2012年03月21日
森絵都「宇宙のみなしご」感想
珍しいことに、何だか無性に「小説が読みたい!」気分になり、
水森サトリ「でかい月だな」
宮本輝「星々の悲しみ」
村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」
森絵都「宇宙のみなしご」
森絵都「カラフル」
をゲット。
タイトルだけで己の趣向が分かってしまうのが何ともはや、ですが(笑)。
でもって、皆「ま行」の作家ばかりなのは、きっとただの偶然です(笑)。
積ん読本が残っているというのに…。
宮部みゆきの「火車」とか、まだ全然読んでないや。
ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」も、下巻入ったところで止まっております。
上巻はツァラ君のテンションの高さにも何とかついていけたのですが、下巻に入るともう、読者置いてけぼり。元々が理解できない内容なのに、ツァラ君のテンパり(?)っぷりに拍車がかかった下巻は、もはや解読不能。
「ツァラ、頼む、落ち着いてくれ、あんたが何を言ってるのか、何を見ているのか分かんないよ」
と心の中で何度思ったことか(笑)。
まあ、そんなこんなで話を戻しまして、森絵都さんの「宇宙のみなしご」を読みました。
文章量が少ないので、思ったより速く読めました。引き込まれたせいもあるのかもしれません。ほぼノンストップで読んでしまいました。
児童文学関連の賞をとっている作家さんなので、岡田淳さんあたりな感じを想像していたのですが、昔のライトノベルチックというか、ジュブナイル小説?チックというか、ポプラ社の少年少女文庫チックというか。
かなり読みやすいです。
所々、「いいなぁ」と思う表現があったり。
何より、小学生高学年の頃の、自分を思い出してしまいましたよ。
ああ、恥ずかしいことを色々していたなあ。
ただ、何だろう、とても世界に対して、ある意味とても寛容だった年頃でもあった気がします。
いえ、振り返ると色々イタイことやってたんですけどね。
それこそこの作品に出てくるキオスクのように、この世界も自分もかりそめの存在で、死んだら本当の世界に戻れるんだ、なんて考えてるところがあって、自殺というか、「死」というものにとても興味を持っていた年頃でした。
オカルト系の本なども読んで、ホラー話も好きで、スピリチュアル関係も大好きでした。
階段の踊り場で、手すりを鉄棒みたいにして遊んでいたら、そのままひっくり返って落ちて、階段にあごをぶつけて入院したことがあります。
落ちていったときの、あの、永遠に続くかのような階段は忘れられません。
運よく(?)足から落ちて、階段の段に顎をぶつけて、顎骨折で済んだのですが、頭から落ちたら死んでたことでしょう。
退院してみたら、何故か、昔我が家で飼っていたネコの霊が私を助けてくれたことになっていました…。
ああああ、オカルト好きだった私のばかー!と思いましたが、まあ、確かに運良く助かったので、ネコの霊が助けてくれたのだということにしておいても、何の支障もないと思います。
今思えば、本当にアホなことをしていたなあと思います。今はもう、怖くてできないわ(笑)。
状況が状況だったら、キオスクみたいに自殺説が流れていたかもしれない(笑)。
確かに、「死」には興味があったし、どこか憧れていたけども、そして世界がどうしようもないものだと勘付き始めていたけども、だからといって、本当に死にたいほど絶望していたわけではないのです。
何があるわけでもないのに、屋根にのぼる遊びを楽しむ陽子とリンの気持ちが、分からなくはない気がする。
あんなくだらないバカなことを出来るのは、あの頃の特権なんだよなあ。
理由なんて、なかったのかもしれない。
あるとしたら、「今のうちにしかやれない遊びをやりたい」だったのかも。
あと、大人というものが、自分とほとんど変わらない人間なんだと気付いて、大人に対してビミョーに寛容になっていた時期だった気がします(笑)。
もっと幼い頃は、大人になったら色々分かるんだと思っていたんです。
それこそ、世界の全てを知ることが出来るんだと。
月はどうして追いかけてくるのか。
雲はどうやって出来るのか。
工場の煙突から出ている雲と、雨を降らす雲の違いは何なのか。
白い雲と黒い雲の違いは何なのか。どうして時々戦っているのか。
宇宙はどうやって出来たのか。宇宙の果てには何があるのか。
地球や月は、どうやって宇宙に浮いているのか。
宇宙に龍はいるのか。いるなら、暴れて地球や月を壊してしまわないのか。
小さな石と、庭に埋まっている大きな石の違いは何なのか。
海にはどうして波があるのか。私のお気に入りのサンダルを波でさらって、海はどこへ隠したのか。
心はどこから生まれてくるのか。
天使と悪魔は、どうして心の中で戦うのか。
地上で輝いている星と、空で瞬いている星は同じなのか、違うのか。違うなら、どう違うのか。
サンタさんはどこにいるのか。みんなの家にプレゼントを配って、サンタさんのお金は大丈夫なのか?
