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2024年06月24日

田中館 愛橘(たなかだて あいきつ )
6/24改訂【日本物理学の黎明期にイギリスとドイツで物理学を学び日本に紹介し、ケルビン卿を敬愛した偉人|多くの人材を育て「種まき翁」と呼ばれた男|フォノグラムを研究】

こんにちは。コウジです。
田中館 愛橘の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


オープンソースCAE
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田中館 愛橘(たなかだて あいきつ)【1856年10月16日生まれ ~ 1952年5月21日没】



日本物理学創設期の人
田中館愛橘


その名は田中館・愛橘と書いて


たなかだて・あいきつ、と読ませます。


生まれた年は旧暦の時代で安政3年9月18日です。
【新暦で1856年10月16日です】
没年は新暦での昭和27年です。


先祖に南部藩の赤穂浪士
と呼ばれた方が居たそうですから、
そうしたイメージから語り出したいと思います。
田中館は時代の変革期に生まれました。


 

田中館愛橘の生い立ち


ご紹介する田中館愛橘の父方は
兵法師範の家系であり、
愛橘は藩校である作人館に学びます。
作人館での同窓生には原敬がいて後輩には
新渡戸稲造がいました。


存じませんでしたが
立派な学校ですね。東京に出て慶應義塾に通い
ますが学費が高額なので東京開成高校に進みます。


今で言えば東大教養学部のイメージでしょうか。
そこで愛橘は山川健次郎から物理学を学びます。


政治にも関心を持っていたようですが、山川から諭され、
日本での理学の遅れを挽回せんと愛橘は物理学を志しました。


1879年に東大で外国人教師であるメンデンホールが
(ユーイングと共に)トーマス・A・エジソンの発明した
フォノグラフを日本に紹介しましたが、田中館愛橘は
早速試作を行いました。その音響や振動の解析を行っています。


音を音質と音量に分けて考えたり、
フィルター処理をする作業が日本で始まったのです。
1880年にはメンデンホールによる重力観測に参加し、
東京と富士山で観測作業を行いました。


当時の世界一の性能を持っと言われたた
電磁方位計を研究開発しました。


そんな時期に、、


突然、福岡に帰っていた父・稲蔵が割腹自殺したとの
知らせを受けて田中館愛橘は明治16年12月に帰郷します。


土地や家などを売り払い東京三田での愛橘の教育の為に
一家総出で引っ越しをしたようなお父様でした。
そのお父様がなくなったのです。


そしてその年に東京大学助教授となりました。詳細は
いつか調べてみたいです。この時期気になる動きです。
時代の変革期に各人が考え抜いていたはずです。



田中館愛橘とケルビン卿


その後、田中館愛橘はイギリスでケルビン卿に師事し、
大きな影響を受け、生涯を通じてケルビンを敬愛しました。


その後1890年にヘルムホルツのいた
ベルリン大学へ転学、電気学などを修めます。


この時代の電気に対する理解は、項を改めて
マクスウェルらと関連して語っています。


電磁気学は力学と異なり色々な人々の多様な知見が
次々重なり形成されていった歴史があるのです。


力学のように第一法則、第二法則、
として電磁気学では出来ていません。


 

愛橘は東京帝大理科大学教授となり後に
理学博士の学位を受けます。更にデンマークのコペンハーゲン
で開かれた万国測地学協会 第14回総会で
地磁気脈動や磁気嵐の発表をします。



田中館愛橘の業績


時代柄もあって、田中館愛橘は陸軍や海軍に対して貢献します。地磁気測量では指導の中心的な役割を果たしています。


旅順での戦闘の際には敵情視察用の繋留気球の制作を依頼されています。それが愛橘と航空研究のきっかけ
となりました。


田中館愛橘は中野の陸軍電信隊内での気球班で気球研究を始め、制作および運用法を指導しています。試行錯誤の末に気球を完成させ、旅順戦で戦闘に使用しています。


そして田中館愛橘が60歳になり、教授在職25周年のパーティで愛橘は辞職する旨を伝えました。後の東大での定年退職制度に繫がっていきます。


また、田中館愛橘は数多くの人材を育てました。教え子としては長岡半太郎中村清二本多光太郎、木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などが居ます。それ故、愛橘は「種まき翁」、「花咲かの翁」と呼ばれたそうです。
95歳7か月の天寿を全うしました。




以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。


nowkouji226@gmail.com


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2020/12/16_初版投稿
2024/06/24_改定投稿


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(2021年9月時点での対応英訳)



Tanakadate Aikitsu,


whose name is Aikitsu, is written as Aikitsu.


