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ハインツ・グーデリアン
ハインツ・グーデリアン Heinz Guderianの生まれ変わり、もち冗談です。 ドイツ軍マニア、ミリタリー好きです。
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2024年01月22日
フェルディナント・エレファント重駆逐戦車 Sd.Kfz.184
エレファント重駆逐戦車は、ティーガーTの試作車競合試験でヘンシェル社に敗北したポルシェ社のVK4501(P)の余剰車輌を改造利用した重駆逐戦車である。
ヒトラーのお気に入り設計者の一人だったフェルディナント・ポルシェは、試作車競合試験の結果を待たずにVK4501(P)90輌の車体をすでに生産していた。1942年9月の総統会議のときにフェルディナント・ポルシェは、余剰となったVK4501(P)の車体に71口径8.8cmPakを搭載した重駆逐戦車への改造を提案し、その場でヒトラーによって提案が認められた。
固定式の上部車体に71口径8.8cmPakを搭載し、前面装甲200mm、車体にも追加装甲として100mmの装甲版がボルト留めされた重装甲の駆逐戦車として計画された。
VK4501(P)の特徴であるエンジンで発電機を回し、モーターで機動輪をコントロールしてトランスミッションを省いた駆動系はそのままとして進められ戦闘重量は65tに達した。
当初車名は設計者の名をとってフェルディナントと呼ばれていた。
1943年5月までに90輌が生産されて第653及び第654重戦車駆逐大隊に配備され、両大隊で第656(重)戦車駆逐連隊を構成し中央軍集団に配属されクルスク突出部におけるツィタデレ作戦に投入された。
初陣ではハルペ大将の第41装甲軍団の戦区でソビエト軍の防衛線を突破し、重装甲で76.2mm対戦車砲ラッチェバムの砲弾を弾き返したが、後続する歩兵がソビエト軍の砲火で追随することができず有効な突破戦闘が出来なかった。
1943年7月から始まったクルスク戦における第656(重)戦車駆逐連隊の損害は一ヶ月で約40輌が失われ、50輌が残存していて26輌が可動状態にあった。
この間における第656(重)戦車駆逐連隊の戦果は戦車500輌、火砲120門以上を撃破したとされる。
機銃を装備していなかったため、敵歩兵の近接攻撃が心配されていたが、歩兵による近接攻撃で撃破されたケースは一件だけだったという。
ツィタデレ作戦の中止に伴い損耗した第656(重)戦車駆逐連隊は、後退し本国にて機銃の装備や車長用キューポラの取り付け等改修工事を受け、ヒトラーによりエレファントと改称された。
改修工事を終えた残存48輌のエレファントは、第653重戦車駆逐大隊に配属され第1中隊の11輌はイタリア戦線に投入され、隊二・第三中隊は東部戦線に投入された。
1944年10月第653重戦車駆逐大隊はヤークトティーガーへの装備改編が命じられ、残存エレファントは第614重戦車駆逐中隊に編合された。
1944年12月時点でA軍集団第4戦車軍に申告されたエレファントは14輌と報告されている。
1945年4月22日第614重戦車駆逐中隊は、ベルリン南方のツオッセンで4輌が戦闘を継続し、終戦時2輌が残存していたという。
エレファントは重量過大で、エンジンとモーター駆動という複雑な機構にもかかわらず、前線における戦闘部隊からの評価は高く、ヴァルター・J・シュピールベルガーの著作「重駆逐戦車」の中にもエレファントを最高の戦闘車輌として評価している前線指揮官たちの報告書が多数記述されている。

全長 8.14 m
車体長 6.8 m
全幅 3.38 m
全高 2.97 m
重量 65 t
懸架方式 外装型ボギー式縦置きトーションバー
速度 30km/h(整地)15 km/h(不整地)
行動距離 150 km
主砲 71口径8.8 cm Pak 43/2 L/71(50発)
副武装 7.92 mm MG34機関銃
装甲
戦闘室前面 200mm
主砲防盾基部 100mm
操縦席前面・車体前端上面 210mm
戦闘室側/後面・車体前端下/側/後面 85mm
戦闘室上面 38mm
車体上/底面 30-20mm
エンジン Maybach HL 120
4ストロークV型12気筒液冷ガソリン×2基 530 馬力
ジーメンス・シュッケルト aGV発電機 1基D1
ジーメンス・シュッケルト 495a 交流電動機×2基
500 VA(発電機)/230 kW (312.7 馬力)(電動機) ×2基
乗員 6 名(車長、射手、操縦手、通信手、装填手 ×2)

