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2012年04月14日

「はてしない物語」感想・その1

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)




「はてしない物語」です。

ミヒャエル・エンデ作。

1985年に日本で公開された映画、「ネバーエンディングストーリー」の原作。
ネバーエンディングストーリーのテーマは、今でも使われてたりするような気が…する。わかんないけど。

子供の頃、この「ネバーエンディングストーリー」が土曜ロードショーか何かのテレビで放送されて、た大抵の子は観てたっけなあ。
まだインターネットもない時代でした。テレビゲームも全然リアルじゃなかったし。
もちろん、「ネバーエンディングストーリー」も今の映像技術から比べると、合成感丸出しのひでえ映像だったりしますが、人間の妄想にはフィルターといいますか、補正がかかるのです。

ええ、私の頭の中では、白い幸いの龍が稲妻のように空から舞い降りたり、大気のように軽やかに嬉しそうに舞っていましたとも。

岩波少年文庫として、文庫本でも出ているようですが、私はこの豪華装丁のほうをオススメします。高いけど。

だって、本の中に出てくる「はてしない物語」と同じなんですよ!
赤絹の表紙、表紙に描かれた明暗の二匹の蛇、でもって中身は赤と緑の2色刷り。
初めてこの本を手に取ったのは小学4年だか5年だったと思いますが、ここまで凝った本に出会ったのはこれが初めてでした。というか、それ以後もこんな本には出会えていないかもしれない。
頑張ったな〜、岩波書店!
出版した時が、バブル真っ最中だったのかもしれないけど、それでも拍手したい。
こんな本にして出してもらえるなら、これは作者冥利に尽きるというものでしょう。
(実際、作者のエンデはとても感激したとかいう話どっかで読んだような…。ネットでだけど)

きっと、映画の「ネバーエンディングストーリー」に夢中になったんでしょう、滅多に本なんか読まないようなクラスメイトの男子が貸して欲しいと言ってきて、貸してあげたら食い入るように読んでいたのを思い出します。

私も続きが読みたかったので、その子が読み終わる前に返してもらったのですが…。
ビミョーにそれが未だに心残りで。
私はいつでも読めたんだから、その子が読み終わるまで待っていたらよかったなー、と。
まあ、今思うと、かなりぶ厚くて、小学生が読むには難しげな感じがするので、その子が最後まで読めたかは分からないですが。
でも、その子が休み時間になっても外界の音をシャットアウトして本を読んでいたあの光景が忘れられないのですよ。読書よりスポーツ!な子だったのに。
その様子はまさしくバスチアンだったし、私だったし、何より彼はあの時、ファンタージエンに足を踏み入れていたのになあ、と。

私は映画を先に観たので、小説を読んで、映画はただの序章に過ぎなかったのだと知って唖然としました。

「はてしない物語」は、前半と後半に大きく分かれていて、主人公であるバスチアンがファンタージエンに来る前と来た後です。

ファンタージエンに謎の「虚無」が広がり、次々と世界が呑まれていきます。
さらに、ファンタージエンの女王、「幼こころの君」は重い病気にかかっていて、瀕死。
この「幼ごころの君」は、彼女がいなくてはファンタージエンそのものが成り立たない、という大切な存在で、その女王の病がどうやったら治るのかを旅をして探る、という役目を与えられたのが、アトレーユ。

ネタバレしてしまうと、アトレーユはバスチアンをファンタージエンに連れてくるための、大変悪い言い方をすると、エサみたいなものです。
バスチアンと同じくらいの年で、全然違っていて、それでいてどこか共通する部分があって、だからこそバスチアンがアトレーユに共感するに違いないと幼ごころの君は感じたのでしょう。

多分、読んでいるのがバスチアンではなかったら、別の者に白羽の矢が立ったのではないかと思います。
勇士ヒンレックだったり、岩食い男だったり、ジンのイルアンだったかもしれないです。
あるいは、バスチアンの読んだ「はてしない物語」には出てこない人物だったかも。

アトレーユの冒険にすっかり引き込まれたバスチアンは、見事に幼ごころの君の思惑通り(ひでえ書き方してますが、私、幼ごころの君が1番好きです・笑)、幼ごころの君に出会い、新しい名前を授けます。

