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歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年12月09日
三国志 曹操と荀ケのつながり
三国志での名コンビのひとつとして、曹操(ソウソウ)と荀ケ(ジュンイク)があげられますね。

ただ、荀ケの死に方から、この二人に関してはさまざまな事が言われています。

大宦官の家系から生まれた曹操に対し、当時の清流派知識人筆頭ともいえる荀ケが完全に心服していたはずがないといったような扱いもちらほらと目にします。

確かに、当時の状況では、清流派知識人の筆頭として荀ケを出した荀氏があげられます。

荀ケの叔父に当たる荀爽(ジュンソウ)は無位無官から90日で司空にまで上った人物ですしね。

まあ、これは当時宦官に虐げられていた清流派知識人に目を付けた董卓(トウタク)が自身の政権のイメージアップの為に清流派知識人をどんどん登用したことが理由ですが…。

要は、荀ケは清流派知識人の筆頭格として、曹操を利用して漢王室の再興を考えていたというのが、結構定説的に扱われています。

しかしながら、曹操を主君に選んだのは荀ケなんですよね。

当時袁紹(エンショウ)幕下にいた荀ケは、袁紹が大事を成す男ではない事を見切り、曹操の元に走った訳ですよ。

その当時の袁紹勢力と曹操勢力は、圧倒的に袁紹が大勢力でしたよね。

しかも、曹操は袁紹派閥とみられていた時期です。

そんなときに曹操の元に荀ケが走った訳ですから、これは凄いことですよ。

単純に曹操を利用して漢王朝を再興しようなんて理由で、そんな博打に出るはずがありません。

やっぱり荀ケから見た曹操は、かなり魅力的な男だったということですよね。

その後はことごとく荀ケの方策が当たり、曹操が最大の勢力になることになるのですが…。

曹操は宦官の家系ということで、清流派から当初は敬遠される人物だったんでしょうね。

そこに清流派知識人筆頭格の荀ケが飛び込んだ訳ですから、曹操は清流派の人々からも一目おかれる存在になる訳ですよね。

曹操にしてみれば、荀ケのおかげで、かなりの清流派を幕下に従える事ができるようになった訳です。

そんな清流派知識人筆頭格の荀ケ…。

曹操と荀ケの関係を語られる上であまり論じられないんですが…。

荀ケの妻も宦官の家系から出ているんですよね。

荀ケは、当時中常侍という宦官の総元締めの役職について権威を振るっていた唐衡(トウコウ)の娘を娶っているんです。

恐らく、いかに荀氏とはいえ、大宦官の家から持ちかけられた縁談を父の荀コン(ジュンコン/コンは糸偏に昆)が断れなかったという所なんでしょうね。

もし断ったら、下手をすると荀氏一族が皆殺しという事もあり得ますしね。

しかしながら、この事が荀ケの目を開眼させたと考えられます。

要は、一般的な清流派の人々は濁流中の濁流である宦官の家系を忌み嫌っている為、曹操に仕えるという発想がわかないですが、荀ケには「宦官の所業と宦官の出自は異なる」という明確な認識が存在していたんでしょうね。

そこが一般の清流派と荀ケが違う所ですね。

そんな荀ケですので、「宦官の出自である曹操に心服する訳がない」という説は当てはまらないと考えております。

曹操と荀ケというのは、本当に表裏一体の名コンビだったと考えています。

なお、荀ケの死についての私なりの考えは以前このブログで記載しました。

ご興味のある方は下記をクリックしてください。

>>荀ケは自殺?


Posted by たか at 02:24 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月11日
于禁の投降
先日来、陳瞬臣氏の「曹操(ソウソウ)」を読んでますが…。

昔読んだ本なんですが、案外覚えてないもんですね。

陳瞬臣氏は三国志関連の小説を色々と書かれてますが、この人の特徴は独自の解釈に基づいて記載している事が多いので、基本を押さえた(吉川英治氏の三国志とか…)人が読むと、なかなか刺激があり、面白い本です。

今丁度于禁(ウキン)の投降の場面なんですが…。

于禁、字は文則(ブンソク)。

三国志演義や吉川三国志、もしくはゲーム等から三国志を知る事になった人は「えっ于禁?あの楽進(ガクシン)とコンビの二流のわき役でしょ?」なんて思うかも知れませんが…。

于禁は必要以上に悪役であったり、弱い将軍として記載されています。

しかしながら、実際にはこの男、曹操の主要な戦には殆ど参加して武功をあげています。
(勿論、楽進もそう。楽進も曹操の主要な戦には参加し、武功をあげています。)

魏で名将といえばぱっと浮かぶのは張遼(チョウリョウ)でしょうか、張ゴウ(字が出ない)でしょうか、もしくは夏侯惇(カコウトン)、夏侯淵(カコウエン)、曹仁(ソウジン)、徐晃(ジョコウ)あたりでしょうか…。

勿論、みんな名将ですが、三国志演義や吉川三国志のみを読まれた方からすると、関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)、趙雲(チョウウン)等に比べると数段落ちる将軍と思われがちです。

そうなんです。

三国志演義は曹操を悪者として書いてますんで、曹操陣営の将軍はあまり良くは記載されません。
(例外は張遼でしょうか…。)