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2023年02月13日
Sd.Kfz.122 2号D型 火炎放射戦車
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2020年03月21日
パンターを視察するアルベルト・シュペーア
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パンターA型戦車を視察するアルベルト・シュペーア軍需大臣。
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捕獲したT34を視察するアルベルト・シュペーア軍需大臣。
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シュペーア軍需大臣とカール・デーニッツ潜水艦隊司令長官

2013年03月30日
ティーガーII ヘンシェル砲塔搭載型
Panzerkampfwagen VI Ausführung B "Tiger II"

戦車の設計コンセプトとして火力、防御力、機動力の三点があるが、ティーガーUは火力と防御力に異常に特化した戦車として計画された。

この背景にはティーガーの更なる性能強化を求めたヒトラーの鶴の一声がある。
1942年8月からスタートするティーガーの発展強化計画でヒトラーは主砲に71口径88ミリ砲の搭載と前面装甲を150ミリにすることを要求したのである。

ティーガーの生産が始まったばかりで実戦配備もされない時点でこの要求は過大すぎると思われるが、ヒトラーの戦車に求める根源的なものがこの要求になったのか、いずれ現れるJS-2等の重戦車を想定し冷静に下した判断なのか分からないが、いずれにせよヒトラーの要求によりティーガーUは計画が進められてゆく。

試作車が兵器局検査官によって受領されたのは1943年11月で、1944年初頭から生産が開始されティーガーの生産と徐徐に入れ換えていった。
本車の69.8tという大重量に見合った新型の大馬力エンジンを開発する時間的余裕はなく、パンターと同じマイバッハHL230P水冷60°V型12気筒ガソリンエンジン700馬力を搭載し、トランスミッションはティーガーに搭載された発展型のマイバッハOLVAR-OG401216Bだった。

1944年6月にティーガーU45輌(内12両は初期型のポルシェタイプ)を受領した第503重戦車大隊がノルマンディーの戦闘に投入されたのを皮切りに、ティーガーUは東西両戦線に配備されたが、ラインの守り作戦(バルジの戦い)、春の目覚め作戦などの機動力を伴う戦闘では全く役にたたない欠陥を露呈した。
ラインの守り作戦ではパイパー戦闘団に配備されたSS第501重戦車大隊の20輌のティーガーUは、鈍重さと燃費の悪さ機械的信頼性から行軍についてゆけぬと判断され、最初から部隊の後方に配備された上くねる道の移動で頻繁なギアチェンジにより機械故障が続発し落伍車両が相次いだ。
700馬力のエンジンでは大重量の車体を動かすにはパワー不足であり、アクセルは常にべた踏み状態が続きエンジンは過負荷状態。ギヤチェンジ、旋回にはトランスミッションに負荷がかかる。
速度はスペック上は路上38q/hだが、持続速度はせいぜい20q/h。路外では15q/hぐらい。幅広の履帯で接地圧は0.89/cuとパンターとあまり変わりはないが出力不足のため不整地での行動はパンター、ティーガーより当然落ちる。
燃費も最悪で路上でリッター162mだという。
これでは侵攻作戦に使えるわけがない。
それでもヒトラーはラインの守り作戦で本車に期待していたという。

ティーガーUが威力を発揮したのは防御戦闘での移動をあまり伴なわない戦闘であり、陣地や森に潜むティーガーUは連合軍にとって恐るべき存在となった。
虎の爪ともいうべき71口径88ミリKWK43はT34の前面装甲を実に3000メートルの距離から貫通したという。ティーガーUの車体前面40度の傾斜した150ミリの装甲は連合軍のあらゆる戦車砲をはじき返した。

機動力に著しい欠点がある本車だが大戦末期には短距離の機動防御や脱出戦闘ともいうべき戦いで伝説的な記録も残している。
ベルリン攻防戦下キュストリンに包囲された部隊救出のため第9軍SS第502重戦車大隊のティーガーUは第9降下猟兵師団の降下猟兵と共にゼクセンドルフ村に夜襲を行い多数のソビエト軍戦車を撃破した。
その後第9軍はソビエト軍に包囲され西方の第12軍に合流するため生き残ったSS第502重戦車大隊のティーガーU5両に最後の燃料を補給し、このティーガーUを先頭に突破を試みる。激闘数日4輌のティーガーUが失われ最後の1輌が擱座するが25000の兵士と1000の一般市民の脱出に成功し、最終的に米軍に投降する。重装甲、強火力のティーガーUでなければこの突破は成功しなかったかも知れず、鈍重とは言われながらも最後にみせた真価であった。

