2015年10月30日
第一章第三節 川島芳子との接触
【川島芳子との接触】
一九三四年に段連祥は中学校を卒業すると、満州奉天(瀋陽)協和学院日本語学校に入学し日本語を学んだが、学校の場所は瀋陽北の虎石台鎮に位置していた。日本語学校では彼の視界は大いに開け、しばしば川島芳子すなわち「金司令」に関する伝奇的な物語を聞いた。そのころ、段連祥の心には川島芳子に対して一種の好奇心が芽生えたが、それは現在のスターを追っかける若者に通じるものであった。一九三五年に段連祥は日本語学校を卒業すると、満鉄での仕事に配属され、最初は奉天の皇姑屯検車場で検車員となり、後には西安(了源)の検車場に転属されて検車員となった。この期間に、彼は日本語が良くできたため、しばしば日本人のために翻訳をし、ある一時期は、四平鉄路局の日本警察局長の通訳を務めたこともあった。そして仕事の便のため、彼はしばしば日本警察局長の出張に伴われて出かけたが、あるとき天津にも行く機会があった。彼が警察局長と天津の東興楼で食事をしている時に、彼は学生時代にあこがれていた川島芳子の妖艶な姿を目撃したが、川島芳子の周囲にはたくさんのファンがいた為に、彼のような小人物のところには挨拶に来るようなことはなかった。
そこで、段連祥は日本語で川島芳子にファンレターを書き、手紙には綿々と自分の川島芳子への憧れの気持ちを書き、さらに次のように書いた。
「今後なにか芳子様のお手伝いをできる事が自分にございましたら、私はたとえ火の中でも水の中でも辞さず、きっと駆けつける覚悟でございます。」
彼はこの手紙を川島芳子の秘書である小方八郎に託した。再び天津の東興楼へ食事に行った際に、食堂の管理者を通じて川島芳子から彼に宛てた返事を手渡された。手紙には大体次のように書いてあった。
「キミの僕への好意に感謝する。キミの状況は大体調べさせてもらった。確かにキミの叔父さんは満族の正黄旗人で、僕の生父粛親王善耆、養父川島浪速、松岡洋右と関係があることが分かった。もし以後に何かキミを必要とすることがあれば、必ず手伝ってもらうよ・・・。」
その時には、川島芳子が本当に後日彼を探し出して手伝う事になるとは、全く思いにもよらなかった。
一九三四年に段連祥は中学校を卒業すると、満州奉天(瀋陽)協和学院日本語学校に入学し日本語を学んだが、学校の場所は瀋陽北の虎石台鎮に位置していた。日本語学校では彼の視界は大いに開け、しばしば川島芳子すなわち「金司令」に関する伝奇的な物語を聞いた。そのころ、段連祥の心には川島芳子に対して一種の好奇心が芽生えたが、それは現在のスターを追っかける若者に通じるものであった。一九三五年に段連祥は日本語学校を卒業すると、満鉄での仕事に配属され、最初は奉天の皇姑屯検車場で検車員となり、後には西安(了源)の検車場に転属されて検車員となった。この期間に、彼は日本語が良くできたため、しばしば日本人のために翻訳をし、ある一時期は、四平鉄路局の日本警察局長の通訳を務めたこともあった。そして仕事の便のため、彼はしばしば日本警察局長の出張に伴われて出かけたが、あるとき天津にも行く機会があった。彼が警察局長と天津の東興楼で食事をしている時に、彼は学生時代にあこがれていた川島芳子の妖艶な姿を目撃したが、川島芳子の周囲にはたくさんのファンがいた為に、彼のような小人物のところには挨拶に来るようなことはなかった。
そこで、段連祥は日本語で川島芳子にファンレターを書き、手紙には綿々と自分の川島芳子への憧れの気持ちを書き、さらに次のように書いた。
「今後なにか芳子様のお手伝いをできる事が自分にございましたら、私はたとえ火の中でも水の中でも辞さず、きっと駆けつける覚悟でございます。」
彼はこの手紙を川島芳子の秘書である小方八郎に託した。再び天津の東興楼へ食事に行った際に、食堂の管理者を通じて川島芳子から彼に宛てた返事を手渡された。手紙には大体次のように書いてあった。
「キミの僕への好意に感謝する。キミの状況は大体調べさせてもらった。確かにキミの叔父さんは満族の正黄旗人で、僕の生父粛親王善耆、養父川島浪速、松岡洋右と関係があることが分かった。もし以後に何かキミを必要とすることがあれば、必ず手伝ってもらうよ・・・。」
その時には、川島芳子が本当に後日彼を探し出して手伝う事になるとは、全く思いにもよらなかった。
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