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2016年11月22日

鉄血のオルフェンズ 第7話「友よ」はとても重厚な回でした。やっぱり名作!

第2期が始まってから8話目となりました。
相変わらず面白い”鉄血のオルフェンズ”。

さきほど7話を見終わりまして(録画)、興奮の残滓が抜け切らないなか、久し振りにオルフェンズの感想を書いてみようと思いついたところです。

ここ数話は鉄華団・地球支部のストーリーが中心となって進んでいました。
前話までは、地球支部長代理となったタカキが、策略により情報を立たれた中で流されるまま戦闘を繰り返し、仲間を失い、見えない戦いに疲弊していく様子がリアルに描かれていました。

状況が見えない中で戦闘を強要されることほど疲弊することはありません。

戦闘を”仕事”や”勉強”という言葉に置き換えると、似たような状況を経験した人も多いのではないでしょうか。

かくいう自分もその一人です。
見えない指示系統、目的、情報・・・目隠しされた中でひたすらに足掻き続けるのはとても辛い。
ああなんか思い出してきた・・・

もとい。
オルフェンズの話です。

第7話はいよいよクライマックスシーン。
冒頭から鉄華団のタカキとアストには死亡フラグを予感させる台詞が連続します。
「一緒にフウカのところへ帰ろう」
「約束だ」

それ以上言ってはダメだ、、、
という心の叫びを他所に、話は一気に加速していきます。

見どころは戦闘が終了した後の詰問シーン。
鉄華団地球支部を裏切り、先の見えない戦いへの引きずり込んだ連絡役の男を、火星支部からやってきた面々が問い詰めます。
なぜ裏切ったのか。
言いたいことはあるのか。

それに対してまあ必死に言い逃れをしようとします。
「地球支部を守るためにしょうがなかったんだ」
「現場で判断しないと駄目な状況だったんだ」
などなど。
それを聞いていたミカヅキがぼそっと一言。

「話なんてする必要あるの?」
「こいつは鉄華団を裏切った。そして仲間を無駄に死なせた。こいつはもう・・・」


と言いながら懐に手をやり、拳銃を取り出そうとします。
制止するようにタカキが「俺に!話をさせてください」と言ったところ、

「話してどうすんの」
と冷たく言い放つミカヅキ。


強い目で見返すタカキ。ついこないだまでは迷いがいつも表情に出ていたのに、決意が漲った表情に変わっています。

「これは地球支部の問題です」

・・・
さながら任侠もののような雰囲気が醸し出されるこのやり取り。
なんだかミカヅキは若頭みたいな風格を醸し出してきました。
戦闘にも、人間にも、物語にも、何だか生々しい血の匂いを感じ、練り上げられたシナリオはまさに「重厚」の一言です。
たまりません。

やっぱりオルフェンズは名作だ!!
という思いをまた強く感じました。

ところで7話タイトルの「友よ」ですが、鉄華団、中でも今回はタカキとアストの関係を暗示したタイトルだなあと思っていたのですが、最後に「友よ」と呟いたのは敵役の黒幕だったギャラルホルンの男でした。
そう、鉄華団からすれば憎むべき敵であっても、彼らもまた友情で結ばれた仲間がいた・・・。
そんな余韻も与えながらの7話でした。


楽しかった。
また、次回が楽しみです。
posted by 霧島もとみ at 2016年11月22日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年10月11日

まさか、置いたその日に・・・!!凄さを伝えたい。 「ごきぶりホイホイ(アース)」

ごきぶりホイホイはやっぱり凄かった!という体験談です。
ゴキブリなんて言葉だけでも聞きたくない!目にしたくない!という方はご遠慮いただいたほうがよろしいかと思います。

さて、「ゴキブリ」と聞くと、途端に表情が険しくなる人が多い今日この頃。
私の家族も例外ではありません。

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実は、今の家に引っ越ししてから5年程になりますが、実は家のなかでゴキブリを見たことが一度もありませんでした。
特別に片付いている家ではないため(むしろ散らかっていると言ったほうが適当かと・・・)、きっとそれは偶然の賜物だったんだろうかと今になって思うのですが、それがつい先日、ついに家の中で彼を発見してしまいました。

時刻にして深夜2時。
ふとリビングに表れた彼の姿は何か非現実的で、一瞬幻でも見たのかな?と思いましたが、落ち着いてよく見るとやっぱりゴキブリでした。
黒々としたそのボディはしかし、私がティッシュを取りに動いたその隙に姿をくらましていました。

翌日そのエピソードを家族に話したのが運の尽き、この役立たずと言わんばかりの非難に遭いました。
・なぜティッシュを取りに行ったのか理解できない。
・手元にあるチラシとか何か丸めて攻撃するべきだ。
・敵から目を離すな。


それから対策を考え、月次ではありますが「ごきぶりホイホイ」を購入することにしました。
2個パックで確か600円台。正直高いなコレと思いましたが、開けてみると1パックに5個セットで入っていました。パッケージをよく見ると確かに1パック5個入りと書いてありました。いやそんなにいらないんだけど・・・と困った顔をしてももう遅い。
とりあえず3個だけ置いてみることにしました。
目撃したリビング周りに1つ、
台所に1つ、
玄関まわりに1つ。

仕掛けたのは夜の10時頃でした。
翌日の朝、とりあえず様子を見てみたところ、中に一匹のゴキブリが。

早速かよ!!!!!


いやいや、早すぎるでしょ。
もう少し時間をかけても良かったんじゃあ・・・とも思いましたが、罠をしかけておいてそんなことを考えるのもゴキブリに失礼だなと思い直し、素直に「ごきぶりホイホイ」に対して敬意を持つことにしました。

所要時間、約8時間。

すごいよごきぶりホイホイ(アース)


という、日常の1コマでした。

(以下、余談)

ところでどうしてゴキブリってこうも嫌われるんでしょう?
見た目のことを言う人は多いですが、見た目でいえばコオロギだって同じようなものですよね。私はコオロギが苦手です。

というわけで「ゴキブリ 害」でググってみると、やはり人間にとっては「害虫」であることは間違いないようです。
ゴキブリ自体に罪は無いのですが、家の中にどこからともなく侵入し、排水口でもトイレの中でも自在に動き回る機動力溢れる彼らのボディは、そこに住んでいる人間にとって「不衛生」をもたらす存在になってしまうのです。

