2012年04月17日
「はてしない物語」感想・その2
というわけで、「はてしない物語」の続きです。前回の記事はコチラ
子供の頃読んだときは、ファンタージエンに入った後のバスチアンがどうなるのかハラハラしながら読んでいました。
というのも、バスチアン、どんどん増長していくのですよ。
幼ごころの君から与えられた「アウリン」。
本の表紙にもなっている、明暗2匹の、世界を支える蛇をモチーフにしたメダルです。裏には「汝の欲することをなせ」との文字が(ただ、これは欲望のままに、という意味ではないのでしょう)。
こいつが曲者で、バスチアンの願い事を叶えてくれるのですが、願い事を叶えるたびにバスチアンの現実界での記憶を奪っていくのです。
当のバスチアンは、記憶をなくしたことにも気付かず(なくしているのだから、そもそも思い出しようもなく)、さらにファンタージエンが気に入って、現実の世界に帰りたくないと思い始めたりします。
今になって改めて読み返すと、ネットゲームもなかった時代から、ミヒャエル・エンデはネット廃人のことを予見していたのか!?と思ってしまうほど(笑)。
バスチアンの状態は、いわゆるチート設定というのでしょうか、ファンタージエンにおいては最強です。
美男子になりたい!と思えば美男子になれるし(そしてチビデブだった現実の自分を忘れる)、
強くなりたい!と思えば力持ちになれるし(そしてひ弱だった現実の自分を忘れる)、
勇者になりたい!と思えば、勇敢な英雄になれるし(そして臆病だった自分を忘れる)、
何よりシカンダと名付けた剣は、手にしただけで敵を倒し、切れないものは何もないという凄い剣です。ただひとつ、「使用してよいのは剣が自ら鞘から抜き出たときだけ」という制約がありますが。
そりゃ、帰りたくなくなりますわな。
さらに、現実世界の記憶をどんどんなくしているので、ますます帰りたくなくなってきます。
アトレーユと幸いの竜フッフールがバスチアンを心配して、色々助言するのですが、バスチアンにとっては、段々とその助言や忠告がウザくなってきます。
なんだよ、子供扱いすんなよ、と。
いやいや、お前、子供じゃん、とつっこみたくなりますが、バスチアンは現実世界での自分を忘れてしまってるのです。
ただ、まあ、なんというか、バスチアンの気持ちも分からなくもない…かも。
子供の頃読んだとき、アトレーユが何考えているのか分からなくて不気味でしたもん(笑)。
アトレーユはクールすぎるのですね。バスチアンから見るといっつも険しい表情をしていて、表情が全く読めない(笑)。よほど苦労したのか、アトレーユは10歳の少年には思えません(笑)。
でもって、アトレーユが険しい表情をしているのは、おそらくバスチアンことを考えているときなんだと思うのですが、バスチアンには分かりません。
バスチアンは、アトレーユと親友だからこそ平等でありたかったのだと思うし、だからこそ、自分を認めてもらいたかったのでしょう。
ところが、そんなこんななバスチアンとアトレーユの感情が裏目に出て、バスチアンは現実世界の記憶を失い、どんどん増長し、やがてサイーデという女魔術師にそそのかされて、ファンタージエンの王様になろうとします。
ちなみに、幼ごころの君は、バスチアンがファンタージエンに来た時のみ登場し、その後は一切登場しません。バスチアンにアウリンを渡した後は、蒸発してしまわれます。
どうしてなのかはよく分かりません。
バスチアンの物語だからなのか。あるいは、分身となるアウリンを人間であるバスチアンに預けてしまったため、バスチアンがアウリンを持っている間(これはつまり、ファンタージエンにいる間)は会うことが出来ないのか。
バスチアンが王様になるのは、アトレーユによって阻止されますが、その時にバスチアンはアトレーユを傷つけてしまいます。しかも、シカンダを無理やり鞘から抜き出して。
重傷を負ったアトレーユはフッフールに助けられますが、バスチアンは復讐とばかりにアトレーユを追います。
そこで「元帝王の都」にたどり着き、ファンタージエンの王となった者、もしくは願いを叶えて現実世界の記憶が全くなくなってしまった者は、ファンタージエンから帰れなくなることを知ります。
…この、元帝王の都に住んでる人たちの描写がまた子供心に怖かった…。
言葉も忘れてしまっているため、話すことも出来ず、自分が誰かも分からず、年もとらずに、四角形のタイヤの乳母車を一生懸命押していたり、アルファベットのついたサイコロを転がして、出た目のアルファベットを書き出して、言葉にならない言葉をつくっていたり(途方もない数を振っていたら、偶然言葉になることはあるらしいけど、いやいやいやいや)。
