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2021年09月24日
6史跡‐丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産とは‐
6史跡‐丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産とは‐
丸亀のドイツ兵捕虜関連資産は以下の6資産である。
多度津港
塩屋別院
中津万象園
教覚寺
丸亀城
陸軍墓地と駒ケ林
@ 多度津港(日本遺産)多度津湛甫 (たんぽ)
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間(北前船寄港地・船主集落)
ドイツ捕虜が最初に降り立った所
住民たちは「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」と看板を掲げる。不安な気持ちであったドイツ人捕虜はこの看板を見て安心する。ここから約4キロ先の収容場所の塩屋別院に歩いて移動する。
A塩屋別院
浄土真宗本願寺派の歴史あるお寺。
324人のドイツ人がここに収容されていた。2年5ヵ月の間収容される。個人の人権を尊重した収容所の運営が行われた。ドイツ俘虜による音楽団が結成されオーケストラのコンサートが開催される。また、近くの教覚寺にて行われた特産品展覧会にドイツ捕虜の様々な作品を展示した。(日用品、模型、設計図、絵画、時計、椅子、机など。)
後に手狭になり、徳島県の坂東俘虜収容所に移った。紹介パネルを設置している。
毎年記念イベントをしている。
B中津万象園と中津海岸
中津万象園は丸亀藩の庭園。庭園としての完成度が高く、美しい景観は有名である。
このあたりの海岸でドイツ人が海水浴を楽しんだ。
しかし、他の捕虜収容所でドイツ捕虜の海水浴が問題となり、中止となった。この影響で丸亀でもドイツ捕虜の海水浴が中止となった。
C教覚寺
現在は廃寺となり、門のみが残っている。塩屋別院のすぐ近くの立地。同時、展覧会が開かれて、ドイツ兵捕虜が多くの作品を出品した。地元民とドイツ兵捕虜の交流の場所である。
D丸亀城
京極家の居城。天守閣は江戸時代から続き、現存12天守の1つに数えられている。石垣の高さは日本一である。またその美しさも日本一と言われている。山全体を要塞化した難攻不落のスケールの大きいお城として有名である。丸亀市民のシンボルとして、大切にされ憩いの場となっている。
ドイツ人捕虜の手記の中でこの丸亀城に関する記述がある。丸亀城の天守閣があらゆる方向から眺められる。ドイツ人捕虜はこの丸亀城を眺めてながら生活をしていたことが分かる。また、元捕虜が丸亀を再訪問した際に立ち寄っている。
E陸軍墓地と駒ヶ林
讃岐守護細川氏と関連がある史跡の駒ヶ林。付近には陸軍の墓地が広がる。その中で1つだけ、ドイツ語で書かれたお墓が発見された。この関連資産のみ、他の関連遺産との距離がある。
丸亀の捕虜収容所で1名の捕虜が病気で亡くなった。収容所で亡くなったドイツ人のお墓である。異国の地で何を思い亡くなっていったのか気になる。現在は地域住民の子供の遊び場になっている。
道が細く、穴場の場所。
タグ:関連遺産 丸亀ドイツ兵捕虜関連遺産
2021年09月18日
極東にあった奇跡の捕虜収容所とは
極東にあった奇跡の捕虜収容所とは
〇ドイツ軍俘虜(捕虜)と歴史
第一次世界大戦時、日本はイギリスの同盟国としてドイツと交戦した。主にドイツ軍が支配する東アジア植民地を攻撃した。この時多くのドイツ人が捕虜となり日本に送られる。
四国では愛媛県の松山市、香川県の丸亀市、徳島県の鳴門市に捕虜収容所がある。
この中で、徳島県の捕虜収容所が最も本格的な収容所である。この収容所は手狭になった各地の収容所を一カ所に集めて、本格的な設備を整えた作りとなっている。
日本人はドイツ人捕虜を人道的に扱った。この様子は映画化もされた。(バルトの楽園)
香川県の丸亀市の捕虜収容所の場所は塩屋別院である。丸亀市民は「同情を込めて、心から歓迎します。」と示し、ドイツ人と交流した。ドイツ人捕虜はオーケストラの演奏会を開き地元住民と触れ合った。
一般的には、戦争時には捕虜の人権が守られないことが多くある。そんな中、日本は国際法を厳守してドイツの捕虜を人道的に扱った 。
〇捕虜の虐待
捕虜は犯罪者ではないので、その人権は守らないといけない。捕虜に対しての人権侵害は国際法で禁止されている。しかし、歴史的に捕虜の人権は守られないことが多い。
捕虜は敵国の兵士、自国の兵士を殺している憎き存在として扱われる。捕虜の虐殺や強制労働など捕虜虐待の事例は多い。
〇国際法とハーグ陸戦条約
各国が守るべきルールを定める、これが国際法である。戦争時でも守るべきルールがある。