ネットで読む限り、甘く見ていると痛い目にあうこともあるみたいです。

どこかで「ゴキブリなんて蚊みたいに刺してくる訳でもないし、大目に見てもよいのでは」と考えていましたが、これは考えを改めなければなりません。家を構えて住む以上「不衛生」に対しては、戦わなければならないと思いました。
posted by 霧島もとみ at 2016年10月11日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2016年09月20日

本って何のために読むの?と道を見失いかけていた僕に一筋の光を照らした「星野リゾートの教科書」中沢 康彦

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このブログのメインコンテンツは今のところ書評です。
ブログの目指すところは「人生を素敵に面白く生きるためのツールとして、自分自身の心と体に響いたものを広く紹介していく」ことですが、同時に読書記録としての用途も兼ねて、書評を多めに書かさせていただいています。

そこそこ多くの本を読んでいるのではないかと思っていますが、本を読みブログを書き、仕事をして人生を生きている中でとある疑問を常に抱えています。

「本を読んだことのうち実生活で使えていることが相当少ない」
「自分は一体、何のために本を読んでいるのか」


興味があって本を読むわけですが、例えば会社経営やマネジメントに関する本を読んで知識を得たとしても、会社経営者でない以上は本の内容を大々的に活用できる機会なんてありません。

しまいには、
本を読む意味なんてないんじゃないかなあ。
何ならこのブログももう止めてしまってもいいんじゃないかなあ。


なんてことも考えるようになっていました。

そんな時に書店で手に取ったのがこの「星野リゾートの教科書」で、内容的に、本について、本との付き合い方について、大いに悩んでいる私にはぴったりの本でした。

これはぜひ紹介したい!
ということで、記事を書かせていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

衝撃を受けた導入部


課題に直面するたびに、私は教科書を探し、読み、解決する方法を考えてきた。それは今も変わらない。星野リゾートの経営は「教科書通り」である。


星野リゾートの星野社長については、NHKの「プロフェッショナル」で見て以来何度もテレビや書籍で目にすることがあり、私の中では「旅館再生の達人」「高級旅館ブームの火付け役」といった認識をしていました。
更に言えば、「星野社長独特の視点・考えで会社を動かし、その実行力で次々と成功を収めてきた」という天才的な人物だと考えていました。

「型破りな人物」というイメージで見ていました。

ところが、星野社長自身はそれを「教科書通り」の経営であるというのです。
それが本当だとすると、型破りではない。むしろ型通り・・・。私の認識はガツンと大きく揺さぶられました。

それは一体どういうことなんだろう?
具体的には?

気が付けばこの本の世界に一気に引き込まれていました。

教科書としての”本の使い方”


星野社長の考えは先ほど引用した部分に端的に表されています。
それを補強する根拠として、星野社長はこのように語っています。

私が参考にする教科書の多くは、米国のビジネススクールで教える教授陣が書いたものだ。彼らは「ビジネスを科学する」という思想の下、数多くの企業を対象に手間と時間をかけて事例を調査し、そこから”法則”を見つけ出し、理論として体系化している。その内容は学問的に証明され、一定条件のもとでの正しさはお墨付きなのだ。


改めて言われるとその通りです。
でもそれは本当なんだろうか?というような、考えがいつもどこかにありました。


今までの自分の読書体験


読んだ時は「なるほど」「面白い」「勉強になった」と感じます。
印象深い本を読んだときは興奮した状態のようになり、一時的に「何かをしよう・・・!」というやる気のようなモノが自分の中に湧いてきたような感覚を覚えます。

・・・で、それで終わり。
というのが自分の読書体験の大半だったように思います。

名著として名前が知られている本、今年一番売れている本、有名なあの人の本。
そんな本を読み、自分の知らない知識を得て、自分の中の何かを変えられるのではないか・・・期待を抱きながら、それを満たすことはほとんど出来ていませんでした。

そして、
本を読む意味なんてないんじゃないかなあ。
何ならこのブログももう止めてしまってもいいんじゃないかなあ。
と考えるようになっていたのは最初に書いたとおりです。

それを星野社長は、本をビジネスの教科書として読み込み(読書)、課題を解決するための手法として用いてビジネスを動かしているという(結果)・・・。

自分が読書を通じてしたかった事は、正にこれだと思いました。
読書という行為は無駄なものなんかではなく、自分自身を前へ進めるための道具であり、武器になるんだと。

じゃあなぜ星野さんにとって読書は意味のあるものになり、自分にとっては意味の薄いものになっているのだろうか?と考えました。
その答えも実はこの本の中に書かれていたんです。

本への向き合い方


まず第一に、本を読むという行為の目的がどこにあるのかです。
再び引用します。

課題に直面するたびに、私は教科書を探し、読み、解決する方法を考えてきた。


この箇所から、読書をするにあたっての目的意識が明確化されているということが分かります。
星野社長は「課題を解決するための手段とするため」に本を読むのです。

一方、自分は、「何となく面白そうな」「ためになりそうな」本を読んでいるに過ぎないと感じました。

次に、読書を行うにあたっての具体的な方法論です。
自分は「手当たり次第に本を読む」、ただそれだけでした。
読書論的な本を読んだこともありますが、実際に取り組むにはちょっと難しい(手間がかかると感じる・・・)ものも多く、結果的には「ただ読んで印象的だったことをメモするだけ」という状態でした。
あとはこのブログに記事を書くくらい・・・ですね。

これについても星野社長は明確な方法論を示しています。
紹介すると長くなるので見出しのみ引用しますと、
”ステップ1 本を探す 書店に1冊しかないような古典的な本ほど役に立つ”
”ステップ2 読む 1行ずつ理解し、分からない部分を残さず、何度でも読む”
”ステップ3 実践する 理論をつまみ食いしないで、100%教科書通りにやってみる”

という事です。

特にステップ3に凄みを感じました。言うのは簡単ですが、これ、本当に難しい事だと思います。勉強方法とかなら分かりますが、星野さんは経営者ですから、それはつまり会社の動きを「100%教科書通りにやってみる」という事で、相当な信頼を置かなければ出来ません。
相当な信頼を・・・あ、そうか、つまりそれをステップ1,ステップ2で確かめているのかもしれません。

どれだけ本に対して真摯に向き合っているのかを痛感させられます。
でもそれは逆に言えば、それだけ本から得るものが大きいということを星野社長は知っているという事です。