みんな名将なんです。

どちらかというと、関羽や張飛の方が個人の武に頼りすぎで全体的な指揮という点で言うと、超一流かと言えばちょっと疑問がのこります。

当時の魏軍で言えば于禁は張遼、張ゴウ、楽進、徐晃と言った面々と共に名将と謳われています。

元々鮑信(ホウシン)の部下として登場します。

鮑信が戦死した後、曹操の配下になります。

最初は陪臣だったんですが、「優に大将軍とするに足る」として推挙されます。

そこから、彼の抜群の活躍が始まるのですが…。

この人の最後は関羽が襄陽(ジョウヨウ)に攻め込んだ際に于禁は援軍として駆けつけますが、漢水の氾濫の為、于禁はホウ徳(ホウの字は表示されない為カタカナにします)と共に関羽に捕らわれます。

勿論、于禁が率いてきた3万の兵と共に。

ホウ徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となりますが、于禁は関羽に降伏して助命されます。

その際曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったそうです。

その後、関羽は孫権(ソンケン)に攻められ打ち首になり、于禁も孫権に捕らえられ賓客としてもてなされます。

曹操が死に、曹丕(ソウヒ)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に従い、于禁を送り返します。

曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりとやつれていました。

曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命し、呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させました。

が、

曹丕はあらかじめ、高陵(曹操の墓)に関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服したありさまを絵に描かせておき、于禁はこれを見ると面目なさと腹立ちのため病に倒れ、死去しました。

北宋の司馬光(シバコウ)は「資治通鑑」で「文帝(曹丕)は于禁を罷免する事も、殺す事も出来たのに陵屋に于禁が降伏した有様を描かせてこれを辱めた。君主のやる事ではない」と言って批判してます。
(ちなみに、ホウ徳は曹操の配下になって約4年)

あれだけ活躍したのに最後でミソをつけてしまった形になりましたが…。

ただ、于禁ってそんなにすぐに降伏する男ではないと思うんですが…。
(勝手な私の思いこみかもしれませんが…)

ここで、陳瞬臣氏はこの于禁の投降を「関羽に投降することによって食糧の負担を大きくした」という観点から記載されています。
(かなりな慧眼だと思います。)

要は、于禁が3万の兵と共に降る事により、関羽軍の兵糧が足りなくなるんですね。

実際、于禁が投降した後、関羽は官庫(多くの米が備蓄されている倉庫)を襲って兵糧を得ます。

おおざっぱな関羽は「また後で返す」と軽く考えているようでしたが…。

この行動が孫権が関羽討伐に踏み切る一因になるんですよね。

となると、于禁の投降って、彼の深謀遠慮と言えなくもないですよね。

結局、ここでの関羽の敗死が諸葛亮(ショカツリョウ)の天下三分の計を狂わせ、蜀(ショク)の飛躍の芽を刈り取った事になりますからね。

曹操は「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ってますが、逆に于禁を曹操が理解していなかった…。

なんて事も考えられますよね。

于禁ってかなりの活躍をした人なのに三国志演義では悪く書かれ、正史でもみじめな死に方をして(死に方は三国志演義もほぼ同じですが、三国志演義では于禁に命乞いをさせてます。)、本当に浮かばれない武将ですね。



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Posted by たか at 02:59 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月04日
曹操と袁紹、袁術の決定的な違い
またまた、三国志ネタで申し訳ございませんが…。

三国志で群雄が割拠した際に最も勢力をもっていたのは袁紹(エンショウ)と袁術(エンジュツ)という事になるでしょうか…。

多くの群雄はどちらかの勢力圏に入っていた所がありますね。

例えば、曹操(ソウソウ)、劉表(リュウヒョウ)は袁紹派閥、孫堅(ソンケン)は袁術派閥といったように…。

だから孫堅は劉表を攻めて、非業の死を遂げる訳ですね。

袁家というのは、四世三公と言われる名門。

要は、四代続いて三公に就任したという事。

ちなみに三公とは、「司徒」、「司空」、「大尉(司馬)」の三つの役職で、それぞれを説明すると…。

司徒は内閣総理大臣で司空は副総理、さらに建設大臣も兼ねる役職、大尉は兵権を一手に握る役職という所でしょうか。

三国志の舞台となる後漢王朝では、最高の役職と言われた三つのポストです。

そこに四代も続いて就任した者を出したという事は、やはり優れた人物を出す家系だったんでしょう。

その袁家の血を引く二人が袁紹、袁術ですね。

彼等はそういった血統的背景をもっていますので、当然名門意識が強いんですよね。

それに引き換え曹操は…。

おじいさんが大宦官の曹騰(ソウトウ)、お父さんの曹嵩(ソウスウ)はその養子として入り、大尉まで昇りましたが…。

袁家から見ればどこの馬の骨かわからない人なんですね。

また、曹操も大宦官の孫として育った過程で、袁紹、袁術のように蝶よ花よと親類や回りから大事に育てられた訳ではなさそうですね。

恐らく、父親の曹嵩は曹操をかなりかわいがったと思うのですが、名門の子弟達からはさげすまれていたんでしょう。

その育ってきた環境が、袁紹、袁術と曹操との群雄割拠後の明と暗を分けたんでしょうね。

曹操は、一般的には五千の兵で旗揚げした訳ですが、袁紹、袁術というのは各々地盤を持っていたのでかなりの兵がすでに用意されてましたよね。

本当なら、三国志という時代は来ずに、袁紹、袁術で天下分け目の戦いがあってもおかしくない布陣でした。

そこに、何故、曹操が台頭する事が出来たかというと…。

まあ、後に青州兵と言われる青州の太平道信者を取り込んだ事ですよね。
(いわゆる青州黄巾族)

