2012年03月28日
「まんがと図解でわかるニーチェ」感想
ツァラさんの暴走について行けず、下巻で止まったままの「ツァラトゥストラはこう言った」。
せめて、ツァラさんを読んでから読もうと思っていた、「まんがと図解でわかるニーチェ」をもう諦めて読みました。
この本の監修者が、「超訳ニーチェの言葉」の著者と同じ方なんですね。
「超訳ニーチェの言葉」は個人的に、「ニーチェの言葉」としてはどうかな〜、と思っていたので、この本に書かれていることも鵜呑みには出来ないかもな、と、あまり期待せずに読みました。別冊宝島だし。宝島だし。
いや、だって、表紙に
「超人」「ニヒリズム」…ニーチェの思想が2分で理解できる!
女子大生・まどかVS謎の男”ニーチェ”
恋も悩みも生き方もニーチェが教えてくれた 幸せになるための”テツガク”(はぁと)
ですよ?(笑)なんかもう、「いやいやいやいや」みたいな。
ニーチェが現代に生きていて、この表紙見たら、憤死するんじゃなかろーかと(笑)。
でも案外、漫画絵は気に入るかもしれない(笑)。
でもでもどうなんだろう、「萌え絵なんぞで世間に迎合するなんぞけしからん!」と怒るかな?
「…しかし、迎合していないんなら、許す」とか言わないかな。
あ、でも、萌え絵というほど萌え絵ではないです。
ふつーに、今風の漫画な感じでした。いや、今風ともちょっと違うような…。
というわけで、ニーチェさんです。
「神は死んだ」という言葉が大変有名な方でございます。
ニヒリズムを徹底的に問い詰めた結果、「無意味な人生を全肯定して、永遠に繰り返される人生すらも受け止めよ!」とかゆー、ぶっとんだ狂気の沙汰の永遠回帰説を説いた方です。
1分1秒違わず、もうホントにそっくりそのままの事柄が永遠に繰り返される人生を肯定できるか?
死を迎えたとき、「これが生であったのか! さあ!もう一度!」と言うことが出来るか?
出来る者が、全世界を肯定する勇気と強さを持つ者、「超人」なのだと。
……ニーチェ、ごめん、私には無理だよ。価値のない世界を生きることは出来ても、価値のない全く同じ人生を繰り返されるのは嫌だよ〜〜。
超人になれなくていいです、ルサンチマンの、畜群でいいです。
ニーチェに嫌悪されると思うけど、それすらも意味のないことなんでいいです。
善悪もないなら、ニーチェに嫌われたって好かれたって関係ないもん、「弱虫め」って陰口言われたっていいもん。
今と全く同じ生が、何も変わることなく永遠に繰り返されるなんて、別の意味で
「嘔吐、嘔吐、三度嘔吐!」
ですよ。変化も希望もない、永遠の無意味に精神は耐えられん…。絶対どっかで発狂するわ。
そんなんに耐えられるのは、もう人間じゃないでしょう。神様の領域でしょう。
だから「超人」なんだろうけどさ。
そこまで自身を追い詰めなくてはニヒリズムから抜けることが出来なかったニーチェっちの思想を、自己啓発のノリで語られてしまうと、「なんかなぁ」という気がしてしまいますが、それすらも無意味で無価値ってことでよろしいんだろうか、ニーチェさん。
ところで、「全てのものは平等に価値がある」って、「全てのものは平等に価値がない」と同じなんでしょうか??
昔から不思議だったもののひとつに、「平等」があるんですが、ほんっとーの本当に「平等」になったら、一切のものに価値ってなくなるんじゃないかと。
「優劣つけるのはよくないから、みんなで手を繋いで仲良くゴールしましょう」
みたいな気持ち悪いことになるんでないかと。
…走るのが速い子の価値や個性はどーなるんだ??
そのくせ、「個性を伸ばしましょう」ってわけわからん。
よく、「神様や仏様の前では、皆平等(に価値あるものなの)ですよ」と言われるけど、それって、つまり、言い換えれば平等に価値がないってことなんじゃ?