まとめると、
・明確な課題・問題意識を持つ
・それを解決するための教科書として相応しい本を探す
・その内容を全力で理解し、徹底的に実践する


これが星野さんが行い、そして自分自身が出来ていなかった「本への向き合い方」です。

まとめ


本を「教科書として使う」という考え方は、自分にとって衝撃的な内容でした。
そして具体的な方法論も端的に書かれている。

この本を読むことで、私は、
・読書という行為の可能性を知る。
・本を自分自身の糧に変えていくために必要な事柄を知る。

という2つの大きな気付きを得ることが出来ました。

この本に出会えて良かったです。
また今日から、本を読み、ブログを更新していく意欲が湧き上がってきました。
頑張ります!(勝手に・・・)
posted by 霧島もとみ at 2016年09月20日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:実用書

2016年08月31日

国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 伊藤祐靖

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いつものようにAmazonがオススメしてくれる「この商品を買った人はこんな商品も買っています」で紹介されたのがこの本との出会いです。

強い力を持つタイトルに心を惹かれて購入してしまったのは、近頃、自分の中で表現することが難しい悩みや葛藤といった類の感情が強く表れるようになっていたことと無縁ではなかったと思います。

そしてこの本の内容は、筆者のメッセージは、そんな行き詰まった状態だった私を強烈に啓蒙するものでした。

「そういうことか!?」

閃きのような感覚を何度もこの本の中で感じました。
今年これまでに読んだたくさんの本の中で、最も強く揺さぶられた一冊、それがこの「国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動」です。

どんな本だった?


曲がりなりにもブログという形で文章を書いていると、書いたものを読み返した時に、「力のある生々しい文章」だと自分でも感じたり、逆に「妙に薄っぺらい響いてこない文章」だと感じたりする経験をします。

もちろん、「力のある生々しい文章」が書きたいといつも考えています。でもこれがなかなか書けないんです。
思い返せば「生々しい文章」を書けたと感じる時は、強く印象に残る体験や、考え尽くした思考の塊があった時でした。

この本は間違いなく「力のある生々しい文章」です。

自衛隊在職中の海上警備行動発令時のエピソードでは、まるでその場にいるかのような臨場感をもって書かれていて、極限の状態の中で隊員たちが任務に向き合う様子がありありと浮かび上がってきました。

フィリピンのミンダナオ島でのトレーニングパートナーとの会話では、筆者に替わって自分自身が気圧され、詰め寄られているようなプレッシャーを感じました。

それでいて、読者の立場からはしっかりと考えさせられる構成・内容になっています。
「国のために死ねるか」というタイトルにあるとおり、国とは何か、自分は何のために生きるのか、何を大切にするのかということを、著者自身の迷いを疑似体験することで「自分自身に当てはめると、どうだろう」ということをいつしか考えていました。

繰り返しになりますが、強く、読者を揺さぶる本だと思いました。

読むことで得られたもの


自衛隊の様子について、例えば「海軍と陸軍の違い、文化」のエピソードもなかなか面白いと思いました。
しかし、やはりここで触れておきたいのは、「今行おうとすることの目的は何か」「そのためには何を行うべきか」「無駄なものは何か」という徹底した目的意識を持つべきだという考え方。

そして、目の前の目的ばかりを考えるのではなく、国というものー自分の存在の根本となっている今の環境や歴史に思いを馳せ、その主体性とは何か、自分が生きている環境はどうやって過去の先人たちが築いてきたのかをしっかりと知り、理解しておく必然性があるのだという考え方。

これらの事をしっかりと考えておかなければならないのではないか?
そう考えさせられたことが、最も大きな「読むことで得られたもの」だと、今は感じます。

こんな時にまた読みたい


日常に忙殺される中で、自分自身がどこへ向かっているのか、何をやっているのか分からなくなった時。
国際的な話題や問題を考える時。
支えきれないような苛立ちを覚えた時。

そんな時に読み返して、生きていく姿勢を自分自身で問いかけてみたいと思います。

posted by 霧島もとみ at 2016年08月31日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:教養

2016年08月08日

歴史を知らなければ今を読み解くことはできないんですよ?と当たり前の事を強く実感させる本でした。「世界史の極意」佐藤 優

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またもや元外交官シリーズ、といいますか佐藤優さんの本です。
我ながら好きだな・・・と思ってしまいますが、面白いのでしょうがない。

佐藤さんの本はどこか読後に刺激物の残滓があるというか、ふらっと寄った書店で目に入った時に「また読みたい」という欲がふっと湧いてくるんですよね。
いやいや不思議。

どんな本だった?


「世界史をアナロジカルに読み解く」ということをテーマに、三章構成で書かれた本でした。
アナロジカルとは、”類比的な視点で捉える”という意味です。
アナロジー的(類比的)な思考を養うことで、世界の動きを捉える力を身に付けていくことが必要であると説き、そのための過去の事例として「帝国主義」「民族問題」「宗教紛争」についての解説をしていくという本になっています。

過去の歴史にこういう事があった。
今を分析すると、その時の状況に似ている。
だとすると、次はこういう様に動いていくと考えられる。


まあ、平たく言うとこんな感じでしょうか。
こういう風に見ていく目を養い、また、類比的思考の元になる基礎知識を増やしていきましょうという事です。

ただ、どちらかというと”類比的思考の元になる基礎知識”の方が分量的には多いですね。
宗教、民族に関する記述・分析はさすが佐藤さんと唸らせるもの。
佐藤氏の本を読むこと10冊くらいにはなったでしょうか、私のような歴史オンチにも出てくる単語の意味が少しずつ分かるようになってきて、面白く読めるようになってきました。

読むことで得られたもの


民族とか、宗教とか、普段何気なく使っている言葉ですが、その成り立ちや言葉の背景にあるものの片鱗が少し理解できたように思いました。
佐藤氏は”宗教改革とウクライナ危機はつながっている”の箇所では、宗教改革から派生した地域内の宗教の違いが今に残り、そのことがウクライナ危機の一つの背景になっていると指摘していました。
事件の表面だけを見るのではなく、その背景にどのような問題があるのかを分析していくことで、事件が意味する本来の姿が見えてくるという事をありありと見せられた気がしました。

文系の世界も実は奥が深い、と今更ながら痛感させられます。
文系の学問というのは、実は、人間そのものの存在を追求していく学問なのかもしれないと感じました。

こんな時にまた読みたい


第三章の”宗教紛争を読み解く極意”は、イスラム教、キリスト教の歴史上のポイントを分かりやすくまとめていると感じました。
この本は手元に置いておき、何度か読み返して理解しておきたいと思います。

私のように「高校生以来歴史の勉強はしていない」というような人には、歴史の勉強の本来の意味を突きつけてくる、割と威力のある、そんな本でした。
タグ:佐藤優
posted by 霧島もとみ at 2016年08月08日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:教養

2016年08月06日

ハイブリッド外交官の仕事術 (PHP文庫) 文庫  宮家 邦彦

元外交官で立命館大学客員教授を務め、テレビでも外交関係のコメンテーターとしてよく見かける宮家邦彦さん
テレビでの落ち着いた話しぶりがとても印象的で、知的な人物という印象を受けていました。

”ハイブリッド外交官の仕事術”と題されたこの本を書店で見付けた時に「宮家さんが培ったノウハウをまとめている本だとしたら、これは面白そうだ」と思い、手にとってペラペラとめくり、そのままレジへ持って行きました。

どんな本だった?


