蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は鹿児島県姶良市蒲生町上久徳にある神社。旧名は「正八幡若宮八幡宮」。
祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の八幡三神を祀る。
歴史
藤原氏北家教通流の分出とされる蒲生(かもう)氏の初代当主舜清(ちかきよ)が保安4年(1123年)に大隅国へ下向、生母が宇佐八幡宮の宮司家出身であった縁で同宮から勧請して創祀したという。戦国時代、島津氏との激しい戦いの末に蒲生氏は敗れて島津氏の軍門に下り、弘治3年(1557年)他地に退去させられた。その後島津義弘により社殿が再建される。また元和4年(1618年)12月には義弘から鳥居と額が奉建されたともされる。
昭和60年(1985年)、台風13号の被害により社殿は大破し、現在の社殿はその後再建したものである。また、台風被害の翌年から「蒲生八幡神社」と改名した。2008年頃から社務所を鳥居の近くより社殿左に移転している。
文化財
重要文化財(国指定)
銅鏡 秋草双雀文様 1面 - 直径20センチ強の鎌倉時代の銅鏡。鏡背に秋草と2羽の雀を鋳出し、当時の進んだ工芸技術を示す。大正7年(1918年)4月8日に当時の古社寺保存法に基づき国宝(旧国宝、1950年の文化財保護法施行後は国の重要文化財)に指定。なおこの他にも116面の銅鏡が所蔵され、当神社は鹿児島県下で最も多くの銅鏡を所蔵する神社となっている。
特別天然記念物
蒲生のクス - 推定樹齢1,600年(平成22年現在)の楠の大木で。1952年(昭和27年)、国の特別天然記念物に指定された。1988年(昭和63年)度の環境庁による巨樹・巨木林調査で日本一の巨樹であると認定された。宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ、神社創祀時には既に神木として祀られていたという。
その他
額の裏には社殿再建に関わった人物の名前が記載されていた。
社殿のすぐ近くには蒲生小学校が建っているが、かつて寺院があったとされ、昭和初期に墓地移転の際に地中から巨大な仏像が発掘された。
所在地 鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259-1
位置 北緯31度45分57.2秒 東経130度34分10.9秒
主祭神 応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
社格等 旧県社
創建 保安4年(1123年)
本殿の様式 神明造
別名 正八幡若宮八幡宮(旧名)
例祭 10月19日
2023年05月25日
2023年05月24日
朝光寺(ちょうこうじ)は兵庫県加東市にある仏教寺院
朝光寺(ちょうこうじ)は兵庫県加東市にある仏教寺院。山号を鹿野山(ろくやさん)と称する。宗派は高野山真言宗、本尊は2躯の十一面千手千眼観世音菩薩立像である。
法道仙人が651年に開基したという伝承をもつ。本堂は国宝に、鐘楼は国の重要文化財に指定されている。
朝光寺 本堂(国宝)
歴史
伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされる。法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、半ば伝説上の人物である。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つである。当寺の創建の詳しい事情や初期の歴史については、史料が乏しく、あまり明確でない。
1189年 - つくばねの滝近くの現在地に移転、再建
1413年 - 本堂再建。京都・三十三間堂の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊(西本尊)として安置
1504〜20年 - 赤松義村が再興。
本堂
大正12(1923)年3月、重要文化財(建造物)、昭和29(1954)年3月、国宝に指定。寄棟造、本瓦葺き。厨子裏板の墨書により応永20年(1413年)に本尊を移し、正長元年(1428年)に屋根の瓦葺きが完成したことがわかる。建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の1つであり、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例でもある。
堂は桁行(間口)7間、梁間(側面)7間で、正面に3間の向拝を付す(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語。以下も同じ)。向拝は文政12年(1829年)に付加されたものである。組物は出組、中備(なかぞなえ)は双斗(ふたつど)とする。堂内は手前の梁間3間分を外陣ととする。その奥は中央の桁行5間×梁間3間を内陣とし、その左右に脇陣、後方に後陣を設ける。内外陣境は下を格子戸、上を菱格子の欄間とする。柱間装置は正面の中央5間と側面の手前から2間目および3間目を桟唐戸とし、正面の左右両端間と側面の前端間を連子窓とする。
山門
文化財
国宝
本堂 - 解説は既出
重要文化財
鐘楼- 袴腰付、寄棟造
木造千手観音立像(2019年度指定)- 通称西本尊
兵庫県指定文化財
木造千手観音立像 - 通称東本尊
多宝塔
鐘楼と鎮守社、護法社
交通アクセス
自動車
E2A 中国自動車道ひょうご東条ICから車で約15分
公共交通機関
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からタクシー約20分
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からバスで20分、神姫バス停「上久米朝光寺口」より徒歩約1時間
拝観料・拝観時間
拝観料:無料
拝観時間:随時
多宝塔
所在地 兵庫県加東市畑609
位置 北緯34度55分56.6秒 東経135度2分37.8秒
山号 鹿野山(ろくやさん)
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面千手千眼観音2躯
創建年 伝・白雉2年(651年)
開基 伝・法道仙人
札所等 宝の道福神22番
文化財 本堂(国宝)
鐘楼、木造千手観音立像(西本尊)(重要文化財)
多宝塔、木造千手観音立像(東本尊)(県文化財)
法道仙人が651年に開基したという伝承をもつ。本堂は国宝に、鐘楼は国の重要文化財に指定されている。
朝光寺 本堂(国宝)
歴史
伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされる。法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、半ば伝説上の人物である。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つである。当寺の創建の詳しい事情や初期の歴史については、史料が乏しく、あまり明確でない。
1189年 - つくばねの滝近くの現在地に移転、再建
1413年 - 本堂再建。京都・三十三間堂の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊(西本尊)として安置
1504〜20年 - 赤松義村が再興。
本堂
