2012年02月23日
「レキシントンの幽霊」感想
村上春樹・著、「レキシントンの幽霊」を読みました。
村上春樹の本は、「ふしぎな図書館」を読んだだけで、かの有名な「ノルウェイの森」も「海辺のカフカ」も「ねじまき鳥クロニクル」も読んだことはありません。
父親が読んでいたせいか、村上春樹の本が何冊か家にあって、小学生の頃、「ねじまき鳥クロニクル」のタイトルを眺めていたことはあります。
「クロニクル」の意味が分からず、言葉の響きから「ねじまき鳥冒険記」の意味だと思ってました。
きっとドリトル先生シリーズのような感じで、ねじまき鳥が架空の島々を冒険する動物ファンタジーなんだと勝手に思い込んで、読もうとしたら、
「あれ?なんか思ってたのと違うぞ??」
ということで、自分にはまだ読めないな、とそっと本を閉じた記憶があります(笑)
私は、「趣味は読書です」と言えるほど本を読んだことがありません。
いまいち意味が分かっておらず、漠然としたイメージで捉えていた小〜中学生の頃は、なんか色々読んでいた気がしますが、世の中が何となく分かり始めた高校生になってからは、まあ、頭が悪くて授業についていくので必死だったせいもありますが、小説は読まなくなりました。
太宰治も、「この人の小説を読んだら、自分は鬱になる!絶対に読まない!」と決心し、読んだのは高校の国語の教科書に載っていた「走れメロス」ぐらい(笑)。
芥川龍之介も、小〜中学生の頃はあまり気にせず読んでいたのに、後々読み返すと「地獄変」とかひでえ話だし、「羅生門」なども大変後味がよろしくなく、一度読むと長く尾を引くのでなるたけ避けるようになりました。好きではあるんだけどね、ああいうの。
シンクロ率が高くなると、本を読みながら、動悸がひどくなり、呼吸も乱れて浅くなって(多分瞳孔も開いてる)、とても心臓によろしくないので、出来れば心が落ち着く、安心できるものが読みたいのです。
まあ、そんな理由から、偏見で「暗い」「精神的に不安定そう」と思われる現代文学を省いていくと、赤川次郎とかそのへんしか残らなかったという…(笑)。
そんな理由で村上春樹も避けておりました。
でも、私は成長したのです!
書き手の感情に呑み込まれないくらいには!たぶん。きっと。おそらく…。
というわけで、感想でございます。
村上春樹、さっぱり意味が分からなかったので、解釈はせずに独断と偏見の感想のみです。
レキシントンの幽霊:
なんとなーく、エドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」を思い出しました。
舞踏会って、なんか、不穏な空気があるなあ。ちょっと方向を間違えると、没落とか、死へ導かれるような。
舞踏会という催し物が、どことなく閉鎖された空間の、非日常だからだろうか。
それとも、映画とか小説とかでは、必ず何か起こるからだろうか(笑)。
生者が黙り眠る中、死者が起きて騒ぐ、というのは昔から多いパターンだと思う。
生者は生者の、死者は死者の、その境界を超えてはいけない。
万が一、何かの拍子に足を踏み入れてしまったときは、知らんふりして自分の世界に戻るのが1番だと思う。
妻を取り戻しにいったオルフェウスもイザナギも、振り返って死の領域を見てしまったばかりに、しかも声を上げてしまったばかりに、取り返しのつかないことになったじゃないか。
そして、死にも似た、深い眠り。
眠りは、小さな「死」だそうです(何で読んだかは忘れましたが…)。
生き物は夜になると一度死に、そして朝になると再び甦るのです。
ただ、この話に出てきたケイシーは、なんか、眠りに捕らわれてる気がするなあ。なんとなく。
でも、どうなんだろう、ある種の区切りをつけるために、死者と本当に別れるために、昏々と眠ったんだろうか。
世界が虚ろな影だろうと、実は死の先に待つものが真実なのだとしても、わたくしたちは生きるしかないのでございます。
緑色の獣:
別にオチを望むわけでもないけど…。このオチは、ちょっと、あんまりじゃなかろうか…。
あんまりにもあんまりで、この獣は一体何のメタファーだったのかとか、どうでもよくなりましたでございます。
ちょっと、頭に思いついたものを書いてみました、的な感じ。
なんかイヤなことでもあったのですか?と思わず聞きたくなるような内容。
沈黙:
何か、ビミョーにリアルなのが印象的でした。
ある種、大沢さんと青木は全然似ていないようで似ていたんじゃないかと思う。同族嫌悪というか。
「好き」という方向に分かり合える人もいれば、「嫌い」の方向で分かり合える人もいる。
というか、嫌いだからこそ相手が分かってしまうというか、なんというか。
で、ますますソイツが嫌いになるのです(笑)。
こうなると、お互いに嫌いの連鎖に陥ってしまうので、難しいけど、「気にしない」のが1番なんだとは思う。相手の嫌いオーラをなるべく感じないように鈍感になって、自分もまた、相手が嫌いオーラを出さないようにすること。本当に難しいけど、意識しないのが1番いい気がする。
