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2022年03月17日

益川敏英
【1940年2月7日生まれ‐3/17改訂】

こんにちはコウジです。「益川敏英」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、小見出しの設定、装丁の改善です。特に提携終了となった「テキストポン」などの商標は順次置き換えていきます。私の文章で遷移語が不足しているようです。遷移語は、「同様に」、「しかし」、「に加えて」、「たとえば」などの単語です。以後加筆します。別途、個別の人物の追加もトピックスのご紹介もしていく予定です。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と2/20時点で‗
@SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3395‗Aev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒2736
‗BBLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒2593‗CKazenoKouji‗3422⇒3477
なので合計‗6102+5965=【12057@2/9】⇒6131+6170=【12301@2/20】


作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】


【1940年2月7日生まれ~2021年7月23日】



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益川敏英の生い立ち


益川敏英は1940年に名古屋に生まれました。


先の大戦の終戦にほど近いので苦労しています。


5歳の時に名古屋大空襲で自宅が焼夷弾を受け、


非常に恐ろしい経験をしています。その為、


(憲法)「9条科学者の会」に名を連ね、


平和運動に情熱を捧げていたそうです。


そんな益川さんは高校時代に科学雑誌で


坂田 昌一が「坂田モデル」を作り上げた事を知り、


大いに興味を抱き名古屋大学理学部に進みます。


当然、坂田研に所属して研究を進め、そこで


後の盟友となる小林誠と出会います。そして


坂田研で博士論文をまとめ上げた後に、


そのコンビは共に京都大学で研究を進めるのです。



益川敏英の感心事


特に、当時の大きな感心事だったC-P対称性


に関する理論的枠組みの構築をテーマとして選び、


自宅で風呂に入っている時に坂田さんは


クォークを6種類考えた時に理論が完結する


というアイディアをえました。


因みに、この時に観測されていたクォーク


3種類だったので理論が先行していた訳です。


そんな益川氏はノーベル賞受賞の際には


スピーチを英語で行う慣例を守らずに、


日本語でスピーチを行いました。そんな


益川さんが理路整然とした議論の枠組みを作り、


物静かな小林さんと深い議論をしていった結果


として小林-増川理論は出来上がり、素粒子の理解


が進んだのです。本稿の画像としては名大の風景


を使っています。二人はノーベル賞を京大時代に


とりましたが、その師は名大の人で出会いも名大


でした。いつも気持ちは名大にあった思います。


その一人益川さんが天に召されました。


享年81歳。


謹んでご冥福をお祈りいたします。


 


英語が話せるようになる「アクエス」
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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
全て返信は出来ていませんが
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2021/07/31_初稿投稿
2022/03/17 _改定投稿


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(2021年11月時点での対応英訳)



History of Toshihide Maskawa


Toshihide Maskawa was born in Nagoya in 1940. He is struggling because he is close to the end of the last war. He had a very scary experience when his home was incendiaryd by the bombing of Nagoya at the age of five. Therefore, he was listed in the (Constitution) "Article 9 Society of Scientists" and was passionate about the peace movement.


Mr. Maskawa learned that Shoichi Sakata created the "Sakata model" in a scientific magazine when he was in high school, and was very interested in it and proceeded to the Faculty of Science at Nagoya University. Naturally, he belongs to Sakata Lab and pursues research, where he meets his later ally, Makoto Kobayashi. After compiling his doctoral dissertation at Sakata Lab, the combination will proceed with research at Kyoto University.



Toshihide Maskawa's Impressions


In particular, he chose the theme of building a theoretical framework for CP symmetry, which was a big impression at the time, and when he was taking a bath at home, Mr. Sakata got the idea that the theory would be completed when he thought about six types of quarks. ..


By the way, there were three types of quarks observed at this time, so the theory preceded them. When Mr. Maskawa won the Nobel Prize, he gave a speech in Japanese instead of following the convention of giving a speech in English. Mr. Maskawa created a framework for coherent discussions,


As a result of deep discussions with Mr. Kobayashi, who is quiet, the Kobayashi-Masukawa theory was completed, and the understanding of elementary particles was advanced. The image of this article uses the scenery of Nagoya University. The two won the Nobel Prize during the Kyoto University era, but the teacher was a Nagoya University person and met at Nagoya University. I think my feelings were always at Nagoya University.


One of them, Mr. Maskawa, was called to heaven.


He is 81 years old.


He sincerely prays for his soul.


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