黒石寺(こくせきじ)は、岩手県奥州市水沢黒石町山内(もと江刺郡黒石村)にある天台宗の寺院。「くろいしでら」と読まれることも多い。山号は妙見山(みょうけんざん)。本尊は薬師如来坐像。
重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像や、選択無形民俗文化財の黒石寺蘇民祭で知られる。
歴史
天平元年(729年)、東北地方初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782年 - 806年)に、蝦夷征伐による兵火により焼失。その後大同2年(807年)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849年)円仁(慈覚大師)が中興して現在の寺号となったとされる。
もとは修験(山伏)の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。
現在の本堂と庫裏は明治17年(1884年)に再建。
文化財
重要文化財(国指定)
木造薬師如来坐像
桂材の一木造り。像高126 cm。像底と背部から内刳を施し、像内膝裏には貞観4年(862年)の年紀を含む墨書銘が記されている。これは、木彫の仏像の造像銘で年号を明記したものとしては、日本最古のものである。貞観4年は、胆沢城が築かれた延暦21年(802年)から60年目であることが指摘されている。像は目尻の吊り上った険しい表情を示す。右肩部に表された渦文(渦巻状の衣文)、分厚く造形された両脚部、膝頭から足首に向かって絞り込むような衣文表現、頭髪部に肉髻(椀状の盛り上がり)を明確に表さない点などは平安初期彫刻の特色である。面部、両肩などの造形に乾漆を併用しているのもこの時代の特色である。がっしりした正面観に対し側面の造形が扁平であること、左肩から腹前にかけての衣文の荒々しい刻み方などに地方的特色がうかがわれる。本像は在銘遺品がきわめて少ない平安初期彫刻の中にあって、制作年代が明確な基準作として重要である。
木造僧形坐像(伝・慈覚大師像)
本来の像名が不明のため、重要文化財指定名称は「僧形」坐像となっている。寺伝に慈覚大師像というが、地蔵菩薩像または僧形八幡神坐像として造られた可能性もある。カツラ材の一木造であるが、両膝部は別材を矧ぎ付けており、両膝部材の矧面に「永承二年二月九日仏師僧積□」の銘がある(永承2年は1047年)。「積□」については、「積能」と読むのが定説となっている。
木造四天王立像
本堂須弥壇の四隅に安置される四天王像。前方の2像(持国天・増長天)と後方の2像(広目天・多聞天)とは作風に違いがあり、持国天・増長天は9世紀の作、広目天・多聞天はやや遅れての制作とみられる。
岩手県指定有形文化財
木造日光・月光菩薩像 - 奥州藤原氏二代基衡が寄進したと伝わり、平安末期造像と伝わる。
木造十二神将立像
交通
バス 岩手県交通
東北本線水沢駅より「正法寺線」に乗車し、「黒石寺前」バス停下車。
車
東北本線水沢駅より20分
東北新幹線水沢江刺駅より15分
東北自動車道水沢インターチェンジより25分
東北自動車道平泉前沢インターチェンジより20分
所在地 岩手県奥州市水沢黒石町字山内17
位置 北緯39度5分3.4秒 東経141度12分23.7秒
山号 妙見山
宗旨 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 (伝)729年(天平1年)
開山 (伝)行基
正式名 妙見山K石寺
札所等 奥州三十三観音霊場第25番
文化財 木造薬師如来坐像、木造僧形坐像、木造四天王立像(重要文化財)
2023年05月05日
2023年05月04日
月山寺(がっさんじ)は、茨城県桜川市西小塙にある、天台宗の寺院
月山寺(がっさんじ)は、茨城県桜川市西小塙にある、天台宗の寺院。山号は曜光山
概要
室町時代、月山寺13世・光栄により、天台宗に改められて、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。布袋が祀られて常陸七福神の1つに列している。
歴史
寺伝によれば796年(延暦15年)、徳一によって橋本(現桜川市上城(かみしろ))に創建されたという。1127年(大治2年)、橋本城主・谷中孫八郎将国は月山寺を菩提寺とした。1430年(永享2年)、月山寺13世光栄の時に法相宗から天台宗に改宗された。
1615年(元和元年)、徳川秀忠より朱印地60石を賜り、1616年(元和2年)、恵賢の時に現在の地に移転した。1626年(寛永3年)火災で焼失するが、笠間藩主浅野長重の援助により再建された。1705年(宝永2年)には黄檗宗の了翁道覚により経蔵と鉄眼版一切経が寄進されている。
1998年(平成10年)栃木県二宮町大根田にある、長栄寺(廃寺)から観音堂を移築する。
文化財
重要文化財(国指定)
網代笈(あじろおい)
茨城県指定有形文化財
※文化財名称は『茨城県大百科事典』による。括弧内は茨城県指定時の名称。
月山寺書院
刺繍種子阿弥陀三尊図(絹本著色曼陀羅)
絹本著色両界曼荼羅図(絹本著色両部曼陀羅)
木造薬師如来坐像
木造菩薩立像・天部立像(木造菩薩像2躯)
木造薬師如来坐像
五鈷鈴(青銅製鈴)
桐唐草菊花文蒔絵角盥(木製つのたらい)
呉須皿
春日厨子(厨子)
紺紙金泥法華経8巻(法華経)
桜川市指定有形文化財
月山寺本堂
境内山王社本殿
中門
交通アクセス
東日本旅客鉄道水戸線羽黒駅から徒歩10分。
所在地 茨城県桜川市西小塙1677
位置 北緯36度21分53秒 東経140度8分46.7秒