見方や言い方を変えてるだけで、ニーチェが言ってることと宗教の説いてる「平等」ってほとんど同じなんじゃないかと思ってしまうのです。
でも、それじゃあんまりにもあんまりなんで、後世の人がもっともらしい理由をつけたんじゃないかな〜〜、とか。
宗教詳しくないので分かりませんが。
だって、
「神は平等ですので、悪しき人も善き人も、等しくお救いになります。もちろん、神を信じる人も、信じない人も、等しくお救いになります」
なんてこと言われたら、「なら神様なんて信じない」「じゃー好き勝手にやるわ。悪人でいいわ。どーせ救ってくれるんでしょ」ってなるだろうし。
全てが等しい神様にとっては、ひょっとしたら蟻と人間の命も等しいかもしれなくて。
蟻1匹生かすために、人間100万人殺すこともあるかもしれないわけですよ。
人間である私たちは、「いや、そんなことないでしょ」って思うかもしれないけど、相手は神ですよ?
次元が違うんだから、私たちの常識が神にとっての常識であるなんて保障はどこにもない。
そう考えたら、ニーチェの言う「神は死んだ」は、この本では、これまで絶対だと思っていた権威や倫理、道徳が何の意味もなくなったことをさす、みたいに書かれていましたが、
神を弱者が自分勝手に歪めて利用したことにより、本来の意味での神は死んでしまった
っていう意味にも捉えられないのかな〜、と。
まあ、私の勝手な思いつきと偏見ですが。
ニーチェは、キリスト教の体制を嫌っていたんじゃないかという気がしたので。
あと、ニーチェはこの本によると、イデアも否定していたようなんですが、この本の最後のほうに書かれていた「力への意志」の「力」って、プラトンの初期イデアを彷彿とさせるんです。
「饗宴」だったか「パイドロス」だったか「パイドン」だったか忘れましたが(あ、「パイドロス」だった)で書かれていたイデアが、そりゃもう素晴らしくて、「これがあるなら、私は生きていける!」と思ったのです(大げさか?)
魂は、イデアを生きる糧とする。イデアを求める。イデアのある高みへと飛躍しようとする。ただし、人間の魂では、イデアをしっかりと見ることは叶わない。
古代ギリシャの善悪は、今の道徳的な善悪とちょっと違ったところがあると習った記憶があります。
バランスがとれている=善、バランスが崩れている=悪、的な。
間違ってたらすみません。
だから、プラトンの言う「善のイデア」も、それは本当に、今の倫理的な意味での「善」だったのかな〜と疑問に思うところがあったりします。
生きる力を与えるもの=善、と考えてたところがあるんじゃないかな、と。
人間が良く生きていこうと志すものが、悪であるはずはないだろうし(まあ、その「良く生きていこう」の「良く」って何よ?ってことになりそーですが)。
「善のイデア」を歪めて捉えることが悪だと思ったんです。だから、「悪のイデア」なるものは存在しない。
美のイデアも、善のイデアから派生したもの、のような気がしていたんです。
「パイドロス」を読んだ感じでは。
ところが…、うん、どっかで「三角形のイデア」とか「椅子のイデア」とか出てきた時点で、私的には「どーしてこうなった!」な気持ちでした。
燦然と輝く、善なるイデアはどこへ行ったの?
私たちの魂を高みへと進ませる、あのイデアはどこへ消えたの?
私が知りたいのは、三角形のイデアとか、椅子のイデアとか、そーゆー観念的なことじゃないんだよ!
うがー!責任者呼んでこい、責任者!
と叫びたくなるほどがっかりした記憶があります。
いや、まあ、プラトンとか、その時代の哲学者が求めていたのは、観念的なもののほうだったんだろうけどさ。アカデメイアあたりでは、きっと白熱した論争が繰り広げられてただろうし。論破してナンボなところあるものなあ、ギリシャ哲学。
初期イデアを彷彿とするせいか、プラトンの時代もニーチェの時代も、そして現代も、
「どう生きるか」
で悩んでるんだなー、と思いました。
2000年以上かけても答えは出ないし、かつ、根底的にはずっと同じことを言ってるよーな気がします。
でも、全てを疑ってかかって、その中から生きる光を見出そうとあがく哲学は、私は嫌いじゃないです。
哲学者の大半は、ひねくれまくってると思うけど(笑)。
※注:このページに書かれた内容は、全て私のタワゴトでございます。する人なんていないと思うけど、レポートとかの材料にしちゃダメっすよ〜。根拠ないから。。。
↓文庫本で新しく出るそーな
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