ティーガーUの生産数はヘンシェル社の工場が爆撃され大幅に落ち、1500輌の発注に対し完成したのは485輌から492輌といわれる。

<ティーガーII重戦車 ヘンシェル砲塔搭載型>

全長:    10.286m
車体長:   7.26m
全幅:    3.755m
全高:    3.075m
全備重量: 69.8t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 38km/h
航続距離: 170km
武装:    71口径8.8cm戦車砲KwK43×1 (72発)
        7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚:   40〜180mm









2011年11月10日
自走榴弾砲ヴェスペ
Wespe Sd Kfz 124 Leichte Feldhaubitze 18/2 auf Fahrgestell Panzerkampfwagen II 

旧式化した2号戦車の車体に野戦榴弾砲を搭載し自走榴弾砲に転用したのが本車ヴェスペである。

1941年バルバロッサ作戦初期、無敵のドイツ機甲部隊にとって泥濘と化したロシアでの戦闘は初めての悪夢だった。
ポーランド侵攻以来、電撃戦で世界を驚かせ負け知らずのドイツ機甲部隊はロシアの冬将軍による悪天候がもたらす寒さと泥濘によって、移動すら儘ならない状況を味わった。
戦車やハーフトラック以外の車両は、泥道に路上でさえ移動が困難であった。
車両に牽引される重砲は、1日に1キロしか移動できない状況もあったという。

1942年1月、ドイツ陸軍は「対戦車・火力支援車両計画」でロシアの積雪や泥濘地でも迅速に移動可能な装軌式自走榴弾砲の計画に着手した。
4月に入り東部戦線は深みにはまる一方の状況にヒトラーが簡易車両でよいから装軌式自走榴弾砲を東部戦線にすぐ投入せよという強力な指示をした。
開発は、上部構造物をベルリンのアルケット社、車台をニュールンベルクのMAN社が担当し12月には試作車両を完成させ1943年初頭から量産を始め実戦配備された。
武装と装甲が貧弱となり旧式化したU号戦車の車体に標準的野砲だった10.5cm軽榴弾砲leFH18を搭載した文字通り簡易車両だったが実戦投入してみると期待以上の能力を発揮した。

leFH18の最大射程は約12000メートル、発射速度は4〜6発。
車体に比して大型の砲を搭載するため、エンジンは中央部に移され、砲の周囲を10ミリの装甲板で囲んだ。

大隊単位の纏まった部隊での運用はクルスク戦(1943年7月)が最初で、以後装甲師団の装甲砲兵連隊に配備され各戦線に投入されてゆく。
ヴェスペは簡易車両ながら前線での評価は非常に高く、後から生産されたフンメル同様大変な成功作となった。

1944年7月にソビエト軍がビッスワ川東岸に進出し、8月にはワルシャワ蜂起があり、ヴェスペの改修工場があるポーランドのワルシャワFAMO社の工場を放棄するしかなく生産は終了する。
約1年半の短期間に676輌が生産され、他に砲を搭載しない弾薬運搬車が158輌生産された。

名称のヴェスペはスズメバチの意味。
同時期に生産された他の自走砲にもヴェスペと同様に昆虫の名称がつけられている。
フンメル(マルハナバチ)、ホルニッセ(スズメバチ)、グリレ(コオロギ)。


<自走榴弾砲ヴェスペ>

全長:    4.81m
全幅:    2.28m
全高:    2.30m
全備重量: 11.0t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL62TRM 直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 140hp/2,600rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 220km
武装:    28口径10.5cm軽榴弾砲leFH18M×1 (32発)
        7.92mm機関銃MG34×1 (600発)
装甲厚:   5〜30mm

you tubeヴェスペ映像







2010年12月11日
偵察装甲車プーマ
sdkfz234/2 プーマ (Puma)