山号 曜光山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 796年(延暦15年)
開山 徳一
正式名 曜光山見明星悟道院月山寺
札所等 関東九十一薬師霊場
東国花の寺百ヶ寺 茨城5番
文化財 網代笈(重要文化財)ほか
概要
室町時代、月山寺13世・光栄により、天台宗に改められて、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。布袋が祀られて常陸七福神の1つに列している。
歴史
寺伝によれば796年(延暦15年)、徳一によって橋本(現桜川市上城(かみしろ))に創建されたという。1127年(大治2年)、橋本城主・谷中孫八郎将国は月山寺を菩提寺とした。1430年(永享2年)、月山寺13世光栄の時に法相宗から天台宗に改宗された。
1615年(元和元年)、徳川秀忠より朱印地60石を賜り、1616年(元和2年)、恵賢の時に現在の地に移転した。1626年(寛永3年)火災で焼失するが、笠間藩主浅野長重の援助により再建された。1705年(宝永2年)には黄檗宗の了翁道覚により経蔵と鉄眼版一切経が寄進されている。
1998年(平成10年)栃木県二宮町大根田にある、長栄寺(廃寺)から観音堂を移築する。
文化財
重要文化財(国指定)
網代笈(あじろおい)
茨城県指定有形文化財
※文化財名称は『茨城県大百科事典』による。括弧内は茨城県指定時の名称。
月山寺書院
刺繍種子阿弥陀三尊図(絹本著色曼陀羅)
絹本著色両界曼荼羅図(絹本著色両部曼陀羅)
木造薬師如来坐像
木造菩薩立像・天部立像(木造菩薩像2躯)
木造薬師如来坐像
五鈷鈴(青銅製鈴)
桐唐草菊花文蒔絵角盥(木製つのたらい)
呉須皿
春日厨子(厨子)
紺紙金泥法華経8巻(法華経)
桜川市指定有形文化財
月山寺本堂
境内山王社本殿
中門
交通アクセス
東日本旅客鉄道水戸線羽黒駅から徒歩10分。
所在地 茨城県桜川市西小塙1677
位置 北緯36度21分53秒 東経140度8分46.7秒
山号 曜光山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 796年(延暦15年)
開山 徳一
正式名 曜光山見明星悟道院月山寺
札所等 関東九十一薬師霊場
東国花の寺百ヶ寺 茨城5番
文化財 網代笈(重要文化財)ほか
2023年05月03日
円通寺(えんつうじ)は、青森県むつ市にある曹洞宗の寺院
円通寺(えんつうじ)は、青森県むつ市にある曹洞宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は釈迦如来。恐山菩提寺の本坊でもある。
歴史
この寺は、1522年(大永2年)、南部氏の援助により曹洞宗の僧聚覚によって創建され、1659年(万治2年)に中興されている。明治維新におきた戊辰戦争のうち東北戦争で新政府軍に敗れた会津藩(23万石)が、1869年(明治2年)、五戸(ごのへ)に転封となり斗南藩(3万石)となったが、1871年(明治4年)に藩庁がこの寺に移されている。
戊辰戦争三十三回忌の明治33年(1900年)に招魂碑が建立された。
所在地 青森県むつ市新町4-11
北緯41度17分33.6秒 東経141度12分51.3秒
山号 吉祥山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
歴史
この寺は、1522年(大永2年)、南部氏の援助により曹洞宗の僧聚覚によって創建され、1659年(万治2年)に中興されている。明治維新におきた戊辰戦争のうち東北戦争で新政府軍に敗れた会津藩(23万石)が、1869年(明治2年)、五戸(ごのへ)に転封となり斗南藩(3万石)となったが、1871年(明治4年)に藩庁がこの寺に移されている。
戊辰戦争三十三回忌の明治33年(1900年)に招魂碑が建立された。
所在地 青森県むつ市新町4-11
北緯41度17分33.6秒 東経141度12分51.3秒
山号 吉祥山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
2023年05月02日
歓喜寺(かんきじ)は、秋田県秋田市にある曹洞宗の寺院
歓喜寺(かんきじ)は、秋田県秋田市にある曹洞宗の寺院である。
概要
もとは密教寺院として飯島村(現・秋田市飯島地区)に創建されたという。日吉神社を守護神とするが、山王社とも呼ばれたこの神社は、1322年(元亨2年)、南秋田郡笹岡村(現・秋田市外旭川)に創建され、1395年(応永2年)には上新城五十丁に遷り、日吉山延命寺や十禅寺と呼ばれ、別当を沙弥安奈(安東氏)とした。その後、密教寺の建つ飯島に遷ったといわれ、飯島鼡田の旧跡から懸仏二体が出土していることから、密教寺はその別当寺院だった可能性もある。その後、1541年(天文10年)、安東氏の重臣・八柳氏(八柳館主、深翁歓喜大禅定門、俗名平治郎)が開基となり、補陀寺八世察心寿鑑を開山に勧請して、外旭川の八柳に正規に創建され、曹洞寺院に改宗されたのだろう。
のち守護神の日吉神社も寺内に移転し、さらに江戸時代になって1622年(元和8年)、佐竹氏の城下の寺町づくりで以前の所在地であった秋田市寺町(現在の旭北寺町)に移転した。開山以来、法嗣が晋住する師資相承をなし、大本山総持寺の輪番地をなしてきた。そして、三世生庵祖長は天王の自性院、五世報庵良恩は河辺の千手院、六世空山祖広は船越の龍門寺、十三世月潭碧水は牛島の宝袋院をそれぞれ開山した。本堂は1886年(明治19年)の俵屋火事で消失し、翌1887年の再建であった。
寺宝に聖観世音菩薩像(像高30センチメートル)は定朝作の興福寺千体仏の一つと言われ、県指定の文化財である。ほかにも西方広目天像、三面大黒天像、不動明王像などがあり、境内には珍しい生け花塚がある。