残念ながら、その人と分かり合える日が来ることはない、と思ったほうがいい。
嫌いな人、というのは、「彼」と「自分」は別人であって、どんなに理解したくても理解できないのだということを教えてくれるのだと思う。
本当に正しくて絶対の感情などというものは、どこにもないのだということも。
実は一連の件は、大沢さんの、「コイツ嫌い」の眼鏡を通してみたための大勘違い、ってことも有り得るかもですが、まあ、ホントなんだろな。
「でも僕が本当に怖いと思うのは、(中略)自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに(中略)他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。」というのには同感。
集団になった人間ほど、怖くて信用できないものはない。
個々で見ると案外いい人でも、集団の意思に呑まれると、別人みたいになる。
集団が「我々は正しい」と声高に叫ぶのって、すごく怖い。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな。いやいや、分からんでもないけど、赤信号は「渡れ」じゃないでしょ、と。
晩年、人間不信になったというマーク・トウェイン爺ちゃんの、「不思議な少年」をちょっと思い出しました。
まあ、意味合いは違う気がしますが。
ただ、こう書かれているからこそ、大沢さんの話をそのまま鵜呑みには出来ないんだよなあ。
青木が深みのない男だと大沢さんは言っているけど、それは大沢さんの視点であって、実際はどうか分からんもの。
氷男:
わけわからん。
が、なかなか面白かった。
主人公は、未来をなくしたから氷になったのか、過去すらも切り捨てたから氷になってしまったのか。
「今」ってのは、「過去」と「未来」があってこそ成り立つものなのですね、とBUMP OF CHICKENみたいなことを言ってみる。
氷男には過去も未来もなくて、過去を保っているだけ。
「過去を保つ」って、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の過去の記憶の炭鉱所を思い出しました。
過去の記憶がそのまま結晶になって、それはとても脆くて壊れやすくて、息をするのも憚られるほどの静けさの中にある記憶の断片。
人間は何かと孤独に惹かれがちですが、孤独に惹かれちゃ、ダメなんだろなあ。
「孤独」と「独り在ること」は別なんだけど、その線引きも難しい。
(ちなみにこの氷男、ちょっと「沈黙」の大沢さんの少年時代思い出しましたです)
トニー滝谷:
孤独が好きだなぁ、村上春樹…(笑)。
でも、この話がBUMPと違って救いがない気がするのは、自己の内に、自己の知らぬうちに閉鎖されてしまってるからなのかな。
外に向いていないというか、孤独と向き合っていないというか。
七番目の男:
結構面白かったです。
話はやっぱりありがちというか、どっかで見た感じですが。
主人公の見た少年が、ホラー漫画のワンシーンのようで、ホラー漫画絵で脳内再生されてしまいました。
つのだじろうとか、楳図かずおじゃなかったのが救いでした(笑)。
曽根まさことか、関よしみとか、そのへんの絵で。
人の死ってのは、残された人間の捉え方次第で変わるんだよなぁ、と。
動かないのは「(彼は)死んだ」という事実だけ。
台風の描写が印象的でした。
村上春樹というと、洒落ていて、ジャズでブランドで云々…なイメージだったのですが、この短編集ではそういった表現が顕著に目につくのは、「レキシントンの幽霊」ぐらいでした。
この話は、死への恐怖と、親友を見捨てたことによる罪としての恐怖よーな気がします。
恐怖を感じたら、それと向き合え、ということなんでしょうか。
それが脳の幻覚からくるものなのか、本当の恐怖(生命を脅かすもの)なのか。
幻覚であれば、恐れる必要はない。幽霊の正体見たり枯れ尾花。
でも、幻覚の恐怖に駆られて、本当のことを見落としてしまうのも、それもまた人間なんだろうけど。
めくらやなぎと、眠る女:
何が言いたいのかさっぱりでした(笑)。私には理解不能でございます。
ジョン・ウェインの『インディアンを見かけたというのは、つまりインディアンはそこにはいないということです』ってどーゆー意味なんでしょう。
姿の見えない蝿に食べられた眠る女は、繭みたいだなと思ったけど、食べられたってことは中身は空っぽなんだろか。
いちいち赤面しているいとこがかわいらしかったです。
というか、この話だけでなく、「レキシントンの幽霊」も「沈黙」も「七番目の男」も、ちょっと同性愛臭い気がするのは、私の頭が腐っているからなのでしょうか…。
しかしこの短編集、よく人が死ぬなぁ…(笑)。そういえば、「ひみつの図書館」でも死んでたっけ。
↓Amazonに飛びます。