人間であることを忘れてしまった、人間であることをやめてしまった、廃人達の都でした。
バスチアンは現実世界に戻ることを決心しますが、でも、残された記憶はもうあとわずか。
もうね、バスチアンがファンタージエンに入ってからの後半は、色々と痛々しくて沈んだ気持ちで読んでいました。どうなるのかハラハラしているんだけど、ページをめくる手は重くなってきます(笑)。
でも読み返すと、この物語はバスチアンの成長の物語で、バスチアンの辿る道は、成長の道なんだなあと思いました。
ファンタージエンに入ったバスチアンがまず知ったのは、生と死。
生きる喜びと躍動感、それから逃れられない死の悲しみ。
やがてバスチアンは「他人」を求めるようになります。
「他人」と出会うことにより、「他人に認められたい」という欲求が出てきます。
なかなか認められないと「なんで認めてくれないんだよー!」と反抗期に(笑)。
認められたら認められたで、「俺すげえ」と増長していきます(笑)。
そこで、一気に価値観の崩壊。挫折を味わいます。何の価値もない自分。
とはいえ、廃人になるわけにはいきません。
孤独にさすらい続けたあと、「なんでもいいから仲間が欲しい」と思うようになります。
やがて、ある事件をきっかけに、「なんでもいいからじゃ嫌だ。あるがままの、かけがえのない自分を愛してくれる人が欲しい」と思うようになります。
その望みが叶えられると、「自分も誰かを愛したい」と思うようになります。
でも、誰を?
この時にはもう、バスチアンは自分の名前以外はすっかり忘れてしまっているので、誰を愛したいのか分かりません。
で、その「誰を」を見つけるために、採掘抗で忘れられた夢をひたすら掘り続けることになるのです。
ある種、自立の物語でもあるんだろうなあ。
バスチアンの父親は、母親が亡くなって以来、心ここにあらず状態。
バスチアンの欲しいものは何でも買ってくれたりしましたが、バスチアンが本当に欲しかったのは、そんなものではなくて。
子供にとって両親は絶対の存在。
そして本来であれば、理由なく自分を守ってくれるはずの存在なわけです。
それが崩れるとき、子供は自己を成長させなければいけなくなるのでしょう。不条理で不合理な現実に対応できるように。
そして、どんなつまらない現実にも光を見つけ出して、モノトーンの世界を色とりどりの世界に染め上げていくのです。道に転がった石ころひとつで、輝く世界を創造するのです。
それを担うのが、それぞれの心に宿っている「幼ごころの君」なのかな?
…思えば、児童ファンタジーってそういうのが多いなあ。
何やらあまりまとまっておらずスミマセン。
そんなこんなな解釈を抜きにしても、私は面白かったです。
グラオーグラマーンに乗って駆けるシーンとか、フッフールが空を舞うシーンとか。
ちなみに、「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」というグラオーグラマーンの言葉の意味が、分かりません。私の経験値が足りないのでしょうか…。
ミヒャエル・エンデは、「ネバーエンディングストーリー」の1が作られた時、ラストに憤慨したそうですが(1の映画は、バスチアンがファンタージエンを救って終わりになっています。で、そのラストで幸いの竜でいじめっ子に仕返ししてるのですね。これでは自分の表したかったことと正反対だ、とエンデは怒ったそうな。他にも色々あったみたいだけど。)、子供は案外、大人が思うよりも色々と感覚的に分かっているような気がします。
まあ、原作読んだ後だと、エンデが怒るのも分からなくはないけど。
自分がエンデの立場だったら、やっぱり怒ると思う。
でも、あのラストは、物語を読み終えた後の充実感と開放感、それから物語の世界を疑似体験したことによるバスチアンの成長なのだと私は捉えていたのですが…。それ以降は幸いの竜の力を直に借りなくても、幸いの竜やアトレーユを思い出しては、それを力にしていじめっ子に立ち向かっていくのだと思っていましたですよ。
子供が夢中になったのは、いじめっ子への復讐ではなくて、
「現実世界で幸いの竜に乗れるバスチアン、羨ましすぎる!」
だと思います(笑)。
幸いの竜に乗って大空を飛び回ることに比べたら、いじめっ子どもへの復讐なんて、正直どーでもいいというか、重要じゃないというか。
あ、私がファンタージエンに行きたいかと言いますと、答えは「NO」です。
仮に行けても帰ってこられないわ、私はきっと(笑)。