以前の所在地は、両隣に光明寺と妙覚寺の曹洞宗寺院が存在し、これに旭北栄町(通り沿いの旧町内名は寺町一区とされている)の麟勝院を加えた4寺院によって、曹洞宗寺町4寺院を構成しており、寺族会や4寺院共同の事業を行うなどの相互交流が行われていたが、移転した現在でもこの関係は維持されている。
現在の本堂は、2008年の建之。
所在地 秋田県秋田市下北手梨平字袖ケ沢1-1
位置 北緯39度42分13.4秒 東経140度9分49.1秒
宗派 曹洞宗
創建年 天文10年(1541年)
開基 深翁歓喜、察心寿鑑(開山)
札所等 元・久保田三十三番札所16番
文化財 聖観世音菩薩像(県文化財)
概要
もとは密教寺院として飯島村(現・秋田市飯島地区)に創建されたという。日吉神社を守護神とするが、山王社とも呼ばれたこの神社は、1322年(元亨2年)、南秋田郡笹岡村(現・秋田市外旭川)に創建され、1395年(応永2年)には上新城五十丁に遷り、日吉山延命寺や十禅寺と呼ばれ、別当を沙弥安奈(安東氏)とした。その後、密教寺の建つ飯島に遷ったといわれ、飯島鼡田の旧跡から懸仏二体が出土していることから、密教寺はその別当寺院だった可能性もある。その後、1541年(天文10年)、安東氏の重臣・八柳氏(八柳館主、深翁歓喜大禅定門、俗名平治郎)が開基となり、補陀寺八世察心寿鑑を開山に勧請して、外旭川の八柳に正規に創建され、曹洞寺院に改宗されたのだろう。
のち守護神の日吉神社も寺内に移転し、さらに江戸時代になって1622年(元和8年)、佐竹氏の城下の寺町づくりで以前の所在地であった秋田市寺町(現在の旭北寺町)に移転した。開山以来、法嗣が晋住する師資相承をなし、大本山総持寺の輪番地をなしてきた。そして、三世生庵祖長は天王の自性院、五世報庵良恩は河辺の千手院、六世空山祖広は船越の龍門寺、十三世月潭碧水は牛島の宝袋院をそれぞれ開山した。本堂は1886年(明治19年)の俵屋火事で消失し、翌1887年の再建であった。
寺宝に聖観世音菩薩像(像高30センチメートル)は定朝作の興福寺千体仏の一つと言われ、県指定の文化財である。ほかにも西方広目天像、三面大黒天像、不動明王像などがあり、境内には珍しい生け花塚がある。
以前の所在地は、両隣に光明寺と妙覚寺の曹洞宗寺院が存在し、これに旭北栄町(通り沿いの旧町内名は寺町一区とされている)の麟勝院を加えた4寺院によって、曹洞宗寺町4寺院を構成しており、寺族会や4寺院共同の事業を行うなどの相互交流が行われていたが、移転した現在でもこの関係は維持されている。
現在の本堂は、2008年の建之。
所在地 秋田県秋田市下北手梨平字袖ケ沢1-1
位置 北緯39度42分13.4秒 東経140度9分49.1秒
宗派 曹洞宗
創建年 天文10年(1541年)
開基 深翁歓喜、察心寿鑑(開山)
札所等 元・久保田三十三番札所16番
文化財 聖観世音菩薩像(県文化財)
2023年05月01日
阿岸本誓寺(あぎしほんしょうじ)は石川県輪島市門前町にある浄土真宗大谷派の寺院
阿岸本誓寺(あぎしほんしょうじ)は石川県輪島市門前町にある浄土真宗大谷派の寺院である。
阿岸本誓寺(石川県輪島市)。山門。
沿革
創建年は不明だが、古くは真言宗松岡寺であった。文永5年(1268年)、善了法師が如信上人(親鸞の孫、本願寺第2世)に帰依したことで正式に真宗に改宗し「阿岸本誓寺」に改称した。
永享8年(1436年)に本願寺7世存如上人が、聖人影像に裏書を覚える。
慶長15年(1610年)に加賀藩前田家の庇護のもと鳳至郡106ヶ寺を統轄する「触頭」となった。能登真宗教団最有力寺院として位置付ける。
天保10年(1839年)に関白左大臣二条治孝公息女五百姫(いほひめ)、本誓寺24世に入嫁する。
嘉永3年(1850年)に二条家の位牌所となる。
本堂
エピソード
室町時代には能登地方での一向一揆の拠点となった。
15世紀中ごろは大陸文化の玄関口であった能登の要所になり、織田信長が出陣した石山合戦では、能登門徒と本願寺の中継基地の機能を果たすようになり、能登における真宗の拠点として行った。
現在の本堂・山門・鐘楼・鼓楼は越後から招いた棟梁と約1万人の大工により13年に及ぶ大がかりで、完成したのは寛政4年(1792年)だった。
同本堂は岩手県の正法寺本堂・山形県の出羽三山神社三神合祭殿と並んで「日本3大茅葺き屋根」の一つである。
文化財
県指定有形文化財
本堂 - 安永9年(1780年)着工、寛政4年(1792年)に落慶。屋根は茅葺き。平成4年(1992年)に指定[6]。
阿岸本誓寺文書(471点) - 昭和57年(1982年)1月12日に指定。
県指定天然記念物
阿岸小菊桜 - 昭和43年(1968年)に指定された。
所在地 石川県輪島市門前町南カ26
位置 北緯37度15分14.3秒 東経136度43分52.7秒
山号 新巻山
宗旨 浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
開山 1268年以前
正式名 真宗大谷派新巻山本誓寺
文化財 本堂、阿岸本誓寺文書 石川県指定文化財
阿岸小菊桜 石川県指定天然記念物
阿岸本誓寺(石川県輪島市)。山門。
沿革
創建年は不明だが、古くは真言宗松岡寺であった。文永5年(1268年)、善了法師が如信上人(親鸞の孫、本願寺第2世)に帰依したことで正式に真宗に改宗し「阿岸本誓寺」に改称した。
永享8年(1436年)に本願寺7世存如上人が、聖人影像に裏書を覚える。
慶長15年(1610年)に加賀藩前田家の庇護のもと鳳至郡106ヶ寺を統轄する「触頭」となった。能登真宗教団最有力寺院として位置付ける。
