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2018年01月22日

年賀の 真意 つづき

DCF00024.JPG
追伸2018/01/22  16時43分
長野県駒ケ根市の積雪です。まだ、積雪というほどでありません。都内の方が大変デス


2018年01月22日 16時17分 読売新聞オンライン下記

 気象庁は22日、東京23区と多摩全域に大雪警報を発令した。

 午後4時現在、都心の積雪は6センチ。

 東京23区の大雪警報は2014年2月14日以来約4年ぶり。



追伸2018/01/22  14時28分
ここから西に見える、中央アルプス雲の中。東に見える南アルプス雲の中。
ということは、そうなのです。いよいよ雪が降ってきました。風はありません。

BSは アンタッチャブル 場面は あの 名場面 

駅の階段で乳母車が落ちていく・・・・・撃ち合いです 

赤ちゃんも 助かり  証人も なんとか 助かります

降り始めなので、まだこんなものです。

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出張から戻ったその日は、20日で毎月一回の、定例会でした。帰ってきて、寝ようとすると弟が訪ねてきたので、そのまま付き合って、ということは酒を飲むので詰まる所痛飲しました。次の日は前日の痛飲が治まるまでポッヤとしていて、ブログの更新が精いっぱいで、また寝る・・・・・。

今日は22日で、朝5時の起床。朝食・ブログの更新で、終わったのが8時少し過ぎでした。こういう日は捗るのです。外は、今にも雪が降りそうな、曇り空です。天気予報は関東甲信越「午後から大雪」です。私は、続きを書くことにします。


安岡先生と親交のあった方で、先生の著書にも時々登場する方で、五井昌久氏がおります。安岡先生同様既にこの世のお方ではありませんが、この五井先生も著書を沢山残されております。

この、五井先生の著書に安岡先生が推薦文を載せております。安岡先生が人を誉めるというのは、滅多にあることではありません。私は、安岡先生が亡くなってから、その教学に参じて駒ケ根師友会をつくって10年余り勉強会を主催しておりました。その間に、市販されている著書は無論、市販されていない講演録などを読む機会がありました。

安岡先生の講演を聞くのも難しいのですが、書いたものは、字が難しくて、とても辞書なしでは読めた物ではない。さて辞書・・・といっても、諸橋先生の大漢和辞典でないと出ていないような字が並んでいたりする。大漢和など私が買える代物ではない。余りの難しさに、同級生で人格者の「寺の和尚さん」に『この字お願いします』と伝えて、後で教えてもらう始末。そのうちに、今度は文節そっくり、まったく『意味不明』になってしまう。

近くのお店には、高校時代の恩師が来ることを知っていた私は、分からないところをコピーして先生に「この意味教えて頂きたいのですが」と渡した。その先生は国語と漢文の先生です。寺の住職でもありました。さすがに先生。一瞥して、これは、こうだと教えて頂いた。そして、それが何度か続くと、今度は先生が私に聞く。

「何を読んでる・・・・段々儒教っぽくなってきた。儒教はな、どちらかというと『治める側に都合が好い』私は、もっと老荘的なところがある方が好みなのだが」この私の恩師は、人間を型にハメるのが嫌いなようなのです。私が強烈に覚えている一言があります。それは、この後に駒ケ根師友会の勉強会の講師をお願いして「禅と陽明学」の講義が終わり、懇親の席でのことでした。

私の墓は、小さな石塔一つでいい。三界を迷わず行ければそれで十分。それが目印になればいい。というものです。
簡潔といえそれまでですが、先生らしくて気持ちの好いお言葉でした。そして、この言葉の真意が今頃になってようやく分かりかけた・・・・・のかな。なのです。

この三界は、仏教的には欲界・色界・無色界。霊的には肉界(肉体)・幽界(幽体)・霊界(神体)となります。五井昌久先生は、霊覚の備わった稀有のお方でして、安岡先生の霊的なところも見ておられて、その様子は数ある冊子の中に見ることができます。たまに、市販本の中にも見ることがあります。とにかく、日本を代表するお二人に、親交はありました。

昭和28年に初版となった五井昌久先生著 「神と人間」には、全国師友会協会 会長 安岡正篤先生の 五井先生の印象「風韻あるお人」 がある。滅多に誉めることのない安岡先生の言葉です。そのまま紹介する。

「人間の精神には、知・情・意がある。その中心は情緒であるとおもう。それらが渾然一体統一されていれば、その人格は円満であるが分裂している人が多い。感傷に偏して理性が乏しかったり、理屈ばかりでひねくれたり、がさがさしている。意思とて軌道から外れやすい。

しかし、情緒というものは人格の反映で、心の全体的発動、流路である。
五井先生は情緒の人である。情緒とは別の言葉で言えば潤い、豊かさということである。

知を頭の論理とすれば、情は心腹の論理である。万物と共に生きよう、物と一体となってその生を育もうとする徳を仁という。仁愛は人々への慈悲となる。この慈悲仁愛の情は人格の最も尊い要素である。

人は智の人でなくてもよい。才の人でなくてもよい。しかし、どこまでも情の人でなくてはならない。
五井先生は本来情の人である。そこが人をひきつけるのだとおもう。

五井先生にはリズムがある。音楽的である。たとえば完全な機会というものは、動いているときも静かである。そしてリズムがある。人間そのものが音楽的になってくるのを、風韻などと称する。五井先生には風韻がある。

五井先生は自然である。宗教家にありがちな臭みがない。尊大ぶったところがない。巧んだり、構えたりするところがない。実に自然である。だからお話をしていてもとても気持ちがいい。

五井先生は清らかで明るい人である。人間には清らかさと、明るさがなくてはならぬ。どんなに賢そうであっても、どこかに陰のある人は本物でない。明るくなくてはいけない。五井先生は、陰のない明るい人である。本物です。

五井先生を一目見て、気持ちの良い方だなと分からない人は本物ではない、と私は考える。それ以外に、才能や力があろうがなかろうが、私にとっては問題外のことである。」

「わたしはネ、五井先生を一目見て、いい人だなあと思ったんですよ。女性だったら恋愛というところかな。あの御仁を一目見て、立派な人だなあと思わない人は、自分自身にまだ素直でないものがあるんじゃないか、と私は思っていますよ」 以上 五井昌久著 神と人間 白光出版 

五井先生は、成長の家を経て白光真宏会を起こされた方です。霊覚の世界をなるべく分かり易く、説かれた方です。仏教で説くこともできます。聖書で説くこともできます。神道でも説きます。行き着くところは同じですから、ただ辿る道によって、形容する表現が違うだけ。表現の違いを教えの違いと解釈してしまうと、それは迷路になってしまいます。行き着く先は同じです。

安岡先生は、人間学の大家として知られた方です。御存命の頃の政治家は、殆どの方が何かの御縁を結ばれております。田中角栄先生だけは、カリスマの最たるお方のようでしたので、表面的には交遊はないとされていました。ですが、私は・・・・これは推測です。邪推と言われてもしかたありませんが、政治の局面によっては、何か「アッタ」と推測しております。安岡先生は、国士です。日本を憂うことでは最たるお方です。国士安岡氏から首相田中氏への配慮はあったものと推測できますし、それを世間に公開しないのは、お互いの思いやりだったのでしょう。

なんだか、だんだん調子がでてきてしまって、あっちこっちしていますが、大丈夫ちゃんとマトメますから。つづきます。また来てね。



【1935年創業】老舗チョコレートとスイーツブランド
【株式会社サロンドロワイヤル】


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タグ:年賀
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