青州黄巾族との戦いは正直いって無謀な戦いでした。

一応青州黄巾族というのは100万と言ってましたしね。
(実際は兵士と統率者とその家族が集まって100万の民衆だったそうですが…)

それでも、手勢の少ない曹操がまともに戦って勝てる相手ではないですよね。

ご存じの通り、曹操はその青州黄巾族を自軍に取り込む訳ですが…。

そこで選抜した兵士三十万を曹操は「青州兵」と名付けてある契約を交わしたようですね。

この青州兵が曹操の切り札として後の戦いを有利に進める原動力となるのですが…。

魏書にも「魏武の強、これより始まる」と書かれている訳ですしね。

ちなみに、曹操が何を青州兵と契約をしたのかは、正直な所完全にわかっている訳ではないのですが…。
(想像する事はできますけどね。)

契約があったのは間違いないですね。

曹操が死ぬと、青州兵は魏を去ってますし…。

ただ、ここが私の思う袁紹、袁術と曹操の決定的な違いなんですよね。

もしこの青州黄巾軍の討伐を袁紹、袁術がしていたら…。

恐らくは二人とも自分が表に立って戦う事のないように逃げたでしょうが、仮に戦っていたとしたら…。

間違いなくこの100万の民衆をたたきつぶしに行きますね。

彼等は名門意識の塊です。

この時代の名門はみんな儒教なんですよね。

当然、この袁家二人も儒教と思われる言動が多いです。

しかも、名門意識が強い二人は儒教信者である事に誇りを持っていたと思われます。

だから、太平道を信じる青州黄巾族と相入れるはずがありません。

太平道というのは、大きく分けると道教の部類に入る宗教で、当時の中国は名門や官僚は儒教、一般民衆は道教といったすみ分けがされてました。

名門を誇る袁家の二人はどうあがいても道教を受け入れる事が出来ないんです。

それに比べて曹操という男は、儒教を勉強していた節がありますが、恐らく儒教信者ではないですね。

儒教というのは家柄や見てくれ、しきたりといった所にかなりうるさい宗教ですが、曹操を見ていると「唯是才」という考え方をもってます。
(唯是才とは、彼が何度か発令した「求賢令」に見られるんですが、家柄や見てくれとか品行方正はどうでもよい。ただ才能のある者を求めるという考え方ですね。)

話がそれましたが…。

だから袁家の二人はどうしても道教を認める訳にはいかないんですね。

そこで徹底的にたたきつぶそうとするでしょうね。

名門が民衆に負けるはずがないと…・

名門袁家として格好よく戦い、格好よく勝とうとするのですが、相手は宗教集団とはいえ数が多すぎます。

結局戦は泥沼化するでしょうね。

勝ったとしても自軍の損傷も大きく、衰退の原因を作った事でしょう。
(袁紹はともかく、袁術は…恐らく勝つ事が出来ないですね。孫家がどれだけ動くかによって決まると思われますが…)

ちょっとした事なんですが、ここが曹操と袁家二人の決定的違いですね。

要は勝てばいい、生き残ればいいという曹操に対して、袁家二人は勝ち方、生き残り方に注文が必要なんですね。

宗教なんかよりも自分の力をどうすれば大きくするかを考える曹操と、名門意識が強く、名門の名門による名門の為の勢力を作る事を考えていた袁家二人。

宗教とか名門とか…たいしたことではないんですが…。

このたいした事でもない事が官渡の戦いで負け、病を発して死んでしまった袁紹、部下に裏切られ、最後は「はちみつがなめたい」と言いながら死んだ袁術と、勢力を拡大し続け、最終的には中国の三分の二を有する事になる曹操との決定的な違いだったんですね。

袁紹、袁術という二人は恐らく治世ではかなりなポストにまで昇り、後に名を残したであろうとは思うのですが、残念ながら乱世を生き抜く能力を持っていなかったんですね。

治世と乱世の切り替えができなかった二人が三国志の前半でその姿を消すというのは、ある意味歴史の必然ですね。


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Posted by たか at 02:17 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月03日
曹操と劉備
ちょっと、三国志ネタが続きますが…。

実は久しぶりに陳瞬臣さんが書かれた「曹操(ソウソウ)」を読んでいるものですから…。

曹操と劉備(リュウビ)は皆さんもご存じの通り、三国志の中で一方の雄同志。

一般的にはライバルですよね。

三国志演義なんかでも、どうしても相いれない相手として描かれます。

この陳瞬臣さんはそういった所に異論を持っている人なんですね。

以前もこのブログで何度か記載しましたが、この陳瞬臣さんが書かれた「秘本三国志」という本がありますが、この中でも今回読んでいる「曹操」と同じような観点で書かれています。