天保10年(1839年)に関白左大臣二条治孝公息女五百姫(いほひめ)、本誓寺24世に入嫁する。
嘉永3年(1850年)に二条家の位牌所となる。
本堂
エピソード
室町時代には能登地方での一向一揆の拠点となった。
15世紀中ごろは大陸文化の玄関口であった能登の要所になり、織田信長が出陣した石山合戦では、能登門徒と本願寺の中継基地の機能を果たすようになり、能登における真宗の拠点として行った。
現在の本堂・山門・鐘楼・鼓楼は越後から招いた棟梁と約1万人の大工により13年に及ぶ大がかりで、完成したのは寛政4年(1792年)だった。
同本堂は岩手県の正法寺本堂・山形県の出羽三山神社三神合祭殿と並んで「日本3大茅葺き屋根」の一つである。
文化財
県指定有形文化財
本堂 - 安永9年(1780年)着工、寛政4年(1792年)に落慶。屋根は茅葺き。平成4年(1992年)に指定[6]。
阿岸本誓寺文書(471点) - 昭和57年(1982年)1月12日に指定。
県指定天然記念物
阿岸小菊桜 - 昭和43年(1968年)に指定された。
所在地 石川県輪島市門前町南カ26
位置 北緯37度15分14.3秒 東経136度43分52.7秒
山号 新巻山
宗旨 浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
開山 1268年以前
正式名 真宗大谷派新巻山本誓寺
文化財 本堂、阿岸本誓寺文書 石川県指定文化財
阿岸小菊桜 石川県指定天然記念物
2023年04月30日
縄文のビーナス(じょうもんのビーナス)は、縄文時代中期に製作されたと見られる土偶
縄文のビーナス(じょうもんのビーナス)は、縄文時代中期に製作されたと見られる土偶。
縄文のビーナス
概要
妊婦を象っており、高さは27センチメートル、重さ2.14キログラムである。粘土に細かい雲母片が練りこまれているために、肌がうっすらと輝いているように見える。雲母片が練りこまれた土偶も例が少なく、ほかの土偶が体の一部を破壊されているものが大半であるのに対し、この縄文のビーナスはほぼ完全な形で見つかったことも珍しい。「土偶」の名称で国宝に指定されている。茅野市尖石縄文考古館所蔵。国宝になった中ッ原遺跡の仮面の女神も同館に所蔵されている。
1986年(昭和61年)9月8日に八ヶ岳山麓の長野県茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から発掘された。当初は出土した遺跡の名前にちなんで『棚畑姫』と呼ばれたこともあった。
環状集落の中央広場の土坑に横たわる形で埋められており、ほぼ完全な状態で出土した。1989年(平成元年)6月12日の重要文化財指定を経て、1995年(平成7年)6月15日に縄文時代の遺跡から見つかったもののなかではじめて国宝に指定された。
縄文のビーナス
概要
妊婦を象っており、高さは27センチメートル、重さ2.14キログラムである。粘土に細かい雲母片が練りこまれているために、肌がうっすらと輝いているように見える。雲母片が練りこまれた土偶も例が少なく、ほかの土偶が体の一部を破壊されているものが大半であるのに対し、この縄文のビーナスはほぼ完全な形で見つかったことも珍しい。「土偶」の名称で国宝に指定されている。茅野市尖石縄文考古館所蔵。国宝になった中ッ原遺跡の仮面の女神も同館に所蔵されている。
1986年(昭和61年)9月8日に八ヶ岳山麓の長野県茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から発掘された。当初は出土した遺跡の名前にちなんで『棚畑姫』と呼ばれたこともあった。
環状集落の中央広場の土坑に横たわる形で埋められており、ほぼ完全な状態で出土した。1989年(平成元年)6月12日の重要文化財指定を経て、1995年(平成7年)6月15日に縄文時代の遺跡から見つかったもののなかではじめて国宝に指定された。
2023年04月29日
雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社
雄山神社(おやまじんじゃ)は、富山県中新川郡立山町にある神社。旧称は立山権現・雄山権現。式内社、越中国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
峰本社 神殿・鳥居 遠景
概要
霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
上市町新屋にも立山末社の小さな雄山神社がある。
岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社はどの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月〜9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
峰本社 鳥居
祭神
現在の祭神は以下の2柱。
伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)
天手力雄神 (あめのたぢからおのかみ)
歴史
創建の年代は不詳である。社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、大宝3年(703年)に釈教興が勧請したとも伝える。
『万葉集』の巻17には、越中国国司であった大伴家持によって天平18年(746年)4月27日詠まれた「立山の賦」が収録されている。
正史の記事によれば以下の2度、神階の昇叙を受けている。
『日本三代実録』 貞観5年(863年)9月25日の条 : 清和天皇により正五位下から正五位上に昇叙。
