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2021年10月15日
高松空襲の概要
高松空襲の概要
〇空襲の流れ
・空襲の初期段階…大都市、軍港、日本軍隊
→空襲の中期段階…軍事施設や工場
→空襲の終盤段階…市街地(高松空襲)
空襲の特徴・焼夷弾(ナパーム弾)絨緞爆撃
〇人口と死者数
1945年の高松市人口約10万人以上・死者約1359人
全国の空襲の中でも、人口のわりに死者数が多いのが特徴。一晩の空襲で高松市内は焼け野原となった。
○日時
1945年7月4日に空襲される。
時間については諸説ある。午前一時過ぎから明方ぐらいまでの間に空襲される。
米軍の資料では午後2時56分が空襲の始まりと記されている。米軍資料と高松空襲の被災者との間で若干の時間の誤差がしょうじている。
また、前日の7月3日、23時過ぎから石油をまいていたとの証言もある。
○B29出撃数
出撃数128、爆撃を行った数116
86機が目視で低空飛行にて空襲を行う。
30機がレーダーにて上空から空襲を行う。
米軍の資料に記載されている。
○最初の空襲
最初の空爆は紫雲山のふもとから攻撃している。(諸説あり)そこから南に向かい、屋島に抜けていった。→市街地の周りから空襲を行っている。
他地域の米軍の空襲の特徴として、逃げ道をふさぐために町の周りから空襲をしている。人的な被害を増大させるための卑劣な攻撃方法だと言える。
○空襲の特徴
・人口のわりに死者が多い。
→疎開に消極的だから
・疎開に積極的な都市もある。
→松山死者251人
松山では、空襲の人的被害を少なくするための行動がとられていた。
松山では建物疎開をしていた。空襲の時に、逃げやすくするために、事前に建物を撤去して、逃げ道を確保していた。
この建物疎開のおかけで、空襲時の被害を抑えることができた。
○高松市が疎開をあまりできなかった理由
・バケツリレーにて被害を最小限に抑える役目を課せられていた。
→疎開はできにくい。
→周りの地方都市が空襲されていく中で、そろそろ、高松にも空襲が来る事はある程度予想されている。
・空襲を取り仕切っている人間が疎開に否定的
○空襲時の行動
・火消しを行わずに避難する場合が多い
米軍の空襲は雨のように爆弾が降り注ぐ。空襲中の火消は現実的ではない。
○避難場所
防空壕に避難→しかし、死んだケースが多い。煙や蒸し焼き、直撃など、防空壕が死因になるケースが多い
・西に逃げる。風上に避難、水に逃げる。
〇市街地への空襲は戦争犯罪
学校、病院、住宅など市街地を攻撃する事は国際法に違反している。
○主な参考資料
・高松の空襲―手記編 ・高松の空襲―手記、資料編
・高松空襲戦災誌 ・松山市史―第三巻 ・日本の空襲
・米軍資料日本空襲の全容マリアナ基地B29部隊
・高松空襲写真集 ・香川日々新聞 ・高松市史年表