2010年09月12日
春日局は家光の母??
2010年9月11日の「世界不思議発見」は江戸時代の大奥特集でした。
その中でちょっと気になる話が…。
「春日局は徳川家光の母だった!?」
というものです。
ご存じの通り春日局は徳川家光の乳母ですよね。
それが母??
実は私は戦国時代には興味はあるんですが、その後は幕末まで興味がなく、あまり詳しくないんですよね。
でも春日局が家光の乳母だったことぐらいは知っていました。
一般的に徳川家光は…。
徳川秀忠と江の間に生まれた子供。
ちなみに江は浅井長政と織田信長の妹、お市の間に生まれた子供ですね。
しかしながら番組の内容では、以下のような事を言ってました。
「松のさかえ」という史料が東京の京橋にある図書館に保存されているとの事。
そこには春日局が家光の母との記載があるそうです。
また、家光は「二世権現、二世将軍」と書いた物を持っていたという話でした。
確かに、東照大権現が家康の神号ですし、征夷大将軍に任命されたのも家康。
二世権現、二世将軍という事は父である秀忠を完全に無視してますよね。
しかも、番組では「家光の父親が家康という説もある」と話していました。
そこで、Wikipediaで調べてみました。
春日局が家光の母親であるというのは、小説家八切止夫がたてた説だそうです。
紅葉文庫にあった「松のさかえ」という資料が明治44年に国書刊行会により活字本として刊行され、そのうちの「新君家康江御遺文」(慶長十九年二月二十五日付)に秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣」と記されていることを根拠としているようです。
(ちなみに竹千代君とは家光の事)
確かに「御腹 春日局」と記載されています。
という事は…。
家光は秀忠と春日局との間に生まれた子供なんでしょうか?
ただ、家光は東照大権現として祀られた祖父の家康を深く尊崇していたそうです。
春日局の筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって回復し、以降も病に臥せる度に家康の霊夢によって回復した話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒した家康が、家光を駿府に引き取って養子にしてから三代将軍に就けると叱責した話等が記されているそうです。
また家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどから、父秀忠よりも祖父家康の恩を意識していたと考えられているそうです。
さらに、寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると日光社参を生涯のうちに10回行っていたり、晩年家光は度々家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその像を何度も描かせているそうです。
他にも、家光は身に付けていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れていて、家康とのつながりの意識の強さと、その尊崇ぶりをいかんなく発揮しています。
以上Wikipediaより徳川家光及び春日局を調べ、その記載を元に記述しました。
何とも微妙な話ですね。
確かに、秀忠夫妻は次男(長男は若くして早世)の家光よりも弟の忠長を寵愛していたそうですし、家光としては父母の愛情を余り感じられなかったのかも知れません。
が、家光が秀忠夫妻の子供ではなく家康の子供だったとすれば…。
何らかの理由で秀忠夫妻に彼らの子供として育てられていたという事になるんでしょうね。
秀忠夫妻からすれば家光よりも自分達の子供である忠長を愛するのは納得できます。
しかも、家光が秀忠よりも家康を尊敬していた理由や、「二世権現、二世将軍」の意味も理解できますね。
また秀忠夫妻が家光より忠長を寵愛して、家光を粗略に扱っている事に対し、家康が激怒したのもうなずけます。
となると…。
本当は家光は家康と春日局の間に生まれた子供なんでしょうか…。
謎ですね。
私のネットショップです。
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というものです。
ご存じの通り春日局は徳川家光の乳母ですよね。
それが母??
実は私は戦国時代には興味はあるんですが、その後は幕末まで興味がなく、あまり詳しくないんですよね。
でも春日局が家光の乳母だったことぐらいは知っていました。
一般的に徳川家光は…。
徳川秀忠と江の間に生まれた子供。
ちなみに江は浅井長政と織田信長の妹、お市の間に生まれた子供ですね。
しかしながら番組の内容では、以下のような事を言ってました。
「松のさかえ」という史料が東京の京橋にある図書館に保存されているとの事。
そこには春日局が家光の母との記載があるそうです。
また、家光は「二世権現、二世将軍」と書いた物を持っていたという話でした。
確かに、東照大権現が家康の神号ですし、征夷大将軍に任命されたのも家康。
二世権現、二世将軍という事は父である秀忠を完全に無視してますよね。
しかも、番組では「家光の父親が家康という説もある」と話していました。
そこで、Wikipediaで調べてみました。
春日局が家光の母親であるというのは、小説家八切止夫がたてた説だそうです。
紅葉文庫にあった「松のさかえ」という資料が明治44年に国書刊行会により活字本として刊行され、そのうちの「新君家康江御遺文」(慶長十九年二月二十五日付)に秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也、左大臣」と記されていることを根拠としているようです。
(ちなみに竹千代君とは家光の事)
確かに「御腹 春日局」と記載されています。
という事は…。
家光は秀忠と春日局との間に生まれた子供なんでしょうか?
ただ、家光は東照大権現として祀られた祖父の家康を深く尊崇していたそうです。
春日局の筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって回復し、以降も病に臥せる度に家康の霊夢によって回復した話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒した家康が、家光を駿府に引き取って養子にしてから三代将軍に就けると叱責した話等が記されているそうです。
また家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどから、父秀忠よりも祖父家康の恩を意識していたと考えられているそうです。
さらに、寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると日光社参を生涯のうちに10回行っていたり、晩年家光は度々家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその像を何度も描かせているそうです。
他にも、家光は身に付けていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れていて、家康とのつながりの意識の強さと、その尊崇ぶりをいかんなく発揮しています。
以上Wikipediaより徳川家光及び春日局を調べ、その記載を元に記述しました。
何とも微妙な話ですね。
確かに、秀忠夫妻は次男(長男は若くして早世)の家光よりも弟の忠長を寵愛していたそうですし、家光としては父母の愛情を余り感じられなかったのかも知れません。
が、家光が秀忠夫妻の子供ではなく家康の子供だったとすれば…。
何らかの理由で秀忠夫妻に彼らの子供として育てられていたという事になるんでしょうね。
秀忠夫妻からすれば家光よりも自分達の子供である忠長を愛するのは納得できます。
しかも、家光が秀忠よりも家康を尊敬していた理由や、「二世権現、二世将軍」の意味も理解できますね。
また秀忠夫妻が家光より忠長を寵愛して、家光を粗略に扱っている事に対し、家康が激怒したのもうなずけます。
となると…。
本当は家光は家康と春日局の間に生まれた子供なんでしょうか…。
謎ですね。
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