『日本紀略』 寛平元年(889年)8月22日の条 : 宇多天皇により正五位上から従四位下に昇叙。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により小社に列格された。『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では、南北朝時代の安居院『神道集』や『日本鹿子』において越中国一宮とされていると紹介している。
明治6年(1873年)に県社、昭和15年(1940年)に国幣小社に列せられた。戦後は、神社本庁が包括する別表神社となっている。
立山は古来より、富士山、白山と並ぶ三霊山として全国各地から信仰されてきた。今では観光やスポーツ感覚の「立山登山」と言われるが、本来は立山に参拝するのが目的の「立山登拝」である。
建久年間(1190年-1199年) : 源頼朝が前立社壇本殿を再建。
明応元年(1492年) : 足利義稙が前立社壇本殿改修を行なう。
天正11年(1583年) : 佐々成政が再び前立社壇本殿改修を行なう。
峰本社 神殿
所在地 富山県中新川郡立山町立山峰1番地(雄山頂上)
位置 北緯36度34分23.44秒 東経137度37分4.51秒
例祭 7月25日
雄山神社 中宮祈願殿 祈願殿
所在地 富山県中新川郡立山町芦峅寺2番地
位置 北緯36度34分59.19秒 東経137度23分33.07秒
例祭 7月25日
主な神事 立山の舞(巫女舞)
前立社壇
所在地 富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地
位置 北緯36度36分27.48秒 東経137度18分53.40秒
本殿の様式 流造
例祭 4月8日
主な神事 岩峅稚児舞
交通アクセス
峰本社
立山黒部アルペンルート 室堂駅 より約2時間の登山
中宮祈願殿
富山地方鉄道 立山線 千垣駅 より立山町営バス(芦峅寺行き)に乗り、「雄山神社前」下車
前立社壇
富山地方鉄道 立山線および上滝線 岩峅寺駅 より徒歩約7分
峰本社 神殿・鳥居 遠景
概要
霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。神仏習合の時代には仏教色の強い神社であり、立山修験の源であった。また、元明天皇や後醍醐天皇の勅願所でもあった。
峰本社(みねほんしゃ)、中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)、前立社壇(まえだてしゃだん)の三社をもって雄山神社とする。所在は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)から岩峅寺(いわくらじ)にかけた一帯、広くは地獄谷や弥陀ケ原を含む立山連峰全域である。
上市町新屋にも立山末社の小さな雄山神社がある。
岩峅寺及び芦峅寺の「峅」と言う文字には「神様の降り立つ場所」の意味がある。
峰本社、祈願殿、前立社壇の三社はどの社殿に参拝してもご利益は同じとされている。これは山頂の峰本社には旧暦の7月〜9月までしか参拝できない点及び、祈願殿は主峰雄山を正面に頂き開祖が晩年を過ごした点、前立社壇から立山開山の話が始まるなど、三社が各々独自に立山信仰に深く位置付けられている点、加えて古くは岩峅寺の前立社壇より山頂の峰本社まで宮司が歩いて通ったと伝えられることや今でも前立社壇の宮司が峰本社の宮司である事にも由来される。
峰本社 鳥居
祭神
現在の祭神は以下の2柱。
伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)
天手力雄神 (あめのたぢからおのかみ)
歴史
創建の年代は不詳である。社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。また、大宝3年(703年)に釈教興が勧請したとも伝える。
『万葉集』の巻17には、越中国国司であった大伴家持によって天平18年(746年)4月27日詠まれた「立山の賦」が収録されている。
正史の記事によれば以下の2度、神階の昇叙を受けている。
『日本三代実録』 貞観5年(863年)9月25日の条 : 清和天皇により正五位下から正五位上に昇叙。
『日本紀略』 寛平元年(889年)8月22日の条 : 宇多天皇により正五位上から従四位下に昇叙。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により小社に列格された。『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』では、南北朝時代の安居院『神道集』や『日本鹿子』において越中国一宮とされていると紹介している。
明治6年(1873年)に県社、昭和15年(1940年)に国幣小社に列せられた。戦後は、神社本庁が包括する別表神社となっている。
立山は古来より、富士山、白山と並ぶ三霊山として全国各地から信仰されてきた。今では観光やスポーツ感覚の「立山登山」と言われるが、本来は立山に参拝するのが目的の「立山登拝」である。
建久年間(1190年-1199年) : 源頼朝が前立社壇本殿を再建。
明応元年(1492年) : 足利義稙が前立社壇本殿改修を行なう。
天正11年(1583年) : 佐々成政が再び前立社壇本殿改修を行なう。
峰本社 神殿
所在地 富山県中新川郡立山町立山峰1番地(雄山頂上)
位置 北緯36度34分23.44秒 東経137度37分4.51秒
例祭 7月25日
雄山神社 中宮祈願殿 祈願殿
所在地 富山県中新川郡立山町芦峅寺2番地
