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2012年02月28日

村上春樹「レキシントンの幽霊」感想・補足

レキシントンの幽霊 (文春文庫)




「レキシントンの幽霊」を読んで、ブログに感想を載せた後も、なんか心の中にもやもやというか違和感が残って、先日友人とこの小説について話しましたら、友人も同じように感じていたので、補足として後日感想を書くことにいたしましたです。

短編の材料としては、どれもなかなか面白いのです。
ただ…、自分好みの料理になるであろう材料をテーブルに並べられて、どんな料理が出来るんだろうとわくわくして待っていたら、(悪い意味で)思いもよらない料理が出てきた感じ。

断片的にはとても印象的だったりするし、惹かれる表現もあるのですが、それを物語として見ると、バランスが悪いと言うか、ちぐはぐというか。

う〜ん、それを村上春樹が狙っているのか狙っていないのか、そこが分からないのですが。


違和感があった点

レキシントンの幽霊」:

「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない」
というケイシーの言葉。

ケイシーやその父親が、愛する人が亡くなったときに昏々と死んだように眠るのは、愛する人が亡くなったという事実を受け止めるためだと私は思っていた。
急激な変化に対応するためには、人には準備期間が必要で、そのために体(というか脳)は一度、疑似死のような状態に陥るのだと。

ケイシーやその父親は、愛する者のために眠ったわけじゃない。
愛する者を失った世界を生きていくために、自分自身のために眠ったのだ。

だから、ケイシーが死んだときに、誰も深く眠らなかったからといって、深く眠らなかった人がケイシーを愛していなかったかというと、そんなことはないと思うのだけど。

ただ、眠りから目覚めた後も、ケイシーは現実を「色彩を欠いた浅薄な世界」と言っているし、ケイシーの魂は眠りの先の世界(死)に一足踏み入れちゃっているのかもしれない。
でも、そう考えると、彼は何のために長い間、そんなに深く眠ったんだろうかと思ってしまう。
深く眠ってもなお、現実を受け入れることが出来ないくらいに、傷は深かった、ということなんだろうか。

まあ、「ある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。」とか言ってるし、愛する者を喪失したことへの絶望や、愛する者を奪った死への反抗と憧れを、深く眠ることによって表したのかもしれないけど…。う〜ん…。

真夜中のパーティは、幽霊ではなく、色鮮やかだったケイシーらの記憶の象徴として考えられなくもないのだけど、それならなおのこと、「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない」という言葉に違和感。
えー、アンタは自分を愛してくれた人に不幸になって欲しいのか?自分が死んだんだから、残された人たちは灰色の世界を生きていけと言うのか?
「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、僕のためにそんなに深く眠ってはくれない。
でも、それでいいんだ。いいんだよ」
と穏やかに微笑んで言い切るくらいの懐のでかさを見せて欲しかった…。

私の思う「深い眠り」と、この作品における「深い眠り」の違いによる違和感なのかもしれないけど…。
う〜ん、なんかもやもやするです。


緑色の獣:

楊貴妃?と思ったけど、まあ、女じゃなくても、ああいうことは思いつくよね…。
「お前は女というもののことをよく知らないんだ。」じゃなくて、「お前は『わたし』というもののことをよく知らないんだ。」だったら、まだ納得出来たよーな気がする。


沈黙:


どういう意図で書かれたのか分からないのでアレなんですが、これまた、最後の大沢さんの言葉で、一気に大沢さんという人間に対して不信感を持ってしまった。
「この人の言ってること、どこまでホントなの?」と。

青木のことを深みの理解出来ない人間と言っておきながら、そして青木との体験を通して、人々が受けている傷や苦痛のようなものに対しても人並み以上に敏感になった、と言っておきながら、我慢強い人間になったと言っておきながら、夜中に怖い夢を見て飛び起きて、奥さん起こして泣くんかい!

そりゃ、聖人君子にはなれないさ。なれないし、突然自分の存在が無視されて、もう一度そんなことがあったらどこまで耐えられるか分からないのは確かだし、それは本当に同意だけど…、しょっちゅう泣くなよ!それも奥さん起こしてしがみついて泣くなよ〜!

このことが語られた瞬間、大沢さんの好感度が一気に下がりました(笑)。
元々、青木に対しての感情があまりにも一方的で、どこまでこの話を信用できるかは分からないな〜と思っていたのが、ますます信用ならないかもしれない人、のイメージが強くなってしまいました。

これまた私の勝手な偏見ですが、青木の件で、人間そのものを信じられなくなったなら、一種の諦めもまた出てくるような気がするのです。
明日に突然、自分の味方は誰もいなくなるかもしれない。それを赦せても赦せなくても、それが人間というもの。
自分もまた、信頼している人や愛する人の話を鵜呑みにして、沈黙したままのカオナシになるかもしれない。
それが人間なのだと思ったら、怖くて一人で枕を少し濡らすことはあったとしても、しょっちゅう奥さんを起こしてしがみついて泣くようなことはするだろうか…。でもって、そのことを他人に話すだろうか…。

これで、実は大沢さんのほうが青木より深みのない人間で、我慢強くなったと勝手に大沢さんが自分で思い込んでいるだけで、他人の痛みにも鈍感な人間で、この話は大沢さんの被害妄想話です、だったらある意味すげえ。

で、「僕」が、心の中で、
「うわ、この人、けっこう痛いひとだったのか…。つーか、いつまで続くんだよこの話。
あー、こんな話、振らなきゃよかった…。もうコーヒー飽きた。何か他の飲みたいな〜」
と思っているけど、しれっとした顔で沈黙して話を聞いているとかだったら、すげえ。

まあ、こんなことを想像してしまう私のほうこそ、深みがなくて浅くて薄情で、根性ひん曲がってるのだと思いますが。


めくらやなぎと、眠る女:

「アパッチ砦」を観たことがないのにこんなことを言うのはアレなんだけど、ジョン・ウェインの『インディアンを見かけたというのは、つまりインディアンはそこにはいないということです』というセリフに対して、「誰の目にも見えることは、それほど重要じゃないっていう意味なのかな……」と主人公は言っていますが、この主人公の言葉はどこまで信用出来るんだろう。
耳の悪いいとこの、「耳のことで誰かに同情されるたびに、どうしてかそれを思い出すんだよ」という言葉から察するには、主人公の言っていることは的を射ていない気がするんだけども。

セリフだけを考えたら、「すべてはもう終わって(起こって)しまったことです。それはもう、どうしようもないことなのです」的な気がします。それが、重要であろうがなかろうが。

と思っていたら、こんなブログを見つけました。

めくらやなぎと眠る女のマニアックな読み方

うーん、旧バージョンも読んだほうがいいのかなあ。

ああ、「めくらやなぎと、眠る女」を読み返してたら、チョコレートが食べたくなってきた…。

と、お腹がすいたので、尻つぼみな感じで終わります。
すみません。

チョコレート〜〜!!
posted by みあ at 22:11|
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日々の中で感じたことを、個人的な偏見を交えて語りたいと思います。 本とか、音楽とか、映画とか、いろいろ。
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