大正12(1923)年3月、重要文化財(建造物)、昭和29(1954)年3月、国宝に指定。寄棟造、本瓦葺き。厨子裏板の墨書により応永20年(1413年)に本尊を移し、正長元年(1428年)に屋根の瓦葺きが完成したことがわかる。建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の1つであり、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例でもある。
堂は桁行(間口)7間、梁間(側面)7間で、正面に3間の向拝を付す(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語。以下も同じ)。向拝は文政12年(1829年)に付加されたものである。組物は出組、中備(なかぞなえ)は双斗(ふたつど)とする。堂内は手前の梁間3間分を外陣ととする。その奥は中央の桁行5間×梁間3間を内陣とし、その左右に脇陣、後方に後陣を設ける。内外陣境は下を格子戸、上を菱格子の欄間とする。柱間装置は正面の中央5間と側面の手前から2間目および3間目を桟唐戸とし、正面の左右両端間と側面の前端間を連子窓とする。
山門
文化財
国宝
本堂 - 解説は既出
重要文化財
鐘楼- 袴腰付、寄棟造
木造千手観音立像(2019年度指定)- 通称西本尊
兵庫県指定文化財
木造千手観音立像 - 通称東本尊
多宝塔
鐘楼と鎮守社、護法社
交通アクセス
自動車
E2A 中国自動車道ひょうご東条ICから車で約15分
公共交通機関
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からタクシー約20分
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からバスで20分、神姫バス停「上久米朝光寺口」より徒歩約1時間
拝観料・拝観時間
拝観料:無料
拝観時間:随時
多宝塔
所在地 兵庫県加東市畑609
位置 北緯34度55分56.6秒 東経135度2分37.8秒
山号 鹿野山(ろくやさん)
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面千手千眼観音2躯
創建年 伝・白雉2年(651年)
開基 伝・法道仙人
札所等 宝の道福神22番
文化財 本堂(国宝)
鐘楼、木造千手観音立像(西本尊)(重要文化財)
多宝塔、木造千手観音立像(東本尊)(県文化財)
2023年05月23日
不動院(ふどういん)は、広島県広島市東区にある真言宗別格本山の寺院
不動院(ふどういん)は、広島県広島市東区にある真言宗別格本山の寺院。
金堂(国宝)
概要
本尊は薬師如来。山号は新日山。足利尊氏・直義兄弟が諸国に設けた安国寺利生塔の一つという(安芸国安国寺)。全国安国寺会会員寺院。
歴史
中世
開基は行基とも伝えられるが、創建年代や由緒については諸説ある。本尊薬師如来像の様式から平安時代には創建されていたと推察されている。足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺で、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄した。
しかし、戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。関ヶ原の戦いで西軍に組した恵瓊は処刑され、毛利氏も転封後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。後に浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った。
近世/現在
第二次世界大戦中は牛田の住民のみならず中国軍管区司令部通信部など様々な機関の疎開先に指定されていた。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約3.90kmに位置した。爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱の1本が中央から折れたものの、全体では倒壊は免れている。当日は市中心部から北へ避難してくる被爆者の受け入れ先として機能し、境内にはたくさんの負傷者で溢れかえった。
1958年に金堂が国宝に指定された。1993年に広島市に現存する被爆建物リストに登録されている。
鐘楼
文化財
国宝
金堂(国宝)
天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった。金堂があった元の寺はどこかは長年、謎とされていたが、横浜国立大名誉教授の関口欣也(建築史)によって、戦国時代末期の天正年間(1573−1592年)に、当時の往職の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって山口市の香積寺(現在の瑠璃光寺)から移築されたことが明らかにされた。これ以前は、禅宗寺院で大内氏の菩提寺であった凌雲寺からの移築とされていた。
原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
金堂内部、薬師如来像を安置する
重要文化財(国指定)
鐘楼 - 永享5年(1433年)の建築。
楼門 - 文禄3年(1594年)の建築。「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
木造薬師如来坐像 - 檜材寄木造、平安時代後期
梵鐘 - 高麗時代
楼門
交通
広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)不動院前駅より徒歩2分
所在地 広島県広島市東区牛田新町3-4-9
位置 北緯34度25分37.3秒 東経132度28分16.0秒
山号 新日山
宗派 真言宗別格本山
本尊 薬師如来
創建年 平安時代(推定)
開基 伝・空窓
正式名 新日山 安国寺 不動院
別称 安芸安国寺
文化財 金堂(国宝)、鐘楼、楼門、薬師如来坐像、梵鐘(重要文化財)他
金堂(国宝)
概要
本尊は薬師如来。山号は新日山。足利尊氏・直義兄弟が諸国に設けた安国寺利生塔の一つという(安芸国安国寺)。全国安国寺会会員寺院。
歴史
中世
開基は行基とも伝えられるが、創建年代や由緒については諸説ある。本尊薬師如来像の様式から平安時代には創建されていたと推察されている。足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺で、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄した。
しかし、戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。関ヶ原の戦いで西軍に組した恵瓊は処刑され、毛利氏も転封後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。後に浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った。
近世/現在
第二次世界大戦中は牛田の住民のみならず中国軍管区司令部通信部など様々な機関の疎開先に指定されていた。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約3.90kmに位置した。爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱の1本が中央から折れたものの、全体では倒壊は免れている。当日は市中心部から北へ避難してくる被爆者の受け入れ先として機能し、境内にはたくさんの負傷者で溢れかえった。
