2018年11月28日
老人小説「冥途の土産」(1)
1
「きみちゃーん、生きてるー?」築二十年の日本家屋。玄関の引き戸を手で開けながら
みつ八十九歳が枯れた声をはりあげる。「いきてるよー」中から別のばあさんの声が聞こえた。
きみちゃんだ。みつのシワシワの細い手には美しく咲く赤い薔薇の花が一本。みつは膝が曲がって
弓のような脚をしている。
ガラガラとゆっくり戸を開けて老婆が出てきた。
「あんれまあ、また盗ってきたの?」
「あげる」
「だめだよー、人んちの盗ってきちゃあ」
「すんごくきれいだったからさ」
「花がかわいそう」
「そんなことない。もってって欲しそうだった」
「またそんなこと言って」
「担担麺くいにいかねぇか」
「担担麺?」
「かれえもん、食いたくてさ」
「辛いの?まぁ、いいけど。ちょっと待ってて、今娘に言ってくる」
二人の老婆が歩道をゆっくりと歩いている。みつの唯一の友人きみちゃんは娘夫婦と孫と四人で暮らしている。
今どき珍しい二世帯住宅。きみちゃんの優しくて穏やかな性格もあって家族楽しく幸せに暮らしているように見える。
一方のみつは、夫とは死別。息子とも死別。築四十年のアパートに一人暮らしだ。
生まれた家は病院を経営していたので何不自由なく育てられたが戦争で父親が戦死してから
暮らし向きが変わってしまった。十九で結婚して二十歳で子どもを産んだが自分が幸せだと思ったことは
一度もなかった。
なぜならみつには兄弟がいなかったから。兄弟がいないというのは本当につまらない。
みつは兄弟のいる人がうらやましくてたまらなかった。母親に弟か妹を産んで欲しいと頼んだが叶わなかった。
兄弟のいない寂しさを紛らわすために食べることに執着した。おかしはいくらでもあったし、普通の家では
めったに食べられない肉や魚もよく食べられた。
子供の頃のみつは子豚のようだったし、大人になってからはずっとデブだった。夫は痩せていて背が高かったので
二人で並ぶとアンバランスでコミカルだった。だから二人で写った写真はほとんどない。息子はみつの遺伝子を
ついで赤ちゃんの時からデカかった。生まれた時から心臓が悪く、あまり長く生きられないのではないかと
医者から脅された。
子どもが親より先に死ぬほど不幸なことはない。みつはずうっと憂鬱な気持ちで子育てをした。それでも息子は
19歳まで生きてくれた。不幸中の幸いとはこのことかとみつは思った。みつが39歳の時だからちょうど五十年も
前のことだ。
池袋西口の中華料理屋で担担麺を啜りながらみつは考えていた。自分ときみちゃんはどうしてこうも違うのか。
きみちゃんは取り立てて美人でもなかったし、特技があるわけでもお金持ちでもなかった。ただ普通に生きて普通に
暮らしているだけだ。でも、みつと違っていつもニコニコしていたし友人も多かった。何より家族に大事にされている。
みつときみちゃんが仲良くなったきっかけはパチンコだった。
みつは若い頃よく競馬をやっていた。競馬で生計を立てていたと言っても過言ではない。競馬場へ足を運んでみた
ことは一度もない。新聞とテレビとラジオの情報だけでやっていた。それでも勘が働くのか大穴を当ててしまったことが
あり、それ以来競馬はやめてしまった。還暦を過ぎてからは近所のパチンコに出入りしていた。
その時に知り合ったのがきみちゃんだ。きみちゃんはあまりギャンブルをするようなおばあちゃんには見えない。
いつも明るい色のブラウスをきちんと着て、シワのないズボンを履いている。誰からも好感を持たれるタイプの
おばあちゃんだ。
みつが、いつものように他人のパチンコ玉を拝借しているところをきみちゃんに見られた。きみちゃんは黙って
自分の箱を指さした。「取るならこっちからとりな」と言っていたが音がうるさくて聞こえなかった。それから時々
会うようになって、一緒に蕎麦を食べたりうどんを食べたりした。「なんでパチンコなんかやってるの?」と聞くと、
きみちゃんは「孤独を楽しんでいるの」と言った。みつにはちょっと理解できなかった。みつは孤独を楽しむことが
できなかったから。家に帰ればいつでも孤独だったから。きみちゃんは贅沢だと嫉妬した。
「辛いね、おいしいけど」
きみちゃんは笑った。
「うまいよね。あたし辛いもんが大好き」
「あとで甘いもの買って食べない?」
「いいね、そうしよ」
中華料理屋で最高齢の二人。目立たないわけがない。周りの若い人たちからジロジロ見られていた。
きみちゃんは気にしていないようだが、みつは暗い気持ちになった。もうこういうところへ来ちゃいけないのだろうか。
ババアは家にひっこんでろって思ってるのかな。きみちゃんはラーメンを少し残したがみつは完食して店を出た。
もうすぐ90歳だがみつは胃腸が異常に丈夫だった。体もだんだん痩せてきて標準体型になったというかしぼんだ。
食べてもぜんぜん太らなくなったのである。これには驚いたしとても嬉しかった。たくさん食べても太らない
体を手に入れることが長年の夢だったのである。老後になって夢を手に入れる人はどれくらいいるのだろう。
少なくとも自分はそううちの一人だ。今が一番良い時。青春だ。
つづく
※この物語はフィクションです。
齋藤なつ
https://business.xserver.ne.jp/