確かに宮家さんの個人的ノウハウが書き込まれていた本でした。
しかしその内容は少し抽象的で、ノウハウというよりも体験談といったような内容だと感じました
もう少し細部にもフォーカスを当てた説明があればなお面白かったかな?と思います。

そういう意味では、本を読んだ私自身が今日から早速取り組めること・・・といったような内容は見付けられなかったと思います。
実務的な基本ノウハウを身に付けた人が読む本なのかもしれません。

「メモとペンを枕元に置く」ことは実践できることですが、まあ、これはいろんな本に既に書かれていることですので・・・。

読むことで得られたもの


宮家さんが外交官時代にどのような姿勢で業務携わっていたのか、文化が異なる外国でどのように人間関係を作っていったのか、このあたりのエピソードはとても面白かったです。

中東専門家の視点から見た「アラブの春」の分析はとても興味深いものでした。
外交官として現地で生活を送り、また国家間の知識を持った人が世界のことを見ると、こういう視点になるんだなあということは大変参考になりました。逆にいうと、マスコミの情報を鵜呑みにして世界を見ているのは、見ているようで何も見えていないということを指摘されたようで、少しぞっとしました。

また、情報収集については、

”今でも、私の戦略的分析に必要な情報の九割は公開情報で十分入手可能です”


と書いていました。これは元外交官の佐藤優さんも同様のことを書いていました。
だとすると、多くの情報は誰にでも入手が可能ということになりますから、
・公開されている情報の中から必要なものをどうやって取りに行くか。
・それをどうやって分析していくか。

が能力の違いになるということで、自分自身も注意して取り組んでいこうと思いました。

こんな時にまた読みたい


中東情勢や、イスラム国の問題は目を離せない大きな事柄です。イギリスのEU離脱のこともあり、何か世界で大きな動きが起こりそうな雰囲気を感じているなか、「世界はこれからどう動いていくのだろう」と思った時にもう一度読んでみたいと思います。

もし宮家さんの本を読んでみたいという人がいましたら、「世界史の大転換〜常識が通じない時代の読み方〜 佐藤 優、 宮家 邦彦」をまずはオススメします。
今回読んだ宮家さんの本よりもぐっと内容を深く切り込んでいて、歴史の動きの流れを体感できるとともに、著者のお二人の知識・知性の高さに圧倒されると思います。
posted by 霧島もとみ at 2016年08月06日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:教養

2016年07月21日

マギ 30巻 大高 忍 (※ネタバレ)

さあ!
待ちにまったマギの最新刊、30巻が発売されました。
表紙は、背中に大荷物を背負って旅人のような雰囲気を醸し出し、陽の光を浴びてキラキラと光っている少し大人びたアリババ。

帯には”商人アリババ、新世界を大冒険!!”のコピーが。
29巻は生き返ったアリババがシンドバッドに会い、次に、煌帝国の皇帝になった紅玉に会いに行くというところで終わりました。

戦争のない、金属器のない新世界でどのようなストーリーが進んでいくのか・・・。急ぐ心を整えながらページを捲っていきました。


(読後の感想。ここからネタバレです)


最終章、最後の物語はアリババの旅から始まりました。
まだアラジン、モルジアナの行方は分かりません。暫くは静かにアリババの旅を見守るしかなさそうです。

30巻では、少しずつシンドバッドが築き上げた「平和な新世界」の様子が少しずつ明らかにされていきました。それは煌帝国からの視点であったり、アリババがかつて交流していた人物からの視点であったり、様々です。

何はともあれ「30巻も面白い!」ことは間違いありませんでした!
その中で中心になるトピックや気になった事項に焦点を幾つか当てて、紹介したいと思います。

煌帝国を立て直せ!


煌帝国の弱体化振りは29巻で描かれていたとおりですが、30巻でアリババが紅玉から聞いたのは「煌帝国の破綻秒読み」という現状でした。それを何とかしたいと考えたアリババは、何と、かつての煌帝国軍隊を商会として機能させて、商売で復興するという考えを絞り出します。

その第一歩として、アリババは、シンドバッドに「返済を1年間無条件で引き伸ばして欲しい。利子も凍結して欲しい」との交渉を行い、これを成功させます。

こう来るか!と唸る展開ですが、しかし同時に、

マギってビジネス漫画だったっけ?

と呆気に取られる自分がいました。
これまでは魔法や金属器による戦いで物語が進んでいきましたが、シンドバッドが作り出した平和な世界を舞台に、今後は経済戦争が繰り広げられていくということなんでしょうか?

シンドバッドとアリババが智慧の限りを尽くし、マネーの世界で生きるか死ぬか、生き馬の目を抜く熾烈な戦いを繰り広げる・・・。
いやまあそれはそれで面白いと思いますが、やっぱりマギは30巻の裏表紙に書いているとおり「究極魔導ファンタジー」な訳ですから、魔法や金属器の戦いもやっぱり見たい。

しかしながら暫くは、アリババが煌帝国を商売でどのように立ち直らせるかということを主軸に話が進みそうです。30巻の最後では、その商売のキモとして「転送魔法陣」の仕組みを活用するべく、アリババが各国に交渉の旅に出ます。

まずは、この行方を静かに見守りたいと思います。
でも何か、少し、今の私たちのリアルな世界に似ている感じがしてきましたね…。一つ一つのことが他人事だと思えず、意識に引っ掛かります。

アリババが得た”新しい力”と、アルマトラン時代の魔道士


29巻でその片鱗を見せていました、アリババが得た「新しい力」の正体が冒頭で明かされます。
それは、

一瞬を永遠に感じる超集中力(ユナン談)


です。つまり、もの凄い集中力を発揮することで、まるで自分以外の時間が止まったかのように振る舞うことが出来るという能力です。

これにより、敵の攻撃をたやすく捌くことができたり、膨大な書類の山をとんでもない速度で理解することができたりします。
まるで”JOJOの奇妙な冒険”第三部のザ・ワールドや、スタープラチナのような能力。

欲しい・・・(自分自身の心の呟き)

もとい!