1958年に金堂が国宝に指定された。1993年に広島市に現存する被爆建物リストに登録されている。
鐘楼
文化財
国宝
金堂(国宝)
天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった。金堂があった元の寺はどこかは長年、謎とされていたが、横浜国立大名誉教授の関口欣也(建築史)によって、戦国時代末期の天正年間(1573−1592年)に、当時の往職の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって山口市の香積寺(現在の瑠璃光寺)から移築されたことが明らかにされた。これ以前は、禅宗寺院で大内氏の菩提寺であった凌雲寺からの移築とされていた。
原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
金堂内部、薬師如来像を安置する
重要文化財(国指定)
鐘楼 - 永享5年(1433年)の建築。
楼門 - 文禄3年(1594年)の建築。「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
木造薬師如来坐像 - 檜材寄木造、平安時代後期
梵鐘 - 高麗時代
楼門
交通
広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)不動院前駅より徒歩2分
所在地 広島県広島市東区牛田新町3-4-9
位置 北緯34度25分37.3秒 東経132度28分16.0秒
山号 新日山
宗派 真言宗別格本山
本尊 薬師如来
創建年 平安時代(推定)
開基 伝・空窓
正式名 新日山 安国寺 不動院
別称 安芸安国寺
文化財 金堂(国宝)、鐘楼、楼門、薬師如来坐像、梵鐘(重要文化財)他
2023年05月22日
覚城院(かくじょういん)は、香川県三豊市にある真言宗御室派別格本山の寺院
覚城院(かくじょういん)は、香川県三豊市にある真言宗御室派別格本山の寺院。詳しくは大寧山 不動護国寺 覚城院と号する。本尊は千手観世音菩薩。さぬき三十三観音霊場第十九番札所。
歴史
弘仁10年(819年)空海(弘法大師)により創建されたと伝えられる。当初、菩提心院と呼ばれていた。
応永年間(1394年 - 1427年)には、弘法大師の再来と言われる増吽僧正によって再建されている。
天正7年(1579年)長宗我部氏の兵火にかかったが、再建された。
宝永年間(1704年 - 1710年)には三等上人が、仁尾城跡の現在地に移転し、覚城院と改めた。
文化財
重要文化財(国指定)
覚城院鐘楼 - 1573年 - 1614年の間に建造された桃山様式の鐘楼。昭和22年(1947年)2月26日指定。
所在地 香川県三豊市仁尾町仁尾丁845
位置 北緯34度12分7.2秒 東経133度38分50.7秒
山号 大寧山
宗派 真言宗御室派
寺格 別格本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 伝・弘仁10年(819年)
開基 伝・空海
正式名 大寧山 不動護国寺 覚城院
札所等 さぬき三十三観音19番
文化財 鐘楼(国の重要文化財)
歴史
弘仁10年(819年)空海(弘法大師)により創建されたと伝えられる。当初、菩提心院と呼ばれていた。
応永年間(1394年 - 1427年)には、弘法大師の再来と言われる増吽僧正によって再建されている。
天正7年(1579年)長宗我部氏の兵火にかかったが、再建された。
宝永年間(1704年 - 1710年)には三等上人が、仁尾城跡の現在地に移転し、覚城院と改めた。
文化財
重要文化財(国指定)
覚城院鐘楼 - 1573年 - 1614年の間に建造された桃山様式の鐘楼。昭和22年(1947年)2月26日指定。
所在地 香川県三豊市仁尾町仁尾丁845
位置 北緯34度12分7.2秒 東経133度38分50.7秒
山号 大寧山
宗派 真言宗御室派
寺格 別格本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 伝・弘仁10年(819年)
開基 伝・空海
正式名 大寧山 不動護国寺 覚城院
札所等 さぬき三十三観音19番
文化財 鐘楼(国の重要文化財)
2023年05月21日
桃林寺(とうりんじ)は、沖縄県石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院
桃林寺(とうりんじ)は、沖縄県石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は南海山。本尊は観音菩薩。八重山列島で最古の仏教寺院である。本項では、隣接する権現堂(ごんげんどう)についても併せて説明する。
桃林寺山門
歴史
薩摩藩から八重山への社寺建築の進言を受けた琉球王国第二尚氏王朝7代目国王尚寧王によって、1614年[2]に鑑翁西堂を開山とし桃林寺が創建されるとともに、隣地に権現堂が創建された。桃林寺は当初は真言宗であったが、禅宗となった後、現在は臨済宗妙心寺派の寺院になっている。権現堂には熊野権現(伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊)が祀られている。御神体の銅鏡は1772年に鋳造されたもので、沖縄県内で鋳造された最古のものである。
本堂
桃林寺本堂及び権現堂の屋根は当初茅葺であったが、1694年に桃林寺本堂が瓦葺きに葺き替えられ、1703年には権現堂も瓦葺きとされた。1736年から翌年にかけて桃林寺の境内が拡張され、仏殿が建立されるとともに、1737年に山門の仁王像が制作された。1771年には八重山地震による大津波(明和の大津波)で桃林寺及び権現堂の建造物が破壊されたが、桃林寺は翌年に再建され、権現堂も1786年に再建された。なお、明和の大津波では仁王像2体も流されたが、崎枝湾の海岸に打ち上げられているのを発見された。
桃林寺は、1881年(明治14年)に改築された。1933年(昭和8年)に台風で山門や仁王像が被害を受けたが、1937年(昭和12年)までに修復された。現在の桃林寺本堂は1968年(昭和43年)に改築されたものである。
桃林寺本堂
権現堂
権現堂は、1882年(明治15年)に神殿を改修。その際に、拝殿及び薬医門が建て替えられた可能性も指摘されている。第二次世界大戦で大破したが1947年(昭和22年)に修復された。また、1972年(昭和47年)には権現堂神殿の解体修理及び拝殿の屋根葺替・部分修理が、1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)にかけては権現堂拝殿の解体修理及び神殿の部分修理が行われている。2006年(平成18年)に台風13号の影響で権現堂神殿が破損したが、文化庁の国庫補助を受けて、2年間保存修理を行い、2008年に完了した。
権現堂神殿
文化財
重要文化財(国指定)
権現堂 - 1981年(昭和56年)6月5日指定。なお、1956年(昭和31年)2月22日に琉球政府特別重要文化財に指定されていた。所有者は石垣市。
神殿 - 三間社流造。本瓦葺。牡丹を浮彫りにした棒状の肘木、波と鬼が彫られた板蟇股、唐獅子が嵌め込まれた登高欄等、本土の神社建築には見られない独特の意匠を有する。明和の大津波後の1786年に再建。
拝殿 - 桁行三間、梁間二間。一重。寄棟造、前後庇付、本瓦葺。現存する建物は1786年に再建されたものとされるが、1882年(明治15年)の神殿改修の際に建て替えられた可能性も指摘されている。