というのは、「曹操が荊州(ケイシュウ)に南下して劉備を撃破するまで、曹操と劉備には秘密同盟があった」という意見を述べておられます。

曹操が劉備に持ちかけて、これから倒したい勢力に劉備が転がり込み、曹操と戦をするように勧めてそれらを曹操が撃破していくというような筋書きです。

確かに、劉備が曹操の元に転がり込んでから、劉備が頼るその先々と曹操は戦争して、ことごとく勝利しています。
(袁紹/エンショウしかり、劉表/リュウヒョウしかり…)

また、劉備もことごとく逃げおおせています。

確かにあやしいと言えばあやしいですね。

私的にも「こういう考え方もありだな」と思わせる観点です。

というのも、そもそも劉備が曹操陣営から脱出した後の経緯を考えると…。

劉備は曹操の元に転がり込んだ際に皇帝を取り巻く董承(トウショウ)から曹操暗殺計画を持ちかけられ、加担します。

結局、その企てはばれるのですが、ばれた頃には劉備は曹操に進言し、袁術(エンジュツ)討伐に向かい、許都(キョト)にはいなかった為、処刑をまぬがれます。

ただ、曹操は電光石火で劉備を攻めて撃破し、劉備は関羽(カンウ)と家族を残したまま袁紹を頼って北へ去っていきますよね。

その後、曹操と袁紹の官渡(カント)の戦いになるという経緯になります。

このくだりの中でおかしいのは、

まず、『何故曹操は劉備を袁術討伐へ向かわしたか』

という所ですよね。

本来の曹操なら、劉備が許都を抜け出したいことぐらいすぐに看破してしまうと思うのですが…。

劉備が許都を抜けた後すぐに董承一派が捕まって処刑されていますよね。

これもあまりにもタイミングが良すぎるような気がします。

また、劉備は曹操に撃破されますが、その際の布陣に疑問があります。

小沛(ショウハイ)に劉備と張飛(チョウヒ)、下ヒ(カヒ/字が出ない)に関羽と劉備の家族という布陣になります。

曹操のいる許都から劉備が謀反を起こした徐州(ジョシュウ)へ攻め込んだ場合、前線となるのは小沛です。

という事は、関羽が後詰という事になりますね。

普通に考えたら、曹操相手に戦う訳ですから、下ヒは守備兵のみで主力は全て小沛に集めて戦うと思います。

曹操相手に関羽抜きというのはおかしいですよね。
(別働隊を率いさせて曹操の背後を突くとかなら分からないでは無いですが…)

また、劉備と張飛の前線が突破された際、劉備は下ヒに向かうのではなく、迷わず北を目指していますよね。

普通なら小沛で撃破されても下ヒにこもって決戦と考えるのが当たり前のように思うのですが、劉備はとっとと袁紹の勢力圏に向かいます。

これもおかしいですよね。

また、関羽があっさりと曹操に下っている辺りもちょっと怪しいと思います。

なんか、このくだりってすっきりしないんですよね。

三国志演義の作者も恐らくすっきりしなかったと思います。

そこで、劉備を尊王の士という事を大々的にアピールして、関羽は劉備の家族を守るためにやむなく降るという事に落ち着かせたんだと思ってます。

このくだりを、陳瞬臣さんが指摘するように曹操と劉備の間に密約があれば…。

かなりすっきり解決するんですよね。

まず曹操暗殺の企ての所は劉備が曹操にその計画を打ち明け、劉備は袁術討伐に向かうという事で許都を出る。

曹操は董承一派を処刑して、劉備に追手を向ける。

激戦を行い、劉備は徐州を放棄して袁紹を頼る。

劉備としては元々袁紹の元に腰を落ち着けるつもりはハナから無いし、曹操との戦をけしかけて袁紹を滅ぼす為に行くわけですから、袁紹勢力から脱出する際に家族がいない方がいいので、曹操に預けていく。

また、曹操に自分の家族を預ける事によって、曹操が「もしや劉備が裏切ったのでは…」という疑心暗鬼を起こさない為の保険にしておく。

ただ、劉備としてもやはり曹操を100%信用するのも少し恐い所があり、自分の家族の護衛として関羽をつけた。

こういった流れで考えれば本当にこのくだりはすっきりするんですよね。

正直、私は劉備に対して聖人君子のイメージは持っていませんので、陳瞬臣さんの指摘の方がしっくりときます。

本当のところはどうだったかなんてわかりませんし、1800年前の事を事細かく検証する事はほぼ無理でしょう。

だから人それぞれの解釈があって、それが歴史に幅を持たせていると思っています。

私は陳瞬臣さんの劉備と曹操の間に密約があったという説に賛成です。



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Posted by たか at 01:39 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月02日
曹嵩の死
曹嵩(ソウスウ)は三国志の英雄のひとり曹操(ソウソウ)の父親ですね。

曹操のおじいさんは曹騰(ソウトウ)という大宦官(宦官は去勢された男の為、子を作る事は出来ない)ですので、勿論、曹嵩は曹騰の養子となった訳ですね。
(ちなみに、この曹嵩は夏侯家から来たと言われており、その為曹操と夏侯惇/カコウトン や夏侯淵/カコウエン が従弟と言われてます。)

曹操は宦官の孫という事で色々と言われたり、いじめ(蔑視)を受けたりしてましたが、よくあるいじめられっ子のようにシュンとするんではなく、どちらかというと「もっといじめてもらおうか!!」という強気の男の為、かれは心を病むことなく育ったんですね。

