白石城(しろいしじょう)は、陸奥国刈田郡白石にあった日本の城である(平山城)。別名益岡城(枡岡とも)。この場所は現在の宮城県白石市に当たり、城は白石市指定史跡となっている。中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だったと伝わる。戦国時代末期に城主が何度か変遷し、江戸時代には仙台藩家臣の片倉氏の城となった。九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。現在ある三階櫓や門は1995年(平成7年)に復元されたものである。続日本100名城(105番)に選ばれている。
構造
白石城は平山城である。江戸時代の間、白石城は絵図に描かれており、時代の異なる絵図の比較から、白石城の城域は拡張傾向にあったとみられている。白石城は最終的に、丘陵の頂きに本丸、二の丸、中の丸、西曲輪、中段に沼の丸、南の丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪、平地部分に三の丸、外曲輪という六丸五曲輪構成になった。
本丸には大櫓(三階櫓)があった。正保年間の絵図では二階櫓が描かれ、寛文年間の絵図では三階櫓が描かれていることから、二階櫓から三階櫓に改造されたのではないかとも言われるが、絵図の研究を基に『片倉小十郎の城 白石城跡発掘調査報告書』は最初から三階櫓だった可能性が高いとする。三階櫓は天守の代用で、藩の支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけられたとされる。
現存する白石城の遺構としては、厩口門が市内の延命寺山門に、東口門が市内の当信寺山門に、上屋敷の門かもしれないものが名取市の耕龍寺山門に、奥方御門かもしれないものと煙硝蔵が市内の個人宅に、それぞれ移築されている。土塁は当時のものがそのまま残っている。
歴史
中世・近世
白石城が、いつ、誰の手によって造られたのか、はっきりしたことはわかっていない。中世に刈田氏がここを居城としていたとも伝わるが、推測が困難なほど、この時代の白石城についての史料は乏しい。刈田氏は後に白石氏を名乗り、やがて伊達氏の勢力下に組み込まれていった。
豊臣秀吉によって奥州仕置が行われると、1591年(天正19年)より刈田郡は会津に封じられた蒲生氏郷の領地となり、白石城には氏郷の家臣蒲生郷成が入った。郷成により、白石城は近世的な城へと改造されて益岡城と呼ばれ、城下町も造られたと伝わるが、やはり史料が存在せず、全貌は明らかでない。郷成は1595年(文禄4年)に白石から須賀川に移るが、この時に白石城は破却されたという伝承もある。1598年(慶長3年)、蒲生氏は宇都宮に移封された。これに代わって上杉景勝が会津へ入り、その家臣である甘糟景継が白石城主となった。この時の白石城について、良好な史料ではないともされるが、古城に縄張りして築城されたとする史料がある。
別名 益岡城、枡岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 大櫓(三階櫓)複合式層塔型3重3階(1819年再、非現存。1995年木造復元)
築城主 白石氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 藤原経清
主な城主 白石氏、蒲生氏、甘糟景継、登坂勝乃(上杉氏)、片倉氏
廃城年 1874年
遺構 石垣、移築門、移築蔵
指定文化財 白石市指定史跡
再建造物 三階櫓、門、塀
2023年03月30日
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