位置 北緯36度34分59.19秒 東経137度23分33.07秒
例祭 7月25日
主な神事 立山の舞(巫女舞)
前立社壇
所在地 富山県中新川郡立山町岩峅寺1番地
位置 北緯36度36分27.48秒 東経137度18分53.40秒
本殿の様式 流造
例祭 4月8日
主な神事 岩峅稚児舞
交通アクセス
峰本社
立山黒部アルペンルート 室堂駅 より約2時間の登山
中宮祈願殿
富山地方鉄道 立山線 千垣駅 より立山町営バス(芦峅寺行き)に乗り、「雄山神社前」下車
前立社壇
富山地方鉄道 立山線および上滝線 岩峅寺駅 より徒歩約7分
2023年04月28日
大神山神社(おおがみやまじんじゃ)は、鳥取県にある神社
大神山神社(おおがみやまじんじゃ)は、鳥取県にある神社である。式内社、伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社。伯耆大山山麓(米子市)の本社と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。
大神山神社 奥宮拝殿(日本国指定の重要文化財)
祭神
大穴牟遅神 - 本社
大己貴命 - 奥宮
どちらも大国主神の別名である。
歴史
当社の奥宮は、大山に登った修験者が、海抜900mほどの場所に簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった。これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった。
大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった。その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった。
『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(大山寺は後に再興)、冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした。
奥宮本殿(右)・幣殿(左)
文化財
重要文化財
大神山神社奥宮 2棟
本殿・幣殿・拝殿(1棟)
末社下山神社本殿・幣殿・拝殿(1棟)
短刀 銘備州長船住兼光(附:金熨斗付合口拵)
登録有形文化財
石の大鳥居
県指定有形文化財
奥宮神門
奥宮拝殿
末社下山神社
所在地 (本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山
位置 (本社)
北緯35度25分03秒 東経133度24分22秒
(奥宮)
北緯35度23分19秒 東経133度32分19秒
主祭神 大己貴命
社格等 式内社(小)
伯耆国二宮
旧国幣小社
別表神社
本殿の様式 (奥宮)権現造
札所等 出雲國神仏霊場9番
例祭 (本社)10月9日
(奥宮)9月24日
主な神事 神水汲取神事
大神山神社 奥宮拝殿(日本国指定の重要文化財)
祭神
大穴牟遅神 - 本社
大己貴命 - 奥宮
どちらも大国主神の別名である。
歴史
当社の奥宮は、大山に登った修験者が、海抜900mほどの場所に簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった。これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった。
大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった。その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった。
『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(大山寺は後に再興)、冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした。
奥宮本殿(右)・幣殿(左)
文化財
重要文化財
大神山神社奥宮 2棟
本殿・幣殿・拝殿(1棟)
末社下山神社本殿・幣殿・拝殿(1棟)
短刀 銘備州長船住兼光(附:金熨斗付合口拵)
登録有形文化財
石の大鳥居
県指定有形文化財
奥宮神門
奥宮拝殿
末社下山神社
所在地 (本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山
位置 (本社)
北緯35度25分03秒 東経133度24分22秒
(奥宮)
北緯35度23分19秒 東経133度32分19秒
主祭神 大己貴命
社格等 式内社(小)
伯耆国二宮
旧国幣小社
別表神社
本殿の様式 (奥宮)権現造
札所等 出雲國神仏霊場9番
例祭 (本社)10月9日
(奥宮)9月24日
主な神事 神水汲取神事
2023年04月27日
輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院
輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている[注 1]。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。
輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
三仏堂(重要文化財)
概要
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺があり、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については現在も、東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。