子供の頃読んだときは、ファンタージエンに入った後のバスチアンがどうなるのかハラハラしながら読んでいました。
というのも、バスチアン、どんどん増長していくのですよ。
幼ごころの君から与えられた「アウリン」。
本の表紙にもなっている、明暗2匹の、世界を支える蛇をモチーフにしたメダルです。裏には「汝の欲することをなせ」との文字が(ただ、これは欲望のままに、という意味ではないのでしょう)。
こいつが曲者で、バスチアンの願い事を叶えてくれるのですが、願い事を叶えるたびにバスチアンの現実界での記憶を奪っていくのです。
当のバスチアンは、記憶をなくしたことにも気付かず(なくしているのだから、そもそも思い出しようもなく)、さらにファンタージエンが気に入って、現実の世界に帰りたくないと思い始めたりします。
今になって改めて読み返すと、ネットゲームもなかった時代から、ミヒャエル・エンデはネット廃人のことを予見していたのか!?と思ってしまうほど(笑)。
バスチアンの状態は、いわゆるチート設定というのでしょうか、ファンタージエンにおいては最強です。
美男子になりたい!と思えば美男子になれるし(そしてチビデブだった現実の自分を忘れる)、
強くなりたい!と思えば力持ちになれるし(そしてひ弱だった現実の自分を忘れる)、
勇者になりたい!と思えば、勇敢な英雄になれるし(そして臆病だった自分を忘れる)、
何よりシカンダと名付けた剣は、手にしただけで敵を倒し、切れないものは何もないという凄い剣です。ただひとつ、「使用してよいのは剣が自ら鞘から抜き出たときだけ」という制約がありますが。
そりゃ、帰りたくなくなりますわな。
さらに、現実世界の記憶をどんどんなくしているので、ますます帰りたくなくなってきます。
アトレーユと幸いの竜フッフールがバスチアンを心配して、色々助言するのですが、バスチアンにとっては、段々とその助言や忠告がウザくなってきます。
なんだよ、子供扱いすんなよ、と。
いやいや、お前、子供じゃん、とつっこみたくなりますが、バスチアンは現実世界での自分を忘れてしまってるのです。
ただ、まあ、なんというか、バスチアンの気持ちも分からなくもない…かも。
子供の頃読んだとき、アトレーユが何考えているのか分からなくて不気味でしたもん(笑)。
アトレーユはクールすぎるのですね。バスチアンから見るといっつも険しい表情をしていて、表情が全く読めない(笑)。よほど苦労したのか、アトレーユは10歳の少年には思えません(笑)。
でもって、アトレーユが険しい表情をしているのは、おそらくバスチアンことを考えているときなんだと思うのですが、バスチアンには分かりません。
バスチアンは、アトレーユと親友だからこそ平等でありたかったのだと思うし、だからこそ、自分を認めてもらいたかったのでしょう。
ところが、そんなこんななバスチアンとアトレーユの感情が裏目に出て、バスチアンは現実世界の記憶を失い、どんどん増長し、やがてサイーデという女魔術師にそそのかされて、ファンタージエンの王様になろうとします。
ちなみに、幼ごころの君は、バスチアンがファンタージエンに来た時のみ登場し、その後は一切登場しません。バスチアンにアウリンを渡した後は、蒸発してしまわれます。
どうしてなのかはよく分かりません。
バスチアンの物語だからなのか。あるいは、分身となるアウリンを人間であるバスチアンに預けてしまったため、バスチアンがアウリンを持っている間(これはつまり、ファンタージエンにいる間)は会うことが出来ないのか。
バスチアンが王様になるのは、アトレーユによって阻止されますが、その時にバスチアンはアトレーユを傷つけてしまいます。しかも、シカンダを無理やり鞘から抜き出して。
重傷を負ったアトレーユはフッフールに助けられますが、バスチアンは復讐とばかりにアトレーユを追います。
そこで「元帝王の都」にたどり着き、ファンタージエンの王となった者、もしくは願いを叶えて現実世界の記憶が全くなくなってしまった者は、ファンタージエンから帰れなくなることを知ります。
…この、元帝王の都に住んでる人たちの描写がまた子供心に怖かった…。
言葉も忘れてしまっているため、話すことも出来ず、自分が誰かも分からず、年もとらずに、四角形のタイヤの乳母車を一生懸命押していたり、アルファベットのついたサイコロを転がして、出た目のアルファベットを書き出して、言葉にならない言葉をつくっていたり(途方もない数を振っていたら、偶然言葉になることはあるらしいけど、いやいやいやいや)。