村上春樹の本は、「ふしぎな図書館」を読んだだけで、かの有名な「ノルウェイの森」も「海辺のカフカ」も「ねじまき鳥クロニクル」も読んだことはありません。
父親が読んでいたせいか、村上春樹の本が何冊か家にあって、小学生の頃、「ねじまき鳥クロニクル」のタイトルを眺めていたことはあります。
「クロニクル」の意味が分からず、言葉の響きから「ねじまき鳥冒険記」の意味だと思ってました。
きっとドリトル先生シリーズのような感じで、ねじまき鳥が架空の島々を冒険する動物ファンタジーなんだと勝手に思い込んで、読もうとしたら、
「あれ?なんか思ってたのと違うぞ??」
ということで、自分にはまだ読めないな、とそっと本を閉じた記憶があります(笑)
私は、「趣味は読書です」と言えるほど本を読んだことがありません。
いまいち意味が分かっておらず、漠然としたイメージで捉えていた小〜中学生の頃は、なんか色々読んでいた気がしますが、世の中が何となく分かり始めた高校生になってからは、まあ、頭が悪くて授業についていくので必死だったせいもありますが、小説は読まなくなりました。
太宰治も、「この人の小説を読んだら、自分は鬱になる!絶対に読まない!」と決心し、読んだのは高校の国語の教科書に載っていた「走れメロス」ぐらい(笑)。
芥川龍之介も、小〜中学生の頃はあまり気にせず読んでいたのに、後々読み返すと「地獄変」とかひでえ話だし、「羅生門」なども大変後味がよろしくなく、一度読むと長く尾を引くのでなるたけ避けるようになりました。好きではあるんだけどね、ああいうの。
シンクロ率が高くなると、本を読みながら、動悸がひどくなり、呼吸も乱れて浅くなって(多分瞳孔も開いてる)、とても心臓によろしくないので、出来れば心が落ち着く、安心できるものが読みたいのです。
まあ、そんな理由から、偏見で「暗い」「精神的に不安定そう」と思われる現代文学を省いていくと、赤川次郎とかそのへんしか残らなかったという…(笑)。
そんな理由で村上春樹も避けておりました。
でも、私は成長したのです!
書き手の感情に呑み込まれないくらいには!たぶん。きっと。おそらく…。
というわけで、感想でございます。
村上春樹、さっぱり意味が分からなかったので、解釈はせずに独断と偏見の感想のみです。
レキシントンの幽霊:
なんとなーく、エドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」を思い出しました。
舞踏会って、なんか、不穏な空気があるなあ。ちょっと方向を間違えると、没落とか、死へ導かれるような。
舞踏会という催し物が、どことなく閉鎖された空間の、非日常だからだろうか。
それとも、映画とか小説とかでは、必ず何か起こるからだろうか(笑)。
生者が黙り眠る中、死者が起きて騒ぐ、というのは昔から多いパターンだと思う。
生者は生者の、死者は死者の、その境界を超えてはいけない。
万が一、何かの拍子に足を踏み入れてしまったときは、知らんふりして自分の世界に戻るのが1番だと思う。
妻を取り戻しにいったオルフェウスもイザナギも、振り返って死の領域を見てしまったばかりに、しかも声を上げてしまったばかりに、取り返しのつかないことになったじゃないか。
そして、死にも似た、深い眠り。
眠りは、小さな「死」だそうです(何で読んだかは忘れましたが…)。
生き物は夜になると一度死に、そして朝になると再び甦るのです。
ただ、この話に出てきたケイシーは、なんか、眠りに捕らわれてる気がするなあ。なんとなく。
でも、どうなんだろう、ある種の区切りをつけるために、死者と本当に別れるために、昏々と眠ったんだろうか。
世界が虚ろな影だろうと、実は死の先に待つものが真実なのだとしても、わたくしたちは生きるしかないのでございます。
緑色の獣:
別にオチを望むわけでもないけど…。このオチは、ちょっと、あんまりじゃなかろうか…。
あんまりにもあんまりで、この獣は一体何のメタファーだったのかとか、どうでもよくなりましたでございます。
ちょっと、頭に思いついたものを書いてみました、的な感じ。
なんかイヤなことでもあったのですか?と思わず聞きたくなるような内容。
沈黙:
何か、ビミョーにリアルなのが印象的でした。
ある種、大沢さんと青木は全然似ていないようで似ていたんじゃないかと思う。同族嫌悪というか。
「好き」という方向に分かり合える人もいれば、「嫌い」の方向で分かり合える人もいる。
というか、嫌いだからこそ相手が分かってしまうというか、なんというか。
で、ますますソイツが嫌いになるのです(笑)。
こうなると、お互いに嫌いの連鎖に陥ってしまうので、難しいけど、「気にしない」のが1番なんだとは思う。相手の嫌いオーラをなるべく感じないように鈍感になって、自分もまた、相手が嫌いオーラを出さないようにすること。本当に難しいけど、意識しないのが1番いい気がする。