附表門 - 一間薬医門。切妻造、本瓦葺。なお、桃林寺山門とは異なる門である。
附石牆
県指定文化財
桃林寺仁王像 - 1737年に、久手堅昌忠により八重山列島産のオガタマノキで作られた沖縄県で現存最古の木彫像である。山門に向かって左が金剛力士像、右が密迹力士像。1771年の明和の大津波で2体とも流されたが、崎枝湾の海岸に打ち上げられているのを発見された。手足が破損し蔵元で保管されていたが、大浜善巧(1768年 - 1835年)により修復された。1956年(昭和31年)2月22日に琉球政府重要文化財に指定され、本土復帰後に沖縄県指定有形文化財となった。
仁王像(密迹力士像・阿形)
仁王像(金剛力士像・吽形)
所在地 沖縄県石垣市石垣285
主祭神 熊野権現(伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊)
創建 1614年
本殿の様式 三間社流造
別名 八重山権現堂、八重山権現
桃林寺山門
歴史
薩摩藩から八重山への社寺建築の進言を受けた琉球王国第二尚氏王朝7代目国王尚寧王によって、1614年[2]に鑑翁西堂を開山とし桃林寺が創建されるとともに、隣地に権現堂が創建された。桃林寺は当初は真言宗であったが、禅宗となった後、現在は臨済宗妙心寺派の寺院になっている。権現堂には熊野権現(伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊)が祀られている。御神体の銅鏡は1772年に鋳造されたもので、沖縄県内で鋳造された最古のものである。
本堂
桃林寺本堂及び権現堂の屋根は当初茅葺であったが、1694年に桃林寺本堂が瓦葺きに葺き替えられ、1703年には権現堂も瓦葺きとされた。1736年から翌年にかけて桃林寺の境内が拡張され、仏殿が建立されるとともに、1737年に山門の仁王像が制作された。1771年には八重山地震による大津波(明和の大津波)で桃林寺及び権現堂の建造物が破壊されたが、桃林寺は翌年に再建され、権現堂も1786年に再建された。なお、明和の大津波では仁王像2体も流されたが、崎枝湾の海岸に打ち上げられているのを発見された。
桃林寺は、1881年(明治14年)に改築された。1933年(昭和8年)に台風で山門や仁王像が被害を受けたが、1937年(昭和12年)までに修復された。現在の桃林寺本堂は1968年(昭和43年)に改築されたものである。
桃林寺本堂
権現堂
権現堂は、1882年(明治15年)に神殿を改修。その際に、拝殿及び薬医門が建て替えられた可能性も指摘されている。第二次世界大戦で大破したが1947年(昭和22年)に修復された。また、1972年(昭和47年)には権現堂神殿の解体修理及び拝殿の屋根葺替・部分修理が、1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)にかけては権現堂拝殿の解体修理及び神殿の部分修理が行われている。2006年(平成18年)に台風13号の影響で権現堂神殿が破損したが、文化庁の国庫補助を受けて、2年間保存修理を行い、2008年に完了した。
権現堂神殿
文化財
重要文化財(国指定)
権現堂 - 1981年(昭和56年)6月5日指定。なお、1956年(昭和31年)2月22日に琉球政府特別重要文化財に指定されていた。所有者は石垣市。
神殿 - 三間社流造。本瓦葺。牡丹を浮彫りにした棒状の肘木、波と鬼が彫られた板蟇股、唐獅子が嵌め込まれた登高欄等、本土の神社建築には見られない独特の意匠を有する。明和の大津波後の1786年に再建。
拝殿 - 桁行三間、梁間二間。一重。寄棟造、前後庇付、本瓦葺。現存する建物は1786年に再建されたものとされるが、1882年(明治15年)の神殿改修の際に建て替えられた可能性も指摘されている。
附表門 - 一間薬医門。切妻造、本瓦葺。なお、桃林寺山門とは異なる門である。
附石牆
県指定文化財
桃林寺仁王像 - 1737年に、久手堅昌忠により八重山列島産のオガタマノキで作られた沖縄県で現存最古の木彫像である。山門に向かって左が金剛力士像、右が密迹力士像。1771年の明和の大津波で2体とも流されたが、崎枝湾の海岸に打ち上げられているのを発見された。手足が破損し蔵元で保管されていたが、大浜善巧(1768年 - 1835年)により修復された。1956年(昭和31年)2月22日に琉球政府重要文化財に指定され、本土復帰後に沖縄県指定有形文化財となった。
仁王像(密迹力士像・阿形)
仁王像(金剛力士像・吽形)
所在地 沖縄県石垣市石垣285
主祭神 熊野権現(伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊)
創建 1614年
本殿の様式 三間社流造
別名 八重山権現堂、八重山権現
2023年05月20日
今村天主堂(いまむらてんしゅどう)は、福岡県三井郡大刀洗町大字今にあるキリスト教(カトリック)の聖堂
今村天主堂(いまむらてんしゅどう)は、福岡県三井郡大刀洗町大字今にあるキリスト教(カトリック)の聖堂である。今村教会堂(いまむらきょうかいどう)などの名でも呼ばれる。1913年(大正2年)に竣工した赤煉瓦造りの天主堂(鉄川与助設計)は、国の重要文化財に指定されている。
名称
この聖堂を現用しているカトリック福岡司教区においてはカトリック今村教会(カトリックいまむらきょうかい)の名称を用いている。
2017年(平成29年)に国の重要文化財に指定された際の名称は今村天主堂である。これに先立ち、2006年(平成18年)に福岡県の有形文化財に指定された際の名称は今村教会堂であった。
沿革
今村の隠れキリシタン
旧筑後国の今地区(以下、今村)は、江戸時代に隠れキリシタンとして信仰を守った人々が多く暮したという歴史を持つ。今村のキリスト教信仰は戦国時代にさかのぼるとされるが、起源ははっきりしない。キリシタン大名として著名な大友宗麟の支配下にあった1560年代には早くも信徒集団があらわれたという。豊臣秀吉による九州平定後の領土配分(九州国分)によって当地一帯の領主となった久留米城主毛利秀包も、熱心なキリシタン大名であった。
徳川幕府による禁教令以後も、今村の信徒たちは隠れキリシタンとして信仰を続けていた。現在の聖堂の祭壇は、江戸時代初期に殉教し、その後地元信徒の崇敬を集めたジョアン又右衛門の墓の上に設けられている。
幕末、長崎・大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父は、隠れキリシタンの発見とカトリック教会の正統な信仰への復帰に努めていた。1867年(慶応3年)、プティジャン神父とその信徒たちによって、今村のキリシタンたちが「発見」された。当時、今村地域には200戸ほど(今村に100戸ほど、周辺に100戸ほど)のキリシタンが潜伏していた。隠れキリシタンが多く存在した九州でも、平野部でのキリシタン発見は極めて稀なことであった。1873年(明治6年)のキリシタン禁令解禁まで、今村の信徒と大浦天主堂は密かな連絡を保ち、信仰を守った。
司祭の着任と最初の聖堂
1879年(明治12年)10月、大浦からジャン・マリー・コール神父が今村の信徒の司牧に着任し、1年間で1063名に洗礼を授けた。このときはまだ聖堂はなく、青木才八家の土蔵をミサに使用していた。1880年(明治13年)11月にはミシェル・ソーレ神父が今村に着任、以後1889年(明治22年)までこの地にあった。
今村に最初の聖堂が建てられたのは、1881年(明治14年)のことである。この聖堂はまもなく手狭になり、1887年(明治20年)に増築されている。