ハーグ陸戦条約は捕虜の虐待を禁止した条約である。日本はこの条約を批准した。この条約の原則をきちんと守ったことになる。
2021年09月17日
捕虜の生活とはかけ離れた丸亀のドイツ捕虜の収容所での生活とは
捕虜の生活とはかけ離れた丸亀のドイツ捕虜の収容所での生活とは
ドイツ捕虜が家族に出した手紙によって読み取れる。
ドイツでは家に入るときは靴をはく。しかし、日本では家に入るときはくつを脱ぐ。この文化の違いにもす
ぐに適応して、わらじ調達して快適に暮らした。
コーヒーや紅茶を飲み、音楽家たちはバイオリン演奏や歌を歌った。
〇日程
6時半…起床
7時半…整列後、朝食、慰問品の到着、自由時間
9時…教練
10時…各自の仕事、勉強、自由時間など
12時…朝食
3時…商人による販売、散歩
4時…午後のコーヒー
6時…夕食
9時…就寝
・週2回は風呂
〇ドイツ人捕虜の生活とは
以上のように、ドイツ人捕虜は一般的な捕虜の生活とは縁が遠い暮らしをしていた。自由時間が多く、強制
された時間が少ない。また、3時から4時までの間は、約1キロの道路を行き来することが許されていた。
地域の住民と接触することも可能と言える。
地域の住民と一緒に写っている写真も多くある。
〇イベントや行事など
・クリスマスには行事が開かれた。丸亀では、捕虜はお寺に収容されていたが、クリスマスを敷地内で祝うことを許されている。寛大な処置だと言える。
・音楽隊が組織されて、演奏会が開かれた。
・展覧会が開催されて、ドイツ捕虜の作品が展示された。
・捕虜達が作成した新聞が発行されていた。
・捕虜達が海水浴をしていた。
〇捕虜の給与など
・階級の高い捕虜将校には給料が現金で支払われた。
・一般兵には、食事、衣服、寝具などが現物支給された。
・親からの仕送りや勤務先からの給与など、現金収入のある者が、収入が無い者に対して、仕事を与えて、給与を与えていた。お互いが助け合う仕組みが収容所内であった。
以上のように、捕虜たちにある一定の自由認められた板。一般的な捕虜のイメージとはかけ離れた、人権が守られた生活を送っていた。
2021年09月16日
丸亀のドイツ捕虜収容所‐ドイツ人捕虜がおどろいたその言葉とは‐
丸亀のドイツ捕虜収容所‐ドイツ人捕虜がおどろいたその言葉とは‐
〇ドイツ人捕虜の入港
1914年11月16日、ドイツ兵捕虜が香川県の多度津港に入港した。
ドイツ捕虜が降り立った時に驚きの光景があった。
「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」と書かれた看板。
戦争に負け、遠い異国の地で、これからの生活が想像もできない。不安に満ちた捕虜生活。この看板で見てドイツ兵捕虜は勇気づけられた。
大いに友好的に、同情を込めて歓迎しますの言葉が香川県の到着の最初であった。
〇収容所長の石井弥四郎中佐の訓示
ドイツ捕虜の上陸後すぐに、収容所長からの訓示があった。
ドイツ兵の名誉を傷つけるつもりはないことを最初に伝えた。その後、秩序を守った生活をドイツ兵に求め、違反者には罰則を与えることを伝えた。また、戦後は帰国できること話した。
当時としては画期的な捕虜の人権を厳守したハーグ条約に基づいた収容所の運営を宣言した。
〇大歓迎の多度津港から塩屋別院までの道
ドイツ兵捕虜が収容された場所が塩屋別院である。
多度津港から塩屋別院までは歩いて1時間程度である。約6キロの街道には歓迎する住民でいっぱいになっていた。この道筋で、「大いに友好的に、同情を込めて歓迎します」の看板が掲げられた。
これら丸亀式挨拶はドイツ捕虜の記憶に良い思い出として刻まれた。
2021年09月15日
ドイツ捕虜(俘虜)が日本にやってきた理由
ドイツ捕虜(俘虜)が日本にやってきた理由
1914年〜1918年まで続いた第一次世界大戦が原因である。
イギリス、フランス、ロシアを中心とするグループとドイツ、オーストリア、オスマン帝国を中心とするグ
ループが戦争をした。
この戦いは各国が支配する植民地にまで戦火が広がり世界大戦となった。大量破壊殺戮兵器も多く登場し、
人類史上まれにみる大激戦が各地で行われた。
日本は日英同盟を理由にイギリス側で参戦し、陸戦では主にドイツと交戦した。中国内のドイツ租借地で戦
闘が行われた。ドイツの主戦場はヨーロッパ戦線だった。この為、日本軍は各地で解消して多くの捕虜を獲
得した。その数は約4700名にのぼった。
捕虜は、丸亀、松山、徳島、久留米、東京、名古屋、大阪、姫路、福岡、熊本、静岡、大分など全国各地に
収容されることになった。
(丸亀)
捕虜収容所の運営は所長の権限に左右されることが多かった。
丸亀、松山、徳島の四国の捕虜収容所では捕虜の人権を尊重した運営が行われた。この精神は後の坂東俘虜
収容所に受け継がれ、映画『バルトの楽園』の土台になった。