これまでは金属器・魔装の力、バルバッド剣術、マゴイ操作(未熟)を持ちながらもどこか頼りなかった感じのあったアリババ。人間的な魅力は大きいものの、戦闘力に難あり・・・といった印象でしたが、この新しい力により、戦闘においても一気に頼れる存在となった感があります。

アリババの今後の活躍がますます楽しみです。
あ、でも、金属器は封印されているんですよね。

ところで、このアリババの力についてユナンが解説しているシーンの一コマに、アリババにハニワの身体を与えた人物のシルエットが出てきます。

よく見ると、「アルマトラン」の魔道士である、ワヒードセッタだということが分かります。
一人は肩に子供を乗せているのと、目隠しっぽいシルエットがあり、ワヒードだととすぐに分かりました。もう一人はファーラン(ワヒードの妻)かな?とも思いましたが何かシルエットが違う・・・と確信が持てず、22巻を引っ張りだして神杖の形を確認したところセッタでした。

2人の周囲には黒ルフの絵が描かれていますから、

・ソロモンによりルフが白く染められる前に死んだセッタ
・イル・イラーを地上に引き下ろし、自らはイル・イラーに帰っていったワヒード

という事実とも突合できますので、まず間違いないでしょう。


ワヒードは自分の子供であるテスのルフに巡り会えたんですね(肩に乗せてているから)。アルマトランは滅びましたが、テスとワヒード、魔道士唯一の親子が黒いルフの中で巡り会えたことは少しだけ救われたなあという感じがしました。

でもちょっと気になるのは、かつて「アル・サーメン」としてソロモンに敵対したワヒードがなぜアリババに力を貸したのでしょうか?ワヒードとセッタ、アリババの中でどんな話がされたのかがとても気になります。

このあたりも少しずつ明かされていくことだと思います。
楽しみです。

シンドバッドを探る旅・・・


29巻のアリババとシンドバッドとの会談で、シンドバッドは自らがダビデと繋がったことを伝えました。

一方アリババは、死んでいる間に魔道士から「ダビデがシンドバッドと繋がり、イル・イラーを地上に下ろそうとしている」と聞き、それを止めようとしています。
それでいてシンドバッドとのこれまでの関わりから、その話をすぐには受け容れる事ができないため、シンドバッドという人間のことを見定めようとしています。

アリババがそのために取った方法は、シンドバッドを知る人からの話を会って聞いていくこと。煌帝国の商業のための旅と並行して、アリババは「自分が死んでいた間のシンドバッドさんのことを教えて欲しい」と尋ねていきます。

これについて、30巻の中で印象的だった台詞は次の2つです。

・マスルール
「アリババ、シンさんは超人じゃない。だから、あまり追いつめるな。」

・シャルルカン
「俺には・・・・・・国が小さいことだとは思えねぇ。エリオハプトが大事だし、王サマが王様だった頃のシンドリア王国が・・・まぁ・・・大好きだったんだよ。」
※シンドバッドの「国という、小さなことに囚われず生きなさい。」という台詞を受けて。

特にマスルールの言葉が意味深です。言葉少ないキャラということも効いていると思いますが、アリババの話のどこが「シンドバッドのことを追いつめようとしている」のかが、とりあえず分かりません。

きっと後で「あれはそういうことだったのか!」ということになるんでしょうね。楽しみですし、落ち着いて時間が取れたら、じっくりと考察してみたい点です。

番外編:危険な国・煌帝国と紅明


あまり話の本筋とは関係ないと思いますが、ちょっと面白かったので触れておきたいです。

煌帝国復興のために、アリババに連れ戻された紅明が「魔導研究施設」の状況を確認しに行くシーンが出てきます。ここで紅明が幼いころから先見の明を持ち、魔導を研究していたということが明らかにされますが、その中で「乾卦札」というものが出てきます。

これは肉体の腐乱を止める魔法札(キョンシーみたいな感じ)なのですが、「何に使うんだよ」と聞いたアリババに対し、紅明は「死者を蘇らせるのですよ。」と言い放ちます。アリババは激昂して「死んだ人間を弄んでいいと思ってんのかよ・・・!!」と凄みますが、これに対して紅明とその仲間たち(煌帝国)は、いとも涼しい顔で次のように言います。

紅明「弄んでなどいません。彼らは死後も、世界を一つにするために、戦い続ける事ができるのです。」
部下A「すばらしいっ!!この上ない名誉ではありませんかっ!!」
部下B「俺も魂なき後も、煌のために、身体がちぎれるまで戦いたいものだ!!」
部下C「私もだ!!」

コレに対してアリババは呆然と呆れ返って、これ以上何も非難はしませんでした。

なんて危ねー国なんだ・・・と私も空恐ろしく感じましたが、しかし煌帝国に生きる人間にとってはごく当たり前の考えだということなんですよね。アリババもそれ以上言わなかったということは、少なくともこの世界において、「死者を蘇らせて戦わせる」ことが絶対に悪だという普遍的な価値観はないという事になります。

これもまた、漫画「マギ」が示す一つの真理なのかもしれません。
世界には様々な考え方・文化があり、それぞれがそれぞれにおいて存在しているのであり、「絶対的に正しい何か」なんて世界には無いんだというメッセージとも受け取れます。

そういえば、エリオハプトでの「そういう文化なんだよ、慣れろ」という台詞も、その一つかもしれません。

相変わらず考えさせられます。「マギ」。

まとめ


がらっと装いを新たにした新世界を舞台に進められる最終章。
金属器もない、魔法のバトルも繰り広げられない、どこか寂しい感じもしたマギ30巻ですが、活き活きと動く登場人物たちによって進められていく物語は何の翳りも見せない、むしろ「どう進んでいくんだろう?」というワクワクを感じさせるものです。

まだまだ最終章は始まったばかりで、物語が一体どこへ向かおうとしているのかは読み取れません。
そしてまだ姿を見せない、アラジン、モルジアナ。

30巻を読んだばかりでアレですけれど、
31巻が待ち遠しい!!