現聖堂の建設
1896年(明治29年)9月に着任した長崎出身の第4代主任司祭本田保 神父は、1908年(明治41年)教会の改築計画を立て、江戸時代の殉教者ジョアン又右衛門の墓の真上に大祭壇が位置する構想に基づき、新しい大聖堂の建築を計画した。海外にも広く寄付を募った。とくにドイツからは多くの浄財が寄せられたという。現在の聖堂は鉄川与助の設計のもと、1912年(明治45年)に着工。軟弱な地盤を克服する苦心の工事であったが、信徒の労働奉仕も受け、1913年(大正2年)12月8日に竣工した。
聖堂は、正面に六角形の双塔を持つロマネスク様式の赤レンガ建築で、長崎の旧浦上天主堂(原爆で消失)を一回り小さくした設計で造られ、国内のレンガ造りの教会堂としては、唯一の双塔となる。設計・施工にあたった鉄川与助は、長崎県を中心に九州地方で多くの教会堂建築を手がけた人物であり、彼の7棟目の教会建築となる。
また、本田神父は、今村出身のブラジル在留人に塔に取り付ける釣鐘の寄付を求め、寄贈が実現し、1914年(大正13年)長崎司教の聖別を得た。鐘の音色は親しまれていたが、1945年(昭和20年)太平洋戦争の終戦直前に徴発された。
近代の赤レンガ建築への関心から、以下のように高い評価を得ている。
赤煉瓦ネットワークによる「20世紀 日本赤煉瓦建築番付」(藤森照信ら監修)では、大阪市中央公会堂(大阪府)や江田島旧海軍兵学校生徒館(広島県)とともに、「西の横綱」に選ばれている。
横浜開港資料館日本赤煉瓦建築番付では、京都の同志社大学や熊本の旧第五高等中学校本館とともに「西の大関」に選ばれている。
2006年(平成18年)、「今村教会堂」の名称で福岡県指定有形文化財に指定され[4]、2015年(平成27年)7月に「今村天主堂」として国の重要文化財に指定された。
築100年を超え、老朽化による倒壊の恐れがあることから、2021年1月より建物内への立ち入りが禁止され、2022年6月より耐震補強工事が施工される。
文化財
重要文化財(国指定)
今村天主堂 1棟
附:門柱2所、煉瓦塀5基
所在地
福岡県三井郡大刀洗町大字今707番地
アクセス
西鉄久留米駅より西鉄バス久留米今村天主堂ゆきに乗車し、終点下車すぐ
西鉄甘木線大堰駅よりタクシーで6分(2.6q)
マイカーの場合、大分自動車道筑後小郡インターチェンジから5q
名称
この聖堂を現用しているカトリック福岡司教区においてはカトリック今村教会(カトリックいまむらきょうかい)の名称を用いている。
2017年(平成29年)に国の重要文化財に指定された際の名称は今村天主堂である。これに先立ち、2006年(平成18年)に福岡県の有形文化財に指定された際の名称は今村教会堂であった。
沿革
今村の隠れキリシタン
旧筑後国の今地区(以下、今村)は、江戸時代に隠れキリシタンとして信仰を守った人々が多く暮したという歴史を持つ。今村のキリスト教信仰は戦国時代にさかのぼるとされるが、起源ははっきりしない。キリシタン大名として著名な大友宗麟の支配下にあった1560年代には早くも信徒集団があらわれたという。豊臣秀吉による九州平定後の領土配分(九州国分)によって当地一帯の領主となった久留米城主毛利秀包も、熱心なキリシタン大名であった。
徳川幕府による禁教令以後も、今村の信徒たちは隠れキリシタンとして信仰を続けていた。現在の聖堂の祭壇は、江戸時代初期に殉教し、その後地元信徒の崇敬を集めたジョアン又右衛門の墓の上に設けられている。
幕末、長崎・大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父は、隠れキリシタンの発見とカトリック教会の正統な信仰への復帰に努めていた。1867年(慶応3年)、プティジャン神父とその信徒たちによって、今村のキリシタンたちが「発見」された。当時、今村地域には200戸ほど(今村に100戸ほど、周辺に100戸ほど)のキリシタンが潜伏していた。隠れキリシタンが多く存在した九州でも、平野部でのキリシタン発見は極めて稀なことであった。1873年(明治6年)のキリシタン禁令解禁まで、今村の信徒と大浦天主堂は密かな連絡を保ち、信仰を守った。
司祭の着任と最初の聖堂
1879年(明治12年)10月、大浦からジャン・マリー・コール神父が今村の信徒の司牧に着任し、1年間で1063名に洗礼を授けた。このときはまだ聖堂はなく、青木才八家の土蔵をミサに使用していた。1880年(明治13年)11月にはミシェル・ソーレ神父が今村に着任、以後1889年(明治22年)までこの地にあった。
今村に最初の聖堂が建てられたのは、1881年(明治14年)のことである。この聖堂はまもなく手狭になり、1887年(明治20年)に増築されている。
現聖堂の建設
1896年(明治29年)9月に着任した長崎出身の第4代主任司祭本田保 神父は、1908年(明治41年)教会の改築計画を立て、江戸時代の殉教者ジョアン又右衛門の墓の真上に大祭壇が位置する構想に基づき、新しい大聖堂の建築を計画した。海外にも広く寄付を募った。とくにドイツからは多くの浄財が寄せられたという。現在の聖堂は鉄川与助の設計のもと、1912年(明治45年)に着工。軟弱な地盤を克服する苦心の工事であったが、信徒の労働奉仕も受け、1913年(大正2年)12月8日に竣工した。
聖堂は、正面に六角形の双塔を持つロマネスク様式の赤レンガ建築で、長崎の旧浦上天主堂(原爆で消失)を一回り小さくした設計で造られ、国内のレンガ造りの教会堂としては、唯一の双塔となる。設計・施工にあたった鉄川与助は、長崎県を中心に九州地方で多くの教会堂建築を手がけた人物であり、彼の7棟目の教会建築となる。
また、本田神父は、今村出身のブラジル在留人に塔に取り付ける釣鐘の寄付を求め、寄贈が実現し、1914年(大正13年)長崎司教の聖別を得た。鐘の音色は親しまれていたが、1945年(昭和20年)太平洋戦争の終戦直前に徴発された。
近代の赤レンガ建築への関心から、以下のように高い評価を得ている。
赤煉瓦ネットワークによる「20世紀 日本赤煉瓦建築番付」(藤森照信ら監修)では、大阪市中央公会堂(大阪府)や江田島旧海軍兵学校生徒館(広島県)とともに、「西の横綱」に選ばれている。
横浜開港資料館日本赤煉瓦建築番付では、京都の同志社大学や熊本の旧第五高等中学校本館とともに「西の大関」に選ばれている。
2006年(平成18年)、「今村教会堂」の名称で福岡県指定有形文化財に指定され[4]、2015年(平成27年)7月に「今村天主堂」として国の重要文化財に指定された。
築100年を超え、老朽化による倒壊の恐れがあることから、2021年1月より建物内への立ち入りが禁止され、2022年6月より耐震補強工事が施工される。
文化財
重要文化財(国指定)
今村天主堂 1棟
附:門柱2所、煉瓦塀5基
所在地
福岡県三井郡大刀洗町大字今707番地
アクセス
西鉄久留米駅より西鉄バス久留米今村天主堂ゆきに乗車し、終点下車すぐ
西鉄甘木線大堰駅よりタクシーで6分(2.6q)
マイカーの場合、大分自動車道筑後小郡インターチェンジから5q
2023年05月19日
伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町宮林にある神社
伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町宮林にある神社。式内社(名神大社)、陸奥国二宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
概要
