2013年03月30日
ティーガーII ヘンシェル砲塔搭載型
Panzerkampfwagen VI Ausführung B "Tiger II"
戦車の設計コンセプトとして火力、防御力、機動力の三点があるが、ティーガーUは火力と防御力に異常に特化した戦車として計画された。
この背景にはティーガーの更なる性能強化を求めたヒトラーの鶴の一声がある。
1942年8月からスタートするティーガーの発展強化計画でヒトラーは主砲に71口径88ミリ砲の搭載と前面装甲を150ミリにすることを要求したのである。
ティーガーの生産が始まったばかりで実戦配備もされない時点でこの要求は過大すぎると思われるが、ヒトラーの戦車に求める根源的なものがこの要求になったのか、いずれ現れるJS-2等の重戦車を想定し冷静に下した判断なのか分からないが、いずれにせよヒトラーの要求によりティーガーUは計画が進められてゆく。
試作車が兵器局検査官によって受領されたのは1943年11月で、1944年初頭から生産が開始されティーガーの生産と徐徐に入れ換えていった。
本車の69.8tという大重量に見合った新型の大馬力エンジンを開発する時間的余裕はなく、パンターと同じマイバッハHL230P水冷60°V型12気筒ガソリンエンジン700馬力を搭載し、トランスミッションはティーガーに搭載された発展型のマイバッハOLVAR-OG401216Bだった。
1944年6月にティーガーU45輌(内12両は初期型のポルシェタイプ)を受領した第503重戦車大隊がノルマンディーの戦闘に投入されたのを皮切りに、ティーガーUは東西両戦線に配備されたが、ラインの守り作戦(バルジの戦い)、春の目覚め作戦などの機動力を伴う戦闘では全く役にたたない欠陥を露呈した。
ラインの守り作戦ではパイパー戦闘団に配備されたSS第501重戦車大隊の20輌のティーガーUは、鈍重さと燃費の悪さ機械的信頼性から行軍についてゆけぬと判断され、最初から部隊の後方に配備された上くねる道の移動で頻繁なギアチェンジにより機械故障が続発し落伍車両が相次いだ。
700馬力のエンジンでは大重量の車体を動かすにはパワー不足であり、アクセルは常にべた踏み状態が続きエンジンは過負荷状態。ギヤチェンジ、旋回にはトランスミッションに負荷がかかる。
速度はスペック上は路上38q/hだが、持続速度はせいぜい20q/h。路外では15q/hぐらい。幅広の履帯で接地圧は0.89/cuとパンターとあまり変わりはないが出力不足のため不整地での行動はパンター、ティーガーより当然落ちる。
燃費も最悪で路上でリッター162mだという。
これでは侵攻作戦に使えるわけがない。
それでもヒトラーはラインの守り作戦で本車に期待していたという。
ティーガーUが威力を発揮したのは防御戦闘での移動をあまり伴なわない戦闘であり、陣地や森に潜むティーガーUは連合軍にとって恐るべき存在となった。
虎の爪ともいうべき71口径88ミリKWK43はT34の前面装甲を実に3000メートルの距離から貫通したという。ティーガーUの車体前面40度の傾斜した150ミリの装甲は連合軍のあらゆる戦車砲をはじき返した。
機動力に著しい欠点がある本車だが大戦末期には短距離の機動防御や脱出戦闘ともいうべき戦いで伝説的な記録も残している。
ベルリン攻防戦下キュストリンに包囲された部隊救出のため第9軍SS第502重戦車大隊のティーガーUは第9降下猟兵師団の降下猟兵と共にゼクセンドルフ村に夜襲を行い多数のソビエト軍戦車を撃破した。
その後第9軍はソビエト軍に包囲され西方の第12軍に合流するため生き残ったSS第502重戦車大隊のティーガーU5両に最後の燃料を補給し、このティーガーUを先頭に突破を試みる。激闘数日4輌のティーガーUが失われ最後の1輌が擱座するが25000の兵士と1000の一般市民の脱出に成功し、最終的に米軍に投降する。重装甲、強火力のティーガーUでなければこの突破は成功しなかったかも知れず、鈍重とは言われながらも最後にみせた真価であった。
ティーガーUの生産数はヘンシェル社の工場が爆撃され大幅に落ち、1500輌の発注に対し完成したのは485輌から492輌といわれる。
<ティーガーII重戦車 ヘンシェル砲塔搭載型>
全長: 10.286m
車体長: 7.26m
全幅: 3.755m
全高: 3.075m
全備重量: 69.8t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 38km/h
航続距離: 170km
武装: 71口径8.8cm戦車砲KwK43×1 (72発)