ということで、30巻の感想でした。
長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

↓↓過去のマギについての記事はこちら

マギ 29巻 大高 忍(※ネタバレ)

マギ 28巻 大高 忍(※少しネタバレ)

マギ 27巻 大高 忍(※少しネタバレ)

マギ 大高 忍 (11〜26巻)

マギ 大高 忍(1〜10巻)
タグ:マギ
posted by 霧島もとみ at 2016年07月21日 | Comment(0) | TrackBack(0) | コミック

2016年07月12日

世界史の大転換〜常識が通じない時代の読み方〜 佐藤 優、 宮家 邦彦

世界各国でナショナリズムの台頭と思われるような現象が表れるなかで、最近の世界の動向を元・外交官の2人が中東情勢、中央アジア、欧州、アメリカ、中国、そして日本について議論を交わしていくという本です。

佐藤優さんはロシア、宮家邦彦さんは中東の大使館で勤務していた経歴を持つ外交のスペシャリスト。
見識の広さ、世界情勢への理解の深さはそれぞれに専門地域は違えど、ともに凄いものを持っています・・・といっても私の2人に対する理解は、

・佐藤さんについては著書を読んだ(5〜6冊程度?)。
・宮家さんについては「そこまで言って委員会NP」で話しているのをよく見かけていた。

という程度のものです。
また私自身もいわゆる国際問題の専門家でも何でもないので、いくら私が「凄い人です」なんて言ったって説得力は無い訳ですが・・・。

おっと話がそれました。
この本について簡単にまとめておきたいと思います。

どんな本だった?


ひとことで言うと、難しい本です。


何せ知識レベルの高い2人の対談本ですから、テーマに挙げられる国や地域の歴史や文化、人種など様々な事柄を背景にして、それらの事が分かっている前提で議論が進められていきます。

私はたまたま佐藤優さんの本を何冊か読んでいるので、ロシアや中東情勢、キリスト教やイスラム教に関する話が出てくると「佐藤さんの本で読んだことがある話だな」と連想することが出来ましたが、どの程度の人がこの本の内容を本当の意味で理解できるのかなあと正直思いました。

え?
勿論、私も理解なんて出来ないですよ。
さらさらっと1回読んだだけで今この記事を書いていますが、正直なところ、読んで何かを分かったような気になっているだけです。
雰囲気を楽しむとでもいいますか・・・。

だって内容を理解するためには、書中に出てくる単語一つ一つの意味を正確に理解する知識と、2人の文脈を解析して把握できる読解力の2つが必要です。
読解力はともかく、それだけの「知識」を持ちあわせている人はそうそう多くないのではないでしょうか?
何しろ世界が舞台のこの本。
国名はもとより、地域名や人種・民族名、言語名、経済や政治用語など世界的な視野での単語が惜しみなく飛び交っている訳です。

読むことで得られたもの


では、理解できないから意味が無いのか?というと、決してそんな事はありません。

私がこの本を読んだことで得られたことは次のとおりです。

・世界で起きている事象の背景の入門的な知識を得ることができた。
・単純な話ではなく、様々な問題が絡んでいること。
・背景には、単純に国同士の利害関係ではなく、地域や国の歴史・文化、民族が抱える問題など、普段のニュースには出てこない事項が要因となっていること。
・それらを読み解くためにはそれぞれの地域の地勢的、民族的な歴史を知らなければ理解できないこと。

つまりどういう事かというと、

・この本には世界で起きている事象の大きな流れが語られている。
・しかしそれらを読み解くためには、まず背景となる多くの事柄の知識が必要。
・その知識を得るためのヒントがこの本にはつめ込まれている。

という事で、更に論を進めると

・この本に書かれているこの事柄はどういう意味だろう?
・この用語の意味は何だろう?
・どうしてこのような読み取り方が成り立つのだろう?

というような疑問を持ち、実際に自分で調べてみたり、勉強したりすることで本当の理解へと辿り着く事ができる、と言えるのではないでしょうか。

つまり、これは解説本の体を見せながら、実はこの現実世界で起こっている事項を読み解くためのヒント集であり、考える訓練をするための本なのです。

表紙には「一挙に解き明かす!」と書いてあり、確かに「これはこういうことですよね」と解釈が書かれていますが、その内容を本当の意味で理解するためには膨大な知識が必要です。

とにかく刺激がビシビシ伝わってくる、凄い本だなと思いました。

こんな時にまた読みたい


何か世界で事件が起こる度、テレビやネットで流れるニュースを見て何かを思う時があります。
そのニュースだけ、あるいはネットで幾つかの記事を見て、「本当に起こっている何か」を捉えることは難しいのだなということを何となく気付きました。

「なぜこのような事が起こったのか」「どのような影響力を持つのか」という視点から背景となる事象をしっかりと見抜き、それを元に「自分はどう考えるのか」ということを考えなければならないのだな、と思い知らされた感じを強く持ちました。

そんな風に何かを真剣に考えるとき、この本を読み返すことになりそうです。
posted by 霧島もとみ at 2016年07月12日 | Comment(0) | TrackBack(1) | 本:教養

2016年07月04日

映画「TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ」

TOO YOUNG TO DIE! を映画館で観てきました。
面白いのはもとより、何かちょっと心に引っかかった・・・映画でした。

忘れないよう、感想をまとめておきます。
ネタバレも含みますので、映画の内容を1ミリたりとも知りたくない!聞きたくない!という方はご注意ください。

映画の概要紹介(1回観て、覚えている範囲で・・・)


17才の高校生が不慮のバス事故で死んでしまい、地獄に行く…から始まる映画です。

バス事故の原因は劇中で明らかにされますが、
主人公がおやつのバナナを喉に詰まらせてしまい、座っていた最前列の座席から苦しさのあまり運転席へ倒れこみ、はずみでハンドルを谷方向に切ったことでバスが谷底へ転落したこと」
というギャグのような理由です。
その「自分でハンドルを切った」ことで、地獄の閻魔大王に「自分で死ぬ原因を作った=つまり自殺」とみなされて、地獄へ落とされたというのが本作の主人公です。

随分とぶっ飛んだ設定です。

序盤からのこんなぶっ飛んだ感じが映画の中では終始続いて、何だかきつ〜〜いお酒を手当たり次第に混ぜて飲まされるような感覚を受けました。
結構、酔えますよ。
(飲まされる、ではなく、こんなに上手くて楽しいものがあるんだぜと見せ付けられて、気が付いたら一緒に飲んでいた、という感じだったかもしれません。)