幼ごころの君の病を治し、ファンタージエンを救うのは、幼ごころの君に名前を差し上げることだったからです。

でも、ファンタージエンの生き物が名付けるのではダメで、名付けるのは人間でないと意味がない。
ファンタージエンは幼ごころの君が創った世界なので、自分で自分の名前をつけることは出来ない、ということなのでしょーか。よく分からないけど。

バスチアンが幼ごころの君を一目見た瞬間に名前が浮かんだとか、とても分かる気がする。
正しい名前を付けた時、その瞬間に一気に物語が生まれるのも、分かる気がする。
物語を書く時、登場人物の名前がしっくりこないと物語が動き出さない。
逆に、その人物の性格や運命などから、「コイツの名前はコレだ!」というのがあったりする。

とまあ、そんなこんなで名前の重要さにビビった私は、猫1匹の名前もつけられないほどチキンな人間になりました。

私以外の家族は別にそんなこと思っていなかったと思いますが(母親は「名前を付けるなんて怖くてできない」って言ってたなあ。ちなみに、子供は全員父親が名前をつけております)、でも、家族の誰も猫に名前をつけたがらず、捨て猫か迷い猫がそのまま家に居着いたとき、猫につけた名前は「チビ」。
でかくなっても「チビ」。いいの、だって、人間よりはチビなんだもの。
我が家の猫は代々「チビ」でした。
一時期、捨て猫、迷い猫が多くなって、3匹猫がいたときがありましたが、そのときは「チビ(呼び方は「ちーちゃん」)」「チビチビ」。三匹目はチビチビチビにはならず、「三匹目(これではあんまりなので、さんすけ、と呼んでました。メスなのに)」。
まあ、その呼び方そのものが名前なんじゃないかというつっこみはさておきます…。

「幼ごころの君」ですが、ドイツ語の原書では「Die Kindliche Kaiserin」だそうです。
ネット翻訳すると、「無邪気な女王」。ううううん?
英語訳では、「The Childlike Empress」らしいです。
やっぱり、「無邪気な女王」「純真な女王」か…。

で、日本語での「幼ごころの君」という翻訳をエンデは大層気に入ったとかいう話を、やっぱりネットで見たような気がするのですが。
エンデのイメージにドンピシャな訳だったとか。
ただ、ううむ、ホントかどうかは定かではありません。

でも確かに、この「幼ごころの君」という翻訳は見事だと思うんです。
というか、ぴったりしすぎて、むしろこれが名前でいいじゃん、と思ってしまうほどに(笑)。
バスチアンは、幼ごころの君に「月の子(モンデンキント)」という名前をつけるわけですが、読んでる私としては、「いやいや、幼ごころの君以外にしっくりくる名前ないでしょ」と思ってしまうのです。

外見は幼い美少女だけども、ファンタージエンの始まりの時からいて、年を取らず、ファンタージエンのものは良いものも悪いものも、美も醜も何もかも分け隔てなくあらしめ、彼女がいなくてはファンタージエンは存在しえず、創造の源、望みを統べたもう金の瞳の君。

「幼ごころの君」で、もういいじゃないですか。
人間の心の中に必ず存在していて、世界の全てをそのままに受け止め、世界に輝きと色を与え、生きていく力を与えるもの。
それ以上の名前、思いつかない。

子供の頃に読んでも、「幼ごころの君」はやっぱり「幼ごころの君」で、大人になって読み返しても、それ以上にふさわしい名前は思いつきませんでした。
ごめんなさい、私には「幼ごころの君」に名前を差し上げることが出来ません(笑)。

訳が良すぎるのも問題ですね(笑)
とはいえ、他の箇所は、昔だからか、読んでいてスムーズじゃないところもあったりするのだけど。
(これは原書の問題かもだけど、やたら「ぐるり」が出てくる・笑)


そんなこんなで、まだ語り尽くせず、次回に続く
posted by みあ at 02:14|
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日々の中で感じたことを、個人的な偏見を交えて語りたいと思います。 本とか、音楽とか、映画とか、いろいろ。
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