会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する、陸奥国二宮・会津総鎮守である。「会津」という地名は、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだ建沼河別命とが会津で行き会ったことに由来するといわれ、2人が国家鎮護神を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。
境内は広く、内部には鬱蒼とした社叢が広がる。社殿は2008年(平成20年)の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けたうえで再建中である。また文化財として、室町時代の朱漆金銅装神輿(国の重要文化財)を始めとする多くの社宝・天然記念物・神事を現在に伝えている。
祭神
祭神は次の4柱。「伊佐須美大神」や「伊佐須美大明神」と総称される。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
大毘古命(おおひこのみこと、大彦命) - 第8代孝元天皇の皇子。四道将軍の1人で、北陸道を進んだとされる。
建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別) - 大毘古命の子。四道将軍の1人で、東海道を進んだとされる。
『延喜式』神名帳では祭神を1座とする[3]。『伊佐須美神社史』のほか現在の諸文献では祭神を上記4柱と記すが、4柱に加え相殿神として塩釜大神・八幡大神の2柱も祀られており、右座に塩釜大神、左座に八幡大神が鎮座する。また、『奥州二宮慧日山正一位伊佐須美太明神社縁起』によると本地仏は文殊菩薩とされていた。
旧拝殿(非現存)
文化財
重要文化財(国指定)
朱漆金銅装神輿(工芸品)
室町時代の作とされる神輿。大永6年(1526年)に高田館主の蘆名盛安・盛常父子によって奉献されたと伝わる。屋根は宝形造銅板張で、柱は金銅製。正面には朱漆塗で「堅二ツ引」・「左三ツ巴」の金銅の紋を打つ扉、正面以外の3方には金銅輪宝紋を打つ銅板を立て、それらの周囲に廻縁を巡らす。廻縁の高欄は金銅製で、四方に階段と金銅製鳥居を付す。この神輿は室町時代後期の特色を有し、同時代の優品とされる。
現在は伊佐須美神社宝物殿に所蔵・展示されている。昭和16年7月3日指定。
重要無形民俗文化財(国指定)
会津の御田植祭 - 伊佐須美神社の田植神事、慶徳稲荷神社(喜多方市)の田植神事を包括。平成31年3月28日指定。
福島県指定文化財
重要文化財(有形文化財)
木造狛犬 1対(工芸品)
南北朝時代の作と推定される1対の狛犬。高さは各97センチメートルで、巨大な木造狛犬として全国でも珍しいものである。像は寄木造で、漆で塗られている。頭小胴大で、平安時代・鎌倉時代流行のものとは形式を異にしている。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和28年10月1日指定。
天然記念物
伊佐須美神社のフジ - 平成11年3月30日指定。
会津美里町指定文化財
重要文化財(有形文化財)
黄金扉 1枚(工芸品)
室町時代の作と見られる金色の扉。大きさは縦161.8センチメートル、横55センチメートルで、厚さ3.8センチメートルである。扉は古代扉よりは小型ながら豪華なもので、元は本殿の扉であったと推定される。庶民や信仰者の力のみによるこの扉の製作は考えられず、領主からの多大な支援の存在があったと指摘される。古文書では、文亀3年(1503年)の社殿焼失を受け、永正11年(1514年)に蘆名盛高・盛滋父子が願主となって社殿を再建したと見えるが、この扉はその時の作と推定される。その社殿も天明3年(1783年)に焼失しているが、その際に難を逃れたと見られる。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
古代扉 1枚(工芸品)
室町時代の作と見られる扉。金銅椿文朱漆の扉で、大きさは縦173センチメートル、横49.5センチメートルで、厚さ6センチメートルである。元は本殿の内陣に使用された扉と推定される。黄金扉同様、永正11年(1514年)の再建時の扉で、天明3年(1783年)の火災で難を逃れたと推定される。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
鉄華表 1対(工芸品)
鉄製の華表(鳥居の意)。円筒形であり内部は空洞で、大きさは全長193センチメートル、円筒周196センチメートル。『会津旧事雑考』によると、明応元年(1492年)10月26日に長嶺越中という人物が建てたといい、両柱があるも虹梁はないという。『新編会津風土記』にも記載が見えるが、これらの文献から鳥居の足を差し込んで使用する筒であると推測される。一方で、これらは灯籠が壊れた後の柱であるとする伝えもある。平成6年4月1日指定。
日本紀竟宴和歌 1巻(古文書)
江戸時代、紙本墨書の和歌。全長5.5メートル。前文は服部安休、和歌は吉川惟足、後書は水野清雄の3人の筆跡になる。寛文10年(1670年)8月17日に会津藩主の保科正之が家臣・神官ら42人を集め、城内で服部安休による「日本紀神代巻」の講義を開いた際、講義後の祝宴(竟宴)で講義内容を詠んだ和歌を記したものである。この時42人は和歌、1人は漢詩を詠んでいる。昭和49年3月1日指定。
重要無形民俗文化財
太々神楽 - 昭和50年3月25日指定。
史跡
伊佐須美神社奥宮の地 - 昭和44年6月20日指定。
天然記念物
薄墨桜 - 昭和46年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。
伊佐須美神社社叢 - 平成6年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。
現地情報
所在地
福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377
付属施設
宝物殿 - 朱漆金銅装神輿(重要文化財)木造狛犬等を展示。
開館時間:午前9時 - 午後4時
拝観料:大人300円/18歳以下150円
交通アクセス
鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)只見線 会津高田駅 (徒歩約20分) - 1日7本(11-16時の間は上下とも1本のみ)。
バス:会津若松駅から
会津バス(永井野行き:「あやめの湯」経由なし)で「横町」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩2分) - 日中は1時間に1-2本程度。
会津バス(永井野行き:「あやめの湯」経由)で「文殊堂前」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩3分) - 本数は僅少。
車:駐車場あり
概要
会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する、陸奥国二宮・会津総鎮守である。「会津」という地名は、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだ建沼河別命とが会津で行き会ったことに由来するといわれ、2人が国家鎮護神を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。