そんな曹操のお父さんはやはり、宦官の子という事をかなり気にされていたようです。

何故宦官の家系が蔑視されたかというと、当時の世の中は霊帝という暗君がまわりに宦官を侍らせ、ひどい政治をしていたんですね。

人々はこれを皇帝のせいではなく宦官のせいだと考えていた為、宦官が憎まれた訳です。

ちなみにそれは正解ですが…。

ただ、霊帝も「霊」という字を使われている事でもわかる通り、たいがいの暗君でしたが…。

この曹嵩という男、子供の曹操がとにかくかわいかったのか、かなり期待していたのか…。

曹操に箔をつける為だけに「大尉」という役職につきます。
(当時の朝廷では三公と言われた最高の役職の一つ。ちなみに他の二つは司空と司徒。)

この時代は霊帝のバカげた政治の為、役職を金銭で売買していたんですね。
(能力のある人物をそのポストにつけるというわけではなかったんですよ。)

曹嵩は大尉のポストを約1億銭出して買ったと言われています。

そこまでして、曹操の為に、曹家に箔をつけたかったんですね。

かなり親バカの部類に入るとは思いますが…。

勿論、箔をつける為だけに買った地位ですので、実際に彼がその役職に就いていたのは中平4年(187年)の11月〜翌中平5年(188年)の4月という、わずか5カ月だけの大尉でした。

本当は1億銭も出して買った役職なんで、もっと長くいてもよかったんですが、当時の世情から言うとかなり不穏な状況だったんですね。

太平道の張角は怪しい動きをしてますし、涼州の方では乱がおこったりしてますし…。

実はこの大尉という役職、兵権を一手に握る役職です。

乱がおこれば当然討伐に行かなければいけないですし、それに失敗すれば当然大尉の地位を追い出されます。

その為、箔をつけるだけの為に就いた役職ですんで長くいるべき役職じゃないんですね。

だから5カ月だけの就任で辞めています。

ちなみに、何故曹嵩が大尉を選んだかというと、三公の他の役職「司空」「司徒」という役職はなかなか空かないんですよね。

大尉は乱の平定の失敗などで罷免されたりするので、結構空きやすいポジションです。

曹嵩が大尉についた際も前任の崔烈(サイレツ)が危険を感じて辞めた為、ポストが空きました。

ちなみに、その前の大尉張温(チョウオン)は涼州で起こった乱の平定を失敗したため罷免され、さらにその前の大尉は張延(チョウエン)で、この人は宦官の謗りを受けて獄死しています。

なかなか危険なポストですよね…。

そんな曹嵩は大尉を辞めた後は隠居して徐州の方に住みます。

子供の曹操はというと、一応自分の基盤と呼べる土地ができ、親孝行をしようという思い(だったと思うんですが…)で、父親の曹嵩を自分の本拠であるエン(字が出ません)州に迎えようとします。

この悪ガキも親孝行をしたかったんでしょうね。

曹嵩は喜んで曹操の元に行く事にしたんですが、徐州の牧である陶謙(トウケン)が曹操に好を通じようとして護衛を買って出たんですね。

配下の張ガイ(字が出ません/チョウガイ)を護衛に選んだんですが…これがあだとなります。

張ガイは曹嵩の百両余りの輜重車に目がくらみます。
(輜重車とは、女性が乗ったり資産等を運ぶ幌が付いた車)

張ガイは曹嵩が休んでいる宿舎を襲い、曹嵩を殺して輜重車を奪って逃げます。

これが曹操の逆鱗に触れ、徐州に攻め込み、一般民衆も含め男女数十万人を殺し、徐州は人はもとより、犬や鶏さえいなくなったという惨状の舞台となってしまいます。

曹操が何故、徐州で大量虐殺をおこなったかはまたの機会にしますが…。

この大尉まで昇った曹嵩の最後は…。

彼は肥った女の人が好みで、張ガイに襲われた際に垣根を飛び越えて逃げようとしたんですが、妾が肥っているので垣根を越えられず、厠所(いわゆるトイレ)に妾と一緒に隠れましたが、当然見つかって殺されました。
(結構、やさしい人ですよね。)

しかも、逃げる際に彼も妾もりっぱな衣装を脱ぎ棄てていたので、斬られてもその男が曹嵩とは気づかれなかったそうです。

位人臣を極め、かなりの富を所有していた男にしてはかなりさびしい最後でした。

別に、資産をいっぱい持っていただけで、悪い事は何もしてないのに…それだけで殺されてしまうんですね。

しかしながら…。

一人の人間が死んだことがきっかけで、数十万人の人が殺されるという…。

本当に怖い話ですよね。

私も歴史の話は色々と読みましたが、ここまで徹底的に(記載がそうなっているだけで、実際よりオーバーに記載しているのかもしれませんが)人民を殺しつくした例はあまり知りません。

曹嵩という男、三国志的にはそれ程メジャーな男ではないですが、歴史の中で本当に大きな役割を割り当てられた人ですね。



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Posted by たか at 01:36 | 三国志 | この記事のURL
2010年08月26日
黄巾の乱 経緯
先日、ブログのデザインを「レッドクリフ」に変更しました。