7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚: 40〜180mm
戦車の設計コンセプトとして火力、防御力、機動力の三点があるが、ティーガーUは火力と防御力に異常に特化した戦車として計画された。
この背景にはティーガーの更なる性能強化を求めたヒトラーの鶴の一声がある。
1942年8月からスタートするティーガーの発展強化計画でヒトラーは主砲に71口径88ミリ砲の搭載と前面装甲を150ミリにすることを要求したのである。
ティーガーの生産が始まったばかりで実戦配備もされない時点でこの要求は過大すぎると思われるが、ヒトラーの戦車に求める根源的なものがこの要求になったのか、いずれ現れるJS-2等の重戦車を想定し冷静に下した判断なのか分からないが、いずれにせよヒトラーの要求によりティーガーUは計画が進められてゆく。
試作車が兵器局検査官によって受領されたのは1943年11月で、1944年初頭から生産が開始されティーガーの生産と徐徐に入れ換えていった。
本車の69.8tという大重量に見合った新型の大馬力エンジンを開発する時間的余裕はなく、パンターと同じマイバッハHL230P水冷60°V型12気筒ガソリンエンジン700馬力を搭載し、トランスミッションはティーガーに搭載された発展型のマイバッハOLVAR-OG401216Bだった。
1944年6月にティーガーU45輌(内12両は初期型のポルシェタイプ)を受領した第503重戦車大隊がノルマンディーの戦闘に投入されたのを皮切りに、ティーガーUは東西両戦線に配備されたが、ラインの守り作戦(バルジの戦い)、春の目覚め作戦などの機動力を伴う戦闘では全く役にたたない欠陥を露呈した。
ラインの守り作戦ではパイパー戦闘団に配備されたSS第501重戦車大隊の20輌のティーガーUは、鈍重さと燃費の悪さ機械的信頼性から行軍についてゆけぬと判断され、最初から部隊の後方に配備された上くねる道の移動で頻繁なギアチェンジにより機械故障が続発し落伍車両が相次いだ。
700馬力のエンジンでは大重量の車体を動かすにはパワー不足であり、アクセルは常にべた踏み状態が続きエンジンは過負荷状態。ギヤチェンジ、旋回にはトランスミッションに負荷がかかる。
速度はスペック上は路上38q/hだが、持続速度はせいぜい20q/h。路外では15q/hぐらい。幅広の履帯で接地圧は0.89/cuとパンターとあまり変わりはないが出力不足のため不整地での行動はパンター、ティーガーより当然落ちる。
燃費も最悪で路上でリッター162mだという。
これでは侵攻作戦に使えるわけがない。
それでもヒトラーはラインの守り作戦で本車に期待していたという。
ティーガーUが威力を発揮したのは防御戦闘での移動をあまり伴なわない戦闘であり、陣地や森に潜むティーガーUは連合軍にとって恐るべき存在となった。
虎の爪ともいうべき71口径88ミリKWK43はT34の前面装甲を実に3000メートルの距離から貫通したという。ティーガーUの車体前面40度の傾斜した150ミリの装甲は連合軍のあらゆる戦車砲をはじき返した。
機動力に著しい欠点がある本車だが大戦末期には短距離の機動防御や脱出戦闘ともいうべき戦いで伝説的な記録も残している。
ベルリン攻防戦下キュストリンに包囲された部隊救出のため第9軍SS第502重戦車大隊のティーガーUは第9降下猟兵師団の降下猟兵と共にゼクセンドルフ村に夜襲を行い多数のソビエト軍戦車を撃破した。
その後第9軍はソビエト軍に包囲され西方の第12軍に合流するため生き残ったSS第502重戦車大隊のティーガーU5両に最後の燃料を補給し、このティーガーUを先頭に突破を試みる。激闘数日4輌のティーガーUが失われ最後の1輌が擱座するが25000の兵士と1000の一般市民の脱出に成功し、最終的に米軍に投降する。重装甲、強火力のティーガーUでなければこの突破は成功しなかったかも知れず、鈍重とは言われながらも最後にみせた真価であった。
ティーガーUの生産数はヘンシェル社の工場が爆撃され大幅に落ち、1500輌の発注に対し完成したのは485輌から492輌といわれる。
<ティーガーII重戦車 ヘンシェル砲塔搭載型>
全長: 10.286m
車体長: 7.26m
全幅: 3.755m
全高: 3.075m
全備重量: 69.8t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 38km/h
航続距離: 170km
武装: 71口径8.8cm戦車砲KwK43×1 (72発)
7.92mm機関銃MG34×2 (5,850発)
装甲厚: 40〜180mm