境内は広く、内部には鬱蒼とした社叢が広がる。社殿は2008年(平成20年)の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けたうえで再建中である。また文化財として、室町時代の朱漆金銅装神輿(国の重要文化財)を始めとする多くの社宝・天然記念物・神事を現在に伝えている。
祭神
祭神は次の4柱。「伊佐須美大神」や「伊佐須美大明神」と総称される。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
大毘古命(おおひこのみこと、大彦命) - 第8代孝元天皇の皇子。四道将軍の1人で、北陸道を進んだとされる。
建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別) - 大毘古命の子。四道将軍の1人で、東海道を進んだとされる。
『延喜式』神名帳では祭神を1座とする[3]。『伊佐須美神社史』のほか現在の諸文献では祭神を上記4柱と記すが、4柱に加え相殿神として塩釜大神・八幡大神の2柱も祀られており、右座に塩釜大神、左座に八幡大神が鎮座する。また、『奥州二宮慧日山正一位伊佐須美太明神社縁起』によると本地仏は文殊菩薩とされていた。
旧拝殿(非現存)
文化財
重要文化財(国指定)
朱漆金銅装神輿(工芸品)
室町時代の作とされる神輿。大永6年(1526年)に高田館主の蘆名盛安・盛常父子によって奉献されたと伝わる。屋根は宝形造銅板張で、柱は金銅製。正面には朱漆塗で「堅二ツ引」・「左三ツ巴」の金銅の紋を打つ扉、正面以外の3方には金銅輪宝紋を打つ銅板を立て、それらの周囲に廻縁を巡らす。廻縁の高欄は金銅製で、四方に階段と金銅製鳥居を付す。この神輿は室町時代後期の特色を有し、同時代の優品とされる。
現在は伊佐須美神社宝物殿に所蔵・展示されている。昭和16年7月3日指定。
重要無形民俗文化財(国指定)
会津の御田植祭 - 伊佐須美神社の田植神事、慶徳稲荷神社(喜多方市)の田植神事を包括。平成31年3月28日指定。
福島県指定文化財
重要文化財(有形文化財)
木造狛犬 1対(工芸品)
南北朝時代の作と推定される1対の狛犬。高さは各97センチメートルで、巨大な木造狛犬として全国でも珍しいものである。像は寄木造で、漆で塗られている。頭小胴大で、平安時代・鎌倉時代流行のものとは形式を異にしている。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和28年10月1日指定。
天然記念物
伊佐須美神社のフジ - 平成11年3月30日指定。
会津美里町指定文化財
重要文化財(有形文化財)
黄金扉 1枚(工芸品)
室町時代の作と見られる金色の扉。大きさは縦161.8センチメートル、横55センチメートルで、厚さ3.8センチメートルである。扉は古代扉よりは小型ながら豪華なもので、元は本殿の扉であったと推定される。庶民や信仰者の力のみによるこの扉の製作は考えられず、領主からの多大な支援の存在があったと指摘される。古文書では、文亀3年(1503年)の社殿焼失を受け、永正11年(1514年)に蘆名盛高・盛滋父子が願主となって社殿を再建したと見えるが、この扉はその時の作と推定される。その社殿も天明3年(1783年)に焼失しているが、その際に難を逃れたと見られる。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
古代扉 1枚(工芸品)
室町時代の作と見られる扉。金銅椿文朱漆の扉で、大きさは縦173センチメートル、横49.5センチメートルで、厚さ6センチメートルである。元は本殿の内陣に使用された扉と推定される。黄金扉同様、永正11年(1514年)の再建時の扉で、天明3年(1783年)の火災で難を逃れたと推定される。現在は宝物殿に所蔵・展示されている。昭和49年3月1日指定。
鉄華表 1対(工芸品)
鉄製の華表(鳥居の意)。円筒形であり内部は空洞で、大きさは全長193センチメートル、円筒周196センチメートル。『会津旧事雑考』によると、明応元年(1492年)10月26日に長嶺越中という人物が建てたといい、両柱があるも虹梁はないという。『新編会津風土記』にも記載が見えるが、これらの文献から鳥居の足を差し込んで使用する筒であると推測される。一方で、これらは灯籠が壊れた後の柱であるとする伝えもある。平成6年4月1日指定。
日本紀竟宴和歌 1巻(古文書)
江戸時代、紙本墨書の和歌。全長5.5メートル。前文は服部安休、和歌は吉川惟足、後書は水野清雄の3人の筆跡になる。寛文10年(1670年)8月17日に会津藩主の保科正之が家臣・神官ら42人を集め、城内で服部安休による「日本紀神代巻」の講義を開いた際、講義後の祝宴(竟宴)で講義内容を詠んだ和歌を記したものである。この時42人は和歌、1人は漢詩を詠んでいる。昭和49年3月1日指定。
重要無形民俗文化財
太々神楽 - 昭和50年3月25日指定。
史跡
伊佐須美神社奥宮の地 - 昭和44年6月20日指定。
天然記念物
薄墨桜 - 昭和46年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。
伊佐須美神社社叢 - 平成6年4月1日指定。昭和57年9月13日に福島県緑の文化財に登録。
現地情報
所在地
福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377
付属施設
宝物殿 - 朱漆金銅装神輿(重要文化財)木造狛犬等を展示。
開館時間:午前9時 - 午後4時
拝観料:大人300円/18歳以下150円
交通アクセス
鉄道
東日本旅客鉄道(JR東日本)只見線 会津高田駅 (徒歩約20分) - 1日7本(11-16時の間は上下とも1本のみ)。
バス:会津若松駅から
会津バス(永井野行き:「あやめの湯」経由なし)で「横町」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩2分) - 日中は1時間に1-2本程度。
会津バス(永井野行き:「あやめの湯」経由)で「文殊堂前」バス停下車 (乗車時間約40分、下車後徒歩3分) - 本数は僅少。
車:駐車場あり
2023年05月18日
高野寺(こうやじ)は、北海道函館市にある高野山真言宗の寺院
高野寺(こうやじ)は、北海道函館市にある高野山真言宗の寺院。山号は北南山。高野山金剛峯寺大日堂から下付された藤原期の大日如来を本尊としている。北海道三十三観音霊場1番札所。
歴史
1884年(明治17年)開基。
1916年(大正5年)に現在の地に移転。
本堂は二度の火災後の再建。
文化財
木造大日如来坐像(本尊) − 道内唯一の彫刻部門の重要文化財
所在地 北海道函館市住吉町12-13
位置 北緯41度45分14.4秒 東経140度43分04.3秒
山号 北南山
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 大日如来
創建年 1884年(明治17年)
札所等 北海道三十三観音霊場1番札所
文化財 木造大日如来坐像
(重要文化財)
歴史
1884年(明治17年)開基。
1916年(大正5年)に現在の地に移転。
本堂は二度の火災後の再建。
文化財
木造大日如来坐像(本尊) − 道内唯一の彫刻部門の重要文化財
所在地 北海道函館市住吉町12-13
位置 北緯41度45分14.4秒 東経140度43分04.3秒
山号 北南山
宗派 高野山真言宗
寺格 準別格本山
本尊 大日如来
創建年 1884年(明治17年)
札所等 北海道三十三観音霊場1番札所
文化財 木造大日如来坐像
(重要文化財)
2023年05月17日