さて、あらすじの続きですが、最初は自分自身の生前の恋の行方を確かめたい主人公が、輪廻転生で人間界に戻ることを目指します。その途中で長瀬演じる鬼(キラーK)たちとの絡みがあったり、地獄ロック大会みたいなものへの出場を目指したりといったことをしていきます。

その中で主人公は、他人の生き様や歌に次第に感化され、いつしか輪廻転生の目的が「キラーKの歌を死に別れた彼女に届けてあげたい」という思いへと変化していきます。

ようやく主人公がキラーKの死に別れた彼女と子供とがいる天国に辿り着き・・・というのが、大まかなあらすじです。

そうそう、地獄のシーンで繰り返し出てくるロック音楽のシーンが印象的でした。シャウトが効いたハードロックが何度も映画館に響き、まるでハードロック・ミュージカルのような様相でした。

ここが面白かった


色々と面白い点はありましたが、3点を触れておきたいと思います。

◯長瀬が演じる地獄の鬼「キラー・K」

ヘビメタ色の濃い格好とドスの効いた話し方が特徴で、とにかくキャラが濃かったです。それでいて自己中的な主人公をそれとなく導いていく人間味のあるキャラなんですよね。

実は、死ぬ前は主人公が通っていた貸しスタジオの店員でした。これが明らかにされるなかで、生きていた時に持っていた人間的に弱いところや、付き合っていた女性とのエピソードが明かされ、急に人間臭くなってきます。

生前のどこか情けない男の感じと、死んで鬼になった後の突き抜け感のギャップが強く、また、それが急にまた人間の時のような弱い性格になったりと、この変化が見ていてとても楽しい!
むしろこっちが主人公なんじゃないか?って思いました。

怖くてカッコよくて、それでいて人間臭い、長瀬さん演じる「キラー・K」は最高に面白かったです。
歌も良かった。

◯散りばめられた大人のギャグ

下ネタとまでは言いませんが(一部は完全にそうでしたが)、結構大人な感じのギャグがそこかしこに散りばめられていました。

詳しくは割愛しますけれど、劇場でも結構笑いが起きてました。
爆発的な笑いではなく、「クスクス・・・」といった小さな笑いでしたが、そういったテイストが好きな人にはツボに嵌ると思います。
(親と一緒に家で見る時にはちょっと笑い方に困るかもしれません。)

面白かったポイントとして、ここも挙げておきたいと思います。

◯人の一生を俯瞰で見る

映画のストーリー上の仕掛けとして「地獄は時間の流れが早く、地獄で少しの時間でも、人間界ではかなりの時間が過ぎている」という設定がありました。

主人公は定期的に輪廻転生で地獄を離れますが(そのほとんどは「畜生道」つまり動物としての転生ですが・・・)、その度に何年単位で時間が過ぎてしまった人間界を見ることになります。

貸しスタジオの若い女店員にはいつしか子供が生まれ、その子供も大きく成長します。
主人公が好きだった女の子は、最後に高校生の娘を持つ母親として登場します。

主人公の視点を通じてこの時間の流れを見ていくことで、人間の一生を俯瞰の視点で見るという体験をすることになります。
「色々あったけど、人間の一生って、結局はまあ終わってみたら一瞬の出来事みたいなもんだよなあ」
そんな考えが浮かびました。

同時に、世は無常だなあとも思いました。
頑張って生きようとしていた親子が火事であっさりと死んでしまったり、初恋の相手の女の子は誰かと結婚して子供を産んで年老いていたり。
バス事故で生き残った友人(男)は不倫して会社の金を使い込んでいたり。


それらには意味がありそうで、意味がない。少なくとも主人公は「そうなった」という事実のみを体験するんですよね。これはある意味で冷徹な「現実」の有り様を観客に突き付けているのかな、とも思いました。
見方を変えると、人間の一生なんてまあこんなもんだから、あまり深く考えすぎるのは意味がないよ的なメッセージだったのかもしれません。

主題って何だろう


色々とテーマは込められているのだろうと思いますが、最後に主人公が言った「行った奴じゃないと分かんないよ」という台詞は一つのテーマだといえます。

地獄にいる者達はみな「人間道」そして最上の「天国」に行きたいという渇望を持って描かれています。
そんな中、映画で描かれた天国の姿は決して魅力的なものではありませんでした。天国に行った主人公は、自ら天国での「自殺」を選び、鬼として地獄に戻ってしまいます。

そこでさっきの台詞を言い、
「地獄の方が面白い」と言うのです。

ところで劇中でキラー・Kは生前に「天国」という曲を作ります。
この曲のサビでは、
「あなたがいれば ここは天国
 あなたがいない そこは地獄」

という様な(ごめんなさい!1回だけしか見てないので記憶がアヤシイです)
歌詞が流れますが、まさに主人公が天国から堕天して戻ってくるそのシーンは、「楽しい仲間がいる地獄が、自分にとっては天国」というメッセージに他ならないな、と。

若者よ!ここではないどこかの天国なんて無いんだよ。
今いるところこそが、一見苦しそうに見えるかもしれないけど、楽しいことだってある天国なんだよ。

という事が主題だなというのが私の感想です。
エンターテイメントの中にさりげなくメッセージを感じることができる、面白い映画でした。

ロック好きで、力を抜いたギャグが楽しめる人。
何だか世界が灰色に見えて形の見えない苛立ちに苦しんでいる人。
きっと楽しめる映画だと思います。
posted by 霧島もとみ at 2016年07月04日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2016年06月19日

”とことんやっていない自分”にはとてつもない痛みと救いとを投げかける本でした。「悩みどころと逃げどころ」ちきりん、梅原 大吾

”月間200万PV・社会派ブロガー”のちきりんさんと、”ギネス認定・世界一プロゲーマー”の梅原大吾さんとの対談本。

ブロガーとプロゲーマーというニッチな世界での第一人者的な存在となった2人の対談本ということで、それだけでもかなり興味をソソラれるのに、テーマは「学び」や「学校」となっています。

なんと!と驚くとともに、
なんで?という疑問が実直に湧いてきました。

ブロガーとかプロゲーマー、特にプロゲーマーなんて学校とは最も縁遠そうな世界なのに・・・とは思いましたが、そういえば前に「東大卒プロゲーマー」であるときどさんの本を読んだことも思い出し、きっと面白いに違いないと考え、読んでみました。

どんな本だった?