上述のとおり各所に点在する堂塔の状況を記すと、東照宮の南方の境内には本堂の三仏堂や寺務所があり、ここには本坊表門、護法天堂、相輪橖(そうりんとう)などがある。二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。勝道を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にある。このほか、神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には、観音堂と三重塔があり、少し離れて児玉堂がある。中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している。
開山1250年を記念して、2016年7月31日から2017年11月30日まで輪王寺に伝わる秘仏「吉祥天」の一般公開が中禅寺立木観音で行われた。
本殿、相の間(左)
本堂
本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築である。現在の建物は徳川家光の寄進により正保2年(1645年)竣工した。日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている[2]。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと) - 総高703.6cm(本尊335.4cm)
阿弥陀如来(女峰山)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと) - 総高756.3cm(本尊306.3cm)
馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 総高744.7cm(本尊301.3cm)
これらの仏像は国内有数の大きさだが、制作時期等の来歴が不明のため文化財には指定されておらず、今後の調査が望まれる。
日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていた。輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
皇嘉門
拝観
4-10月 8:00〜17:00 11-3月 8:00〜16:00
拝観料 三仏堂400円 大猷院550円 宝物殿・逍遥園300円
所在地 栃木県日光市山内2300
位置 北緯36度45分15.8秒 東経139度36分4.1秒
山号 日光山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音
創建年 天平神護2年(766年)
開基 勝道
札所等 下野七福神(毘沙門天)
文化財 大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿、大般涅槃経集解59巻(国宝)
三仏堂、紙本著色東照権現像8幅、木造千手観音立像ほか(重要文化財)
世界遺産
輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
三仏堂(重要文化財)
概要
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺があり、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については現在も、東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。
上述のとおり各所に点在する堂塔の状況を記すと、東照宮の南方の境内には本堂の三仏堂や寺務所があり、ここには本坊表門、護法天堂、相輪橖(そうりんとう)などがある。二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。勝道を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にある。このほか、神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には、観音堂と三重塔があり、少し離れて児玉堂がある。中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している。
開山1250年を記念して、2016年7月31日から2017年11月30日まで輪王寺に伝わる秘仏「吉祥天」の一般公開が中禅寺立木観音で行われた。
本殿、相の間(左)
本堂
本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築である。現在の建物は徳川家光の寄進により正保2年(1645年)竣工した。日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている[2]。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと) - 総高703.6cm(本尊335.4cm)
阿弥陀如来(女峰山)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと) - 総高756.3cm(本尊306.3cm)
馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 総高744.7cm(本尊301.3cm)