別に心境の変化があった訳ではなく…。

ただ単に、前のデザインでは本文が読みにくいのでは?とずっと思ってました。

せっかく、私のブログに訪問頂いた方に字が読みにくいデザインでは申し訳ないという思いがずっとありましたので、今回変更させていただきました。

私はこの2〜3カ月は龍馬伝の感想しか書いてませんでしたので、せっかく三国志モノのデザインに変更しましたので、ここで三国志ネタを一つ。

このデザインから行くと赤壁の戦いについて記載するのがいいのかも知れませんが、こちらは色々と思う事はあるのですが、まとまっていないので、黄巾の乱にしようと思います。
(三国志の初めですしね。)

以上、seesaa版向けのコメントです。

私は今年の5月8日にも黄巾の乱というタイトルでブログを書いてますが、黄巾の乱と言いながら結局張角(チョウカク)の事しか書いてないなと思い、再度記載しようと思います。


この頃の漢の皇帝は霊帝と謚(オクリナ)される皇帝です。

字を見てお察しの通り、「霊」という字が用いられているという事は、暗愚な皇帝だったという事です。

中国の皇帝はみなちゃんとした指名を持ってますが、死後に謚を送られます。

その謚には決まりがあって一番優れた皇帝を「文」とします。
(文帝とか聞いた事があるかと思いますが…)

その次を「武」とするといった形で、死後にその皇帝の評価がされる訳ですね。

「霊」というのは下の方に属しますので、やはり暗愚だった訳です。

例えば売官制度。

この皇帝が即位した頃の漢王朝の国庫は貧しかったそうです。

その為、この人はお金儲けに執着したようですね。

官職を売りに出しました。

その代金で国庫を潤そうとしたようです。

勿論、大枚はたいて官職を買った人は任地で重税を課して元を取ろうとします。

その為、農民が苦しい思いをし、耕す事を止めて流浪する人達が多く出てきました。

そんな人達を集めたのが黄巾党ですね。

太平道という宗教を起こし、そこの信者として取り入れて言った訳です。

信者が増えるにつれ、張角は信者を三十六の編成して、政権の中枢にいた宦官(カンガン)等も信者にして、一斉蜂起によるクーデターを起こそうとしたんですね。

勿論、秘密にしていたのですが、ばれてしまいます。
(まあ、組織が大掛かりですからね。)

そこで洛陽の工作を担当していた馬元義(バゲンギ)が捕まって車裂きの刑で処刑された事により決起が早まって、官軍に鎮圧されるのはご存じの通り。

しかしながら、この決起が起こる7年前にすでに太平道の対策を上書した人がいました。

楊賜(ヨウシ)という人です。

この人は司徒という当時の朝廷で最高ランクの職の一つについてました。

「張角は百姓をたぶらかしてけしからぬ者ではあるが、州郡に命じて捕討すればかえってよけいまずい事になるおそれがある。そこで州の刺史に命じて信者を取り調べ、その戸籍に護送し、その党を孤立、弱体化させた後に渠帥(キョスイ/頭目)を誅殺すれば労せずして平定できる。」

と言いましたが、勿論暗愚な霊帝。

不愉快な報告を聞くのがいやで、そういう報告をした者はしばしば解任されてます。

ご多分にもれず楊賜も解任されました。

この暗愚な皇帝は黄巾党が決起するまで、正確な情報を持ってなかったんです。
(まあ、決起した後まで、正確な情報を持ってませんでしたが…。)

いわば、黄巾の乱というのは漢の霊帝が招いてしまったものなんですね。

ちなみに楊賜という人は後に曹操(ソウソウ)の配下で不遇な死を遂げる楊修(ヨウシュウ)のおじいさんですね。

トップがダメなら下が不幸になるという一例ですね。



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Posted by たか at 03:16 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月20日
空城の計
三国志の名場面の一つとして「空城の計」があります。

昔から芝居などでもしばしば上演されたりもしています。

諸葛亮(ショカツリョウ)の施した計略の中でも有名なものですね。

経緯としては…

第一次北伐の際、先発の司令官に抜擢した馬謖(バショク)が大敗したので、孔明は全軍に撤退命令を出すのですが、そこへ司馬懿仲達(シバイチュウタツ)の率いる15万の大軍が攻めよせてきました。

対する孔明は西城という小さな城で撤退の指揮をとっていましたが、主力は全て前線に出払っていた為、城内には弱卒ばかりの2500の兵のみという状況。

早馬がひっきりなしに司馬懿軍の接近を知らせ、浮足立った城内の将兵は「すぐさま撤退を!」と口々に進言しますが、孔明は「待て待て。わしにいい考えがある。いまさら逃げた所で、すぐに捕まってしまう。ここはわしに任せておけ。」と言います。

孔明の指示は、全ての将兵を物陰に潜ませた上、全ての城門を開け放ち、城内には人がいないように見せかけます。

また、20人程の兵に農民の身なりをさせて、城門の辺りを箒で掃いているよう命じました。

孔明自身は、道士の服に着替え、少年二人を連れ城楼に上がり、香を焚き琴を奏で始めました。

一方、仲達の元には物見から報告を受けると自分の目で確かめると言って前線に出て自分の目で確かめると、物見の言った通りだった為、「孔明は元々用心深い男。危険をおかすような男ではない。これには何か計略があるに違いない。迂闊に攻め込んだらとんでもない事になる。」と言って、全軍を撤退させました。