観音寺(かんのんじ)は、三重県四日市市垂坂町にある、天台宗の寺院
観音寺(かんのんじ)は、三重県四日市市垂坂町にある、天台宗の寺院。山号は垂坂山(たるさかさん)。本尊は元三大師。
歴史
弘仁6年(815年)、最澄が聖徳太子自作の薬師如来を安置し、堂宇を建立したのが始まりと伝わる。
延長 6年(928年)延暦寺中興良源の大乗受戒に際し、伊勢国朝明郡の領主船木良見の援助により、垂坂の地に伽藍を建立した。寺域の規模は、現在の観音寺が奥の院にあたり、東西南北におよそ2 kmにもおよぶ壮大なものであり、境内には54の坊や院があり、伊勢天台別院として栄えたと伝わるが、天正3年(1575年)8月、織田信長の軍勢に攻められ焼失している。
元禄4年(1691年)桑名藩主松平定重が、郡代野村増右衛門を奉行として再興されたもので、現在の本堂は昭和に新しく建てられているが、山門や鐘楼は往時の姿を今に伝えているという。明治6年(1873年)に一度廃寺となるが、明治16年(1883年)に復興されて現在に至る。なお、東方向には五島製糸場跡がある。
文化財
重要文化財
木造慈恵大師坐像(1躯) 大正2年(1913年)8月20日指定。
三重県指定有形文化財
木造誕生釈迦仏立像(1躯) 昭和30年(1955年)4月18日指定。
木造地蔵菩薩坐像(1躯) 昭和31年(1956年)5月2日指定。
木造薬師如来立像(1躯) 昭和40年(1965年)6月8日指定。
絹本著色仏涅槃図(1幅) 昭和32年(1957年)3月29日指定。
四日市市指定有形文化財
観音寺山門 昭和52年(1977年)3月23日指定。
四日市蕉風連中奉納歌仙額 平成13年(2001年)7月19日指定。
アクセス
東名阪自動車道 四日市東インターチェンジより南へ約2km
近鉄名古屋線 霞ヶ浦駅より北西へ約3km。
所在地 三重県四日市市垂坂町1266
位置 北緯35度0分30.6秒 東経136度36分41.7秒
山号 垂坂山
宗派 天台宗
本尊 元三大師(良源)
創建年 延長6年(928年)
開基 船木良見
正式名 垂坂山観音寺
別称 垂坂のお大師さん
札所等 伊勢西国三十三所観音霊場 第26番
東海近畿地蔵霊場 第1番
東海四十九薬師霊場 第10番
歴史
弘仁6年(815年)、最澄が聖徳太子自作の薬師如来を安置し、堂宇を建立したのが始まりと伝わる。
延長 6年(928年)延暦寺中興良源の大乗受戒に際し、伊勢国朝明郡の領主船木良見の援助により、垂坂の地に伽藍を建立した。寺域の規模は、現在の観音寺が奥の院にあたり、東西南北におよそ2 kmにもおよぶ壮大なものであり、境内には54の坊や院があり、伊勢天台別院として栄えたと伝わるが、天正3年(1575年)8月、織田信長の軍勢に攻められ焼失している。
元禄4年(1691年)桑名藩主松平定重が、郡代野村増右衛門を奉行として再興されたもので、現在の本堂は昭和に新しく建てられているが、山門や鐘楼は往時の姿を今に伝えているという。明治6年(1873年)に一度廃寺となるが、明治16年(1883年)に復興されて現在に至る。なお、東方向には五島製糸場跡がある。
文化財
重要文化財
木造慈恵大師坐像(1躯) 大正2年(1913年)8月20日指定。
三重県指定有形文化財
木造誕生釈迦仏立像(1躯) 昭和30年(1955年)4月18日指定。
木造地蔵菩薩坐像(1躯) 昭和31年(1956年)5月2日指定。
木造薬師如来立像(1躯) 昭和40年(1965年)6月8日指定。
絹本著色仏涅槃図(1幅) 昭和32年(1957年)3月29日指定。
四日市市指定有形文化財
観音寺山門 昭和52年(1977年)3月23日指定。
四日市蕉風連中奉納歌仙額 平成13年(2001年)7月19日指定。
アクセス
東名阪自動車道 四日市東インターチェンジより南へ約2km
近鉄名古屋線 霞ヶ浦駅より北西へ約3km。
所在地 三重県四日市市垂坂町1266
位置 北緯35度0分30.6秒 東経136度36分41.7秒
山号 垂坂山
宗派 天台宗
本尊 元三大師(良源)
創建年 延長6年(928年)
開基 船木良見
正式名 垂坂山観音寺
別称 垂坂のお大師さん
札所等 伊勢西国三十三所観音霊場 第26番
東海近畿地蔵霊場 第1番
東海四十九薬師霊場 第10番
2023年05月16日
大高山神社(おおたかやまじんじゃ)は、宮城県柴田郡大河原町にある神社
大高山神社(おおたかやまじんじゃ)は、宮城県柴田郡大河原町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。
祭神
主祭神
日本武尊
橘豊日尊
合祀神
迦具土命
大山祇命
倉稲魂命
火産霊命
白山菊理媛
歴史
創建
社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。
また伝承によれば、崇峻天皇2年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。
概史
『続日本後紀』によれば、承和9年(842年)には従五位下の神階を授けられ、貞観11年(869年)3月には従五位上に昇叙した。享保20年3月には宗源宣旨により神階最高位である正一位の位階を得た。また、大高山神社は延喜式神名帳において陸奥国内百座のうちの一座であり、十五座ある名神大社のうちに列する。
なお、往古は神社の北東にある金ケ瀬地区新開(旧柴田郡平村)の台ノ山に鎮座していたが、元禄時代初期に起きた火災により社殿が消失したため、金ケ瀬地区の新開126番地に遷座し、大正3年に新開から現在の鎮座地である金ケ瀬地区の神山へと移築・再遷座した。現在も新開126番地の旧社地には鳥居と石祠が鎮座している。
神階
承和9年(842年)5月11日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)
貞観11年(869年)3月12日、従五位上 (『日本三代実録』)
現地情報
所在地
宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字神山45番地
祭神
主祭神
日本武尊
橘豊日尊
合祀神
迦具土命
大山祇命
倉稲魂命
火産霊命
白山菊理媛
歴史
創建
社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。
また伝承によれば、崇峻天皇2年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。
概史
『続日本後紀』によれば、承和9年(842年)には従五位下の神階を授けられ、貞観11年(869年)3月には従五位上に昇叙した。享保20年3月には宗源宣旨により神階最高位である正一位の位階を得た。また、大高山神社は延喜式神名帳において陸奥国内百座のうちの一座であり、十五座ある名神大社のうちに列する。
なお、往古は神社の北東にある金ケ瀬地区新開(旧柴田郡平村)の台ノ山に鎮座していたが、元禄時代初期に起きた火災により社殿が消失したため、金ケ瀬地区の新開126番地に遷座し、大正3年に新開から現在の鎮座地である金ケ瀬地区の神山へと移築・再遷座した。現在も新開126番地の旧社地には鳥居と石祠が鎮座している。
神階
承和9年(842年)5月11日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)
貞観11年(869年)3月12日、従五位上 (『日本三代実録』)
現地情報
所在地
宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字神山45番地