これらの仏像は国内有数の大きさだが、制作時期等の来歴が不明のため文化財には指定されておらず、今後の調査が望まれる。
日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていた。輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
皇嘉門
拝観
4-10月 8:00〜17:00 11-3月 8:00〜16:00
拝観料 三仏堂400円 大猷院550円 宝物殿・逍遥園300円
所在地 栃木県日光市山内2300
位置 北緯36度45分15.8秒 東経139度36分4.1秒
山号 日光山
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音
創建年 天平神護2年(766年)
開基 勝道
札所等 下野七福神(毘沙門天)
文化財 大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿、大般涅槃経集解59巻(国宝)
三仏堂、紙本著色東照権現像8幅、木造千手観音立像ほか(重要文化財)
世界遺産
2023年04月26日
井戸寺(いどじ)は、徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院
井戸寺(いどじ)は、徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院。四国八十八箇所第17番札所。本尊は七仏薬師如来(伝聖徳太子作)。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:面影をうつしてみれば井戸の水 結べば胸のあかや落ちなん
歴史
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も「井戸寺」と改めたという。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された。
文化財
重要文化財
木造十一面観音立像 榧の一木造り彩色197.0cm、平安時代初期、明44.8.9指定
徳島県指定有形文化財
日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定
真言宗小野流相承祖師像一幅:25人の祖師を相承順に配置した彩色画。平成29年2月10日指定
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国)徳島線 - 府中駅下車 (1.5km)
バス
徳島バス 竜王団地線 (日開経由)「井戸寺口」下車 (0.3km)
道路
一般道:県道30号線 井戸 (0.4km)
自動車道:徳島自動車道 藍住IC (6.3km)、高松自動車道 板野IC (9.5km)
所在地 徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1
位置 北緯34度5分6.6秒 東経134度29分7.6秒
山号 瑠璃山
院号 真福院
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)白鳳2年(673年)
開基 (伝)天武天皇(勅願)
正式名 瑠璃山 真福院 井戸寺
札所等 四国八十八箇所第17番
文化財 木造十一面観音立像(重要文化財)
七仏薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像(県指定文化財)
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:面影をうつしてみれば井戸の水 結べば胸のあかや落ちなん
歴史
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も「井戸寺」と改めたという。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された。
文化財
重要文化財
木造十一面観音立像 榧の一木造り彩色197.0cm、平安時代初期、明44.8.9指定
徳島県指定有形文化財
日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定
真言宗小野流相承祖師像一幅:25人の祖師を相承順に配置した彩色画。平成29年2月10日指定
交通案内
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国)徳島線 - 府中駅下車 (1.5km)
バス
徳島バス 竜王団地線 (日開経由)「井戸寺口」下車 (0.3km)
道路
一般道:県道30号線 井戸 (0.4km)
自動車道:徳島自動車道 藍住IC (6.3km)、高松自動車道 板野IC (9.5km)
所在地 徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1
位置 北緯34度5分6.6秒 東経134度29分7.6秒
山号 瑠璃山
院号 真福院
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 (伝)白鳳2年(673年)
開基 (伝)天武天皇(勅願)
正式名 瑠璃山 真福院 井戸寺
札所等 四国八十八箇所第17番
文化財 木造十一面観音立像(重要文化財)
七仏薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像(県指定文化財)