天国はどんなところなのか。どこにあるのか。
空の向こうは、どんなところなのか。
どれだけ穴を深く掘ったら、地球の裏側に行けるのか。
などなど。
大人は、そういったことを知っているんだと思っていました。
だって、大人は色々なことを知っているし、遅くまで起きていられるし、強くて泣かないし、難しい本を読んでいるし。
小学校高学年になって、大人の読む本(現代大衆娯楽小説)を読んで、とても面白いけど児童文学ほどの感動はなくて、「なーんだ、大人の本も子供の本も、たいして変わらないのか」と思ったりしました。
がっつり恋愛系を読みたいなら、大人向けの本なんだな〜、と思ったり(笑)。
児童文学は、そこまで露骨に「好いた惚れた」はないんですよね。淡いままで終わってしまったりするので、恋愛話を読もうと思うと物足りないのです。
ええ、ませたガキでございました…。
ライトノベルを読めば恋愛描写はもちろんあったのですが、ライトノベルは漫画小説というイメージが強かったので。一般に言う小説とは別物として捉えていました。
話を戻しまして。
大人も泣くし、間違うし、完全じゃないんだ、自分と同じ人間なんだ、と分かったとき、とても大人に対して寛容になったと思います。
自分と同じ人間なら、間違っても仕方ないし、許してあげよう、と。
大人は大変だもん、子供の自分が許してあげなきゃ、と。
うーん、何様のつもりでしょう(笑)。
あ、中学生2年後半あたりにもなると、そうはいかない。心は大変狭くなります(笑)。
「なんで私のこと分かってくれないの」が始まってしまうので。
ちなみに、この本の中で気になった言葉。
「キオスク。あんたはね。いつもはただの中学生で、じつにただの中学生なのよ」
今の自分の姿は仮の姿で、本当の姿は世紀末の大戦を戦う戦士なんだ、と言ういじめられっこのキオスクに向かって、主人公の陽子が意地悪で言った言葉です。
でも、とても真実だと思う(笑)。
後半の、キオスクのいい感じの開き直りっぷりが好きです。
それに対しての陽子のつっこみも、なかなか楽しいです。
いいコンビな気がする。この二人の色気のなさっぷり、これはこれで好きです。ホントに戦友だったんじゃないのか、前世があるなら、前世で。
「いつもはただの中学生で、じつにただの中学生なのよ」
この言葉を受け入れるために、多感な少年・少女時代に、人は傷ついていくんだろうなあ。
特別でないのが怖くて、でも特別かもしれないと思っていた自分は、実はやっぱり特別なんかじゃないのであり、でも、特別じゃない自分が特別なんだという、矛盾しているようで矛盾していないそのことを受け入れるのに、どれだけの時間がかかったか。
「いつもはただの中学生で、じつにただの中学生なのよ」
この言葉に付け足したい。
「だからこそ、あんたなんじゃないの」
人は孤独です。
本当に自分を救えるのは、自分しかいない。
それでも、ずっと孤独でいるのは辛いから、時々手を繋げる誰かを見つけようとするのです。
見つかったときの嬉しさったら、きっと何にも代えがたくて、だからこそまた見つけようとして、そうやって手繋ぎの輪が繋がっていくんでしょう。
なんか、最後、ちょっとBUMPの「オンリーロンリーグローリー」を思い出しました。
欲を言えば、ラストは、若干急ぎ足と言うか、良いセリフを持ってきてまとめてしまっている感があるので、ちょっと拍子抜けだったのが残念です。
もっとしっとりした、本当の孤独と、宇宙の広さと荘厳な静けさと、その中での出会いを感じられる内容だったら良かったなあ。
セリフが良いだけになおさら残念。
書きたいこと、他にも色々あるのですが、まとまらないのでこれで載せちゃえ(笑)
まとまることがありましたら、また後日に。
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