城内の兵は中立つ軍が引いていくのを見て改めて孔明の智謀に感嘆したという話なんですが…。

初めてこのくだりを読んだ時、私の中では、かなり?マークでした。

というのも、小城に15万の兵で攻め込んで、城門が全て開かれ、おかしな状況だったとしても、撤退するんだろうか?という疑問が浮かびました。

兵法に照らし合わせて考えると、ここで司馬懿軍が取る戦略は包囲ですよね。

何故撤退する必要があるんだろう?という疑問が浮かびました。

司馬懿が背後を取られる心配をしたのであれば、おかしいですよね。

撤退する蜀軍を追ってきた訳ですから。

そこに孔明がいて、15万の大軍を率いていて「なんで撤退なん?」というのが正直な私の感想でした。

しかしながら、この疑問はすぐに解けました。

要はフィクションだったんですね。

悪い言い方をすれば、ウソ。

このエピソードは三国志演義のみに出てくる話で、孔明を天才軍師にしたてる為に造られた話でした。

気持ちはわかりますが…。

造るのであれば、もっとつじつまを合わせて造るべきとおもう今日この頃です。
(司馬懿が可哀そうですね。)

Posted by たか at 02:51 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月13日
三国一の色男、周瑜公瑾
周瑜公瑾(シュウユコウキン/公瑾は字)は呉の国建国の功臣です。

三国志演義では諸葛亮(ショカツリョウ)の引き立て役にされ、不当な評価を後世に残した可哀そうな智将です。

正史三国志においては、あまり人の見かけを記載していないのですが、この男に関しては特に「美周郎」と呼ばれたと記載があります。

かなり外見が美しい男だったんでしょうね。

主君である孫策(ソンサク)とは義兄弟ですね。

というのも、孫策の妻と周瑜の妻が姉妹ですから…。

映画「レッドクリフ」では主役でした。

三国志演義においては、本当に不当に陥れられています。

赤壁の戦いにおける彼は、無残にも諸葛亮の引き立て役にさせられてますね。

諸葛亮の才能をねたみ、諸葛亮をなんとか殺そうとしてそのすべてを諸葛亮に見切られ、逆に全て返されています。

諸葛亮を危険視したのかも知れませんが、そんな男ではないと思いますが…。

正史においては、「寛大な性格で、人の心をつかむのが旨かった」と記載されています。

呉の宿将である程普(テイフ)は、周瑜が若輩者であるにも関わらず、自分と同等の地位にいる事に反感を持ち、周瑜とは折り合いが悪く度々周瑜を侮辱していたようですが、周瑜はそんな程普にたいしてあくまで膝を屈して謙譲の姿勢で接した為、程普も感服し、周瑜を尊重するようになったというエピソードも正史に見られます。

そんな周瑜は三国志演義において傲慢で、短慮で、諸葛亮の才を妬むという形で記載されています。

これはひどすぎますよね。

程普に対する姿から見ても、周瑜という男はそんな傲慢でもなく、短慮でもなく、本当に自身を慎む男だった事が分かります。

以前、魯粛(ロシュク)について記載(2010年3月11日「魯粛は伊達じゃない!)しましたが、三国志演義というのは時に人の能力や人格を曲げてまで、諸葛亮を引き立てるように記載されてます。

曹操なんかも、かなり曲げて記載されてますね。

三国志演義の作者は作家としてはかなり優秀ですが、あまりにも人物を曲げて記載している事が多いですね。

その為、無駄に恨みを買ったり、バカにされてきた武将の何と多い事か…。

周瑜という男は程普が言ったとされる次の言葉で全てが表されていると思います。

「周瑜は上等な酒のような人物。知らぬ間に酔わされてしまう。」

なかなか奥ゆかしい男だったようですね。

また、そんな彼は音楽にも精通してました。

正史にあるエピソードですが、宴会で酒に酔っていても、演奏者(当時の宴会の場は、人が曲を演奏している中で酒を飲んでいました。)が僅かでも間違えば、周瑜は気づいたそうです。

その為当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を造ったそうです。

なかなかの風流人ですね。

戦においては鬼謀を発揮する智将、人との付き合いでは寛大で慎み深く、音楽に精通した風流人、そしてさらにかなりのイケメン。

何とも文句のつけようのない男ですね。

この人は36歳という若さで死にましたが、もっと長生きしていれば、歴史はかなり変わっていたと思わせる人物ですね。

Posted by たか at 00:46 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月08日
黄巾の乱
三国時代の幕開けとも言える黄巾の乱。

これは張角(チョウカク)をトップとする太平道が漢王朝に対して自分の信者達を率いて起こした反乱ですね。

この張角という男。

実はいろんな説があり、実は清流派の知識人では?という話もあります。

また、科挙(カキョ/役人になる為の試験)を2度受けて2度とも落ちているそうです。

こうみると、悲しい男ですね。

この人が何故、太平道という宗教を起こし、力を持てるようになったかというと…。

まず、この人が行ったのは治療です。

患者が現れると、受付であれこれ病状を聞かれます。

一応の問診が終わった後、張角のいる部屋に通されて、そこで張角が患者を見てすぐに「あなたは膝が悪いのですね。」とか言ってその病状をあててしまいます。

処方される薬は布なのか紙なのか、はたまた板なのか分からないですが字を書いた符を渡し、それを水に浸して飲むというだけなんですが…。

こんなので治る訳はないのですが、治らなければ「信仰心が足りない」と言ってその治療を続けるそうです。
(今でもこんな話はちらほらと聞きますが…。)