Born on September 18, Ansei 3 in the lunar calendar. [October 16, 1856 in the new calendar] The year of death is 1952 in the new calendar. It seems that his ancestor was called Ako Ronin of the Southern Clan, so I would like to start with that image. He spent his youth in a period of change.


By the way, Tanakadate Aikitsu's father is a family of military art masters, and Aikitsu learns from the clan school, Sakujinkan. The alumni at the Sakujinkan was Takashi Hara, and his junior was Inazo Nitobe. I didn't know about it, but it's suary a good school.


He went to Tokyo and go to Keio University, but the tuition fee is high, so he went to Tokyo Kaisei High School. Is it the image of the Faculty of Liberal Arts at the University of Tokyo now? There, Aitachibana learns physics from Kenjiro Yamakawa.



Yonger days of Tanakadate


In his younger days,Aikitsu have been interested in politics, but Yamakawa advised him to make up for the delay in Japanese science, and Aitachiya decided to pursue physics. He introduced Edison's invented phonograph to Japan in 1879 with Mendenhall, a foreign teacher at the University of Tokyo, but Tanakadate Aikitsu made a prototype immediately. He is analyzing the sound and vibration.


He started working in Japan to divide sound into sound quality and volume, and to filter it. In 1880, he participated in gravity observation at Menden Hall and carried out observation work in Tokyo and Mt. Fuji. Aitachi made an electromagnetic directional meter, which was said to be the world's number one high-precision directional meter at that time.


 

Tanakadate Aikitsu returns home after being informed that his father, Inazo, who had returned to Fukuoka in December 1884, committed suicide by seppuku. And that year he became an assistant professor at the University of Tokyo. Details will be investigated later. Because it is a movement that is worrisome at this time.



Tanakadate and Baron Kelvin


After that, Tanakadate Aikitsu studied under Sir Kelvin in England and was greatly admired Kelvin throughout his life. After that, he transferred to the University of Berlin, where Helmholtz was, in 1890 and studied electrical engineering. His understanding of electricity in this era will be discussed later in the context of Maxwell et al.


Unlike mechanics, electromagnetism has a history of  accumulating diverse knowledge of various people one after another made electromagnetism. It has not made as the first law or the second law of mechanics.


Aitkitsu became a professor at the University of Tokyo Science University and later received a doctorate in science. He will also present geomagnetic pulsations and geomagnetic storms at the 14th General Assembly of the International Association of Geodesy Sciences in Copenhagen, Denmark.


 

Job of Tanakadate


Also, due to his time, Tanakadate Aikitsu contributes to the Army and Navy. He plays a central role in his guidance in geomagnetic surveying. During the battle in Lushun, he made a mooring balloon for hostility inspection. That was the catalyst for Aikitsu and his aviation research.


Tanakadate Aikitsu started balloon research in the balloon team within Nakano's Army Telegraph Corps, and is instructing production and operation methods. After a lot of trial and error, the balloon was completed and used in battle in Lushunkou.


 

When Tanakadate Aikitsu turned age 60, he announced that he would resign at the party of his 25th anniversary as a professor. He will be involved in the retirement age system at the University of Tokyo later. In addition, Tanakadate Aikitsu has nurtured a large number of human resources.


His students include Hantaro Nagaoka, Seiji Nakamura, Kotaro Honda, Hisashi Kimura, Takuro Tamaru, and Torahiko Terada. Therefore, They called Aitkitsu"Seeding old man" and "Hanasakika old man". He completed his life of 95 years and 7 months.


(NOTE)Transition Words,
"In the same time,on the other handsin addition for exanple" is Important.

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