外交で脅迫の道具として使われていたりします。
そういったことにつながった発明をオッペンハイマーは
「罪」として捉え水爆の開発には反対していたりもしました。
オッペンハイマーには別の罪もあります。オッペンハイマーは
冷戦時代なので、学生時代からの共産党とのつながりを指摘され、
最終的には赤狩りの標的とされ続けていました。
常時FBI(司法省管轄のアメリカ連邦捜査局)の監視下にあったのです。
1965年、がんの為にニュージャージーの自宅で静かに生涯を終えました。
合掌
以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。
nowkouji226@gmail.com
2020/09/21_初稿投稿
2020/12/19_改定投稿
【原稿此処まで】
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