張角が病状を看破するタネを明かすと、受付で病状を聞いた人が患者と一緒に張角の部屋に入り、患者の後ろから持っていた竹の棒の節目と指で張角にサインを送って病状を知らせていたんですね。

成程、かなりなペテンです。

しかしながら、当時は迷信や邪教がはびこる世の中。

こんなペテンでも一般民衆は「神だ!」なんて思う訳なんですね。

それで信者になる訳ですね。

また、当時の中国は皇帝である霊帝(レイテイ)が売官制度(バイカンセイド)というバカげたことをし始めたんですね。

これは大将軍とか、州牧、太守、とかいった役職を売る訳です。

勿論、上の位や肥沃な土地を治める役職程高い訳ですが…。

当然、その官位を買った人達は任地に行って買った費用の元を取ろうとする訳ですからそこの住民に対し重い税を課します。

また、土地土地には太守等の他にそこを治めている豪族がいたりします。

そうすると、彼等は陰祠邪教等の祠を作り、そこへの貢ぎ物という形で税金を徴収したりするため、結局農民は二重、三重の税を納めることになり、自分で耕した物が殆ど残らない状況になります。

そうすると、農地を捨てる農民が増え、太平道等の勢力に寄りかかる人が出てくる訳ですね。

そういった人達を集めて、結局太平道というのは何十万という民を率いることができ、この民衆が一斉に立ち上がったのが黄巾の乱ですね。

このおかげで劉備(リュウビ)や曹操(ソウソウ)、孫権(ソンケン)といった人達が世に出る事になるのですが…。

ただ、張角という男、清流派の知識人だったとしたら…。

こんな形の乱は起こっていないような気がするのですが…。

どちらかというと、そこまで大きな勢力を手にした訳ですから、知名度としてはかなりメジャーになっていますよね。

もし彼が清流派の知識人であったとすれば、もっと平和裏に朝廷に接触し、皇帝を太平道の信者にし、皇帝を操ることで自分の理想とする国の形を作ると思うのですが…。

実際はそうしなかった…というかできなかった。

というより、そういう発想がなかったような気がするのですが…。

そう考えると…。

やっぱり、張角自身あまり質のいい人間ではなかったと私は考えております。

Posted by たか at 03:08 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月01日
関羽の従者周倉
周倉(シュウソウ)という人物が三国志演義には登場します。

陳寿(チンジュ)の記した正史三国志にはその記述がいっさいありません。

この人、実は架空の人物とされています。

曹操(ソウソウ)の元から劉備(リュウビ)の所へ帰る関羽(カンウ)に臣従を願い出て、劉備の許しを得た事により、関羽に仕える事になるのですが…。

その最後は麦城(バクジョウ)に関羽と共に追い込まれ、突破を図った関羽と関平(カンペイ)の親子が孫権軍(ソンケングン)に捕まり、首を討たれた事を知ると、周倉はそのまま城壁から飛び降りて自殺したとなっております。
(たしか吉川英治氏の三国志では刀で自らの命を絶ったと思いますが…。)

関羽の従者となってからは片時も関羽から離れず、最後は関羽に殉じた男ですね。

架空の男だったからか、彼には「なんでやねん!!」ってツッコミたくなる逸話が伝わっています。

彼はかなり足が速かったそうです。

どれだけ速いかと言うと…。

1日千里を走る名馬赤兎馬に乗る関羽の横を、自らの脚で走ってついていったそうです。
(勿論戦場でも)

それを憐れんだ関羽が周倉に馬を用意するのですが、赤兎馬程の名馬はなかなかおらず、1日900里を走る名馬を贈ったそうなんですが…。

当然、1日千里走る赤兎馬には追い付かず、その差100里を馬を担いで、自らの脚で走って追いついたそうです。

んなあほな!!

また、その脚の速さの秘密を調べると、周倉の足の裏には毛が3本生えていたそうです。

この毛を抜いてしまった所、速く走る事が出来なくなったそうです。

う〜ん。

科学的根拠が全くないですね。

まあ、架空の人物ですから、あまり目くじら立てる事もないのかもしれませんが…。

そんな彼ですが、関羽を祀った関帝廟が世界各国のチャイナタウンには必ずありますが、必ず、関平と共に関羽の従者として祀られているそうです。

また、湖北省当陽県麦城村(コホクショウトウヨウケンバクジョウムラ)には、彼の墓があるそうです。

このあたり、周倉が人気があったととらえるべきか、中国人が観光スポットを増やすために強引に造ったと考えるべきか…。

何にせよ、この周倉は関羽が余りにも人気があり、「自分も関羽のそばで仕えたい」という中国人の希望を具現化したものなんでしょうね。

周倉に自分を重ねて…。

Posted by たか at 01:29 | 三国志 | この記事のURL
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