今から70年近くも前に計画されているとは思えない現代的な洗練されたデザインの偵察装甲車、それがsdkfz234/2 プーマである。
sdkfz231の後継として計画され、モノコック構造の車体が特徴。
モノコック構造とは外板自体を強度部材とし、骨組みを簡素化する構造のことで、mono(ギリシャ語で一つの)とcoque(フランス語で貝殻)を組み合わせた合成語。
足回りはリーフスプリング式独立懸架の8輪駆動でそれぞれステアリングを切れ、操縦席もsdkfz231系と同様の全部と後部に二ヶ所あり、旋回せず後部に前進できた。
武装は当初sdkfz231と同じ2cm機関砲を搭載するように計画されたが、ある程度の対戦車戦闘能力を持たせるため5cm対戦車砲に変更された。
2cm機関砲を搭載したタイプもsdkfz234/1としてsdkfz234/2の次に生産されている。
234/2と234/1は型番号がなぜか生産順とは逆になっている。
本車は熱帯地方での使用を考慮していたため空冷ディーゼルエンジンを搭載し、ガソリンエンジンを搭載した他のドイツ軍装甲車より航続力が遥かに長く、路上で900キロから1000キロもあった。
ちなみにsdkfz231の路上航続力は300キロ。
やや先に生産されていた2号偵察軽戦車ルックスよりプーマは装甲以外の性能で全て上回っていたため、2号偵察軽戦車ルックスの生産は停止となりプーマに切り替えられる。
プーマの生産は1943年12月から開始され、1944年初頭から部隊配備、1944年9月で生産終了。総数101輌。

その他234系の生産数。
Sd Kfz 234/1、230輌。
Sd Kfz 234/3、88輌。
Sd Kfz 234/4、90輌




■Sd Kfz 234/2配備部隊
装甲教導師団 第130装甲偵察大隊 第1中隊(25両)
第2装甲師団 第2装甲偵察大隊 第1中隊(25両)
SS第1装甲師団 SS第1装甲偵察大隊(16両)
第20装甲師団 第20装甲偵察大隊(16両)
第7装甲師団 第7装甲偵察大隊 第1中隊(6両)
その他

you tubeプーマ映像

<Sd.Kfz.234/2装甲偵察車>

全長:    6.80m
全幅:    2.33m
全高:    2.38m
全備重量: 11.74t
乗員:    4名
エンジン:  タトラ103 V型12気筒空冷ディーゼル
最大出力: 210hp/2,500rpm
最大速度: 80km/h
航続距離: 1,000km
武装:    60口径5cm戦車砲KwK39/1×1 (55発)
        7.92mm機関銃MG42×1 (2,850発)
装甲厚:   5.5〜30mm






2010年05月04日
軽駆逐戦車ヘッツァー
軽駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t)

3号突撃砲を生産していたアルケット社の工場が爆撃され、突撃砲の急場の代替車輌として生産されたのが4号突撃砲と本車ヘッツァーである。
4号突撃砲が歩兵の攻撃支援や対戦車戦闘など3号突撃砲の機能をそのまま代替させた車輌だが、ヘッツァーは機動力を持たせた装甲対戦車砲として計画された。
車体は38(t)戦車ではなく、試作されたが量産されなかったneuer Art偵察戦車の車体が流用された。
38(t)と似ているが全く別の車体である。
48口径の75ミリ砲を搭載し、スターリン重戦車の前面装甲以外は貫徹できる火力と、傾斜した60ミリの前面装甲を持っていた。
小型軽量で外観の印象からは機動力が良さそうに見えるが、エンジン出力が160馬力しかなく機動力は以外と低い。
また面積あたりの接地圧はティーガー1より高く、泥濘地での行動はティーガー1より劣っていたという。
1944年4月から量産が開始され、主に歩兵師団の戦車駆逐中隊に14輌程度が配備されていった。
稼働率が高く、歩兵部隊の戦闘指揮官はヘッツァーを貴重な機動力を持った装甲戦闘車輌として投入したがったが、そのような運用を行えばたちどころに欠点が露呈する結果となった。
ヘッツァーは視界が狭く、路外機動性も低いため歩兵の攻撃支援には向かなかった。
3号突撃砲は歩兵の攻撃支援に威力を発揮した車輌だったが、ヘッツァーはこの点では3号突撃砲の代替にはならなかった。
ヘッツァーは火力と適度な装甲を持った移動対戦車砲であり、待ち伏せなどの防御戦闘にのみ威力を発揮した。
防御戦闘の場合でも本車の射角は狭く、単独で使用した場合は射角を確保するためエンジンを常にかけておく必要があり、敵に発見されやすかった。
ヘッツァーが本領を発揮するには防御戦闘で、最低でも小隊単位で運用し、互いに射角を補いパック・フロントのような戦術をとった場合、威力を発揮した。
安価(4号戦車の半額くらい)で量産しやすく、稼働率のよいヘッツァーは防御戦闘が主流となった戦争末期では最重要生産車種に選定され、1944年から終戦までの1年間に2584輌が生産されている。
名称のヘッツァー(Hetzer)は独語で「狩りの勢子」という意味。
勢子(せこ)とは狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫のこと。

you tubuのヘッツアー映像

<ヘッツァー駆逐戦車>

全長:    6.27m
車体長:   4.87m
全幅:    2.63m
全高:    2.17m
全備重量: 15.75t
乗員:    4名
エンジン:  プラガAE 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 160hp/2,800rpm
最大速度: 42km/h
航続距離: 178km
武装:    48口径7.5cm対戦車砲PaK39×1 (41発)
        7.92mm機関銃MG34またはMG42×1 (1,200発)
装甲厚:   8〜60mm









2010年04月30日
III号突撃砲
III号突撃砲 Sturmgeschütz III Sd.Kfz.142

最前線で歩兵を火力支援する場合、後方から砲兵による間接射撃があるが、それを装甲化された自走火器を最前線に持ち込み歩兵を直接火力支援するというフォン・マンシュタインの発想から具現化されていったのが突撃砲である。

当初このような歩兵の随伴自走歩兵砲の目的で生まれた突撃砲は、独ソ戦における戦闘で対戦車戦闘の任務が加わり、さらに戦車の絶対数が不足していた状況では、量産性が高い突撃砲が戦車の代用品としても使用される当時のドイツ軍の事情を反映した車両でもあった。

様々な事情を埋めるため突撃砲は大戦全期間を通じて生産され戦うことになる。

突撃砲は車高が低いため堅陣地への攻撃の場合、先頭に配備され歩兵を支援し、敵戦車から攻撃を受ければ楯となり、歩兵にとって最も頼りになる戦闘車両であった。

回転砲塔が無いため、敵をすり抜けてゆくような機動戦闘には不向きだが、陣地攻撃支援や防御戦闘の場合なくてはならぬ車種となってゆく。

突撃砲はA型からG型まで各種あわせて10500両あまりが生産され、ドイツ軍戦闘車両で最も多く生産された車両となった。

<III号突撃砲G型>

全長:    6.77m
車体長:   5.40m
全幅:    2.95m
全高:    1.85m
全備重量: 23.9t
乗員:    4名
エンジン:  マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 155km
武装:    48口径7.5cm突撃加農砲StuK40×1 (54発)
        7.92mm機関銃MG34×1 (600発)
装甲厚:   11〜80mm



写真はG型





2010年04月12日
Flakpanzer 38(t)
対空戦車38(t)     Flakpanzer 38(t)

WWUの半ばとなると制空圏を失い出したドイツ軍にとって、連合軍の戦闘爆撃機(ヤーボ)の攻撃は重大な脅威となっていた。
急場凌ぎとして4号戦車の車体に20mm 4連装対空機関砲38型を搭載した対空戦車が計画されたが、ヒトラーは20mm 対空機関砲では威力不足として37mm対空砲搭載車に変更するように命じた。
対空戦車の配備が遅れることを避けるため、ヒトラーは急場凌ぎとして計画した4号対空戦車のさらに急場凌ぎとして38(t) 戦車の車体に単装型の2 cm Flak 38を搭載した車両を急ぎ開発するように命じた。 
生産を急ぐため、車体は38(t) 戦車より改造されたマルダーIII対戦車自走砲M型の車体がそのまま流用された。
1943年11月より生産が開始され、11月に50両、12月に37両、1944年1月に41両、2月に13両の合計141両が完成した。
生産された大半が西部戦線に送られ、SS第12装甲師団「ヒトラーユーゲント」などに配備された。
圧倒的な連合軍の航空攻撃の前に本車の単装型の2 cm Flak 38では火力不足であり、対空対地戦闘に戦い続ける中、1944年8月ごろまでには大半が失われた。
本車とイギリス空軍の戦闘爆撃機ホーカータイフーンが一対一で対決した場合、本車は20mm 対空機関砲1門なのに対し、ホーカータイフーンは20mm 機関砲4門とロケット弾4発を搭載していた。
ホーカータイフーンの火力の前に本車の乗員はなぎ倒され、吹っ飛ばされたであろう光景は容易に想像がつく。
ホーカータイフーン一機の火力は軽巡洋艦による片舷斉射に相当したといわれるくらい強力で、このような戦闘爆撃機が大挙して押し寄せてくるのだからドイツ地上軍はたまったものではない。
激戦の中、本車を始め多数の車両、兵士がヤーボの餌食となった。
本車の戦闘室周囲の鉄板上部は、ヒンジにより外側に倒れる仕組みになっており、地上射撃も可能だった。
対空射撃を行う場合はそのままの状態で全周射撃が可能だった。
携行弾数は榴弾が720発、徹甲弾が320発の計1,040発であった。
暫定的な車両ながらノルマンディーという最も苛烈な戦闘に投入され、ヒトラーユーゲントなどの若き兵士たちと共に戦った本車は、微力ながらよく戦ったと評されるべき車両であろう。