残念ながら、その人と分かり合える日が来ることはない、と思ったほうがいい。
嫌いな人、というのは、「彼」と「自分」は別人であって、どんなに理解したくても理解できないのだということを教えてくれるのだと思う。
本当に正しくて絶対の感情などというものは、どこにもないのだということも。
実は一連の件は、大沢さんの、「コイツ嫌い」の眼鏡を通してみたための大勘違い、ってことも有り得るかもですが、まあ、ホントなんだろな。
「でも僕が本当に怖いと思うのは、(中略)自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに(中略)他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。」というのには同感。
集団になった人間ほど、怖くて信用できないものはない。
個々で見ると案外いい人でも、集団の意思に呑まれると、別人みたいになる。
集団が「我々は正しい」と声高に叫ぶのって、すごく怖い。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな。いやいや、分からんでもないけど、赤信号は「渡れ」じゃないでしょ、と。
晩年、人間不信になったというマーク・トウェイン爺ちゃんの、「不思議な少年」をちょっと思い出しました。
まあ、意味合いは違う気がしますが。
ただ、こう書かれているからこそ、大沢さんの話をそのまま鵜呑みには出来ないんだよなあ。
青木が深みのない男だと大沢さんは言っているけど、それは大沢さんの視点であって、実際はどうか分からんもの。
氷男:
わけわからん。
が、なかなか面白かった。
主人公は、未来をなくしたから氷になったのか、過去すらも切り捨てたから氷になってしまったのか。
「今」ってのは、「過去」と「未来」があってこそ成り立つものなのですね、とBUMP OF CHICKENみたいなことを言ってみる。
氷男には過去も未来もなくて、過去を保っているだけ。
「過去を保つ」って、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の過去の記憶の炭鉱所を思い出しました。
過去の記憶がそのまま結晶になって、それはとても脆くて壊れやすくて、息をするのも憚られるほどの静けさの中にある記憶の断片。
人間は何かと孤独に惹かれがちですが、孤独に惹かれちゃ、ダメなんだろなあ。
「孤独」と「独り在ること」は別なんだけど、その線引きも難しい。
(ちなみにこの氷男、ちょっと「沈黙」の大沢さんの少年時代思い出しましたです)
トニー滝谷:
孤独が好きだなぁ、村上春樹…(笑)。
でも、この話がBUMPと違って救いがない気がするのは、自己の内に、自己の知らぬうちに閉鎖されてしまってるからなのかな。
外に向いていないというか、孤独と向き合っていないというか。
七番目の男:
結構面白かったです。
話はやっぱりありがちというか、どっかで見た感じですが。
主人公の見た少年が、ホラー漫画のワンシーンのようで、ホラー漫画絵で脳内再生されてしまいました。
つのだじろうとか、楳図かずおじゃなかったのが救いでした(笑)。
曽根まさことか、関よしみとか、そのへんの絵で。
人の死ってのは、残された人間の捉え方次第で変わるんだよなぁ、と。
動かないのは「(彼は)死んだ」という事実だけ。
台風の描写が印象的でした。
村上春樹というと、洒落ていて、ジャズでブランドで云々…なイメージだったのですが、この短編集ではそういった表現が顕著に目につくのは、「レキシントンの幽霊」ぐらいでした。
この話は、死への恐怖と、親友を見捨てたことによる罪としての恐怖よーな気がします。
恐怖を感じたら、それと向き合え、ということなんでしょうか。
それが脳の幻覚からくるものなのか、本当の恐怖(生命を脅かすもの)なのか。
幻覚であれば、恐れる必要はない。幽霊の正体見たり枯れ尾花。
でも、幻覚の恐怖に駆られて、本当のことを見落としてしまうのも、それもまた人間なんだろうけど。
めくらやなぎと、眠る女:
何が言いたいのかさっぱりでした(笑)。私には理解不能でございます。
ジョン・ウェインの『インディアンを見かけたというのは、つまりインディアンはそこにはいないということです』ってどーゆー意味なんでしょう。
姿の見えない蝿に食べられた眠る女は、繭みたいだなと思ったけど、食べられたってことは中身は空っぽなんだろか。
いちいち赤面しているいとこがかわいらしかったです。
というか、この話だけでなく、「レキシントンの幽霊」も「沈黙」も「七番目の男」も、ちょっと同性愛臭い気がするのは、私の頭が腐っているからなのでしょうか…。
しかしこの短編集、よく人が死ぬなぁ…(笑)。そういえば、「ひみつの図書館」でも死んでたっけ。
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