人間であることを忘れてしまった、人間であることをやめてしまった、廃人達の都でした。
バスチアンは現実世界に戻ることを決心しますが、でも、残された記憶はもうあとわずか。
もうね、バスチアンがファンタージエンに入ってからの後半は、色々と痛々しくて沈んだ気持ちで読んでいました。どうなるのかハラハラしているんだけど、ページをめくる手は重くなってきます(笑)。
でも読み返すと、この物語はバスチアンの成長の物語で、バスチアンの辿る道は、成長の道なんだなあと思いました。
ファンタージエンに入ったバスチアンがまず知ったのは、生と死。
生きる喜びと躍動感、それから逃れられない死の悲しみ。
やがてバスチアンは「他人」を求めるようになります。
「他人」と出会うことにより、「他人に認められたい」という欲求が出てきます。
なかなか認められないと「なんで認めてくれないんだよー!」と反抗期に(笑)。
認められたら認められたで、「俺すげえ」と増長していきます(笑)。
そこで、一気に価値観の崩壊。挫折を味わいます。何の価値もない自分。
とはいえ、廃人になるわけにはいきません。
孤独にさすらい続けたあと、「なんでもいいから仲間が欲しい」と思うようになります。
やがて、ある事件をきっかけに、「なんでもいいからじゃ嫌だ。あるがままの、かけがえのない自分を愛してくれる人が欲しい」と思うようになります。
その望みが叶えられると、「自分も誰かを愛したい」と思うようになります。
でも、誰を?
この時にはもう、バスチアンは自分の名前以外はすっかり忘れてしまっているので、誰を愛したいのか分かりません。
で、その「誰を」を見つけるために、採掘抗で忘れられた夢をひたすら掘り続けることになるのです。
ある種、自立の物語でもあるんだろうなあ。
バスチアンの父親は、母親が亡くなって以来、心ここにあらず状態。
バスチアンの欲しいものは何でも買ってくれたりしましたが、バスチアンが本当に欲しかったのは、そんなものではなくて。
子供にとって両親は絶対の存在。
そして本来であれば、理由なく自分を守ってくれるはずの存在なわけです。
それが崩れるとき、子供は自己を成長させなければいけなくなるのでしょう。不条理で不合理な現実に対応できるように。
そして、どんなつまらない現実にも光を見つけ出して、モノトーンの世界を色とりどりの世界に染め上げていくのです。道に転がった石ころひとつで、輝く世界を創造するのです。
それを担うのが、それぞれの心に宿っている「幼ごころの君」なのかな?
…思えば、児童ファンタジーってそういうのが多いなあ。
何やらあまりまとまっておらずスミマセン。
そんなこんなな解釈を抜きにしても、私は面白かったです。
グラオーグラマーンに乗って駆けるシーンとか、フッフールが空を舞うシーンとか。
ちなみに、「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」というグラオーグラマーンの言葉の意味が、分かりません。私の経験値が足りないのでしょうか…。
ミヒャエル・エンデは、「ネバーエンディングストーリー」の1が作られた時、ラストに憤慨したそうですが(1の映画は、バスチアンがファンタージエンを救って終わりになっています。で、そのラストで幸いの竜でいじめっ子に仕返ししてるのですね。これでは自分の表したかったことと正反対だ、とエンデは怒ったそうな。他にも色々あったみたいだけど。)、子供は案外、大人が思うよりも色々と感覚的に分かっているような気がします。
まあ、原作読んだ後だと、エンデが怒るのも分からなくはないけど。
自分がエンデの立場だったら、やっぱり怒ると思う。
でも、あのラストは、物語を読み終えた後の充実感と開放感、それから物語の世界を疑似体験したことによるバスチアンの成長なのだと私は捉えていたのですが…。それ以降は幸いの竜の力を直に借りなくても、幸いの竜やアトレーユを思い出しては、それを力にしていじめっ子に立ち向かっていくのだと思っていましたですよ。
子供が夢中になったのは、いじめっ子への復讐ではなくて、
「現実世界で幸いの竜に乗れるバスチアン、羨ましすぎる!」
だと思います(笑)。
幸いの竜に乗って大空を飛び回ることに比べたら、いじめっ子どもへの復讐なんて、正直どーでもいいというか、重要じゃないというか。
あ、私がファンタージエンに行きたいかと言いますと、答えは「NO」です。
仮に行けても帰ってこられないわ、私はきっと(笑)。
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