「きみちゃーん、生きてるー?」築二十年の日本家屋。玄関の引き戸を手で開けながら
みつ八十九歳が枯れた声をはりあげる。「いきてるよー」中から別のばあさんの声が聞こえた。
きみちゃんだ。みつのシワシワの細い手には美しく咲く赤い薔薇の花が一本。みつは膝が曲がって
弓のような脚をしている。
ガラガラとゆっくり戸を開けて老婆が出てきた。
「あんれまあ、また盗ってきたの?」
「あげる」
「だめだよー、人んちの盗ってきちゃあ」
「すんごくきれいだったからさ」
「花がかわいそう」
「そんなことない。もってって欲しそうだった」
「またそんなこと言って」
「担担麺くいにいかねぇか」
「担担麺?」
「かれえもん、食いたくてさ」
「辛いの?まぁ、いいけど。ちょっと待ってて、今娘に言ってくる」
二人の老婆が歩道をゆっくりと歩いている。みつの唯一の友人きみちゃんは娘夫婦と孫と四人で暮らしている。
今どき珍しい二世帯住宅。きみちゃんの優しくて穏やかな性格もあって家族楽しく幸せに暮らしているように見える。
一方のみつは、夫とは死別。息子とも死別。築四十年のアパートに一人暮らしだ。
生まれた家は病院を経営していたので何不自由なく育てられたが戦争で父親が戦死してから
暮らし向きが変わってしまった。十九で結婚して二十歳で子どもを産んだが自分が幸せだと思ったことは
一度もなかった。
なぜならみつには兄弟がいなかったから。兄弟がいないというのは本当につまらない。
みつは兄弟のいる人がうらやましくてたまらなかった。母親に弟か妹を産んで欲しいと頼んだが叶わなかった。
兄弟のいない寂しさを紛らわすために食べることに執着した。おかしはいくらでもあったし、普通の家では
めったに食べられない肉や魚もよく食べられた。
子供の頃のみつは子豚のようだったし、大人になってからはずっとデブだった。夫は痩せていて背が高かったので
二人で並ぶとアンバランスでコミカルだった。だから二人で写った写真はほとんどない。息子はみつの遺伝子を
ついで赤ちゃんの時からデカかった。生まれた時から心臓が悪く、あまり長く生きられないのではないかと
医者から脅された。
子どもが親より先に死ぬほど不幸なことはない。みつはずうっと憂鬱な気持ちで子育てをした。それでも息子は
19歳まで生きてくれた。不幸中の幸いとはこのことかとみつは思った。みつが39歳の時だからちょうど五十年も
前のことだ。
池袋西口の中華料理屋で担担麺を啜りながらみつは考えていた。自分ときみちゃんはどうしてこうも違うのか。
きみちゃんは取り立てて美人でもなかったし、特技があるわけでもお金持ちでもなかった。ただ普通に生きて普通に
暮らしているだけだ。でも、みつと違っていつもニコニコしていたし友人も多かった。何より家族に大事にされている。
みつときみちゃんが仲良くなったきっかけはパチンコだった。
みつは若い頃よく競馬をやっていた。競馬で生計を立てていたと言っても過言ではない。競馬場へ足を運んでみた
ことは一度もない。新聞とテレビとラジオの情報だけでやっていた。それでも勘が働くのか大穴を当ててしまったことが
あり、それ以来競馬はやめてしまった。還暦を過ぎてからは近所のパチンコに出入りしていた。
その時に知り合ったのがきみちゃんだ。きみちゃんはあまりギャンブルをするようなおばあちゃんには見えない。
いつも明るい色のブラウスをきちんと着て、シワのないズボンを履いている。誰からも好感を持たれるタイプの
おばあちゃんだ。
みつが、いつものように他人のパチンコ玉を拝借しているところをきみちゃんに見られた。きみちゃんは黙って
自分の箱を指さした。「取るならこっちからとりな」と言っていたが音がうるさくて聞こえなかった。それから時々
会うようになって、一緒に蕎麦を食べたりうどんを食べたりした。「なんでパチンコなんかやってるの?」と聞くと、
きみちゃんは「孤独を楽しんでいるの」と言った。みつにはちょっと理解できなかった。みつは孤独を楽しむことが
できなかったから。家に帰ればいつでも孤独だったから。きみちゃんは贅沢だと嫉妬した。
「辛いね、おいしいけど」
きみちゃんは笑った。
「うまいよね。あたし辛いもんが大好き」
「あとで甘いもの買って食べない?」
「いいね、そうしよ」
中華料理屋で最高齢の二人。目立たないわけがない。周りの若い人たちからジロジロ見られていた。
きみちゃんは気にしていないようだが、みつは暗い気持ちになった。もうこういうところへ来ちゃいけないのだろうか。
ババアは家にひっこんでろって思ってるのかな。きみちゃんはラーメンを少し残したがみつは完食して店を出た。
もうすぐ90歳だがみつは胃腸が異常に丈夫だった。体もだんだん痩せてきて標準体型になったというかしぼんだ。
食べてもぜんぜん太らなくなったのである。これには驚いたしとても嬉しかった。たくさん食べても太らない
体を手に入れることが長年の夢だったのである。老後になって夢を手に入れる人はどれくらいいるのだろう。
少なくとも自分はそううちの一人だ。今が一番良い時。青春だ。
つづく
※この物語はフィクションです。
齋藤なつ
https://business.xserver.ne.jp/
タグ:老人小説 歳の差恋愛
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