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2015年10月30日

第一章第一節 段連祥の遺言

二〇〇四年初頭、中国吉林省四平市鉄西区にある住宅棟の一室で、ほの暗い明かりの下に八六歳になる高齢の老人―段連祥がその生命の最後を迎えようとしていた。一昨年に階段を下りようとした際に不注意で転げて怪我をして以来、彼はすでに二年余り部屋を出ることができなくなっていた。ここ数日、彼は自分の体の反応がいくらか鈍くなったことに気づき、一種の不吉な予感に襲われていた。窓の外は降ったばかりの雪が積もり銀白色の世界となっていた。彼はそれを見ながら、映画のように何度も自分の一生が目の前に繰り返し浮かんでくるのを禁じ得なかった。ちょうどこの時、いまだ唯一彼の胸に引っかかって気がかりになっていたのは、半世紀にわたり秘密にしてきた「死んで復活した」ある女のことであった。彼は思った。おそらく今年の冬はとても越えることができないだろう。しかし、心中の秘密をこのまま墓まで持っていくことはできないと。そうだ、彼はこの秘密を守るために、ほとんど自分の後半生を捧げたにも等しかった。彼は自分の家庭までも犠牲にし、三十年の長きにわたり、ほとんど生きているのか死んでいるのかわからないような生活を送ってきた。彼が犠牲にしてきたものはあまりにも大きかった。だからあの神秘的な女もきっと許してくれるだろう。

段連祥

こう考えると段連祥にはようやく決心がついた。この世から去る前に心中の秘密を最も親しく、また最も信頼できる人間に、自分がこの一生をどのように過ごしてきたのかを知らせようと。彼は指を曲げて、自分の身近にいる親戚を数え始めた。妻の庄桂賢は、一生彼を恨んで人生を送った挙句に一九九七年すでにこの世を去っていた。長男の段続余は父親の経歴と父親が一九五八年に「労働教育」を施されたという政治的問題の影響で、仕事場では圧力を受け、恋愛も破談になり、一九六四年に服毒自殺を遂げていた。次男の段続平と三男の段続順は《文革》期間に彼と絶縁して以来、彼から昔のことを聞きたがらなかったし、彼と関わること自体を避けていた。唯一の娘である段霊雲(またの名を段臨雲)は、彼がかわいがっている孫娘張玉の母親であり、感情的にも深いものがあったが、彼女には自分の足りなかったところが多すぎて不憫に思うあまり気後れに感じるであった。段霊雲は彼が養子にした日本人残留孤児であった。さらに一九五八年に彼が「労働教育」を施されたときには、まだ十五歳にも満たなかった段霊雲が仕事に出てお金を稼ぎ家族を養う重責を背負うよう余儀なくされ、そのため彼女の日本の親類を探す大事もしてやれずじまいであった。彼女は《文革》中に父の政治的経歴の問題が影響して、政治的に長期にわたり差別を受け、そのために間欠性の精神病を患い、刺激を受けると病気が再発する状態であった。現在彼の身辺で世話をしてくれているのは段霊雲の長男で三十歳過ぎになる外孫の張継宏だが、彼は祖父に昔のことを尋ねたこともなく、やはり事を託すには適当な人選とは言えなかった。

「やはり、張玉しかいないか。」と彼はひとり呟いた。張玉は孫たちの中で最も年齢が上で、また彼の唯一の孫娘であった。彼女は小さいころから多才多芸で、彼が目の玉のように最も可愛がっていた孫といってよかった。彼女が小さい時には、祖父はどこへ行くにも、彼女を一緒に連れて行くのがお決まりであった。張玉は大学も卒業しており、一定の社会的交際能力も具えているはずだった。それに、彼女はあの秘密の女性に会ったことがあるだけでなく、その女性を親しく知っており方おばあさんと呼んでいた。こう考えると、やはり張玉が事を託すのに最もふさわしい選択だった。こうして、段連祥は決意を固めると、夜に仕事を終えて帰宅した孫の張継宏に言った。
「継宏、お姉さんに電話をして、会いたいからちょっと四平に来てくれないかと言っておくれ。」
張玉の父親である張連挙は軍人で、彼女が一九六七年に生まれたときには、この父親が部隊で任務についていたため、張玉は母親と共に祖父の家で暮らした。後に父親が転職して、吉林省蛟河県の軍事工場に配属されると、母親も夫と共に山沟里に住むようになった。ただし張玉と弟の継宏は四平の祖父の家に留まり、一九八七年に軍事工場が長春市区に移ってから、張玉はようやく父母と共に暮らすようになったが、弟の継宏は四平で祖父と祖母を世話するためそのまま残った。