<38(t)対空戦車>

全長:    4.61m
全幅:    2.15m
全高:    2.25m
全備重量: 9.7t
乗員:    4名
エンジン:  プラガAC 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 150hp/2,600rpm
最大速度: 48km/h
航続距離: 200km
武装:    112.5口径2cm対空機関砲FlaK38×1 (1,040発)
装甲厚:   8〜20mm






2010年03月31日
ティーガーT
ティーガーT  Panzerkampfwagen VI Ausf. E (Sd Kfz 181)

フランス戦で連合軍のB1 bisやマチルダ歩兵戦車と対峙したドイツ陸軍は、これらの重装甲戦車に対抗するため、火力と装甲を重視した本格的重戦車の開発に着手した。
DW I、DW II、VK 3001(H)の開発コードの名ですでに4号戦車を上回る火力と装甲を持った戦車の開発が数種進められていたが、フランス戦での戦訓からこれらの計画は破棄され、新たに1941年5月からより強力な戦車を求めるVK 4501(H)計画に変更された。
88ミリ高射砲を戦車砲に改造した砲を搭載し、前面100ミリの装甲を纏った本車は当時最強の戦車として完成した。
VI号戦車E型、ティーガーの名称を与えられた本車は1942年8月より量産が開始され、わずか一ヶ月後の9月から新編成の第502重戦車大隊に配備されてレニングラード近郊の戦闘に投入された。
新型戦車を早く投入したいヒトラーの意向のため投入時期が早められた為、初期欠陥の露呈に加え、重戦車の行動に向かない地形での戦闘で散々な初陣となってしまった。
1942年11月から北アフリカのチュニジアに投入された第501重戦車大隊の少数のティーガーは、重戦車の特徴を活かせる視界の広い平坦な地形でその強火力と重装甲を存分に発揮し、連合軍を恐怖に陥れティーガー伝説の始まりとなる。
燃費が悪く、航続距離が短かい上、頻繁に整備が必要という欠点はあったが、1943年までは世界最強の戦車といえる車両だった。
725mmにおよぶ幅広のキャタピラは57tの重量を分散し、重戦車にもかかわらず4号、3号戦車より面積当たりの接地圧は低かった。
またパンターより高価なトランスミッションを搭載しており、操縦がし易く、戦車兵はパンターよりティーガーに乗りたがったという。
垂直の装甲は傾斜装甲に比べ不利であったが、車体を敵に対し45度の角度をとる運用により、傾斜装甲と似た効果を発揮できた。
価格が高く工程も多いため量産が進まぬ車両だったが、1944年の8月まで生産が続けられ総計で1335輌が完成した。
ティーガーは数は少ないが、独立重戦車大隊などに配備され戦線の火消し的存在として活躍し、多くのエース戦車長を生んだ。
その名はドイツ戦車の代名詞的戦車としてあまりにも有名である。

<ティーガーI重戦車 初期型>

全長:    8.45m
車体長:   6.316m
全幅:    3.705m
全高:    3.00m
全備重量: 57.0t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL210P45 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 650hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 195km
武装:    56口径8.8cm戦車砲KwK36×1 (92発)
        7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚:   25〜100mm








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