対談本ということで割とさらっと読むことができました。
しかしながら、内容は複雑で面白いです。

まず特徴として、「学校」というものを2人の真ん中に置いたとき、2人が全く対象的な立場にある人だということが挙げられます。

ちきりんさんは、学歴エリートとのこと。
梅原さんは、真反対で、学歴には縁が遠いとのこと。

そして共通項として、学校での学びという経験に対して「面白くない」「意味がない」と考えているということ。
そのキーワードとして”学校的価値観”という言葉が使われています。

梅原さんは学校で授業を聞かず、いつも寝ていたそうで、完全に学校という視点から見ればドロップアウト的な存在です。でも今はプロゲーマーとして世界のトップに君臨し、かつ、日本においても社会的に認められる存在となっています。

そんな人が「学校なんて意味がないよ」と言うのはよく分かる話なんですよね。学校で勉強なんてしなくてもこの道で俺は生きてきて、成功したんだから、という事ですから。
しかし逆に梅原さんは本書の中で「とりあえず大学は出た方が良い」なんて事も同時言っています。
「学校での学びに意味がない」のに「とりあえず大学を出た方が良い」というのは、表面的には全く真逆のことを言っているように聞こえてしまい、混乱を覚えました。

一方ちきりんさんは、自身で言われているのですが、学歴エリートであり、そのまま大企業へ就職するという”学校的価値観でいうエリート”的な存在でありながら、「大学をとりあえず出とおけばは有害」と言っている。
これもまた混乱を覚えました。

この2方面からの混乱が、対談を進めるなかで一つ一つが解き明かされていき、2人の考えている本当の事が分かっていくという、謎解き要素も入ったような、読者も考えさせられる良書だと思いました。

読むことで得られたもの


・2人が感じていた”学校的価値観”


学校教育に対して感じている疑問点を”学校的価値観”として2人は話していました。それは次の言葉の中に表れていると感じました。

ちきりんさん:「あそこを目指せ、方法はこれだ」
梅原さん:「ゴールと方法論をセットで指し示されることで、自分で考え、悩んであがいた上での自己決定が出来なくなる」

私もこの本を読みながら、自分自身の経験を振り返り、確かにそういった面が学校教育にはあるかもしれないと考えさせられました。

・自分を振り返って


私はどちらかというと、ちきりんさんに近いかもしれません。
ブロガーとしては月とスッポン、ちきりんさんは完全に雲の上の存在ですが、学歴に関してはエリートとは言えませんが準エリートみたいな感じかなあと思います。

学校を卒業し、社会人として生活を送っていくなかで、じゃあその”準エリート”として過ごした学校教育から得られたものがあったかどうかを冷静に振り返ると、おおよそ2人の意見に「大きく違っていない」という考えに至りました。

勿論得られたことも有ります。いわゆる勉強の方法論というものや、計算能力、知識で解決する問題に関しての”考える力”などは学校教育の勉強の中で培った基礎体力として今も生きていると思います。

しかし、人生を生きる力、生きている中で直面する答えの無い問題を”考える力”、道を歩んでいく力などは、正直なところ弱いのじゃないかと思います。
前に『ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について』という記事で
「この世界に正解は必ずある」という自分自身を縛り付ける無意識下の思い込み

というものが自分にあったことに気付いたということを書きましたが、これは正にちきりんさんが言う「あそこを目指せ、方法はこれだ」という学校的価値観に沿ったもので、多分に強く影響を受けていたんだなあ・・・とこの本を読んで改めて気付かされました。

・とことんやってない


この本の中で最も強く刺さったのは、梅原さんの話の中に出てくる次の言葉でした。
敗北が受け入れられない人の多くは、とことんやってないんですよ。そして自分でもそれがわかってる。後悔が残るとしたらソコなんです。

これ、正に今の自分自身のことじゃんかと。
気がついたら考えているんです。
「あの時にもっと真剣に◯◯していたら、もっと違うことができていたのかもしれないな」とか、「もし出来るならもう一度中学生に戻って、もっと一生懸命にやりたいな」とかいうことを。
受験勉強、部活、恋愛、バンド、、、
そして一番辛いのが、梅原さんがいう「敗北が受け入れられない」という事なんです。とことんやってないから、自分の器が分からない。

これがどういう事かというと、例えば誰か優れた人間と会ったときに、ほんのわずかでも「俺だってあのときにちゃんとやってればこれくらい出来てたんだけどな」という思考が浮かんでしまい、変な劣等感を抱いてしまうって事があるんですよね。そしてその劣等感の行き先は、相手に対する敵対心ではなく、「過去に頑張らなかった自分自身」なんです。

もし梅原さんが言うように「とことんやって」いれば、自分が精一杯頑張れってやれなかったことを他の人がやっているのだから、「自分がどうやっても出来なかったことをこの人はやっている。凄い」と敗北をすっと受け入れ、敬う気持ちまでもを持つことが出来るのかもしれないなと。
そう気付かされました。

この梅原さんの言葉は2つのことを気づかせてくれました。
「自分は何もとことんやっていなかった、甘い考えの人間だ」
→とことんやることの大事さ。
「とことんやっていない自分自身に後悔を残している」
→自分を超える存在に会ったときに感じる負の感情の原因は、過去の自分自身への後悔。だとしたらその感情に振り回されることに意味は無いのだから、敗北を素直に受け入れるよう努力しよう。

まとめ


どう学ぶかということは、どう生きるかということなんですよね。
それは生きるために何を学び、どう考えていけばいいのかという風に言い換えることができるかもしれません。

この事に対して、著者の2人は、今の学校というものが”学校的価値観”を刷り込む場でしかなく、本当に生きるための力を付けることにはなっていないという考えを共通して持っています。
そういった視点を持つことは面白く、また、大事かもしれないと考えさせられました。

また、対談の内容から、学校というものは単純に学びの場であるだけでなく、日本という社会の中では様々な価値を付加するものであるという側面もあり、一概に否定ばかりをするものではないということも読み取れます。

何より「あがくことで自分の器が見えてくる」という梅原さんの言葉が強く刺さり、強烈な痛みを感じながらも、何か自分の精神面のコリが一つほぐされたような気もして、とても意味のある読書となりました。

面白い本でした。
少しでも興味があれば、ぜひ!
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プロフィール
霧島もとみさんの画像
霧島もとみ
他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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