張玉と祖父との間の関係は良く、段連祥が二年前に転んで怪我をして以来、しばしば四平に様子を見に訪れていた。この日も、弟から電話があり、祖父が自分に会いたがっているからすぐに四平に会いに来てほしいと聞くと、張玉はすぐに祖父が会いたがっていると理解しただけでなく、他にも思うところがあった。
「つい先日も四平に行って幾日も経っていないのに、また自分に会いたいと祖父が焦っているなんて、きっと何かあるに違いないわ。さもなければ、わざわざ電話を掛けて呼び出すようなことはしないはずだわ。」
張玉はとりあえずその場の用事を片付けると、その日の夜に急いで四平の祖父の家に赴いた。弟の継宏と嫁は幼い甥っ子を連れて外に出ており、家には祖父が一人残されていた。自分の孫娘を一目見ると、病床の段連祥は皺が深く刻まれた顔をあげ、何かたくさん話したいことがあるようであったが、話す言葉は途切れ気味で、ボツリボツリと、何かしら心に引っかかっているようであった。 張玉はそれを見て、祖父が何か言いたそうにしているのを感じ、思い切って自分から尋ねてみた。
「お祖父ちゃん。何か私に言いたいことがあるの?何かあるのなら早く言ってちょうだい。黙って悶々としていては病気に差し障るわ。重大なことでも小さなことでもいいのよ。孫の私がきっと何とかしてあげるから。」

すでに長いこと病床にある段連祥は、愛する孫娘の勧めをうけて、頭を縦に振ってうなずくと、その最後の力を振り絞るかのように気を奮い起こし、手招きをして、張玉に自分と差し向かいで座るように指示した。この時、段連祥はついに五十六年間心の奥深くに隠していたあっと驚くような秘密を打ち明け始めたのである。
「張玉、お前はまだ方おばあさんのことを覚えているか?」
段連祥は張玉の顔を覗き込んで、こう尋ねた。
「覚えているわよ、当たり前でしょ。私が三、四歳に物心がついたころから、お祖父ちゃんが夏になると私を連れてって、長春郊外の新立城の農村に会いに行っていたでしょ。それにお祖父ちゃんは私をいつもおばあさんのところに置いて、自分は四平へ仕事に戻って、私に方おばあさんと一緒に暮らさせてたわ。私が小学生の十歳になったころにおばあさんが病気で亡くなるまで、ずっとそうだったわね。もうかれこれ二十数年前になるわねえ。」
張玉はゆっくりこう言ったが、祖父が何を尋ねたいのか全く考えもつかなかった。
「じゃあ、お前はおばあさんが誰か知っていたか?」
段連祥がこう言った時、こころなしか祖父の顔がこわばっているように見えた。
「そんなの言わなくても、彼女も私のおばあさんでしょ。わたしの大おばあさん(張玉は段連祥の妻庄桂賢をこう呼ぶ習慣だった)がいつも言ってたわ。お祖父ちゃんには外に愛人がいるって。もちろんあの方おばあさんがお祖父ちゃんの愛人だったんでしょ!どうして今になってそんなことを言い出すの?」
張玉はしばしば祖父に昔から甘えてからかうように冗談を言うことがあったため、今日も祖父を目の前にして臆面もなく、方おばあさんと段連祥の関係について自分の思っている所をずばりと言った。
「張玉、本当のことを言うとな、お前はあの女の人がどこから来たのか、どういう人か全然知らないんだ!」
段連祥のいつもはトロンとした目がこのときだけは光を放って、張玉を釘付けるように見つめた。続けて彼は長く唸ってから搾り出すように言った。
「あの、お前を小さいときに面倒を見ていろいろ教えてくれた方おばあさんは、川島芳子だ。」
「ええ、何ですって?川島芳子?!もう一回言ってちょうだい!だって、彼女は死刑になってとっくの昔に死んだんじゃないの?」
張玉は驚きのあまり、戸惑いを隠せなかった。
「お祖父ちゃん年とって、ボケちゃったのかしら?それにしてもこんなとんでもない事を言い出すなんて、ましてやこんな全然関係ない事を自分の家の事だと言い張るなんて。」
「いや、彼女は本当は死んでなかったんだ。あの方おばあさんは川島芳子で、お祖父さんと、お前の母親と、それからお前と、一緒に三十年生活したんだ・・・・・・」
こうして、段連祥は彼が長年封じてきた心の中の秘密を告白し、張玉に方おばあさんの来歴を語り始めた。
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